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Puisquerien ne dure』(Laurence Tardieu, 2006

本作はパリ在住の作家・舞台女優の著者による3作目の著作。発表時の年齢は34歳だという。

パリのアパルトマンに手紙が届く。「ヴァンサン、私はもうすぐ死ぬの、会いに来てもう一度だけ会いに来て、あなたに会って、触れて、声を聞くのは最後になるわ、会いに来てヴァンサン」と鉛筆で書かれている。本文の下に、読みづらい小さな字でジュヌヴィエーヴとある。それは二人で結んだ暗黙の契約を破る手紙、ヴァンサンを抹消したはずの過去に引き戻す手紙だった。

手紙を読むなりヴァンサンは車に飛び乗ってジュヌヴィエーヴの許に向かう。出合った頃にジヴェルニーを散歩した日のことがふいに鮮明に蘇る。薄紫のワンピースを着たジュヌヴィエーヴが、そして二人の喜びが。30年前のジヴェルニーでの光に満ちたあの日は、その後に続くあのぞっとするような日々のとっかかりとしてだけ忘却の淵から現れる。ジュヌヴィエーヴと再会するなんてどうかしている、引き返そう、と思いながらも、ヴァンサンはアクセルを踏み込んでジュヌヴィエーヴの許へ急ぐ。まるで破滅へ突き進むかのように。

15年前、ヴァンサンが40歳のとき、それまで幸せいっぱいだった二人に、大きな禍が襲いかかる。悲哀は人を近づけるというが、ヴァンサンとジュヌヴィエーヴはそうではなかった。悲哀は二人を引き離し、二人の相違を明らかにした。ジュヌヴィエーヴは田舎の静けさの中で悲しみを抱きしめることを選び、ヴァンサンは都会の喧噪の中に身を置いてすべてを忘れることを選んだ。そして15年という歳月が流れた今になって、ジュヌヴィエーヴがヴァンサンに呼びかけたのだ。死ぬ前に会いに来て、と。

この作品は2005年のヴァンサンによる語り、1990年のジュヌヴィエーヴによる日記体の語り、そして再び2005年のヴァンサンによる語り、という3部構成になっている。それぞれの思いが細やかに綴られていて心に浸み、涙なしには読み進められない。

なお、本作はプリンス・モーリス恋愛小説賞とアラン=フルニエ賞を受賞しているそうだ。後者の受賞作にはアメリー・ノートンの『殺人者の健康法』の名も見える。(2018.6.26読了)


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by nishinayuu | 2018-09-28 11:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


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Shosha』(Isaac Bashevis Singer

物語の舞台は第二次世界大戦前のワルシャワ。著者は「はしがき」で、「この小説は決して、ヒトラー以前の数年間におけるポーランドのユダヤ人たちを描いたものではない。またとない状況におけるまたとない数人の人々の物語である」と言っているが、その「数人の人々」がなんと鮮明に、印象的に描かれていることか。そして語り手が彼らと別れた後の、彼らの人生の終わりまでが、なんと懇切丁寧に描かれていることか。さて、その数人の人々とは

*アーロン(愛称アレーレ、別名ツツィク)――語り手。少年時代をワルシャワのゲットーとも言えるクロホマルナ通りで過ごし、後にイディッシュで著述する作家となる。

*ショーシャ(愛称ショーシェレ)――クロホマルナの幼なじみ。発育不全気味だったが、語り手にとってはかけがえのない存在。後に語り手と結婚する。

*バシェレ――ショーシャの母親。20年ぶりにクロホマルナの7番の建物を訪れた語り手を、以前と全く変わらない姿と態度で迎え入れる。語り手が再び現れたことに驚いた気配もなく。

*ドラ――20代の語り手が「作家クラブ」で知り合い、付き合うようになった女性。共産党員。

*モリス・ファイテルゾーン――語り手より25歳ほど年上の売れない哲学博士。最高級のディレッタントで、華麗な女性遍歴を誇る。語り手の才能を見いだし、作家デビューを支援してくれた、語り手にとって大切な友人。

*シーリア――ファイテルゾーンの崇拝者の一人。読書家で鋭い批評眼の持ち主。語り手にファイテルゾーンとの関係を打ち明けたことをきっかけに、語り手と親密な間柄になる。

*ハイムル――シーリアの夫。資産家の息子だが身体が小さくて虚弱なため、シーリアが母親のように世話をしている。ずっと後にエルサレムで語り手と再会し、昔の知人たちの消息を語り手に伝える。

*ベティ・スローニム――イディッシュ劇場に出演するためにポーランドにやって来たアメリカの女優。ファイテルゾーンから紹介された語り手に芝居を書くことを勧める。夫のサムは大金持ちでスポンサー的存在。

語り手の思いを伝える句節を以下にメモしておく。

*(作家クラブにて)ポーランド人たちはぼくたちを厄介払いしたがっている。彼らはぼくたちを片付ける勇気はないけれど、ヒトラーが代わりにやってくれたら涙一つ流しはしないだろう。

*(シーリアの家にて)会話は、なぜ私たちがワルシャワを立ち去らないかという疑問に行きつき、そして私たちめいめいが多かれ少なかれ同じ答を出した。私はショーシャを置き去りにはできない。ハイムルはシーリアなしに行くつもりはない。その上、三百万のユダヤ人が留まっているのに、逃げ出して何の意味がある?

2018.6.26読了)


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by nishinayuu | 2018-09-23 09:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

翻訳練習 課題15


2018年度前期の韓国語講座「翻訳の秘訣」で練習したものの記録です。2018.4.23&5.7

名詞32-ねた

意味:(寿司재료、(話이야깃 거리, 레퍼토리

原文1:東京でも新鮮なネタがそろっていると評判の寿司屋だ。

訳文: 집은 도교에서도 신선한 새료를 쓰는 것으로 소문난 초밥집이다.

原文2:息子が机に向かって一生懸命勉強していると思ったら、文化祭で披露する漫才のネタを作っていた。

訳文:아들이 책상에 앉아서 열십히 공부하는가 싶더니 학교 문화축제에서 선보일 만담 레퍼코리를 만들고 있었다. (한국 사람들은 책상 앞에아니라 책상에앉는다!)

名詞33-そのもの

意味:바로 그것, 자체

原文1:初めてミュージカルを見る子どもたちの目は真剣そのものだった。c0077412_10085338.jpg

訳文:처음으로 무지컬을 관람하는 아이들의 는은 그저 진지하기만 했다.

原文2:小説はもちろんだが、活字を追うことそのものが好きだったことが、新聞記者になりたいという夢につながったのだと思う。(日本語がぎこちない!)

訳文:소설은 물론이고 활자를 읽는 일이 마냥 좋았다. 그것이 신문기자가 되고 싶다는 꿈으로 이어졌을 것이다. (‘읽다 が使われることで日本語の不自然さが解消されている。)

名詞34-慇懃

意味:공손함, 정증함

原文1:普段はとても慇懃な課長だが、酒が入ると立て続けに親父ギャグを放つ。

訳文:과장님은 평소엔 깍듯한 태도를 유지하지만 술이 들어가면 썰렁한 개그를 연발한다. (썰렁한 개그「寒いギャグ」は日本語と同じ発想ですね。)

原文2:あの人の態度は慇懃無礼だ。

訳文: 사람 태도는 공손한 듯하지만 알고 보면 무례하기 짝이 없다. (짝이 없다はマイナスイメージの場合に使う。)

名詞35-上の空

意味:건성 (건성으로の形でよく使われる)

原文:たくさんの人々から祝いのことばを聞く間も、彼はずっと上の空だった。

訳文:많은 사람이 전하는 축하의 말도 그는 계속 건성으로 들었다. (많은 사람들とすると重複表現になる。)

名詞36-~遅

意味:뒤짐, 뒤떨어짐

原文:愛だの恋だのをストレートに歌う歌詞は時代遅れじゃないだろうか。

訳文:사랑이니 연애니 하고 직설적으로 부르는 가사는 시대에 뒤떠어지지 않을까? (テーマによっては 과거의 유물과 다름 없다’ も使える。)



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by nishinayuu | 2018-09-18 10:11 | 翻訳 | Trackback | Comments(1)


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TheWashington Square Enigma』(Hary Stephen Keeler, 1933

物語は次のように始まる。所はシカゴの北東部にあるワシントン広場。時は11月。ミシガン湖から吹いてくる肌寒い風ががらんとした駐車場を吹き抜け、広場に散在するベンチを占領している浮浪者たちが、薄い上着の前をぐいと寄せ合わせる。そんなわびしいベンチの一つに座っていたハーリングは、誰かが捨てていった日刊紙の広告に目を見張る。広告の内容は「1921年発行の5セントの白銅貨で、自由の女神の頭を囲んだ星の数が13個ではなく12個のものを30日間貸してくれれば、1枚につき5ドル支払う」というものだった。(第1章)

ハーリングはたまたま星が12個の5セント貨を持っていた。実はこれがほぼ全財産だったハーリングは、広告主の家に行くための交通費を手に入れるために、広場に面した地区の空き家から何か換金できそうな物を盗み出すことにする。そしてハーリングが空き家の一つに入り込むと、床に老人の死体が転がっていた。(第2章)

このように本作は冒頭からめまぐるしい展開を見せ、本質は生真面目な青年である主人公の運命やいかに、という興味がかきたてられる。登場人物の名もサミュエル・ボンド・シニア、マイケル・ボンド、フェルプス・モーニングスター、ジョン・ヘミングウェイなどなど、どこかで聞いたような名でなじみやすい。豪邸に住む美女とフィリピン人の使用人、美女に纏わり付く従兄弟、無宿者に変相していた私立探偵など、登場人物たちの言動も興味深い。というわけでまあまあ楽しめる作品だと思うのだが、訳者の評価は手厳しい。「訳者あとがき」によると「本書は、そのあまりに荒唐無稽な作風から、史上最低の探偵小説家という称号を冠せられたキーラー(18901967)による15冊目の長編小説」であり、「作者には登場人物の内面を丁寧に描こうなどという意図はハナからないようであり」、「ぞくぞくするような緊張感とも縁がないようで」、ということになる。

また「訳者あとがき」に引用されているキーラー協会のリチャード・ポルトの言葉によると、「キーラー作品の特徴は、不可解な事件、方言、科学的事実、奇妙な人名や場所が織り込まれていること」だそうだ。まさにそこがこの作品の魅力ではないだろうか。ミステリー通から見れば駄作かもしれないが、様々なミニ情報が盛り込まれた読み物と思えばいいのでは?(2018.6.20読了)


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by nishinayuu | 2018-09-13 09:42 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


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OffretSacrificatio』(Andrey Tarkovsky, 1984

本書は映画『サクリファイス』(1986,スウェーデンとフランスの合作)のもとになった小説で、タルコフスキーはこれを19842月にイタリアのサン・グレフォリオで脱稿している。

物語は6部構成になっている。第1部の「散歩」ではまず郵便夫のオットーが自転車で登場して、入り江にいるアレクサンデルに誕生日の祝電を届けにいく。アレクサンデルは幼い息子にこの土地に家を建てたいきさつを話している。そして大きな枯れ木を岩の割れ目に押し込んで「イケバーナだよ。ずっと昔ある人が枯れ木に毎日水をやっていたら3年後に花が咲いたんだ」と教える。子どもは声帯の手術を受けたばかりで話すことも笑うことも禁じられているので、黙って聞いている。郵便夫はアレクサンデルと神やらニーチェやらについて議論する。

2部「戦争」、第3部「祈り」、第4部「魔女」、第5部「朝」と続き、第6部「救急車」ではアレクサンデルがテーブルに椅子を積み上げ、テーブルクロスに火を付ける。家は燃え上がり、アレクサンデルは救急車で病院へ運ばれる。その途中、アレクサンデルは水の入った大きな桶を枯れ木のところに運んでいる子どもを目にする。

最初と最後の場面は映画と同じだが、その間の印象がかなり違う。映画はとにかく映像が素晴らしく、火事の場面などは美しさに圧倒されるが、登場人物たちの性格や心理がわかりにくい。場面転換が唐突でめまぐるしく、会話が断片的だからだ。一方本作は、場面転換は緩やかだが、今度は登場人物の饒舌さと会話の深遠さについていけない。

以前、映画『2001年宇宙の旅』を見たとき、内容がイマイチ理解できなかったので原作を読んでみたら、ますますわけがわからなくなった、という経験がある。この作品もそれとよく似ている。迫力のある忘れ難い映画なのだが、内容がしっかり理解できない、というもやもやが残るのだ。

映画では登場人物たちがスウェーデン語、英語、フランス語などをチャンポンに使いながら会話を進めている点が印象に残ったが、本書には言語についての言及はない。

2018.6.15読了)


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by nishinayuu | 2018-09-08 10:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


c0077412_08574679.pngThe GlassSlipper』(Eleanor Farjeon, 1955

著者のファージョン(18811965)は第1回アンデルセン賞を受賞したイギリスの児童文学作家で、代表作は『リンゴ畑のマーティンピピン』。

本作の主人公は16歳のエラ。継母やその連れ子の姉たちはエラを蔑んでシンデレラ(灰だらけのエラ)とかシンダーズ(灰だらけ)と呼ぶ。しかもエラは2階の素敵な部屋を追い出されて、穴蔵のような地下室の台所で寝起きさせられ、朝から晩まで3人にこき使われている。けれどもエラには古い時計の「おじいさん」をはじめ、蛇口や箒、火かき棒と火箸、揺り椅子、食器などの「台所のものたち」という親しい友だちがいる。留守がちのお父さんも、旅から帰るとまず台所のエラに会いに来てくれるから、エラは寂しくはない。エラは寒さにも負けない丈夫な身体をしていて、仕事がいくら多くても音を上げないし、「台所のものたち」にも「おじいさん」にもぽんぽんものを言う。すなわち本作の主人公のエラは、はつらつとした、そしてかなり強かな娘として描かれている。

また、世のシンデレラ物語では全く影が薄いお父さんも、この作品ではかなり出番が多い。ただしエラの継母である自分の妻や、妻の連れ子たちの前では小さくなっている実にだらしない姿がリアルに描かれている。また、継母は粗野で意地が悪い女性として、義姉たちは教養の欠片もない娘として描かれているだけでなく、そろいもそろって不細工な姿形に描かれている。特に母親はカツラの下がツルッパゲであるとしてその無様さが示されているが、今だったら許されない不当な表現である。母と娘たちのやりとりは滑稽さがこれでもかというほど誇張されていて、ちょっとしらける。

人物の言動には精密さとリアリティーがある一方で、ものたちがしゃべったり妖精が登場したりというファンタジー的要素はそのまま生かされている。全体として、人物だけがやけに現実的な「シンデレラ物語」と言えよう。

ファージョンは『リンゴ畑のマーティンピピン』を読んで感動して以来いろいろな作品を読んだが、やはり最初に読んだ『リンゴ畑のマーティンピピン』がいちばんの傑作だと思う。(2018.6.14読了)


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by nishinayuu | 2018-09-03 09:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu