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『板ばさみ』(オイゲン・チリコフ、訳=森林太郎、青空文庫)_c0077412_17163630.jpg

Der Zensor』(Evgenii Nikolaevich Chirikov)

物語はある冬の朝の場面から始まる。

「プラトン・アレクセエヰツチュ・セレダは床の中でぢっとしてゐる。死んでゐるかと思はれるほどである。鼻は尖って、干からびた顔の皮は紙のやうになって、深く陥った、周囲の輪郭のはっきりしてゐる眼窩は、上下の瞼が合はないので、狭い隙間を露してゐる。その隙間から、これが死だと云うやうに、濁った、どろんとした、硝子めいた眼球が見える。」

数か月前にやってきた新しい地方長官が、進歩派が発行したがっていた新聞の発行を許可し、上級参事官で58歳のプラトンを検閲官に任命した。その新聞ポシエホンスキイ・ヘロルドの初号発行記念会の折、長官はプラトンの顔を見ながら「検閲官というものは新聞の良き友であるべきだ。プラトン・アレクセエヰツチェは必ずや事を解する検閲官となって、世間から圧制家を以て目せられるようなことのないことを望む」と演説した。続く午餐会でプラトンは編集長と書肆の主人(新聞の発行人)との間に座らされてもてなされた。年俸300ルーブルを得て、息子をペテルブルクで修業させられる、とプラトンは喜んだ。ある時編集長が「これは望ましくない原稿なので除きましょう」と言ってきた記事を「不許可」としたのが始まりで、プラトンは編集長の意向に任せて検閲を進めるようになる。ところが2か月ばかりたったある日、外交問題を扱う記事に「革命」という言葉が使われ過ぎている、とプラトンが疑問を呈したことから編集長との関係が冷たくなり始め、ついには毎日衝突するまでになる。ところでプラトンは、上層部から「個人攻撃をなぜ放置する」とおしかりを受けてからは、市の上層部への個人攻撃と思われる怖れのある記事をすべて「不許可」としていた。するとある日編集長が、プラトンが「不許可」とした記事をもって上層部に談判に行くと、上層部からプラトンに「なぜ許可しないのだ」というおしかりが来た。プラトンは混乱し、どっと疲れが出て、それからは内容をよく見もせずにすべて「許可」にした。すると今度は「なぜあんな記事を通過させるのか」という声が降りかかり、プラトンの体の中で何かがちぎれ、チクチクひきつって、ぶるぶる震えた。そして一声「グラツシャア」と妻の名を叫んだ。夫人が部屋に入った時、プラトンは泣いていて、左の手と足が利かなくなり、右の目が見えなくなっていた。

翻訳も文字遣いもかなり古臭いのが難だが、どこにでもありそうな出来事、どこにでもいそうな人間たちが描かれており、出会ってよかったと思える作品である。定年まであと少し、と未来に望みを託していた善良だが狭隘な役人の小さな幸せがガラガラと崩れる悲劇であるが、学士シメオン・グリゴリエヰツチュ(プラトンの診察に来た医者)と「苧殻のように細い脚のニノチュカ(プラトンの6歳の娘)のユーモラスなやり取りなど、ちょっとした息抜きの場面もあって楽しい。

2022.8.1読了)


# by nishinayuu | 2022-09-22 17:18 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『カモメに飛ぶことを教えた猫』(ルイス・セプルベダ、訳=河野万里子、白水Uブックス)_c0077412_15362702.jpg


Historia de una gaviota y del gato que le enseñó a valar 』(Luis Sepúlveda,1996)

翻訳の原本はフランス語版『Histoire de la mouette et du chat qui lui apprit à voler』

本作は動物を主人公にして「異なる者同士は心を通わせることが可能か。現代を生きる人間に驕りはないか。人間の希望は、支えは、どこにあるか」という問題提起に応えた寓話的な作品である。「8歳から88歳までの若者のための小説」とうたわれて世界各国、特にイタリアでベストセラーになり、日本でもプロやアマの劇団で上演されたり、読書感想文の指定図書になったりしているという。〈我々の読書会「かんあおい」2022年7月の課題図書も本書でした。〉

物語の舞台は港町ハンブルク。登場する主要キャラクターは以下の通り。

*ゾルバ(太った真っ黒な雄猫。ミルクを卒業して魚を食べようと外に出たら、ペリカンに飲み込まれそうになった。そのとき助けてくれた男の子と5年にわたって友情が続いている。男の子は今は家族とともに旅行中で、ゾルバは家を独り占め。)/*ケンガー(銀色の翼のカモメ。エルベ川の河口で油まみれになって仲間から取り残され、ゾルバのベランダに倒れこむ。卵を産んでゾルバに三つの約束をさせたあと息を引き取る。その約束とは①卵を食べないこと②卵の面倒を見ること③卵から孵った雛に飛ぶことを教えることだった)/*フォルトゥナータ(ゾルバを「ママ!」と慕う雛)/*「博士」「秘書」「大佐」「向かい風」(ゾルバといっしょにカモメの雛を見守る猫たち)/*チンパンジーのマチアス、チンピラ猫たち、ネズミたち(ゾルバたちを悩ます敵。)/*「港のバザール」の所有者である老水夫ハリー、浚渫船「ハーネス2世号」の船長、美猫ブブリーナの家の詩人(ゾルバたちが頼りにする人間たち)

やがて、銀色に輝く翼をもつ優美なカモメに成長したフォルトゥナータが、カモメとしての運命を全うするために飛ぶべき時が来る。ゾルバたちは研究に研究を重ねてカモメに飛び方を教えようとしたが、どうしてもうまくいかない。そこでゾルバたちは会議を開き、「人間のことばを話してはならない」というタブーを破って、ブブリーナの飼い主の詩人の力を借りることにする。詩人は猫がしゃべるのを聞いて、過労で頭がおかしくなったのかもしれないと茫然自失する。そこでゾルバは、自分が本当に人間のことばでしゃべっていることを詩人にわからせようとする。この時の二人のやり取りが愉快。

詩人がイタリア語で「ボン・ジョルノ」――「もう夕方ですよ。この時刻ならボナ・セーラ」とゾルバ。

詩人がギリシア語で「カリメーラ」――「カリスペーラ。もう夕方ですってば」とゾルバ。

詩人がクロアチア語で叫ぶ「ドバル・ダーン」――「ドバル・ヴェチェル。そろそろ信じていただけましたか?」とゾルバ。

こうしてハンブルクの街に霧雨が降る夜中の12時、聖ミヒャエリス教会の鐘楼の手すりに立ったフォルトゥナの背にゾルバが前脚をそっと触れると――

2022.7.10読了)


# by nishinayuu | 2022-09-17 15:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

Last Stories』(William Trevor、2018)

本書にはアイルランドの国民的作家であるトレヴァー(1928~2016)が最後の約10年間に書きためた短編小説10篇がおさめられている。訳者によると「細やかな心理描写、皆まで言わずに寸止めする省筆の冴え、人生に潜む多義的なうまみをそっと手の平に載せて差し出すかのような場面など、レヴァーが持つストーリーテリングの妙味と人間観察の精細さはここに至って頂点に達したのではと思われる」短編集である。各作品の興味深く読んだ場面、言及されている事物などを記録しておく。

❦ピアノ教師の生徒(The Piano Teachers Pupil)「少年の指が鍵盤に触れ、最初の音が鳴った瞬間、この子は天『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13235194.jpg才だ、とミス・ナイチンゲールは悟った。(…)残響と記憶が豊かなこの部屋は今日の午後に変容を遂げたはずだったが、何一つ変わっていなかった。ただ、小さな煙草入れがなくなって(…)翌週には磁器の白鳥が消え、それから『大いなる遺産』の一場面が描かれた陶器の蓋が消えた。」

❦足の不自由な男(The Crippled Man)青いバンに乗って農場にやってきた流れ者の兄弟が、足の不自『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13234645.jpg由な男と口頭で外壁塗装作業を契約する。兄弟は男の姿がいつの間にか消えて、年金のことで口論が絶えなかった妻と思しき女だけが残ったのに気が付いたが、黙って作業を続け、作業が終わると女から代金を受け取って、さらに旅を続けるのだった。

❦カフェ・ダライアで(At the Caffè Daria)その昔、妻を詩人に横取りされたアンドレ『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13234317.jpgア・カヴァッリがロンドンの街角に開店したカフェ・ダライア。常連客のアニタが、カフェティエールに残ったコーヒーを注いだときクレアが現れて、アニタのかつての夫でクレアと暮らしていたジャーヴァスが死んだと告げる。

❦ミスター・レーヴンズウッドを丸め込もうとする話(Taking Mr Ravenswood)ロザンヌは子ど『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13230954.jpgもを「世話人」に預けて銀行で働いている。母親に言わせれば厄介者でしかない夫・キースの発案で、ロザンヌは自分に気がありそうな裕福な男から金銭をだまし取ろうと、男の住むラドクリフ・スクエアへ行った。

❦ミセス・クラスソープ(Mrs Crasthorpe)金目当てで結婚したかなり年上の夫に『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13233670.jpg死なれたミセス・クラスソープは未亡人暮らしを楽しもうと思った。お気に入りのパスモアズに立ち寄って見知った顔を探すが、いつものように誰もいなかった。干しブドウのスコーンがテーブルに届き、パスモアズの流儀にのっとってお茶がカップに注がれると彼女はにっこり微笑んで落胆を追い払う。一方エサリッジは、妻に先立たれたあと、追憶に苦しまないために会社も辞めてフラットも引き払った。そんな二人は時たま行き合ったが、決して親しくはならないまま時は流れる。

❦身元不明の娘(The Unknown Girl)セント・ウィスタン・ストリートで交通事故が起こり、エミリー・ヴァンス『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13233032.jpgが亡くなった。バンにはねられたのだが、目撃者の話では、歩行者信号は赤で、その信号が変わるのを待たずに娘が飛び出したのはほとんど意図的に言見えたという。エミリー・ヴァンスを清掃人として雇っていたことがあるハリエットは、息子の部屋にあるボナールの絵やアンナ・アフマトーヴァの絵ハガキなどを見て喜んでいるエミリーの姿を思い描いたりするが、彼女の背景は謎のまま。

❦世間話(Making Conversation)石段を下りようとしたときにバランスを崩して歩道に転げ落ちたオ『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13230366.jpgリヴィアを、通りかかった男が手を貸して立たせ、少し休んだほうがいい、と言ってパブでブランデーをおごってくれた。オリヴィアがそのときは「守護天使さん」と思ったこの冴えない中年男のヴィクニムは、やがてオリヴィアのストーカーとなってオリヴィアを悩ませることとなった。そしてついにはヴィクニムの妻まで押しかけてくる。ヴィクニムの妻は「いるかなと思ったんです」と言って、オリヴィアが花瓶に入れて飾っている深紅のアマリリスをじろじろ見た。

❦ジョットの天使たち(Giottos Angels)2001年のある晴れた朝、鑿で彫り上げたような目鼻立ちに赤褐色の髪を『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13224822.jpg持つ男が「聖アルド教会」を探してダブリンをさまよっていた。ダブリンには聖アルド教会があるはずはないのに。病院で記憶障害者と診断された男は絵画修復士のコンスタンタインで、ジョットの宗教画の模写を修復していた。

❦冬の牧歌(An Idyll in Winter)荒野に佇むオールド・グレンジ(農園古屋敷)の娘メアリー・ベ『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13232466.jpgラ(12歳)と、家庭教師としてやってきたアンソニー(22歳)。ふたりは「ヒースクリフっぽい眺め」の荒野を散歩し、遠乗りし、本を朗読しあったりした。やがて夏は終わり、アンソニーは忘れられないものを置き去りにして去っていった。アンソニーは地図製作者となり、結婚して温かい家庭を築いた。そしてたまたま仕事で近くに来た時、オールド・グレンジに立ち寄った。24歳のメアリー・ベラがぱっと活気づいた表情で彼を迎え、彼が覚えていたまなざしで彼を見つめた。こうして善意の人であるアンソニーの訪れが、暗い意図をもったヒースクリフの訪れのようにその時まで保たれていた秩序を崩していく。

❦女たち(The Women)結婚後2年も経たないうちに妻が他の男に走ったせいで心に傷を負ったまま立ち直れない『ラスト・ストーリーズ』(ウィリアム・トレヴァー、訳=栩木伸明、国書刊行会)_c0077412_13223014.jpgミスター・ノーマントン。残された娘のセシリアを大事に育てたが、人から勧められて娘を寄宿学校へ入れる。セシリアが学校生活になじんできたころ、他校とのホッケー対抗試合があった。この時、観戦者たちの中に二人組の女たちがいた。観戦後、帰りの列車に乗った二人は落ち着きを取り戻す間の数分間、窓外の風景を眺めた。遠くの石灰岩の丘の上に、先史時代に描かれた動物の形が見えていた。のっぽで醜い顔立ちのミス・コーテルと太っちょのミス・キーブルというこの二人の物語とセシリアの物語が並行して語られていき、やがて衝撃的に交差する。

それぞれ味わいの異なる魅力的な作品ばかりで読みでのある短編集である。特に味わい深いのは『冬の牧歌』と『女たち』。手許において読み返したい本である〈が、残念ながら借りたものなので返さないと〉。

2022.7.30読了)


# by nishinayuu | 2022-09-12 13:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

韓国ドラマノート-その20(2022.9.7作成)_c0077412_11502731.jpg


20223月から20228月末までに見たドラマを上から新しい順に並べました。

1行目:日本語タイトル、韓国語タイトル、放送局

2行目:キャスト 3行目以降:一言メモ

画像は「私たちのブルース」

ブラック・ドッグ 新米教師コ・ハヌル(블랙  )tvN

ソ・ヒョンジョン、ラ・ミラン、ハ・ジュン、イ・チャンフン、チョ・ソンジュ

かつてバス事故の際に命を懸けて救ってくれた教師への敬慕から教師になった

女性の奮闘記。韓国の高校事情、教師の人間関係など、様々な問題が描かれて

いて見る価値あり。

私たちのブルース ハンスとウニ(우리들의루스tvN

イ・ジョンウン、チャ・スンウォン、シン・ミナ、イ・ビョンホン、

ハン・ジミン、キム・ウビン、オム・ジョンファ、コ・ドシム

済州島の荒海を背景にオムニバス形式で描かれた老若男女15人の感動的物語。

適齢期惑惑ロマンス (아빠가 이상해KBS

キム・ヨンチョル、キム・ヘスク、リュ・スヨン、イ・ユリ、イ・ジュン

一見普通の家族の驚くべき過去と秘密が暴かれていく。ありえない展開だが、

キャストの熱演によってぐいぐい引き込まれ、最後まで楽しめる。

それでも僕らは走り続ける(런온JTBC

イム・シワン、シン・セギョン、チェ・スヨン、カン・テオ、イ・ジョンハ

恵まれた環境で育った陸上界の有望選手と、恵まれない環境で育って翻訳家

となった女性のヒューマン・ラブストーリー。シン・セギョンはちょっと

癖のあるこういう役がよく似合う。

Sky Castle 上流階級の妻たち(스카이 캐슬JTBC

  ヨム・ジョンア、イ・テラン、ユン・セア、キム・ソヒョン、キム・ジョンナン

ソウル近郊の高級マンションを舞台に、韓国の受験事情と過剰な教育熱が描か

れた背筋が寒くなるような作品。久しぶりにイ・テランに会えたので、まあ

よしとしよう。

39歳(서른 아홉JTBC

ソン・イェジン、チョン・ミド、キム・ジヒョン、ヨン・ウンジ、イ・ムセン、

親友3人組の一人が死の病に冒されたら、3人の友情と人生はどうなるのか。

チョン・ミドが本当に消えてしまったような感覚になる、しみじみとした味

わいのある作品。


# by nishinayuu | 2022-09-07 11:53 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(2)

『樺太脱獄記』(ウラジミール・ガラクティオノヴィチ・コロレンコ、訳=森林太郎、青空文庫)_c0077412_11123503.jpg




Die Flüchtlinge von Sachalin(ドイツ語訳の題)』(Vladimir G. Korolenko)

シベリアのヤクーツク地方の山地で天幕暮らしをしている男のところに、ある冬の夜、一人の旅人がやってくる。30歳くらいの若い流浪人で、そっけない表情ながら一種の憂愁を帯びているところが、男のその夜の心持と調和して、一夜の宿を貸すことにした。そうしてロシアを故郷に持つ流浪人のワシリ・イワノウィッチェから「樺太の牢を脱けた時の話」を聞くことになったのだった。その話とは――

1870年の夏の夜、樺太へ囚人を送る汽船ニシュニ・ノフゴロド号が日本海を航行中、囚人三人が処刑された。犯人はわからないまま、組長と助手のワシリが取り調べを受けた。このままでは今度はワシリの命が危ない。ワシリは船が目的地のヅエエに着いたら、脱獄しようと計画し、二度の脱獄経験のあるブラン老人を案内役に、友人のヨロジカ、マカロフなどの協力者を加えて総勢12人で脱獄することにした。樺太の西岸にあるヅエエに着いた。ヅエエはアジア大陸まで300エルスとの位置にあって、北の方に行けば海の幅が狭いのでボートで大陸に渡れるのだ。土人のオルクン(酋長の意らしい)が舟を2隻、8人乗りと4人乗りを用意してくれたので、夜中に月が出たら漕ぎ出すことにして休んだ。ところがその夜、6人の兵卒に襲われ、ワシリたちは警戒線の隊長サルタノフの首を切って逃げた。シベリアへ渡るとワシリたちがサルタノフの首を切ったことが知れ渡っていたが、商人のタルハノフ、元監獄長のサマロフに助けられて切り抜けることができた。そこまでは樺太脱出前に死んだブランを除く11人がずっと一緒に行動していたが、サマロフの助言を入れていくつかの組に分かれた。ワシリはダル人と二人組になり、他の連中にはその後誰にも会っていない。

話し終えたワシリは眠ったが、聞き手の男はいろいろなこと思うので眠ることができない。「この時己は、ワシリといふ人間が、所謂親の言ふことを聞かなくなった後に、どんなことをして牢屋に入れられ、苦役をしたのだろうかといふやうな問題を、まるで忘れていた。己の目に映じたワシリは只青年の血気、余ある力量に駆られて自由を求めようとして走った人間である。併しどこへ向いて走ったのだらう。ああ、どこへ向いて走ったのだらう。」

翌日、11頃に男が目覚めるとワシリはもういなかった。男は用があって橇に馬を付けて村へ向かった。その日の気候は割合に暖かだった。といっても零下20度くらいだったが。土地の住人の半数は流罪でやってきた韃靼人で、この日は彼らの祭りの日だった。町の向こう端に一群の騎者が現れ、旋風のように駆けてきた。韃靼人やヤクーツク人の間で流行っている競馬だった。先頭を駆けるのは鼠色の馬にロシア風に乗ったワシリだった。優勝したワシリは男のところにやってきて、韃靼人のアハメットと鉱山のある土地に行って焼酎を売って稼ぐ、と言う。違法で危険な仕事だが「どうせ流浪人だから、流浪人で果てますよ」とワシリは挑むような口調で言った。一年ほど経ってから男はまた村でアハメットに逢ったが、ワシリは二度と戻らなかった。

ワシリはその言葉通り、シベリアのどこかで流浪人として果てたのだろう。物悲しい余韻の残る物語である。森林太郎(森鴎外)の訳は滑らかで読みやすい。初出は1912年1月1日の「文藝クラブ8の1」。

2022.7.16読了)


# by nishinayuu | 2022-09-02 11:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu