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c0077412_09212309.jpg本書は20083月~20105月に集英社の文芸誌『すばる』に掲載されたものをまとめたもの。読書会「かんあおい」201711月の課題図書として『ロスチャイルドのヴァイオリン』を選定したnishinaは、近所の図書館からかき集めてきた5冊のうち4冊は会員たちに回し読みしてもらうことにし、沼野充義訳の本書を手許に残した。これが大正解!訳文が滑らかで読みやすいのはもちろんだが、各作品に詳細で興味深い「解説」が付いているので、勉強にもなるし2倍も3倍も楽しめた。

13編の収録作品は、次のように4つのグループに分けられている。

*「女たち」――かわいい/ジーノチカ(憎まれ初め)/いたずら/(ナッちゃん、好きだよ)/中二階のある家(ミシュス、きみはいつまでもどこか手の届かないところにいる)

*子供たち(とわんちゃん一匹)――おきなかぶ(累積する不条理)/ワーニカ(じいちゃんに手紙は届かない)/牡蠣/おでこの白い子犬

*死について――役人の死(アヴァンギャルドの一歩手前)/せつない(ロシアの「トスカ」)/ねむい(残酷な天使)/ロスチャイルドのヴァイオリン(民族的偏見の脱構築)

*愛について――奥さんは子犬を連れて

強く印象に残ったのは「ワーニカ」「せつない」の2作品。どちらも余りにせつなくて泣けてくる。

解説で特に印象に残ったのは次の事項。

*ロシア語では「流れ星」ではなく「落ちる星」という。「中二階」のジェーニャが流れ星を怖がるのは下に落ちてしまうことへの恐怖だと解釈できる。

*チェーホフには呼びかけが多いが、呼びかけはしばしば相手に届かない。ワーニカが出す手紙が絶対に「村のじいちゃん」には届かないように。ミシュスへの呼びかけも、人と人との間に横たわる絶望的に越えがたい深淵を意識した人間の諦めと希望の入り混じった叫びである。

*現代のロシア語辞典には「村のじいちゃんへ」は宛先不明の時におどけていう慣用句として登録されている。

*「トスカ」とは一切何もしたくなくなるような憂鬱、心を締め付けられるような煩悶、すべてを投げ出して消えてしまいたくなるような不安。二葉亭四迷は「ふさぎの虫」と訳しているという。(プッチーニのトスカとは無関係でした!)

*「ロスチャイルドのバイオリン」でチェーホフは、ユダヤ人の特徴とされるものをロシア人に移し、まさにそのことによって民族的偏見の根拠を切り崩すという作業を行っているのである。

*「奥さんは子犬を連れて」についてナボコフは、「ここには引き出すべき道徳も、受けとめるべき主張も存在しない、高貴なものと低俗なものの違いが存在しない、現実的な結末が存在しない」といった特徴を数え上げ、それをすべて肯定的に評価して「かつて書かれた最も偉大な短編小説の一つ」とまで言っているそうだ。ところで訳者はある文学講座の受講者に「この後、アンナとグーロフの関係はどうなるか?続編を構想せよ」という課題を出したことがあるという。(受講生じゃなくてよかった!でも〇〇年前だったら喜んで取り組んだかも。)(2017.10.29読了)


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by nishinayuu | 2017-12-30 09:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)


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本作品は「どうやらあがったようだわ。宇藤聖子は露の晴れ上がった空を見上げてそう呟いた。」という文で始まる。「あがった」のは「雨」だと思わせておいて、数行先で雨ではなく別のものの話だということがわかるのだが、なにやらゆったりした家庭小説の始まりを期待させる書き出しである。

主人公の宇藤聖子は、知り合いの税理士事務所で週三日ほどアルバイトをしているが、主婦業も完璧にこなす50台はじめの女性。夫の守とは大学の同級生で、出産前までは丸の内でばりばり働いていたという設定。それでこの夫婦の会話にはマルグリット・デュラスとかオクタビオ・パス、トーベ・ヤンソン、クロード・シモンなどの名がぽんぽん飛び出す。零細編集プロダクションを営む夫がある晩持ち出した名前は伊藤整だった。ある会社のPR誌を引き受けることになり、創業者の趣味を入れて伊藤整の『女性に関する十二章』のようなものを書くようことになったという。「文筆業が本業でその傍ら編集もやっている」という建前の夫はこの仕事に乗り気になっていて、『女性に関する十二章』をきみも読んでみる?と聖子に聞く。自分は家の本棚から見つけた文庫本を読むから、聖子はタブレットで読めばいいという。すでにキンドルで電子書籍を買ってあるのだ。まさに今の時代のごく一般的な夫婦、ということだろう。(因みにnishinaも新しもの好きの夫のおかげでずいぶん前からキンドルを使っているが、周りにいる同年代の友人知人には同類が見当たらない。)

こうして伊藤整の『女性に関する十二章』と付いたり離れたりしながら『彼女(聖子)に関する十二章』が展開していくことになる。初恋の男性の息子との邂逅に始まり、彼女なりにめまぐるしい男性との関わりが綴られていき、その合間に適度な蘊蓄も挟み込まれていて、中年女性の日常を綴ったエッセイのような趣もある。そして最後はまた冒頭と呼応するように「あがった」話で締めくくられている。この作者の本は『小さいおうち』しか読んでいないので、他の作品も読んでみようかという気分になった。たとえば泉鏡花賞を受賞している『妻が椎茸だったころ』とか、チャンドラーか?と突っ込むのがお約束と思われるタイトルの『長いお別れ』とか。

目にとまった部分を軽重は度外視して書き留めておく。

*阿野弥也子なんか、すっごいこと書いてて、あっちこっちから怒られているけど、それでもブイブイ威張りながら書いている。(あの作家のことですね。)

*守に仕事をくれた会社の会長が、若い男に動物としての種まき本能が欠けているから少子化問題が起こるのだという論理から、PR誌のタイトルを『種を蒔く人』にしたいと言い出した。それを聞いた聖子は初恋の人・久世佑太は「種を蒔く人」になったのだ、と思う。

*伊藤整による『金色夜叉』の要約。

*初恋の相手は一生の間その人の美の原型となる。

*アンドレア・デ・サルトがアンドレア・デ・サルトでなかったとしたら、『吾輩は猫である』の冒頭は、あんなにおかしいだろうか。

*お金を使わずに生きることにかけている片瀬さんと喫茶店に入ると、チェット・ベイカーの『レッツ・ゲット・ロスト』が流れていた。

*「自分のエゴも他人のエゴも肯定する」のがキリスト型の愛で、「他人のために自分のエゴを否定する」のが孔子型の愛だ。

*孔子型の愛は自己犠牲を称揚する日本的な情緒とつながる。そして「いつだって日本で軍事化が進められるときには、日本的情緒が引っ張り出される」と伊藤整は言っている。

*『遠くへ来たもんだ』(海援隊)と『遠く来たもんだ』(中原中也)じゃ大違いよ、と言って聖子はタブレットで中也の詩を読む。「この詩、いいよね」と聖子がしみじみ言い、「いいね」と言って妻を見上げる守に微笑み返す。

2017.10.28読了)


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by nishinayuu | 2017-12-26 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


Aunts Aren’tGentlemen』(Wodehouse――1974年の英国版

TheCatnappers』(Wodehouse)――1975年のアメリカ版

c0077412_09041249.jpg本書はイギリスのユーモア作家・ウッドハウス(18811975)による最後の作品である。邦訳のタイトルは内容が一目でわかるアメリカ版のタイトルをもとに、ジーヴス・シリーズの1作であることも示していて、よくできたタイトルではある。一方のイギリス版のほうはちょっと意味不明な感じがし、そのせいでかえって興味がかきたてられそうな、捨てがたいタイトルとなっている。種明かしをしてしまうと、イギリス版のタイトルは本作の最後にバーティーがジーヴスに向かって言う次のような台詞から来ている。

「僕らの心は落ち着いている。なぜかというとここニューヨークはダリア・トラヴァース夫人から五千キロも離れているからだ。僕はあの懐かしき肉親を愛しているし、むしろ崇拝している。しかし彼女の道徳規範は弛緩しているんだ。何かしたいとなったら彼女はどどんと行って、それをやる。今回のねこの件でそうしたみたいに。叔母さんという種族の問題はなんだかわかるか?彼女たちは紳士じゃない。」

物語の主人公バーティーは、胸にぶつぶつができたため田舎に療養に行くことになる。行く先はサマセットの保養地ブリッドマス・オン・シーの近くにあるメイドン・エッグスフォード。その地に滞在中のダリア叔母さんがコテージを捜してくれた。同行するのはバーティーのお側付き紳士で生き字引のジーヴス。さてふたりが到着してみると、メイドン・エッグスフォードは「魔境」だった。アフリカ探検家でバーティーの仇敵であるプランク少佐を手始めとして、バーティーがかつてプロポーズして断られたヴァネッサ・クック、かつての学友で今やヴァネッサの恋人となっているオルロ・ポーターなどなど、バーティーの苦手な連中がわんさといるではないか。しかも土地の競馬大会を巡ってやっかいな事件が持ち上がる。ブリスコー大佐の持ち馬シムラ号に一財産を賭けたダリア叔母さんが、クック大佐の飼い猫をさらおうと企てたのだ。というのはシムラ号と互角の力を持つクック大佐の持ち馬ポテトチップ号はねこと仲良しで、ねこがそばにいないと力が発揮できないとわかったからだ。バーティーはこのねこさらい計画に巻き込まれてさんざんな目に遭うことになる。

この作品の魅力の一つは、気のいい青年紳士のバーティーと、控えめだが凜としたジーヴスのやりとりにある。ふたりは頻繁に古典や詩歌を引用する。時にはバーティーが言葉遣いが正しいかどうかをジーヴスに確かめる。そしてジーヴスはつねに的確に応える。ストーリーを楽しむと同時にイギリス紳士の教養あふれる会話を味わうための作品と言えよう。(2017.10.25読了)


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by nishinayuu | 2017-12-22 09:10 | Trackback | Comments(1)

翻訳練習 課題4

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今学期の韓国語講座「翻訳の秘訣」で練習したものの記録です。(2017.11.6


秘訣-10 説明を要する言葉は①括弧に入れる②本分に組み込む③脚注にする。

原文:ニートの若者を減らそうと、各県ではあらゆる取り組みを始めて、ニートの自立を目指している。

訳文:①니트족(무위도식 청년) 줄이기 위해 각현에서는 다양한 대책을 세워서 니트족의 자립을 지원하고 있다.

②무위도식하는 청년을 가리키는 니트족 줄이기 위해 각현에서는……

니트 영어 NEET 약어. NEET Not inEducation, Employment or Training 줄임말로 취학도 취업도 하지 않고 직업 훈련도 받지 않는 15~34살의 젊은이를 말한다.


秘訣-11 時には本文の語句を果敢に削除する。

原文1:その晩、子猫はなんとなく眠れませんでした。空には満月が浮かび、町は静まり返っています。

訳文:그날 밤 아기 고양이는 잠이 오지 않았어요. 하늘에는 보름달이 떴고(아니면: 보름달이 뜬 하늘 아래) 마을은 더없이 고요했어요.

原文2:いじめっ子は自分のしたことを思い、なんだか恥ずかしい気持ちになりました。

訳文:왕따를 시킨 아이는 자기가 한 짓이 생각나니 부끄러운 마음이 들었습니다.


秘訣-12 意味を曖昧にするような否定表現は使わない。

原文1:「今現在、好きな人がいないとも言えないというか

訳文:실은 요즘 좋아하는 사람이 있어……

原文2:最近は漢字の読めない若者が少なくない。

訳文:요즘은 한자를 못 읽는 젊은이 많다.

原文3:(旅先で息子について話す夫婦の会話)

  A:一雄、ちゃんと宿題してるかしら。

  B:あいつのことだから、ゲームでもやってるんじゃないか。

訳文:A가즈오가 숙제를 제대로 했을까요?

B녀석이라면 개임이나 하고 있겠지.


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by nishinayuu | 2017-12-18 12:57 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

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Le PèreGoriot』(Honoré de Balzac

時は1819年。主要舞台はパリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りにあるメゾン・ヴォーケ。この類いの家では家主が下の階に住み、最上階の5階には使用人が住む。その間にある部屋は上階に行くほど家賃が安くなる。物語の主要人物であるゴリオは、入居した58歳のときは裕福だったので家主と同じ2階に住んだが、3年目の末には4階の45フランの部屋に移った。最初に持っていた立派な家具調度は消え、服装も着た切り雀のみすぼらしいものになり、やせてしわくちゃになっていた。家主のヴォーケ夫人はゴリオが裕福だったときは同棲を考えたほどだったが、ゴリオにその気がないとわかってゴリオを下宿のつまはじき者にすることを思い立ち、呼び名を「ゴリオ爺さん」と変えた(以上がこれまでのいきさつ)。それでゴリオは物語の冒頭からゴリオ爺さんとして登場する。

ヴォーケ夫人の下宿人たちをざっと紹介すると

*2階――ヴォーケ夫人(家主。48歳)、クチュール夫人、ヴィクトリーヌ・タイユフェール(美少女だが悲しみをたたえた顔。庶子のため父親から認知されていない)。

*3階――ポワレ老人(元下級国家公務員)、ヴォートラン(恰幅がよく、弁の立つ40がらみの男。実はツーロンから逃走した徒刑囚で仲間から「不死身」と呼ばれている危険な男。不整な金を動かして利益を得る、闇の銀行家)。

*4階――ミショノー嬢(ハイミス)、ゴリオ爺さん(元イタリア麵製造業者で資産家、現在は吝嗇で陰険で小心者。実は大金を投じて貴族に嫁がせた二人の娘たちのために、金銭ばかりか身も心も命までも献げる父親)。

*臨時の下宿人――ウージェーヌ・ド・ラスチニャック(南フランスのシャラント県出身。高等法律大学志望であると同時に、社交界入りを目指す。すなわち「法と道徳は富の前には無力」という言葉を信じて、「博士となり、時代の寵児となる!」と決意して、宮廷に仕えたことのある叔母のつてで社交界の花であるボーセアン子爵夫人に近づく。

物語は「ウージェーヌの社交界デビュー」から「不死身の事件」「ゴリオ爺さんの死」へと波瀾万丈な展開を見せ、最後は次のように終わっている。

「(ゴリオの埋葬を見届けたウージェーヌは)腕組みをしてじっと雲を見つめた。それからヴァンドーム広場の記念柱と廃兵院の丸天井の間にある華麗な社交界に視線を投げかけたあと、つぶやく。さあ今度はおまえと一対一の勝負だ!と。そして社交界へ挑む第一幕として、ニュシンゲン夫人(ゴリオの二番目の娘)宅に向かった。」

ゴリオの父性愛は、愚かしくて無様なものであるが、見方によっては時代の制約の中で最善を尽くした尊くも美しいものだったと言えなくもない。また、ゴリオの娘たちをはじめとする女性たちの言動も、彼女たちの置かれていた状況を考えれば納得できる。この作品は、19世紀前葉のパリの雰囲気が伝わってくるし、あちこちにちりばめられた警句やことわざ、言葉遊びでちょっと一息つけるし、映像を見ているかのように鮮やかな場面展開が楽しめる。モームが「世界の10大小説」の一つにあげただけのことはある作品である。

本作品は201531日訳出の青空文庫版で読みました。(2017.10.21読了)


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by nishinayuu | 2017-12-14 14:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

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本作は1963年に4巻本として発行された短編集の第4巻に収録されている。(今回読んだのは1980年代発行の版。)


舞台はシャム王国。シャムの王様は二人の娘に「夜」と「昼」という名を付けたが、娘が4人に増えたので最初の二人の名前を変えて、4人を「春」「夏」「秋」「冬」と呼ぶことにした。そのあとまた3人の娘が生まれると、全員を曜日の名で呼ぶことにした。そして8人目が生まれたとき、はたと困った王様は12ヶ月の名で娘たちを呼ぶことにした。王様は極めて規律正しい精神の持ち主なのだった。そのあと生まれたのがこの物語の主人公で、王様の決めた規則に従って「9月」と名付けられたセプテンバー王女だ。

さて物語は、何度も名前を変えられてちょっと性格がねじれてしまった姉たちと違って、かわいくて優しい子に育ったセプテンバー王女が、まどから飛び込んできたナイチンゲールとなかよくなって……という、まあよくある展開になっている。

8ページ余りのごく短い話なので、あっという間に読める。読みどころは、物事がすべて規則的になっているシャムの王室の様子と、決して暴君ではないのになにかというと「首を撥ねる」ことで物事を解決しようとする王様、という「異国情緒」だろうか。(「王様と私」と同じように、シャムが「ちょっとへんてこな」国として描かれているわけです。)

ところで、手許の本は長年放置しておいたため紙面の黄ばみが進んだ古い版で、使われている活字がとても小さい。日本語や韓国語だったら読もうと思っても読み取れそうもない大きさである。それなのに、英語の活字は読み取れる。漢字やハングルに比べると、アルファベットというのは本当によくできた文字である、と改めて思った。(2017.10.5読了)


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by nishinayuu | 2017-12-10 11:42 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_14284604.jpgColorlessTsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage

本書はまず、その奇抜なタイトルで人目を引く。ひらがな表記の「つくる」が名前だと気づくのに数秒要するし、気づいたあとも今度は「色彩を持たない」ではたと考えさせられる。印象的なタイトルであることは確かだ。


「色彩を持たない」の意味は読み始めればすぐに解明される。主人公は高校時代に5人からなる親友グループに属していて、主人公以外はみな名前に色名がついていたのだ。男子の赤松、青海(おうみ)と女子の白根(しらね)、黒埜(くろの)の4人は「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」が呼び名となり、色名を持たない主人公だけは「つくる」と呼ばれた。大都会郊外の中の上クラスの家庭、両親は団塊世代で父親は専門職か一流企業勤務、母親はおおむね家に入る、学校は受験校なので成績レベルも高い、という共通点を持つ5人は、それぞれが正五角形の1辺であるような緊密な共同体だった。

しかし、それぞれ個性的で目立った特質の持ち主であるほかの4人に比べ、主人公にはこれと示せるような特質は具わっていない(少なくとも彼自身はそう感じていた)。すべてにおいて中庸で,色彩が希薄だった。まさしく「色彩を持たない多崎つくる」だった主人公は、「いつかその親密な共同体からこぼれ落ち、あるいははじき出され、一人あとに取り残されるのではないかというおびえを、常に心の底に持っていた。」そして大学二年生の夏休みに、主人公は4人から絶縁される。何の説明もなく、一方的に。このため読者は、深く傷ついた主人公に寄り添ってこの後の展開を辿ることになる。

音楽通の著者は、本作品では主人公が大学で親しくなった灰田文紹という青年(彼の名前も色つき!)を通して様々な蘊蓄を披瀝している。その最たるものがタイトルにある「巡礼の年」に関する部分だろう。灰田と一緒にレコードであるピアノ曲を聞いていたとき、主人公はそれが「シロ」がよく弾いていた曲だと気づく。何という曲かと尋ねる主人公に灰田が答える。リストの『巡礼の年』という曲集にある第1年、スイスの巻に入っている『ル・マル・デュ・ペイ』(Le Mal du Pays)で「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」という意味だと。演奏しているのはラザール・ベルマン(Lazar Berman)というロシアのピアニストで、繊細な心象風景を描くみたいにリストを弾く、リストの曲は技巧的で表層的なものだとみられているが装飾の奥に独特の深みが巧妙に隠されている、リストを正しく弾けるピアニストは新しいところではベルマン、古いところではクラウディオ・アラウくらいかな…と説明が続く。(おそれいりました。)

この著者との出会いは『ノルウェーの森』で,その印象が余りに悪かったのでそれ以来ずっと避けてきた。それが、ジョージ・オーウェルとどう関連があるのかという興味で読んだ『1Q84』が思いの外面白かったので、毛嫌いするのは止めにして,今回本作を読んでみた。『ノルウェーの森』アレルギーの人にぜひお勧めしたい作品である。(2017.10.3読了)


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by nishinayuu | 2017-12-06 14:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)


c0077412_11053132.jpg『写真館の二階』(申庚林、創批、2014

著者のシンギョンニムは現代韓国を代表する詩人の一人。1936年、忠清北道忠州出身で、民衆の暮らしを見つめた作品で知られる。代表的な作品に『農舞』(1977)、『南漢江』(1987)などがあり、『酔うために飲むのではないからマッコリはゆっくり味わう』という谷川俊太郎との対詩集も出ている。

『私の文化遺産踏査記』の『南漢江編』にも引用されている「再び欅が」という詩を原文で紹介しておく。詩人には生家にある欅を詠んだ「遅い欅」という作品があるが、「再び欅が」は80歳のときにこの欅を見て新しい感懐を抱いて「再び」詠んだのだという。

다시 느티나무가

고향집 느티나무가/터무니없이 작아 보이기 시작한 때가 있다./ 때까지는 보이거나 들리던 것들이/문득 보이지도 들리지도 않는다는 것을 알면서/나는 잠시 의아해하기는 했으나/내가 커서거니 여기면서,/이게 세상 사는 이치라고 생각했다.

오랜 세월이 지나 고향엘 갔더니,/고향집 느티나무가 옛날처럼 커져 있다./내가 늙고 병들었구나 이내 깨달았지만,/내눈이 이미 어두워지고 귀가 멀어진 것을,/나는 서러워하지 않았다.

다시 느티나무가 커진 눈에/세상이 너무 아름다웠다./눈이 어두워지고 귀가 멀어져/오히려 세상의 모든 것이 아름다웠다.

2017.10.1読了)


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by nishinayuu | 2017-12-02 11:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu