カテゴリ:読書ノート( 1125 )


c0077412_11071853.jpg戯曲『つまらぬ女』(オスカー・ワイルド)

タイトルのno importanceは「取るに足りない」、「どうでもいい」とも訳せる。本作にはこのタイトルに合いそうな女が大勢登場するので、だれのことを指しているのか、だれがその台詞を言ったのか、はかなり読み進んでいくまでつかめない。それまではイギリスの有閑階級の男女の会話に付き合って、登場人物ひとりひとりの言動を楽しんでいればよい。そこへ新たにひとりの女性が登場すると、物語の雰囲気ががらりと変わる。そうしてそれまで場を盛り上げたり仕切ったりしていた人物の正体が次第に明らかにされていく。前半は緩やかに、後半は怒濤の如く進行していき、最後にはNo importanceと言ってのけた人物がその言葉をそっくりそのまま返されるという、機知にあふれた作品である。この作品はあらすじを読むと魅力が10分の1くらいになってしまうので、紹介は登場人物の名前と最小限の情報に留めておく。

*レディ・ハンスタントン――カントリーハウスの所有者。

*レディ・キャロライン――手のかかる夫にかまけていて、会話は上の空の女。

*レディ・スタッフィールド――美人ではあるが考えが浅はかな女。

*ミセズ・アロンビィ――気の利いた会話ができる才気にあふれた女。

*ヘスター・ワースリィ――イギリス上流社会の人々の中に舞い込んだアメリカ娘。雰囲気に気押されない自然体の言動で人々を圧倒する。

*ミセズ・アーバスノット――レディ・ハンスタントンの古い友人。

*ロード・イリングワース――才覚・容姿・財力に恵まれた怖いものなしの男。

*サー・ジョン・ポンティフラクト――妻キャロラインの言いなりになっているふがいない男。

*ジェラルド・アーバスノット――銀行勤めの青年。ロード・イリングワースから秘書になるよう求められ、明るい将来を夢見ている。

*ドーベニィ――副司教。

*ミスター・ケルヴィル――国会議員。

ずっと昔の学生時代に購入したワイルド全集にはこの作品が収録されていなかった(たとえ収録されていても今となっては文字が細かすぎて読めなかっただろうが)。そこで今回はProject Gutenbergからダウンロードし、読みやすい書体に換えて読んだ。便利な時代になりました。(2017.8.21読了)


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by nishinayuu | 2017-10-27 11:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


c0077412_09275223.jpg本を読みながら、作中人物が町を歩いている描写があれば街の地図を、作中人物が家の中を動き回る描写があれば家の間取り図を頭の中に描くのはだれでもやることだろう。私の場合、本に出てくるのが実在する場所であれば、地図を広げながら読むことも多い。そして間取りは、書中の文言を頼りに自分で描いてみるのだが、これがなかなかうまくいかない。家全体の形、方位、広さ、部屋と部屋の位置関係を示す文言が不十分なことが多いからだ。それで読み始めに書いた間取り図が、そのあとの描写とは合わなくなって書き直すこともあるし、何度書き直しても納得のいく間取り図が完成しないことも少なくない。そんな「未完成の間取り図」に悩む者にとって、本書の出現は衝撃的だった(大げさな!)。

本書は13の作品を収録した短編集である。そしてすべての作品に間取り図がついている。というより、まず間取り図があって、本文はその間取り図から妄想したもの、という形になっているのだ。間取りはいずれもユニークで、そこから妄想された話も各自各様に風変わり。各作品の冒頭に間取り図が提示されているのはもちろんだが、すべての間取り図が別刷りで添付されている(大きさと紙の厚さがイマイチではあるけれど)。そうした作り手側の遊び心と仕掛けを素直に受け入れて楽しむのがこの本の正しい読み方であろう。

特に印象に残った作品は次の6――船の舳先にいるような/ふたごの家/どちらのドアが先?/浴室と柿の木/家の中に町がある/カメラのように

その他の収録作品――隣人/四角い窓はない/仕込み部屋/カウンターは偉大/巻貝/月を吸う/夢に見ました

*メモ1――「ふたごの家」に「身体のサイズが同じなのをいいことに服はおもやいにするし」という文があり、「おもやい」?と思って調べてみました。長崎、博多などで使われる言葉で、意味は「いっしょに使う/共有する/share」だとか。動詞の「もやう」(古語では「もやふ」)の名詞形「もやい」に美化語の「お」がついたものだそうです。初めて知った今知った。

*メモ2――「巻貝」に「作業がひと段落したときに」という文があります。これは明らかに「いちだんらく」のまちがいですね。でも最近は誤読のほうが幅をきかせているので、そのうち「いちだんらく」と言ったり書いたりしたら笑われることになるかもしれません。

2017.8.18読了)


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by nishinayuu | 2017-10-23 09:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


『見知らぬ女たち』(申京淑)

c0077412_09133312.jpg本書は2003年から2009年にかけて発表された七つの作品が収められた短編集。2015年の盗作疑惑以来、ちょっと読む気の失せていたこの作家の作品を久しぶりに読んでみた。申京淑は『浮石寺』で惚れ込んで以来、いろいろ読んできた作家である。物語の流れが自然で、文章は簡潔、使われる言葉の一つ一つが的確で共感できる――そんな特徴はこの作品集でも健在で、読み終わった今の感想は「やっぱり猫が好き」じゃあなくて「やっぱり申京淑が好き」ということになりました。ただし、六作目の猫が登場する作品は、登場人物に共感できないし、なんとなく気持ちのよくない内容で、「やっぱり猫は好きじゃない」と思ったのでした。収録作品は以下の通り。

세상 끝의 신발――朝鮮戦争時の少年兵ふたり。逃げるときに15歳の少年は傷みの少ない自分の靴を16歳の少年に譲って先に逃がした。16歳は終生15歳を支えた。16歳だった男の娘は記者になり、15歳だった男の娘は結婚、出産のあと離婚し、精神を病んでコドモに返った。記者の娘が語るふたりの父とふたりの娘の物語。

화분이 있는 마당――語り手はインタビュアー。幼い頃からの長いつきあいの恋人から突然別れを告げられ、ことばは出なくなり、食べ物も喉を通らなくなる。近所の空き家を手に入れた後輩の女性が、荒れ果てていた庭に花を作り始める。語り手が、しばらく留守にすることになった後輩のために水やりに通っていると、その家の一郭にもう一人、女性が住んでいることがわかり……。

그가 지금 풀숲에서――運転中に他の車にぶつかられた男。気がついたら草むらに放り出されていて、身体がまったく動かない。助けを呼ぼうと声を張り上げるが、そのうち声も出なくなる。道路を通り過ぎる車の音は聞こえるが、人の気配はないまま、また夜を迎えようとしている。妻の左手が勝手に動いて男の顔を殴ったり、ものを壊したりするようになったのは、仕事にかまけていて妻の気持ちを考えもしなかった自分のせいかもしれない。死の予感にさいなまれながら、男の意識はあちこち彷徨う。

男の目に映るもの、意識に上るものだけから成り立っていて、ロブ・グリエの『迷路の中で』を彷彿とさせる極めて印象的な作品である。

어두워진 후에――母と兄と祖母の無残な死体を発見した男。あろうことか殺人の嫌疑を掛けられ、理不尽な取り調べを受けるはめに。連続殺人犯が捕まって男の嫌疑は晴れたが、家族が惨殺された家にはいたたまれず、あちこちさまよい歩く。やがて、ふと出会った女のさりげない心遣いに、男はようやく、家に帰ろう、と思い立つ。

성문 보리수――それぞれの道を歩んだ女たちの物語。語り手は韓国をあとにして久しい友人を訪ねてドイツへ。その友人とフランクフルトの町を歩きながら、友人が異国で暮らすようになった事情を知っていく。そして連絡のとれなくなっていたもう一人の自死についても。

この作品は「フランクフルト観光旅行記」の感があり、2015年に訪れたこの街を思いながら懐かしく読んだが、観光案内的な部分が少し多すぎて主題が散漫になったような気がしないでもない。歌曲・菩提樹の歌詞は「泉に沿いて茂る菩提樹」なのになぜ「城門前の菩提樹」なのかと思って調べてみたら、原詩は「城門前の泉の菩提樹」だった。

숨어 있는 눈――(内容省略)

『모르는 여인들――(内容省略)

2017.8.9読了)


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by nishinayuu | 2017-10-15 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

c0077412_10121358.jpgBecёлыепохороны』(Людмила Улицкая1997

舞台はマンハッタンのチェルシー地区にあるアトリエ。1991年の猛暑の夏、亡命ロシア人で画家のアーリクは重病の床にあり、今や彼の素質のすべてが意味をなくしていこうとしていた。優れた記憶力も、絶対音感も、芸術家としての才能も。チロル民謡を歌うひょうきんな声も、超一流のビリヤードの腕前も、なにもかもを引き連れて、彼はいなくなろうとしていた。

アトリエには5人の女たち――エキセントリックな妻のニーナ、軽業師から弁護士に転身した元恋人のイリーナ、その娘で15歳のマイカ、ロシア語教師をしている現役の愛人ワレンチーナ、ロシア語を勉強中のイタリア人ジョイカ――が集まっていて、友人たち――医者だがアメリカでは無資格のフィーマ、民間療法師のマリアおばさん、新参亡命者のファイーナ、フィーマの友人で医者のベルマン、フィーマの幼なじみのリービンなどが次々に訪れる。彼らはみんな、なんらかの事情でロシアを出てきた人々だった。

「彼らはアーリクとともに歩んだ、喜びと悲しみに満ち、決して平坦ではなかった人生の道のりを追想する。ウオッカを飲み、テレビで報道される祖国のクーデターの様子を見ながら。そして、みなに渡されたアーリクの最期の贈り物が、生きることに疲れたみなの虚無感を埋めていく……。不思議な祝祭感と幸福感に包まれる中編小説。」(見返しの紹介文より抜粋。)

以下は目にとまった言葉や事柄の覚え書き。

*アントーノフ種のりんご――「ワレンチーナが1981年にアメリカに来たとき、チェックの布張り鞄には、持ち込んではいけないはずのアントーノフ種のりんごが三つ、詰め込まれていた。」

*マンハッタンのチェルシー地区――「アーリクが大好きなオー・ヘンリーが描いた街。かつては工場労働者が多い雑多な印象の所だったが、ここ数年でめざましく変わってファッショナブルな街へと変貌を遂げた。」

*ルビャンカ広場のジェルジンスキー像――秘密警察の父でレーニンの側近であるこの人物の銅像は、ソ連崩壊の折に撤去された。あるブログ(2013)に、プーチン政権下で銅像を復活させる動きがある、という記事があったが……

*ヤエザキオオハンゴンソウ――八重咲き大反魂草。ルドベキア(Rudbeckia)の仲間。訳者による注に「黄色い大きな花をつける菊科の改良種。第二次大戦後、ソヴィエトで好んで植えられた」とある。

*絵に描いたようなユダヤ人の一団が墓地に押しかけたときのワレンチーナの反応――「この人たちはひょっとしてブライトンビーチあたりの小劇場の役者なんじゃないの、アーリクに聞いてみなきゃ……と考えた瞬間に、たくさん、ほんとうにたくさん訊きたいことがあるのに、もはや訊く相手がいないのだ、と思い知る。」このくだりを読んだとき、ある人から聞いたを思い出した。高校生のとき、同級の女の子が母親を亡くした。彼女の許に駆けつけて慰めの言葉を掛けたりしているうちに、翌日のお葬式になにを着ればいいかという話になった。学校の制服でいいかな、それとも、と迷っていた彼女が「そうだ、お母さんに訊いてみよう」と言った。そのとたんにはっと顔を見合わせたふたりは、改めて涙にくれてしまったという。

この作品は今まで読んだウリツカヤ作品の中でいちばん好きかも知れない。(2017.7.28読了)


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by nishinayuu | 2017-10-11 10:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

c0077412_10110148.jpg The SevenGood Years』(Etgar Keret2015

本書は息子レヴの誕生から父親の死までの7年間の出来事を描いたノンフィクション作品で、36篇のエッセイで構成されている。本書を読めば、パレスチナの人々の土地を奪って建国されたイスラエルという国で、人々がなにを思い、どのように日々を送っているのかが、少しはわかるかもしれない。印象的なエピソード満載なので抜粋は難しいが、ほんの一部をあげてみると――

*ミサイルが一斉発射されたとき、ぼくらはもう一度、日々民間人を攻撃せざるを得ない占領国ではなく、自分たちのために闘う、敵国に囲まれた小さな国となれたのだ。だからぼくらがみんなひそかにちょっとだけホッとしたとしても不思議ではないだろう?(1年目「戦時下のぼくら」)

*過去数年にわたってぼくは多くの祝日をイスラエル国外で過ごしてきた。空軍の戦闘機が頭上をデモンストレーションして飛ぶのを見て独立記念日を過ごしたりせずに済むのには、いくらかホッとするところがあったのは認めざるを得ない。でも、ヨム・キプール(大贖罪日)のときだけは全力でイスラエル国内にいようとしてきた。テルアビブの大通りで小鳥の声が聞こえるのはヨム・キプールのときだけだ。明日はもうヨム・キプールではないと知った息子が泣き出した。それは正しい反応だ。(3年目「スウィート・ドリーム」)

*七つ年上の兄さんがいて、ぼくはいつも大きくなったら兄さんのようになりたいと思っていた。兄さんは12歳のとき神様を見つけてユダヤ教の寄宿学校に入り、15歳のとき宗教を捨てて大学で数学とコンピュータサイエンスを勉強し、21歳のとき兵士になったが「イスラエル国防軍兵士にふさわしくない行為」のために投獄され、数年後にはハイテク企業を辞職して「急進的な」活動に従事し、この5年は奥さんとタイに住んで世界をちょっとだけよい場所にするための国際組織を運営している。ぼくの乗ったゾウの前を自分でゾウを操りながら進む兄さんを見て、大きくなったら兄さんのようになりたいという子ども時代の感覚が戻ってきた。(3年目「英雄崇拝」)

*ここ10年ほど毎年ポーランドを訪問してきた。ぼくの一族のほとんどがそこで恐ろしい状況の中で死んでいったのだけれど、彼らが暮らし、数世代にわたって栄えたのもポーランドであり、この地とそこに住む人々にひきつけられるぼくの気持ちはほとんど神秘的でさえあった。(5年目「想像の中の故国」)

*19年前、ブネイ・ブラクの小さな結婚式場でぼくの姉は死んだ。今ではエルサレムでも最も正統派ユダヤ色の濃い地域に住んでいる。(4年目「亡き姉」)

*文学イベントでクロアチアのザグレブに行った時、地元のカフェのウエイターから聞いた話。「戦争中、それぞれの言語では他意のない言葉の選択も、険悪な政治的含意があるように受け取られかねなかった。コーヒーをさす言葉はクロアチア語、ボスニア後、セルビア語でそれぞれ異なっていたため、客はみんなエスプレッソを注文し始めた。それなら中立なイタリアの言葉だから。そして一夜にしてここではコーヒーではなくエスプレッソのみを出すようになった。」(6年目「お泊まり」)

*ワルシャワのとある通りにぼくらの家が建てられた。その細い家に母さんより歳をとった女性がやって来てジャムをくれた。昔この近くにユダヤ人の友達がふたりいて、その子たちがゲットーに移る前に、おばあさんの母親が作ってくれたジャムサンドをあげたという。細い家のキッチンでジャムをつけたパンを食べた。(7年目「ジャム」)

「イスラエルのユダヤ人」だからこそのエピソードに出会えるのはもちろんだが、どこの国のどんな人でも共感できそうなエピソードも多い。また、全編にユーモアとペーソスがあふれていて充実した読書が楽しめる。なお作者ケレットは、村上春樹が「壁と卵」のスピーチをした2009年エルサレム賞の審査員の一人だという。(2017.7.27読了)


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by nishinayuu | 2017-10-07 10:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

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Tra DueMari』(Carmine Abate, 2002

著者は1991年に長編デビューし、3冊目の長編である本作によってイタリアをはじめフランス、ドイツで高く評価されて現代イタリアを代表する作家の仲間入りをした。2012年発表の『風の丘』も同じ訳者によってクレストブックスの一冊として紹介されている。

物語の主要舞台はイタリア南端カラブリア州の架空の村ロッカルバ。村は西のティレニア海と東のイオニア海にはさまれた狭い陸地の丘の上に位置しており、夏の間はふたつの海から凄まじい熱風が吹き付ける。

物語はドイツのハンブルクに住むフロリアン少年と両親が夏休みを過ごすために車でロッカルバに向かうところから始まる。フロリアンは自分たちを待つ暑さや馴染みの薄い祖父のことを思ってうんざりしており、2581㎞の道を運転する父のクラウスは息づかいも荒く、苦しげだったが、母のロザンナは幸せいっぱいだった。両親や妹のエルサ、姪のテレーザ、幼なじみ、路地、子豚のいる家畜小屋、オリーヴの木にとまる蝉、教会の裏の崖、バルコニーを彩る斑入りのカーネーション、広大な空を舞う燕に久しぶりに会えるからだ。そしてようやく村に到着すると、母と祖父のジョルジョ・ベッルーシは連れだって平原の真ん中にある「いちじくの館」の跡に行き、うだるような暑さの下で一年分の話をするのだった。

「いちじくの館」は、かつてはカラブリアでいちばん繁盛していた宿だった。183510月にはアレクサンドル・デュマも立ち寄り、デュマが文章を書く横で連れの画家ジャダンが主一家をスケッチした。その画面に描かれている当時15歳でのちに「炎のベッルーシ」と呼ばれた息子が「いちじくの館」の最後の主となった。18657月のある日、盗賊が逃げ込んだ館に北から来た国家警備隊が火を放って全焼させてしまったのだ。奇跡的に火を免れたデュマの手稿とジャダンのスケッチは「家宝」として代々受け継がれ、「いちじくの館」再建の意思を象徴するものとなった。

フロリアン少年の前から突然消えて長い間不在だった祖父のジョルジョ・ベッルーシが、消えたときと同じように突然またフロリアンの前に現れる。「炎のベッルーシ」の孫であるジョルジョは、一族の当主として、また「家宝」を引き継ぐものとして、あらゆる妨害、挫折をものともせず「いちじくの館」の再建に奮闘しはじめる。そんな祖父をフロリアンは少しずつ理解し始める。祖父の不在のあいだにフロリアンも子ども時代を脱していたのだった。

登場する男たちはみな、妻となる女性を求めて遠くまで旅をした情熱家であり(情熱とは無縁に見えるクラウスも!)、そうして妻となった女性たちは魅力的な美人ばかり(まん丸に肥った祖母も!)。丘には花が咲き乱れて空には燕が舞い飛ぶ暑熱のカラブリアの物語に、時たま寒冷なハンブルクの場面が差し挟まれる。燃えるような夏の日に冷房の効いた部屋で読むのにふさわしい一冊である。

2017.7.18読了)
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by nishinayuu | 2017-10-03 08:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


c0077412_09374042.jpgGreen Growthe Tresses-O』(Stanley Hyland

本書は「論創海外ミステリー」と謳うシリーズの一冊である。しかし、さあ謎解きを楽しもう、と思って読み始めると裏切られる。話は紡織工場の仕事台からあがる悲鳴で始まる。悲鳴を上げたのは織りむらや傷を検査していた女子工員の一人。染色前の布地の中央に、明るい金色の髪の毛が十数本、長い一束になって織り込まれ、その片方の端には茶色くごわごわした皮膚と肉がこびりついていたのだ。それから間をおかずに金髪のジーナ・マッツォーニの死体が煮えたぎる染料桶の中で見つかる。髪も身体もエメラルド・グリーに染まっていた。――どうも気持ちのいい事件ではなさそうだ(気持ちのいい殺人事件などはないかも知れないが)。

総ページ数26130の章に分けられているので、ここまでですでに第3章になっているが、17ページ目で死体が登場するので好調な滑り出しと言えるかもしれない。ところが、ジーナの住んでいた寮の捜索に駆けつける刑事トードフの行動、寮の外観、寮の呼び鈴に応えた管理人夫婦の言動、トードフのあとからやってきた警部ザグデンとトードフのやりとり、などなどの描写がやたらに細かい。たとえば――

「シドニー・トードフ刑事は自転車を鋳鉄製の小さなうずくまったライオン像の腰骨のあたりに慎重に立てかけ、幅広の石段を五段上って、ぼろぼろのポーチに達した。目を上げて〈岩山荘〉全体を眺めると、はるか昔の日々に思いをはせ、ちっちっと舌を鳴らした。ヴィクトリア朝後期、この家の全盛期には、どんな様子だったのだろう。当時はまだ羊毛産出地帯の理想的個人住宅で、初代ミスター・エイサ・ブランスキルを筆頭に、関白亭主に使える妻、子ども十人、メイド六人、料理人一人、執事一人、馬車二台、馬四頭、それに屋根裏には狂ったおばさんが住んでいたに違いない。今では労働貧困層のための寮となっていて、見るからにそれらしい。刑事は哀しげに首を振りながら一歩進み出て、呼び鈴の引き紐をぐいと引っ張った。それはすっぽ抜けて手に残った。」

このような、伏線とも思えない意図不明のやたらに細かい描写はこのあともずっと続くので、肝心の話がなかなか進展せずにちょっといらいらさせられる。しかし、しばらく読み進むうちにはっと気づいた。まさにこうした、謎解きとは直接関係のない細かい描写こそがこの作品の読みどころなのだと。そう思って読めば実に内容豊かな、読み甲斐のある作品である。

なお、原題のGreen Grow the Tresses-O“はロバート・バーンズの詩 “Green Grow the RushesO”(イグサは青々と茂るよ)から取られたもので、rushestresses(ふさふさした巻き毛)に置き換えられている。(2017.7.9読了)


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by nishinayuu | 2017-09-25 09:38 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

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本書は作家・書誌学者で『イギリスはおいしい』などで知られる著者による能楽論と新作能を一書にまとめたものである。





1章「古典文学と能」では『志賀』という曲を取り上げて、能とは、古典文学を縦横自在に取り込むことによってごく少ない字数で千万言にも当たる内容を表現する「恐るべき芸能」である、と説く。

2章には著者による創作能『黄金桜』と『仲麻呂』が収められている。前者は小金井薪能の創立30周年記念の委嘱作品で自然との共生をテーマにした作品であり、後者は阿倍仲麻呂と唐の大詩人王維との厚い友情と別離という史実をもとに、若い人たちが将来への希望を持てるように作劇したものだという。いずれも著者の古典文学の造詣と能への愛が結集した魅力的な作品となっている。

3章では25の曲を取り上げて、それぞれの曲の成り立ち、盛り込まれている古典文学作品、聞き逃したり見落としたりしてはいけない部分、などなどが細かく説かれている。読んでいるうちに実際に舞台を見ているような気もしてくる臨場感のある解説書となっている。その中で特に印象に残ったのは『藤戸』の項。この曲は源平の戦の折にあった次のような話に基づいている。

源氏方の侍大将佐々木盛綱が敵陣のある児島へ渡る浅瀬を浦の男に案内させたあと、男の喉をかききって殺した。敵陣に先駆けする功を自分のものにするためだった。そして戦に勝った後に盛綱は児島を領地に賜る。

さて、能の『藤戸』では冒頭、「波静かなる島廻り、松吹く風も長閑にて、げに春めける朝ぼらけ」に盛綱が領地にお国入りする。と、そこへ老女(浦の男の母親)が登場し、曲が進むと浦の男の亡霊も登場して、という展開になる。

平家物語巻十、元暦元年九月二十五日の夜のこととして出てくる話をもとにしており、『吾妻鏡』には盛綱が藤戸の海路を渡ったのは元禄元年127日とあって、とにかく晩秋か晩冬の出来事である。これについて著者は言う。「明から暗へ、朝から夜へ、とすべてベクトルはマイナス方向を指しているのがこの曲である。されば、冒頭は秋であってはならないことも、これによって領得せられるであろう。このドラマツルギーのためには、季節を反転させることなど、本説に逆らうことにはならない、卓抜なる作者(確証はないが世阿弥であろうか)は、そのように思って季節を三月に設定したに違いないのである。」

というわけで、手元に置いて何度も読み返したくなる本だが、知人から借りたものなので、そろそろお返ししないと……。(2017.6.15読了)


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by nishinayuu | 2017-09-21 14:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


c0077412_12135624.jpgСкрипка Ротшильла(Антон Чехов)

絵=イリーナ・ザトゥロフスカヤ(Ирина Затуловская

物語の舞台はロシアの小さな町。主人公の一人はロシア人のヤーコフ、通称ブロンザ(青銅)。妻のマルファと一部屋きりの小さな家で暮らすヤーコフの本職は棺桶作りだが、ときたまバイオリン弾きとして副収入を得ている。ロシアの歌の演奏に長けていて、オーケストラの席におさまるとたちまち顔が紅潮し、演奏に熱中する。もう一人の主人公はユダヤ人のロスチャイルド。ヤーコフが呼ばれていくユダヤ人オーケストラでフルートを吹いている。もちろん、著名な富豪とはなんの関係もない。このフルート奏者はとても楽しい曲でさえ、なんとも哀れっぽく吹く。

別にこれといったわけもないのに、ヤーコフはだんだんユダヤ人、とりわけロスチャイルドに対して憎しみとさげすみの情を抱くようになり、言いがかりをつけ、悪口を浴びせたかと思うと、殴りかかろうとさえした。それでヤーコフはどうしても人が足りないというとき以外はオーケストラに呼ばれなくなる。

そんなある日、長年連れ添ったマルファが病にかかり、はるか昔の思い出をヤーコフに語りながら逝く。幼くして亡くなった明るい髪の子ども、三人で歌を歌った川の畔の柳の木陰……。けれどもヤーコフはなにも覚えていない。

やがてヤーコフ自身も病にかかって、川の畔にやって来たとき、憎しみや悪意でいっぱいだった自分の人生が大きな損失だったことを悟る。いよいよ最期のとき、ヤーコフは司祭に言う。「このバイオリンをロスチャイルドにあげてください」。

本書は児童書の体裁の絵本になっている。絵の作者は1954年モスクワ生まれ。父は宇宙ロケット設計者で母は画家という家庭で育ち、5歳の頃から絵と詩をかいたという。フレスコ、絵画、陶器、書籍デザイン、詩作、詩集など、広範囲に活躍しており、作品は世界12カ国の美術館に収蔵されているという。(本書見返しより)

「ロスチャイルドはヤーコフから一サージェン離れたところで立ち止まった。」という文があり、2.134㍍という注がついている。さらに調べてみた結果は以下の通り。

サージェンは中世ロシアの単位で、ウクライナ、エストニア、ラトビアなどでも用いられた。古くは長さが一定しなかったが、18世紀以後は1サージェン=3アルシン=2.134㍍に固定され、メートル法施行によって廃止された。

2017.7.8読了)


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by nishinayuu | 2017-09-17 12:14 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_10061260.jpgSommerlügen』 (BernhardSchlink2010

『朗読者』『帰郷者』『逃げてゆく愛』『週末』と読んできて、5冊目のシュリンク。本作は『逃げてゆく愛』に次ぐ短編集で、以下の7つの作品が収められている。




*シーズンオフ――ニューヨークの貧しい街区で暮らすフルート奏者のリチャードと、オーケストラが買えるほどの財力を持つスーザンが、シーズンオフの岬で出会って……

*バーデンバーデンの夜――シナリオライターの彼は、テレーズが行きたがったのでいっしょにバーデンバーデンに行った。恋人のアンに問い詰められた彼は適当に取り繕ったが、それはアンにとっては許しがたい「嘘」だった。

*森の中の家――彼とケイトが知り合って以来、ケイトの作家としてのキャリアはあがる一方で、彼の方は下がる一方だった。娘のリタが生まれてもケイトは作家として生きることを最優先にする。これに対して、家族の生活を守るために彼がとった行動は……。

*真夜中の他人――ニューヨークからフランクフルトに行く便で隣席に座った男。年のほどは50歳くらい。背が高くて細身で、知的な顔をし、黒髪にはかなり白髪が混じっている。身体になじんだ、柔らかく皺の寄ったスーツを身につけ、ヴェルナー・メンツェルと名のったこの男に、ぼくはこのあと翻弄されることになる。

*最後の夏――客員教授として毎年ニューヨークの大学に招かれた25年を懐かしみながら、今彼は妻と湖畔の家に滞在している。二人の息子と家族も呼び寄せたし、友人たちも立ち寄ることになっている。死ぬ前に人々と味わう幸福をうまく準備できた、と彼は思った。

*リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ――信頼関係が築けないまま父を見送ることになるのを避けたいと考えた息子。父と自分が二人とも好きな「海」と「バッハ」を楽しむために、9月にリューゲン島で行われるバッハ・フェスティバルに父を誘う。

*南への旅――子どもたちや孫たちに誕生日を祝ってもらいながらも孤独を感じてしまう彼女は、思い立って学生時代を過ごした町に旅をする。同行した孫娘のエミリアが勝手にアレンジしたアーダルベルトとの再会によって、彼女は気づかされる。彼女はアーダルベルトに捨てられたのではなく、自分が彼を捨てて別の人生を選んだのだということを。

始めのほうに登場する男性たちはそろいもそろって優柔不断で、女性たちは繊細さに欠ける。読み続ける気力が萎えそうになるが、「真夜中の他人」あたりから面白くなり、「最後の夏」は目が離せない展開となる。そして最後の2編はしみじみとした味わいのある作品となっており、さすがシュリンク、と納得して読み終えることができる。(2017.6.9読了)


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by nishinayuu | 2017-09-13 10:07 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu