韓国の詩「序詩」 尹東柱
2016年 09月 14日
画像は同志社大今出川キャンパスにある詩碑(上)と尹東柱の肖像(下)です。
죽는 날까지 하늘을 우러러
한 점 부끄럼이 없기를,
잎새에 이는 바람에도
나는 괴로워했다.
별을 노래하는 마음으로
모든 죽어가는 것을 사랑해야지
그리고 나한테 주어진 길을
걸어가야겠다.
오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.
日本語訳1(詩碑にある伊吹郷の訳)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
日本語訳2(上野潤の訳)
息絶える日まで天(そら)を仰ぎ/一点の恥無きことを、/木の葉にそよぐ風にも/わたしは心痛めた。/星を詠うこころで/全ての死に行くものを愛さねば/そして私に与えられた道を/歩み行かねばならない。/今夜も星が風に擦れている。
上野訳(1941.11.20)と伊吹訳には、1行目の「天」/「空」、2行目の「恥」/「恥辱」、6行目の「すべての死に行くもの」/「生きとし生けるもの」などの相違点がある。上野訳はキリスト者であった作者と多くの韓国人の心情に合致する訳であり、伊吹訳はかなり日本人的な訳であるといえる。このため伊吹訳は朝鮮日報(1995.10.31,チョ・ヒョンギュン記)で糾弾されたりしている。「これに対して荒川洋治は「韓国人とチョ氏の言葉に寄せる悲痛な情熱には敬服するが、それを押し通すと尹東柱はあなたがただけがわかるもの、あなたがただけのものになってしまう」と述べ、伊吹訳をより普遍性を持つ訳としているという。nishinaとしては荒川洋治の言葉に共感を覚えるが、上野訳の持つ意味もしっかり受けとめたいという思いから二つの訳詩をともに紹介しておく。