『嫌なことは後まわし』(パトリック・モディアノ、訳=根岸純、キノブックス)
2018年 04月 16日
『Remise dePeine』(Patrick Modiano、1988)
本作は、ひとりの少年が自分を取り巻く世界の情景や人々を断片的に綴るという形で展開していく。個々の出来事や人物が、そのときどきに周囲から切り離されたように浮かび上がり、やがてふっと消えていく。まるで、街灯の回りだけが明るい霧のかかった街を歩いているかのようで、道も全体の状況もよく見えないのに、光の当たっている一点だけが鮮明なのだ。
物語は次のように始まる。
「それは、芝居の巡業がフランス、スイス、ベルギーはおろか、北アフリカまでかけまわっていた頃のことだ。ぼくは十歳だった。母はある劇団の地方巡業に出かけていたので、弟とぼくはパリ近郊の村にある母の友人たちの家に住んでいた。」
このあと語り手はその二階建ての家について、庭(そこにはギロチンに名を残すギヨタン博士のお墓があった)の様子や、室内の家具調度を細々と描写したあと、家の前のドクトゥール・ドルデーヌ通りについても細々と描写する。この細々とした描写が曲者で、建物の大きさやそれぞれの位置関係、距離や方向などの情報が欠けているので、全体像がつかめない。(略図を書きながら読んだが、3ページほどのこの冒頭部分だけで20分ほどかかってしまいました!)この後も所々にこの地域についての描写があるので、全体像は少しずつ補完されていく(というわけで何度も略図を修正しました)。
同じ事が登場人物の描写についてもいえる。登場人物たちは、はじめはただ「母の友人」であり、そのうちひとりひとりの特徴と語り手や弟への接し方などで区別できるようになる。が、彼らが何者なのかはずっと後になるまで不明のままだ。実は彼らは語り手の父親を含めて、子どもたちには知られてはいけないことをやっていたのであり、彼らにも彼らなりの「物語」があったのだ。彼らのすぐそばで、彼らに可愛がられながら無邪気な日々を送っていた語り手は、それでも振り返ってみればいろいろ「おかしなこと」に気づいてはいたのだ。
言ってみれば、曖昧模糊の美しさに溢れていてまるでフランス映画を見ているような気分になる作品である。(2018.2.15読了)