『城砦』A.J.クローニン、訳=竹内道之助、三笠書房)


c0077412_10104832.jpg物語は次のように始まる。

「一九二四年十月のある午後おそく、みすぼらしい服装をした一人の青年が、スウォンジーからペノウェル渓谷の登りに掛かった列車の、がら空きに近い三等の車室から、緊張した目をじっと窓外にやっていた。マンスンはその一日かかって、はるばる北のスコットランドから、カーライルとシュルーズベリーで乗り換えて旅をつづけてきたのだが、南ウェールズでのうっとうしい旅程も、今ようやく終わろうとしているとき、医者としての門出に、この見慣れぬ醜怪な地方での自分の将来のことを思うと、興奮はいよいよつのるばかりだった。」

トーマスマンの『魔の山』をふと思い起こさせる印象的な書き出しである(物語の内容も主人公の状況も全く異なるが)。終着駅に降り立った主人公を馬車で迎えに来ている人がいる点も二つの作品に共通する。ただし、迎えに来た人物が『魔の山』では従兄弟の健康そうなヨアヒム青年で、『城砦』では黄色い顔の老人トマスだったが。

さて、主人公のマンスンが「みすぼらしい服装をした青年」であること、スコットランド出身であること、医者の資格を得たばかりであること、南ウェールズの「醜怪な地方」で医者として生きていこうとしている意欲的な青年であること、などが冒頭の短い文の中にすべて盛り込まれている。マンスンは苦労して医者の資格を得た後、その技能を貧しい人々のために役立てようと、まず代診の医者として働き始める。富にも名誉名声にも心を動かされない清廉な医師を目指し、その志に共感して心から応援してくれる妻も得たマンスンは、力強く人生を歩み始めたのだったが……。

高い理想と信念を持つまじめな青年が、世間の荒波に揉まれる中で一時道を外れそうになるが、やがて本来の自分を取り戻していく、という実に清々しい作品である。前半に描かれている青年の恋と結婚までの課程は「これぞ青春文学」といえる美しさにあふれており、やがて心の緩みから自分を見失っていく状況は説得力を持って綴られ、最後にまた初心に立ち返って高潔な生き方を取り戻す姿が描かれて感動的に締めくくられる。どうも物事がうまく運びすぎる感はなきにしもあらずだが、主人公には著者自身が投影されているという。

手許にある本は学生時代に買ったもので、表紙がぼろぼろになったため何度も処分を考えたが、愛着があって捨てられないでいた。捨てなくてよかった。この作者の本は著作権の関係とかで現在は出版されていないからだ。(古本なら手に入るが、汚いのに高い! 以前、装丁のとてもきれいな『スペインの庭師』を図書館から借りて読んだが、今はそれさえ見つからない。)(2018.1.23読了)


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Commented by マリーゴールド at 2018-03-31 01:18 x
昔々に読んだことがありそうです。若い医師が開業して若い女工さんたちから評判がよくて成功するような。今読むと印象も違ってくるでしょう。
by nishinayuu | 2018-03-27 10:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

読書と韓国語学習の備忘録です。


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