カテゴリ:読書ノート( 1125 )


c0077412_10392549.jpgRÖRGAST』(Johan Theorin, 2013

秋に始まり夏に終わる「エーランド島シリーズ」の第4作目である本書は、「幽霊船はカルマル海峡の黒い海を覆う暗闇から、ぬっと現れた」という文で始まる。ゴムボートに乗っていた少年(このときはまだ名前は明かされていないが、クロス一族の11歳の少年ヨーナス)は、このそそり立つ船と衝突する前に危うくボートを離れて船の甲板によじ登ったが、そこで死んだ船乗りや、瀕死の船乗りに出くわす。エーランド島のステンヴィークの村で20世紀最後の夏が始まったときのことだった。

そして物語は冒頭の出来事の70年前、1930年の夏に引き継がれる。ここで登場するのはシリーズの主役であるイェルロフ・ダーヴィッドソン。このときは14歳で、学業を終えて家の手伝いをし、合間に島内で様々な仕事をしていた。教会墓地の墓堀人の仕事もその一つだった。6月のある日、エドヴァルド・クロスの墓を掘るために墓地に出向いたイェルロフは、そこで墓堀人のベントソンが連れてきた幽霊のように白い少年にであった。イェルロフより少し年下でアーロンという名だった。葬儀を終えた人々が墓の周りに集まり、墓の底に棺を下ろして土で埋め始めたとき、墓の中からノックの音が聞こえた。居合わせた者たちは息を呑んだ。みんなその音を聞いたのだ。イェルロフも、そしてアーロンも。

このようにタイトルに「夏」とあるのに「凍える」エピソードから始まり、エーランド島を後にした少年が長い間「寒い国」に閉じ込められる話が続く。というわけでやはりこの物語も、寒くて冷たい冬に読むのにふさわしい。ただし、ちょっとほんわかするエピソードもないわけではない。一つは『黄昏に眠る秋』で過酷な運命に泣いたユリアが、新しい家族を得て明るく暮らしていること。もう一つはやはり『黄昏に眠る秋』で事情があって皆の前から姿を消したある人物が、晴れてイェルロフの前に顔を出せたこと、などだ。シリーズ中ただひとつ未読なのは「春」の巻。早く読みたい気もするし、大事に取っておきたい気もする。さて…。(2017.12.19読了)


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by nishinayuu | 2018-02-15 10:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

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FrenchWithout Tears』(Terence Rattigan

本作は3幕ものの戯曲で、1936116日にロンドンのクリテリオン劇場で初演されている。


3週後に外交官試験を控えてフランス語教師の父娘の許でフランス語と格闘中の若者たち。そこに若い女性が現れて、娘の方の教師も交えた恋の駆け引きが展開する。登場人物は以下の通り(登場順)。

*ケネス・レイク=20歳くらい。頭は空っぽだがハンサム。外交官試験のためにフランス語を習っているが、できが悪くて教師から見放される。

*ブライアン・カーティス=234歳。大柄で肥っている。

*アラン・ハワード=23歳くらい.陰気な顔つき。父親が外交官なので、外交官試験を受けることになっているが、実は小説家志望。

*マンゴー=60歳。白い髭を蓄え、恐い顔をしたフランス語教師。教え方も厳しい。

*ビル・ロジャーズ=35歳くらいの海軍中将。浅黒くて背が低く、もったいぶった物腰。

*ダイアナ・レイク=(20歳くらい?)ケネス・レイクの姉。男をボーっとさせたいが、相手の数は多いほど安全、と考えている。

*キット・ネイラン=22歳くらい。金髪の美男子で、ダイアナの言いなり。ジャクリーヌにフランス語を習っている。

*ジャクリーヌ・マンゴー=256歳。マンゴーの娘でフランス語教師。弟子のキットに惚れている。

*ヘイブルック卿=ダイアナが次の目当てとして待ち構えている人物。現れてみたら15歳くらいの少年だった(ネタバレ御免)。

ブライアンが「ダイアナの〈青信号〉をキャッチしてワルツを申し込んだら、手ひどく殴られた」とアランに報告。アランはダイアナの〈青信号〉が本物かどうか確かめるためにダイアナの部屋へ向かう。「殴られなかったら外交官試験を受ける。殴られたら外交官はやめて作家になる」とブライアンに言い置いて。結果は「作家だ!」となる。

なお、初演のときの俳優陣は――ケネス・レイク=トレバー・ハワード/アラン・ハワード=レックス・ハリスン(1908年生まれ。ぴったり!)/ダイアナ=ケイ・ハモンド(どんな人?)/ジャクリーヌ・マンゴー=ジェシカ・タンディ(1909年生まれ。27歳のときですね。)

2017.12.10読了)


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by nishinayuu | 2018-02-05 09:28 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_15483053.jpg本作は1963年に4巻本として発行された短編集の第4巻に収録されている。(今回読んだのは1980年代発行の版。)

舞台はオーストラリア領の木曜島。ニュージーランド島とオーストラリアの間にあるトレス海峡に位置する小島で、キャプテン・クックが木曜日に発見したことから名付けられたという。

語り手はその島が「神の作った最後の土地」だと聞いて、シドニーから日本の貨物船「シカ丸」に乗って出かけて行った。「何もないところだよ。それに、喉をかき切られるかもしれない」とシドニーの連中にからかわれたけれど。夜中に真っ暗な海岸に下ろされ、数マイル歩いてやっと「ホテル」にたどり着いた翌日、語り手はキャプテン・バートレットという船乗りと知り合う。語り手が、フランス語もわかる、と言うとバートレットが、フレンチ・ジョウに会いに行こう、フランス語がしゃべれるのを喜ぶだろうから、語り手を誘う。そうして訪ねていった病院で、93歳のフレンチ・ジョウは語り手に、波瀾万丈の生涯の物語を語り聞かせる。

ひとりの男の「波瀾万丈の生涯」が2ページ弱の紙幅におさめられているところが強く印象に残る短編である。

ところで、夜中にやってきた語り手にホテルのおかみが「I’ll makeup the bed before you can say Jack Robinson」 と言う場面がある。「before you can say Jack Robinson」の意味は前後関係から「すぐに、あっという間に」だとわかるが、Jack Robinsonって何者?と思って調べてみました。が、何者かは判明していない、ということしかわかりませんでした。18世紀頃から使われている慣用句だそうです。

2017.12.6読了)


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by nishinayuu | 2018-01-31 15:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

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Skumtimmen』(Johan Theorin, 2007

タイトルに「秋」が入っている本作は、冬、春、夏と続いていく「エーランド島シリーズ」の第1作目。2017426日にupした『冬の灯台が語るとき』はシリーズの2作目となる。非常に印象的だった第2作と同様、この第1作もエーランド島の厳しい気候と美しい自然、そこに生きる人々の思いが切々と伝わってくる傑作である。主な登場人物は以下の通り。

ユリア・ダーヴィッドソン――看護婦。草原に出たまま戻らない息子を何年も待ち続ける。

イェンス――ユリアの息子。6歳の誕生日を控えたある日、一人で草原に出てそのまま行方不明に。

イェルロフ――ユリアの父で老人ホーム暮らし。シェーグレン症候群を病んでいる。第1作にも登場。

エルンスト・アドルフソン――元石工の彫刻師。イェルロフの友人。

ヨン・ハーグマン――元船長。イェルロフ、エルンストの友人。

レナルト・ヘンリクソン――ユリアに好意を持つ警官。同じく警官だった父親は公務中に死亡。

アストリッド・リンデル――元医師の健康的女性。イェルロフに友好的。

グンナル・ユンイェル――ホテルのオーナー。

マルティン・マルム――アルム貨物の創業者。

ヴェラ・カント――ステンヴィークの資産家で、世捨て人。ニルスを溺愛している。

ニルス・カント――ヴェラの息子。「ステンヴィークの贖罪を背負う者」。

物語は19729月のある午後、6歳の少年が祖父母の庭を抜け出してジュニパーの茂みに向かうところから始まる。一人で庭を抜け出したのは初めてのことで、少年は行く手には冒険が待っているはずだった。しかし、辺りは次第に深い霧に包まれて行き、霧の中から男が現れて、ニルスと名のって少年の手を取る。そして少年は行方不明になり、近所中で探し回って警察も捜索に当たったが、少年はついに家に帰ることはなかった。それから20年以上の月日が流れたある日、祖父イェルロフのもとに少年のスニーカーの片方が送られてくる。それをきっかけに、少年の失踪以来島によりつかなかった母親のユリアがイェロフノもとに戻ってくる。

再会した二人の交流が、二人の視点で語られていく本筋と交互に、もう一つの物語が語られていく。それは1930年代中頃に10代の少年だったニルスの物語だ。軽い意地悪から弟を溺死させ、平原に隠れていた二人のドイツ兵をはずみで殺してしまい、逃亡するために警官を撃ったニルス。そのまま島からいなくなったニルスは、やがて遠い南米から棺に入って母親の許に戻ってくる。しかしニルスの埋葬が済んだあとも、母親のヴェラの許には手紙が届き続け、人々は墓で眠るのはニルスではないのではないか、と噂し合った。ニルスは確かに生きて島に戻ってきていたのだった。それはちょうど少年が行方不明になった時期と重なっていた。そのとき平原でいったい何があったのか。謎は最後の最後まで持ち越され、物語はしみじみとした情感を残して終わる。

ニルスといえば、鵞鳥たちと不思議な旅をしたあのニルス少年を思い出します。ニルス少年も空を飛ぶ前はとんでもない悪い子だったのだから、この物語のニルスもまともな大人になったのでは、と淡い期待を抱きながら読んだのでした(?)。(2017.12.5読了)


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by nishinayuu | 2018-01-26 09:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

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Level of Life』(Julian Barnes, 2013

著者は『終わりの感覚』で2011年にブッカー賞を受賞した作家。OEDの編集に携わっていたこともあるという。




本書はそれぞれ独立した内容を持つ3つの章によって構成されている。

1章「高さの罪」の主人公は、史上初めて上空から地表を撮影したフェリックス・トゥルナション(18201910)通称ナダール。ジャーナリスト、風刺画家、写真家、気球乗り、発明家、起業家でもあったナダールは同時代の人々から「発散する元気の量が仰天レベル」(ボードレール)、「才気煥発の愚か者」(ネルバル)、「頭がよく回る、合理性の欠片もない男」(後に親友となった編集者)などと評されている。また、「写真を芸術の高みに引き上げんとするナダール」(ドーミエによる風刺画)という絵に登場し、彼の乗った気球ルジアン号もマネやルドンの絵に描かれている。さらに、ビクトル・ユゴーが宛名に一語「ナダール」と書いて出すと手紙がちゃんと届いた、というエピソードも残している。第1章にはこのナダールのほかに気球旅行をした女優のサラ・ベルナール、ドーバーからイギリス海峡を越えてフランスに飛んだ英国軍人フレッド・バーナビーも登場する。

2章「地表で」は上記のサラ・ベルナールとバーナビーの出会いと別れを綴った恋愛物語。もちろん実話ではなくフィクションであるが、彼らに関するエピソードや同時代人による評が盛り込まれていて楽しい。例えば「ベルナールは生涯を通じてナダールの――最初は父ナダール、のちに息子ナダールの――被写体であり続けた」とか、「身長はようやく150㎝ほど」、「共演の男優とは必ず寝ていた」、「感嘆するほど目立つことに秀でた人物」(ヘンリー・ジェイムズ)、「嘘っぽく、冷たく、気取り屋。あのパリ風シックには胸が悪くなる」(ツルゲーネフ)などなど。あの『スラブ叙事詩』の画家ミュシャ/ムサが描いたベルナールを思い浮かべながら読むのも一興である。

3章「深さの消失」は、最愛の妻をほとんど突然失ったバーンズが、妻のいない日々をどのように生きたかを綴ったもの。出会ってから30年という歳月をともに歩んできてこれからも歩んでいくはずだった妻の死によって、作家は奈落の底に突き落とされる。悲しみと苦しみにとらわれ、周囲の言葉に傷つき怒り、ついには自分も消えてしまおうと考える。一人残された者のそんな思いが事細かに綴られていて、胸を打つ。第1章は本来組み合わさるはずのない物事の組み合わせによって高みへと導かれる物語、第2章は出会うはずのない者同士が出会って高みに到達するが、いきなり高みから突き落とされる物語だった。そしてこの第3章のテーマは、高みから突き落とされたあとはどうなるか、ということである。まだ光は見えていないが、光を見ようとする意思が感じられる終わり方である。いつかある日、本書に救われる日が来るかもしれない、と思いながら読み終えたのでした。(2017.11.14読了)


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by nishinayuu | 2018-01-16 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_09242068.jpg本書は「地図のない道」と「ザッテレの河岸で」の二部からなる旅の随想記である。「地図のない道」は「新潮」(19965月号~7月号)に掲載されたのち著者が加筆・訂正中だったものを、著者の没後に編集部の責任で整理したものだという。


「ザッテレの河岸で」の初出は『ヴェネツィア案内』(トンボの本 19945月、新潮社)。

「地図のない道」はさらに「その1」「その2」「その3」の3つに分けられている。

「地図のない道-その1-ゲットの広場」――評論家ジャコモ・デベネデッティの著作『一九四三年十月十六日』を手にしたのをきっかけに著者は、ローマのユダヤ人とその歴史に思いをはせる。そしてゲットにあるレストランのざわめきから著者の思いは30年前に出会ったユダヤ人のマッテオへ、彼との出会いをもたらしたミラノのコルシア書店とその店主で著者の夫となったペッピーノへ、夫婦で名付け親となったマッテオの息子たちジャコモとジョヴァンニへと続いていく。最後はヴェネツィアの「ゲットのツアー」に挑戦して3度も冷たく門前払いされ、やっと4度目に参加できたが…という話で締めくくられている。

「地図のない道-その2-橋」――夫の死後に著者が初めてヴェネツィアを訪れたときに知り合ったルチアの話から始まる。「おばさんのところにちょっと寄る」と言ってグリエの橋のたもとで著者を待たせたルチアは、1943年頃の生まれで両親はもういないと言っていた。のちに再度グリエ橋を訪れた著者は、そこがゲットの入り口に近いことを知って、もしかしたらルチアの「おばさん」はユダヤ人の赤ん坊を引き取って育てた人のひとりだったのかもしれない、とふと思う。ヴェネツィアの大運河(カナル・グランデ)に架かるスカルツィ橋、リアルト橋、アカデミアの橋の三つのうち、飛び抜けて華やかなのはリアルト橋だが、著者にとっていちばん親しみが持てるのはアカデミアの橋だという話から、著者の連想は橋の多い大坂へと飛び、やがて「祖母の大坂」を歩くことに繋がっていく。

「地図のない道-その3-島」――1967年に夫と祖母を相次いで亡くした著者は翌年の夏、ベルリン生まれの友人インゲに誘われてヴェネツィアの沖にあるリド島(『ヴェニスに死す』の舞台でもある)のアルベローニに滞在していた。ある日インゲの勧めで、トルチェッロを訪れる。たぐいまれなモザイクがあることで知られる古い教会を見るためだった。そしてヴェネツィアに帰る最終便を待ちながら著者は、結婚した当時のこと、結婚式の司式をしてくれた夫の友人ダヴィデが連れて行ってくれたスロヴェニアの国境に近いアクイレイアの聖堂に思いをはせる。「海をへだてた小高い松林の丘には、アクイレイアの白い大聖堂が夕日をうけて燦めいているはずだった。」

「ザッテレの河岸で」――ヴェネツィアのジュデッカ運河に沿って散策していたときに著者の目にとまったのはリオ・デリ・インクラビリ(Rio degli incurabili) という水路名。Incurabiliは治療の当てのない、手の尽くしようのない病人を意味する語で、かつてそこにそういう名称の施設があったという。この名称をきっかけに、著者の縦横無尽な歴史的、文学的、社会学的考察が繰り広げられる(情報量が多すぎるので内容は省略)。

異国を旅する人の心に映る風景が写し取られている本書は、著者が翻訳した『インド夜想曲』とどこか似ている。流れるように美しい日本語が味わえることは言うまでもない。(2017.11.9読了)


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by nishinayuu | 2018-01-12 09:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


本書は「史実に基づいたフィクション」で、4人の画家にそれぞれ一つの章が与えられた、4部構成の作品である。

c0077412_14272673.jpg*「美しい墓」――アンリ・マティスに関する章。舞台は光あふれるコートダジュール。語り手は21歳のときマグノリアの花とともに84歳のマティスのアトリエに送り込まれたマリア。マティスを支えた「マグノリアのマダム」やパブロ・ピカソなどに関するエピソードとともに、マティスの最晩年の姿が生き生きと浮かび上がる。冒頭にピカソの次のような言葉が掲げられている。「もしもマティスが死んでしまったら、ほかの誰にも話せないことを胸の中にためこんでしまうことになる。なんといっても、私には、マティスしかいないんだ。」

c0077412_14274015.jpg*「エトワール」――エドガー・ドガに関する章。進行役として登場するのはドガの友人だったメアリー・カサット。彼女はパリで成功した最初のアメリカ人画家であり、印象派をアメリカに伝えることによって印象派の世界的成功をもたらした立役者である。ドガが生前に発表した唯一の彫刻作品『十四歳の小さな踊り子』のモデルは「オペラ座」のエトワールを夢見ていた踊り子だったが、ドガの彫刻はアトリエの奥にしまい込まれ、夢破れてバレエを捨てた少女の行方はわからない。

c0077412_14275518.jpg*「タンギー爺さん」――ポール・セザンヌに関する章。語り手はゴッホの『タンギー爺さん』で知られるパリの画材商タンギーの娘である。才能のある画家たちへの援助を惜しまなかったタンギーが最も愛していた画家がセザンヌだったこと、セザンヌが親友だと思っていたゾラがセザンヌをモデルにして絶望の果てに自ら命を絶つ画家を描いたこと、しかもその作品『制作』をセザンヌに送りつけたこと、ゾラの呪詛にもかかわらずセザンヌは「リンゴ一つで、パリをあっと言わせてやる」という予言を実現させたことなど、興味深いエピソードが盛り込まれている。

c0077412_14274943.jpg*「ジヴェルニーの食卓」――クロード・モネに関する章。進行役はクロード・モネの義理の娘であるブランシュ。舞台はブランシュたちオシュデ一家の別荘であるモンジュロンのロッテンブール城から、モネが妻や息子たちと暮らすヴェトゥイユの借家へ、そしてジヴェルニーの館へと移る。それに伴ってオシュデ家とモネの関係も、‘裕福なスポンサー’と‘売り出し中の画家’から、‘倒産して妻子を貧しい画家に託したもとスポンサー’と‘ブランシュやその母アリスらとの同居を心から喜ぶ画家’へ、そしてオシュデ亡き後のアリスとやはり妻を亡くしたモネがついに結ばれてできあがったほんとうの家族へと変遷する。二つの家族が一つになるというおとぎ話のような展開に、様々な作品に関するエピソードが加わって、モネの絵そのままに明るい輝きに満ちた物語となっている。もと首相で美食家のクレマンソーが「睡蓮」の完成に大いに貢献しているというエピソードも楽しい。(2017.11.8読了)


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by nishinayuu | 2018-01-07 14:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

私の10冊(2017年)

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☆この1年に読んだ本の中から特に気に入った本を選んで、「私の10冊」としてまとめてみました。また、「私の10冊」の選から漏れた本を「お勧めの10冊」として挙げてみました。

☆画像は「ふたつの海のあいだで」です。


「私の10冊」

聖ペテロの雪(レオ・ペレック、訳=垂野創一郎、国書刊行会)

イザベルに 曼荼羅(アントニオ・タブッキ、訳=和田忠彦、河出書房新社)

植物たちの私生活(李承雨、訳=金順姫、藤原書店)

The Buried Giant (KazuoIshiguro, Vintage)

冬の灯台が語るとき(ヨハン・テオリン、訳=三角和代、早川書房)

ぼくが逝った日(ミシェル・ロスタン、訳=田久保麻里、白水社)

ふたつの海のあいだで(カルミネ・アバーテ、訳=関口英子、新潮クレストブックス)

あの素晴らしき七年(エトガル・ケレット、訳=秋元孝文、新潮クレストブックス)

ジヴェルニーの食卓(原田マハ、集英社)

黄昏に眠る秋(ヨハン・テオリン、訳=三角和代、早川書房)


「お勧めの10冊」

회색 문헌 (강영숙, 문확과지성사)

書店主フィクリーのものがたり(ガブリエル・ゼヴィン、訳=小尾芙佐、早川書房)

The Sheep (H. H. Munro,Doubleday & Company Inc.)

妻は二度死ぬ(ジョルジュ・シムノン、訳=中井多津夫、晶文社)

A Woman of No Importance(Oscar Wilde)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹、文藝春秋)

ゴリオ爺さん(バルザック、訳=中島英之、青空文庫)

チェーホフ短編集(編=沼野充義、集英社)

地図のない道(須賀敦子、新潮社)

人生の段階(ジュリアン・バーンズ、訳=土屋政雄、新潮クレストブックス)


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by nishinayuu | 2018-01-02 17:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_09212309.jpg本書は20083月~20105月に集英社の文芸誌『すばる』に掲載されたものをまとめたもの。読書会「かんあおい」201711月の課題図書として『ロスチャイルドのヴァイオリン』を選定したnishinaは、近所の図書館からかき集めてきた5冊のうち4冊は会員たちに回し読みしてもらうことにし、沼野充義訳の本書を手許に残した。これが大正解!訳文が滑らかで読みやすいのはもちろんだが、各作品に詳細で興味深い「解説」が付いているので、勉強にもなるし2倍も3倍も楽しめた。

13編の収録作品は、次のように4つのグループに分けられている。

*「女たち」――かわいい/ジーノチカ(憎まれ初め)/いたずら/(ナッちゃん、好きだよ)/中二階のある家(ミシュス、きみはいつまでもどこか手の届かないところにいる)

*子供たち(とわんちゃん一匹)――おきなかぶ(累積する不条理)/ワーニカ(じいちゃんに手紙は届かない)/牡蠣/おでこの白い子犬

*死について――役人の死(アヴァンギャルドの一歩手前)/せつない(ロシアの「トスカ」)/ねむい(残酷な天使)/ロスチャイルドのヴァイオリン(民族的偏見の脱構築)

*愛について――奥さんは子犬を連れて

強く印象に残ったのは「ワーニカ」「せつない」の2作品。どちらも余りにせつなくて泣けてくる。

解説で特に印象に残ったのは次の事項。

*ロシア語では「流れ星」ではなく「落ちる星」という。「中二階」のジェーニャが流れ星を怖がるのは下に落ちてしまうことへの恐怖だと解釈できる。

*チェーホフには呼びかけが多いが、呼びかけはしばしば相手に届かない。ワーニカが出す手紙が絶対に「村のじいちゃん」には届かないように。ミシュスへの呼びかけも、人と人との間に横たわる絶望的に越えがたい深淵を意識した人間の諦めと希望の入り混じった叫びである。

*現代のロシア語辞典には「村のじいちゃんへ」は宛先不明の時におどけていう慣用句として登録されている。

*「トスカ」とは一切何もしたくなくなるような憂鬱、心を締め付けられるような煩悶、すべてを投げ出して消えてしまいたくなるような不安。二葉亭四迷は「ふさぎの虫」と訳しているという。(プッチーニのトスカとは無関係でした!)

*「ロスチャイルドのバイオリン」でチェーホフは、ユダヤ人の特徴とされるものをロシア人に移し、まさにそのことによって民族的偏見の根拠を切り崩すという作業を行っているのである。

*「奥さんは子犬を連れて」についてナボコフは、「ここには引き出すべき道徳も、受けとめるべき主張も存在しない、高貴なものと低俗なものの違いが存在しない、現実的な結末が存在しない」といった特徴を数え上げ、それをすべて肯定的に評価して「かつて書かれた最も偉大な短編小説の一つ」とまで言っているそうだ。ところで訳者はある文学講座の受講者に「この後、アンナとグーロフの関係はどうなるか?続編を構想せよ」という課題を出したことがあるという。(受講生じゃなくてよかった!でも〇〇年前だったら喜んで取り組んだかも。)(2017.10.29読了)


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by nishinayuu | 2017-12-30 09:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)


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本作品は「どうやらあがったようだわ。宇藤聖子は露の晴れ上がった空を見上げてそう呟いた。」という文で始まる。「あがった」のは「雨」だと思わせておいて、数行先で雨ではなく別のものの話だということがわかるのだが、なにやらゆったりした家庭小説の始まりを期待させる書き出しである。

主人公の宇藤聖子は、知り合いの税理士事務所で週三日ほどアルバイトをしているが、主婦業も完璧にこなす50台はじめの女性。夫の守とは大学の同級生で、出産前までは丸の内でばりばり働いていたという設定。それでこの夫婦の会話にはマルグリット・デュラスとかオクタビオ・パス、トーベ・ヤンソン、クロード・シモンなどの名がぽんぽん飛び出す。零細編集プロダクションを営む夫がある晩持ち出した名前は伊藤整だった。ある会社のPR誌を引き受けることになり、創業者の趣味を入れて伊藤整の『女性に関する十二章』のようなものを書くようことになったという。「文筆業が本業でその傍ら編集もやっている」という建前の夫はこの仕事に乗り気になっていて、『女性に関する十二章』をきみも読んでみる?と聖子に聞く。自分は家の本棚から見つけた文庫本を読むから、聖子はタブレットで読めばいいという。すでにキンドルで電子書籍を買ってあるのだ。まさに今の時代のごく一般的な夫婦、ということだろう。(因みにnishinaも新しもの好きの夫のおかげでずいぶん前からキンドルを使っているが、周りにいる同年代の友人知人には同類が見当たらない。)

こうして伊藤整の『女性に関する十二章』と付いたり離れたりしながら『彼女(聖子)に関する十二章』が展開していくことになる。初恋の男性の息子との邂逅に始まり、彼女なりにめまぐるしい男性との関わりが綴られていき、その合間に適度な蘊蓄も挟み込まれていて、中年女性の日常を綴ったエッセイのような趣もある。そして最後はまた冒頭と呼応するように「あがった」話で締めくくられている。この作者の本は『小さいおうち』しか読んでいないので、他の作品も読んでみようかという気分になった。たとえば泉鏡花賞を受賞している『妻が椎茸だったころ』とか、チャンドラーか?と突っ込むのがお約束と思われるタイトルの『長いお別れ』とか。

目にとまった部分を軽重は度外視して書き留めておく。

*阿野弥也子なんか、すっごいこと書いてて、あっちこっちから怒られているけど、それでもブイブイ威張りながら書いている。(あの作家のことですね。)

*守に仕事をくれた会社の会長が、若い男に動物としての種まき本能が欠けているから少子化問題が起こるのだという論理から、PR誌のタイトルを『種を蒔く人』にしたいと言い出した。それを聞いた聖子は初恋の人・久世佑太は「種を蒔く人」になったのだ、と思う。

*伊藤整による『金色夜叉』の要約。

*初恋の相手は一生の間その人の美の原型となる。

*アンドレア・デ・サルトがアンドレア・デ・サルトでなかったとしたら、『吾輩は猫である』の冒頭は、あんなにおかしいだろうか。

*お金を使わずに生きることにかけている片瀬さんと喫茶店に入ると、チェット・ベイカーの『レッツ・ゲット・ロスト』が流れていた。

*「自分のエゴも他人のエゴも肯定する」のがキリスト型の愛で、「他人のために自分のエゴを否定する」のが孔子型の愛だ。

*孔子型の愛は自己犠牲を称揚する日本的な情緒とつながる。そして「いつだって日本で軍事化が進められるときには、日本的情緒が引っ張り出される」と伊藤整は言っている。

*『遠くへ来たもんだ』(海援隊)と『遠く来たもんだ』(中原中也)じゃ大違いよ、と言って聖子はタブレットで中也の詩を読む。「この詩、いいよね」と聖子がしみじみ言い、「いいね」と言って妻を見上げる守に微笑み返す。

2017.10.28読了)


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by nishinayuu | 2017-12-26 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu