『雪の練習生』(多和田葉子著、新潮社)
2012年 11月 01日
3代にわたるホッキョクグマの物語。1代目はソ連で生まれ、幼い頃からサーカス団で育ち、サーカスの花形として活躍した雌のホッキョクグマ。舞台に立てなくなってからは事務方として、あちこちの会議に出るのが主な仕事だった。ある日、育ての親のイワンのことを思い出して苦しくなり、ウオッカを譲ってもらおうとアパートの管理人のおばさんのところに行くと、忘れたいことがあるのなら日記でも書きなさい、と言われる。「そうではなくて、思い出せない昔のことを書くことで思い出したい」と言うと、おばさんは「それなら自伝を書けばいいでしょう」という。「蜻蛉日記」のロシア語訳を読んだばかりだというおばさんのこの意外にインテリめいたことばがきっかけとなって、自伝を書きはじめると、それが出版されて翻訳が出るまでになる。しかし彼女は、書くことへの疑問に目覚め、翻訳のからくりにも疑問を持つようになり、さらに当局の圧力もあって、ついにはカナダへ脱出する。そしてこのとき彼女は決意するのだ。自由自在に自分の運命を動かすために自伝を書こう、わたしの人生は予め書いた自伝通りになるだろう、と。こうして彼女は自分がこれからたどる人生を書き始める――結婚して二卵性双生児の男女を生む。男の子は名前を付ける前に死んでしまうが女の子にはトスカという名前を付ける。トスカはバレリーナになってチャイコフスキーの「白熊の湖」を踊り、やがて可愛らしい息子を生む。わたしにとっては初孫だ。その子はクヌートと名付けよう。
以上が第1章の「祖母の退化論」で、第2章の「死の接吻」はトスカの物語、第3章の「北極を思う日」はクヌートの物語となっている。第2章は、猛獣のトスカと「死の接吻」を演じて客を喜ばせるウルズラという女性の生涯をトスカが語った伝記であるが、ところどころでウルズラとトスカは重なり合ったりひとつに溶け合ったりする。
時はソ連時代からベルリンの崩壊を経て現代まで、所はモスクワ、キエフ、リガ、西ベルリン、トロント、東ベルリンなどに及び、各時代の雰囲気や人びとの動きがこの物語にリアリティを与えている。
トルストイの「三匹の熊」、ハイネの「アッタ・トロル」などへの言及があるほか、プーさんやパディントンの名が出てきたり、芸をするロバの名がプラテーロやロシナンテだったりするのも楽しい。(2012.9.8読了)