『ウィルバーフォース氏のヴィンテージ・ワイン』(ポール・トーディ、訳=小竹由美子、白水社)


c0077412_09095584.jpgThe Irresistible Inheritance of Wilberforce

Paul Torday,2007

「僕はあたふたとタクシーから降りた。ちょっと落ち着こうと身体を後ろに揺らすと、タクシーの側面にもたれて空を仰ぐのがいちばんバランスを保ちやすいとわかった。空はくっきりと黒く、星がいくつかきらめいていたが、昔ほどたくさんは見えなかった。いったん見上げると、今度はどうも下を向けない。」

こんな書き出しで物語は始まる。いったいどうなっているのかと思って読み進めると……

語り手はタクシーで乗り付けた店でシャトー・ペトリュスの1982年物という高級ワインを注文する。身なりやら言動から語り手の支払い能力に不安を覚えた店側から、クレジットカードの写しを取らせていただきたい、と言われる。すると語り手は、クレジットカードは使わないんでね、と言ってポケットから丸めた札束を取り出してトレイに置き、使った分だけ取って店を出るときに残りを返してください、と言う。そのとき語り手は、タクシー料金15ポンドを支払う際に運転手に100ポンド紙幣をやってしまったことに気がつくが、別に慌てることもなく、おもむろにワインを楽しみ始めるのである。

語り手によると、ここ数ヶ月バランス感覚が悪くなり、ひどく汗をかくようになり、ワインを飲んでいないと過去の出来事のつらい記憶がつい浮かんできてしまう(たとえば、この段階ではまだ明かされていないが、語り手は車の事故で妻を失っている)。ワインを飲むと穏やかで冥想的な、時には敬虔な気分にすらなれる語り手は、気づかないうちに鼻歌を歌っていて注意され、店中の注目の的となり、客達の会話の断片に傷ついて立ち上がって妻の姿を探し、そのまま床に倒れ込んでしまう。そう、この物語の語り手はアルコール中毒症なのだ。

物語は2006年から始まり、2004年、2003年、2002年、と過去に遡りながら綴られていく。語り手は愛情の薄い養父母に育てられ、友人もできない孤独な少年だったが、卓越した数学的能力のおかげで、若くしてソフトウエア会社の立ち上げに成功し、彼なりに充実した日々を送っていた。そんな彼がふとしたことからワイン収集家と知り合い、上流階級の青年達との交流に目覚め、美しい女性を婚約者から奪って結婚する。この頃はすでにウィルバーフォースはワインの迷宮にすっかり迷い込んでしまっていた。冒頭のような状態に到るまでの彼の歩みを逆に辿るあいだ、読者にはつねに彼の行き着く先が見えているのがなんともつらい。

語り手をワインの迷宮に誘い込んだ張本人フランシス・ブラックとは何者か。そもそもフランシスはなぜ語り手に興味を抱いたのか。そして語り手の方もなぜフランシスに惹きつけられたのか。これに関する暗示的な言及がさりげなく文中に埋め込まれているが、暗示されているだけで断定はされていないのがニクイ。特にワインに興味はなくても、あるいはワインの味はわからなくても楽しめる、実に味わいのある作品でした。(2018.3.25読了)


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Commented by マリーゴールド at 2018-05-29 18:56 x
何かの依存症、この場合はアルコール中毒ですが、苦しみから一時的にも逃れられるなら、効用はありますね。副作用で体を壊してしまいますが。私も甘い物依存症なので気持ちはわかるような気がします。ちょっとおもしろそう。
by nishinayuu | 2018-05-21 09:15 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

読書と韓国語学習の備忘録です。


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