タグ:音楽 ( 63 ) タグの人気記事

『ロスチャイルドのバイオリン』(アントン・チェーホフ、訳=児島宏子、未知谷)


c0077412_12135624.jpgСкрипка Ротшильла(Антон Чехов)

絵=イリーナ・ザトゥロフスカヤ(Ирина Затуловская

物語の舞台はロシアの小さな町。主人公の一人はロシア人のヤーコフ、通称ブロンザ(青銅)。妻のマルファと一部屋きりの小さな家で暮らすヤーコフの本職は棺桶作りだが、ときたまバイオリン弾きとして副収入を得ている。ロシアの歌の演奏に長けていて、オーケストラの席におさまるとたちまち顔が紅潮し、演奏に熱中する。もう一人の主人公はユダヤ人のロスチャイルド。ヤーコフが呼ばれていくユダヤ人オーケストラでフルートを吹いている。もちろん、著名な富豪とはなんの関係もない。このフルート奏者はとても楽しい曲でさえ、なんとも哀れっぽく吹く。

別にこれといったわけもないのに、ヤーコフはだんだんユダヤ人、とりわけロスチャイルドに対して憎しみとさげすみの情を抱くようになり、言いがかりをつけ、悪口を浴びせたかと思うと、殴りかかろうとさえした。それでヤーコフはどうしても人が足りないというとき以外はオーケストラに呼ばれなくなる。

そんなある日、長年連れ添ったマルファが病にかかり、はるか昔の思い出をヤーコフに語りながら逝く。幼くして亡くなった明るい髪の子ども、三人で歌を歌った川の畔の柳の木陰……。けれどもヤーコフはなにも覚えていない。

やがてヤーコフ自身も病にかかって、川の畔にやって来たとき、憎しみや悪意でいっぱいだった自分の人生が大きな損失だったことを悟る。いよいよ最期のとき、ヤーコフは司祭に言う。「このバイオリンをロスチャイルドにあげてください」。

本書は児童書の体裁の絵本になっている。絵の作者は1954年モスクワ生まれ。父は宇宙ロケット設計者で母は画家という家庭で育ち、5歳の頃から絵と詩をかいたという。フレスコ、絵画、陶器、書籍デザイン、詩作、詩集など、広範囲に活躍しており、作品は世界12カ国の美術館に収蔵されているという。(本書見返しより)

「ロスチャイルドはヤーコフから一サージェン離れたところで立ち止まった。」という文があり、2.134㍍という注がついている。さらに調べてみた結果は以下の通り。

サージェンは中世ロシアの単位で、ウクライナ、エストニア、ラトビアなどでも用いられた。古くは長さが一定しなかったが、18世紀以後は1サージェン=3アルシン=2.134㍍に固定され、メートル法施行によって廃止された。

2017.7.8読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-09-17 12:14 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ぼくが逝った日』(ミシェル・ロスタン、訳=田久保麻里、白水社)


Le Fils』(Michel Rostain,2011

c0077412_09422449.png本書はそのユニークなタイトルに惹かれて手に取ってみた。そして読み始めたとたんに、「昼日中から毎日必ず泣けてきて、それが五分でやんだり、十分ずつ三回くりかえしたり、一時間ぶっ通しだったりする親父」にでくわした。これだけでこの作品は父親を残して「逝って」しまった息子が語る物語だとわかる。原題は『息子』であるが、本書のタイトルの方がずっといい。

語り手は20031025日(土)に急死する。21歳だった。そのとき親父と母さんが受けた衝撃、その時から始まった疑いや後悔、怒りや悲しみが綯い交ぜになった混乱の日々を、語り手は事細かに語っていく。息子が自ら死を選んだのではないか、という疑いにさいなまれたこと。息子の最期が近づいていることに思い至らず余計なことに気を取られていたこと。死んだと思ったらたちまち葬儀の準備が機械的に始まり、遺体の処理、葬儀の予算、葬儀場の選定、葬儀の段取りや演出、柩の材質、死者の衣裳、遺体の搬送、火葬か土葬かの決定、などなど速やかに決断すべきことが山のようにあったこと。二人の考えが異なってもどちらかが譲って、とにかく二人は混乱を切り抜けていったこと。そうして迎えた葬儀の席で、息子と共に過ごした月曜から土曜までの日々を人々に語りながら親父が、「リオン、おまえが先週私たちにしてくれたことは、すべて贈りものだ」と叫んだこと。この間、親父はほぼずっと泣き続けている。

そして「ぼく」はその後の両親の姿も語る。「両親は夢のことを訪れと呼ぶ。ぼくの訪れを待ちわびる二人にとって、ぼくは出来事であり、よろこびなのだ。二人ともまるで分別がない。あれこれ者に触れることで探しているのは、結局は死んだぼくなのだ。(中略)家の中は、どこもかしこもぼくの写真だらけ。そんなことをしたって、涙を止める役には立たないのに。三段論法――親父はぼくを思うたびに泣く。ぼくを思うときしか幸福を感じない。故に泣くたびに、親父は幸福になる。」

物語の親父はオペラの演出家で母さんはオペラ歌手になっている。作者のミシェル・ロスタン(1942年生まれ)はオペラ演出家で、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラを演出し、作中に親父が2001年に吉田進に作曲を依頼したという言及のある能オペラ『隅田川』も手がけている。すなわちこの作品の親父には作者の姿が色濃く投影されているものと思われる。おそらく作者も最愛の息子か娘を亡くしているのだろう。作中の親父は舞台の成功を祝ってくれた友人に「幸福な気持ちには二度となれなれません」と返事したことを悔やむことになる。その友人が1年後に娘を亡くしてしまうからだ。このエピソードも単なるフィクションではなさそうだ。

それはともかく、訪ねてきたぼくの女友達からぼくが生前、アイスランドに散灰して欲しいと言っていた、と聞いた両親は、エィヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajokull)という山にぼくの灰を撒く。ライオン(リオン)の形をしているように見える火口湖を「リオンの湖」と名付けて友人知人に語る頃には、苦しみの涙が幸せの涙へと変わっているのだった。

この作品は死者の持つ自由な視点を用いることによって、人はどのようにして愛する人の死を乗り越えるかを描ききっていると同時に、死者である語り手その人を輝かしい光の中に蘇らせることに成功している。(2017.3.27読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-06-17 09:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『聖ペテロの雪』(レオ・ペルッツ、訳=垂野創一郎、国書刊行会)

c0077412_1028263.jpg『ST. PETRI-SCHNEE』(Leo Perutz, 1933)
物語の語り手の名はアムベルク。1932年1月25日にヴェストファーレンの小さな村モルヴェーデに村医として赴任した。語り手を出迎えた元ロシア侯爵で今は領地管理人のアルカジイ・プラクサティンは、語り手をまず林務官の家に案内する。そこには語り手を村医として採用したフォン・マルヒン男爵の娘エルジーが預けられていて、少し前から病に伏せっていた。語り手が病室に入る直前まで、病室からはタルティーニの「悪魔のトリル」が聞こえていた。演奏していたのは男爵がシュタウフェン家再興の夢を託して手元に置いている少年フェデリコだった。そのフェデリコに語り手は、エルジーは猩紅熱なのでしばらく会いに来てはいけない、と申し渡す。
それから語り手は部屋をあてがわれた仕立屋で家主の夫婦、学校教師と顔を合わせたあと、男爵に会いに行く。語り手の父と交流があったという男爵は、語り手の父を高く評価していて、亡くなったことを残念がったが、男爵の目下の関心事は細菌学だった。男爵は研究の助手を務める若い女性科学者を昨日ベルリンへ遣ったという。彼女が男爵の所有するキャデラックに乗っていったと聞くや語り手は、それはビビッシェかも知れないという思いに襲われて、気を失いかける。語り手はベルリンからモルヴェーデに来る途上、乗り継ぎ駅オスナブリュックの駅前広場でキャデラックに乗ったビビッシェを見かけたのだった。バクテリア研究所の同僚でみんなの憧れの的だったビビッシェ、1年のあいだベルリン中を探し回ったビビッシェを。
1週間後、ベルリンから戻ってきた女性科学者はやはりビビッシェだった。バクテリア研究所時代、語り手はまる半年のあいだ朝から午後遅くまで彼女と同じ部屋で仕事をしていながら、朝晩の挨拶を除けば十語と言葉をかわさなかった。そんな彼女がなぜか急激に語り手に心を許すようになり、二人は恋人として一夜を過ごす。その間に男爵とビビッシェの研究は着々と進み、男爵は自分の洗礼名の日を祝って村中の人々を館に招待し、研究の成果を村人たちで実験しようとする。ところが男爵のもくろみは思わぬ方向に逸れていく。
オスナブリュックの病院で昏睡から覚めた語り手は、すでに5週間、意識を失っていたと告げられる。語り手の記憶では事件に巻き込まれて大怪我をした日から5日しか経っていないはずなのに。看護人に日にちを聞くと3月2日だというから、確かに事件から5日しか経っていない。しかし医者によると語り手は5週間前にオスナブリュックの駅前広場で車にひかれて担ぎ込まれたのだという。それでは、モルヴェーデで過ごした5週間の出来事もビビッシェとの出会いも、すべて語り手の妄想だったのだろうか。あるいは何かの大きな力がモルヴェーデの出来事をなかったことにしようとしているのだろうか。

「多人数によるもみ消し」の物語なのか、語り手の妄想の物語なのか、読み終わってもはっきりしないが、それこそがこの作品の魅力であり、読みどころだと言えよう。なお、作品に盛り込まれている歴史的事項や「聖ペテロの雪」の意味などは巻末の「解説」に詳しい。(2017.1.5読了)
[PR]
by nishinayuu | 2017-03-05 10:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『さいごの恋』(クリスチャン・ガイイ、訳=野崎歓、集英社)

c0077412_1071579.jpg

『Dernier Amour』(Christian Gailly,2004)
『ある夜、クラブで』の作家による、これまた音楽家の物語。ただし今度はクラシック音楽、それも前衛音楽の作曲家の話である。


主人公はフランスの作曲家ポール・セドラ(もちろん架空の人物です。念のため)。1987年の夏、チューリッヒの夏のフェスティヴァルに集う大観衆を前に若い男女で構成されるアレクサンデル・カルテットの演奏が始まる。最初の曲・ハイドンの弦楽四重奏曲第6番が終わると会場は熱狂的な拍手に包まれる。ところが2番目に演奏されたポールの弦楽四重奏曲第3番はこの日の若い聴衆を憤慨させ、演奏は中止に追い込まれてしまう。あまりにのろすぎ、長すぎ、暗く沈んでうらぶれていたからだった。聴衆の罵倒の声を聞きながら、客席の8列目にいたポールは会場を抜け出す。
ところで、チューリッヒの若い聴衆から拒絶されたポールの弦楽四重奏曲は、このときのポールの状況にぴったりの曲だった。病に冒されて余命幾ばくも無いことを悟ったポールは、妻の了解を得たうえで、たった一人で人生に幕を下ろそうとしていたのだ。このポールの最後を看取ることになったのが、なんと「あの夜、海辺のジャズクラブで」運命的に出会ったシモンとその相手のデビーだった。というわけで読者はこの作品で、シモンとデビーの夫婦として年輪を重ねた姿に再会することになる。

本作にはハイドンとベートーヴェンの弦楽四重奏曲が登場する。そのうち「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番、作品番号131」は、1826年に作曲された、作曲家最晩年の傑作のことらしいとわかった。しかしハイドンの「弦楽四重奏曲第6番、作品番号20」というのがよくわからない。ハイドンの弦楽四重奏曲は曲の番号や作品番号が入り乱れているうえ、別人の曲も紛れこんでいるということで、特定するのが難しい。「イ長調で、四つの楽章から構成され、最後の楽章はフーガ」とあるのと、各楽章の速度記号から類推して、たぶん次の曲だろうと思う。
弦楽四重奏曲第36番(or第24番)イ長調、作品20-6(1772年作曲)
CDも持っていないし、webで探しても曲を提供しているサイトが見つからないので、どんな曲なのかわからないのが残念。(2016.10.30読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-12-19 10:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ある夜、クラブで』(クリスチャン・ガイイ、訳=野崎歓、集英社)

c0077412_9542255.jpg


『Un Soir au Club』(Christian Gailly,2001)



物語は次のように始まる。
ピアノはシモン・ナルディスにとって、画家アングルのヴァイオリンのような道楽ではなかった。アングルのヴァイオリンよりはるかに大事なものだった。彼にとってピアノは、アングルにとっての絵画だったのだ。その彼がピアノを弾くのをやめてしまった。アングルだって絵を描くのをやめたかもしれない。もしアングルがそうしたならば、残念なことだっただろう。シモン・ナルディスの場合、それは実際残念なことだった。

なんと滑らかで軽妙な書き出しだろう。物語がどう展開していくのか、大いに期待がかき立てられる。主人公のシモンはかつてジャズピアニストだったが、事情があってピアノから離れ、世間から忘れられ、姿を消し、抹消された。そのあとは業務用の暖房システムを機能させ、コントロールする、という仕事で暮らしてきた。その彼が三連休の前日、海岸沿いの工業地帯に出かけることになった。工場の技師の手には負えない故障を解決するためだった。
修理に手間取り、シモンは予定していた帰りの列車には乗れなくなる。帰りが遅れることを妻のシュザンヌに知らせなくてはならない。連休にはシュザンヌと出かける約束があったからだ。彼女の勤務先に電話し、彼女が席を外していたので伝言を残す。やっと修理を終えたところで、工場の技師がお礼にといってシモンをナイトクラブに誘う。列車の時間を気にかけながらも、シモンは技師の気持ちを汲んで誘いを受けいれる。
海に近いその土地は工業地帯であると同時にヴァカンス向きの場所でもあった。ナイトクラブでは若いアメリカ人のグループがジャズを演奏していた。その演奏に刺激され、シモンは二度と触れるつもりはなかったピアノの鍵盤に手を伸ばし、やがて夢中で演奏してしまう。そこへ一人の女性が現れ、彼のピアノに合わせて歌い出す。こうしてシモンは夜の列車にも乗り損ない、翌日の列車にも乗り損なうことになる。

語り手はシモンの親友の画家。彼は、不安にかき立てられて夫を迎えに行こうとするシュザンヌに「もしそうやって待っているのがどうしてもいやだというなら、迎えに行けよ。様子を見に行ってくればいい、少なくともあいつの顔は見られるだろうから」と言ったことを後悔することになる。(2016.10.23読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-12-15 09:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ホフマン物語』(E.T.A.ホフマン、訳=松居友、立風書房)


c0077412_10295099.jpg『Tales of Hoffmann』(Hoffmann, 1815)
原書はロンドンのGeorge G. Harrap & Co.Ltdから「Books Beautiful」の一冊として1932年に発行されたもの。マリオ・ラボチェッタ(Mario Laboccetta)による幻想的なイラストレーションが展開する美本だという。

本書もイラストレーションがメインで物語は添え物といった感じの「絵本」である。前半は「まえがきにかえて」と題され、1ページもしくは見開きの2ページをイラストレーションが占め、それらの隙間に物語が添えられている。ここに展開する物語には『世襲権』(1817)、『砂男』(コッペリアの原作、1817)、『荒びれた家』(1817)、『運命の糸』などのタイトルが付けられているが、ホフマン作品をそのまま翻訳したものではなく、全体で一つの、ホフマンの文学と生涯を紹介する物語になっている。
後半は『ジルベスターの夜の出来事』というまとまった一つの物で、主人公は鏡に映る自分の姿を悪魔に売ってしまうエラスムスという男。これは作者が友人であるシャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(自分の影を悪魔に売った男の話)に刺激を受けて書いたものだという。

『ホフマン物語』は子供の頃に映画(1952年制作)を見たことがある。オッフェンバック作曲のオペラをほぼ忠実に映画化した作品だそうで、美しい音楽と妖しい雰囲気の映像の断片が記憶に残っている。『赤い靴』と同じくモイラ・シェアラーが出演しているが、その辺のことは全く覚えていないので、いつか機会があったらまた見てみたい。(2016.10.21読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-12-11 10:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『妙なるテンポ』(ヴァレリ-・アファナシェフ、編・訳=田村恵子、未知谷)


c0077412_9454247.jpg『Zeitmaϐe and other stories』(Valery Afanassiev)
著者はロシア出身のピアニスト、詩人、作家。訳者によるとその演奏は「美しい演奏だが、単にそれだけではなさそうだ……聴衆の心の中では様々な想像が繰り広げられることになる」という。
本書に収められた短編も、表現は平易なのに「どういうこと?」と一瞬とまどってしまう話が多い。言及されている人物や事物になじみがない場合はなおのこと訳がわからなくなり、読者の教養の度合いを試すための短編集のようにも思えてくる。手強い。けれども途中で放棄したくない。なぜなら、一つ一つの場面が絵画的で、言葉の流れにも不思議な魅力があるからだ。

21編のうち、印象に残った作品(もしくは共感できた作品)は以下の通り。
*巣の中の郭公――とぼけた挿絵(ナメ川コーイチ)もいい。
*マグリットに捧げるオマージュ――『真実の探求』の魚は窓から逃げ出すのか。
*玄人の基準――カフカやベケットが出てきて手強いが、挿絵(上記と同じ)に救われる。
*年配のご婦人方が世界を救う!――祖母のかつての恋物語は世界に往年の輝きを蘇らせる。
*天空の音楽――この世では敵が多かった作曲家が、あの世から地球に注ぐ美しい交響曲。
*ベルサイユの公園にて――互いに相手をだまそうとしている二人の男。微笑んだり罵ったり批判したり、と戦いは果てしなく続く。
*雪の上の足跡――文学作品中の人物の声が奏でる音楽に聴き入る男。しかし彼は作家が決して取り上げない「余白」の位置にいる。
*第三の警官――「世界は白くて四角いもので構成されていて、二人の警官と車が一台あるだけ」ということばを聞かされている男はすでに交通事故で死んでいて。

「第三の警官」にある一文「マレヴィッチだけが白い四角の夢を見ることができる」のマレヴィッチについてのメモ。
マレヴィッチ(1878~1935)はキエフ生まれの画家。キュービズムに飽き足らず、単純平面、厳正構成の美学であるシュプレマティズム(至上主義)を提唱、シャガールと対立した。
代表的作品として「三角形と長方形」(1991)がある。
(2016.4.7読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-06-18 09:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『卵のように軽やかに』(サティ、編訳=秋山邦晴・岩佐鉄男、筑摩書房)


c0077412_9503385.jpg『Léger comme un œuf』(Erik Satie)
副題に「サティによるサティ」とある。「グノシエンヌ」の不可思議な旋律に魅せられて久しいが、サティについては「ユトリロの母・シュザンヌ・ヴァラドンを恋したが、その恋に破れて生涯独身を通した」ということぐらいしか知らなかった。そこで本書を読んでサティを知ろうと思ったわけである。訳者によると本書は、サティ(1866~1925)が初期から晩年までに、さまざまな機会に書き残した文章の中から選んだものだという。五つの章からなり、各章のタイトルと内容は次のようになっている。
1.「最後から二番目の思想」 講演原稿や作曲家論をまとめたもの
2.「健忘症患者の回想録」 1912年から1914年に「音楽評論」誌に連載されたエッセイを中心にまとめたもの
3.「哺乳類の手帖」 アフォリズムのシリーズを中心にユーモラスな短文を集めたもの
4.「サティ詩抄」 楽譜の音符のわきに書き込まれた演奏の指示のようにも短い物語のようにも読める詩的なことばを集めたもの
5.「メドゥーサの罠」 1913年に書かれたサティ唯一の戯曲で「ダダ以前のダダの演劇」ともいわれる音楽喜劇

サティという人は突拍子もないことを言い出すし、持って回った言い方や皮肉な言い方をするので、なかなか真意がつかみにくい。サティの周辺にいた人たちや同時代人ならすぐにぴんときただろうことばも、その真意とおもしろさが30%も理解できたかどうか。それでもとにかくサティが時代の先端を行く非常に希有な才能の持ち主だったことと、常軌を逸した奇人だったことは理解できた。ヴァラドンとの恋が短期間で終わったのも頷ける(もちろんヴァラドンも「タダモノ」ではなかったろうが)。
ところでこの本には訳者による膨大で詳細な注がついていて、「サティ事典」といってもいいほどの充実ぶり。本文と併せて読むとサティの同時代人との関係が見えてくる。サティのお眼鏡にかなった人物としてはドビュッシー、シャブリエ、デュカス、ストラヴィンスキー、デゾルミエール(サティのお気に入りの指揮者)、ポール・コレール(ベルギーの音楽批評家、サティの親友)、コクトー、ピカソ、ドラン(サティが病に倒れたとき家に引き取って世話)、ブラックなどがおり、サティに嫌われた人物としてはサン・サーンス(サティが学士院アカデミー会員に立候補して落選したときの審査委員長)、アラゴン(ダダ・グループの詩人)などがいる。
最後に代表的作品をメモしておく。
*3つのジムノペティ(Gymnopédies、パリ音楽院時代)
*グノシエンヌ(Gnossiennes、パリ音楽院時代)
*ヴェクサシオン(Vexation、1893~1896) 840回の繰り返し
*あんたが欲しい/おまえが欲しい(Je Te Veux、カフェ「黒猫」時代)
*メドゥーサの罠(音楽劇、1913)
*パラード(バレエ音楽、1917)
*家具の音楽(Musique d’ameublement、1920)
(2016.4.6読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-06-10 09:51 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『新訳フィガロの結婚』(ボーマルシェ、訳・解説=鈴木康司、大修館)

c0077412_9164488.png
『La Folle journée ou Le Mariage de Figaro』(Beaumarchais)
本書は2部構成になっており、第1部には〈「新訳」『てんやわんやの一日あるいはフィガロの結婚』〉と題されたボーマルシェの戯曲、第2部には〈ボーマルシェの『フィガロ三部作』について〉と題された解説が収録されている。

第1部の冒頭の〈登場人物の性格と衣装〉には当時の社会環境、演じる役者の適性、心構え、過去にその役を演じた俳優などへの言及もあって興味深い。いくつか例を挙げると
*アルマビーバ伯爵――いかにも貴族然とではあるが、優雅にそして自由闊達に演じられなければならない。心の腐敗は彼の上品なふるまいからは全く感じられない。この当時の風習から見れば、大貴族たちは戯れに女性たちを口説くのが当たり前であった。この役はいつも脇役になるだけに一層きちんと演じるのが困難である。だが、モレ氏のように優れた役者が演じてくれたので、他のすべての役柄が見事に際立ち、作品の成功が確実になった。
*フィガロ――この役を演じるには、ちょうどダザンクール氏が演じたように、役柄の精神を徹底してつかみ切るように願ってしかるべきである。もしも俳優がこの役に陽気さと才気を巧みに交えた理性以外のもの、特にほんの少しでも重々しさを加えてしまえばこの役を台無しにしてしまうだろう。
*シュザンヌ――利発で才気にあふれ、よく笑う若い娘だが、人々を堕落させる例の小間使いたちが示す、ほとんど恥知らずな陽気さとは違う。
*シェリバン――(前略)伯爵夫人の前では借りてきた猫のようにおとなしいが、他ではチャーミングないたずらっ子。(中略)思春期に差しかかっているが、何をしたいのかもわからず、知識もない。何か事が起これば全身でそれに向かう。要するに、どんな母親でもおそらく心の底では、いかに苦労させられても自分の息子がそうあってほしいと思うような存在である。

伯爵の項のモレ氏(1734~1802)とフィガロの項のダザンクール氏(1747~1809)はともにコメディ=フランセーズの俳優で、前者は貴族の父親役、後者は下僕役を得意とした、という注が解説者によってつけられている。第1部の翻訳も第2部の解説もフランス演劇史専攻の学者によるものなので、詳細な情報がいっぱいの「勉強になる」本である。(2016.2.6読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-05-01 09:18 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『悪魔のヴァイオリン』(ジュール・グラッセ、訳=野口雄司、早川書房)

c0077412_10514083.png
『Les Violons du Diable』(Jules Grasset, 2004)
早川ポケット・ミステリー・ブック1780



主人公はメルシェという名のパリ警視庁警視。舞台はパリのサン・ルイ島。観光名所のノートルダム寺院や警視庁のあるシテ島と小さな橋でつながっている島である。この島にあるサン・ルイ・アン・リール教会に流れるヴァイオリンのすすり泣きに聞き入りながら、信者たちがミサを待っている場面から話は始まる。曲は「悪魔のトリル」として知られるタルティーニのソナタ。弾いているのは教会の管理人であるマルゴワール夫人の庇護のもとにある若い娘のジュリー。11時5分前にオルガン奏者のジャンもやってきて、あとはポワトゥヴァン司祭の到着を待つばかりとなっていた。しかし、朝の聖務日課を終えて朝食をとるために家に戻った司祭、人気者の説教師で、時間にうるさく、儀式やしきたりを重んじる司祭が、時間になっても現れない。様子を見に行った聖歌隊の少年が興奮して戻ってくると、息をきらせながらやっとのことで報告した。「司祭様は死んでいました」
かくして敏腕のメルシェ警視の登場となるのだが、ポワトゥヴァン司祭殺害事件は簡単には片付かない。というのも本部長がメルシェに別の問題も押し付けてきたからだ。それはメルシェによって大打撃を受けた組織犯罪グループの大物でサンテ刑務所に服役中のデデと、デデ逮捕につながる情報を警察に与えたジゼールのからんだ問題だった。ひもの男(デデの共犯者だった)を殺した売春婦のジゼールは情報提供の見返りに刑を軽減されて、近々釈放されることになっていた。そしてデデはジゼールを殺すために脱獄を企てていたのだ。さて、メルシェは司祭殺害事件をどのように解決し、デデによるジゼール殺害をどのように阻止するのだろうか。

殺しはあるが血みどろの描写はない。裏社会の人間は出てくるが、裏社会のこまごました描写はなく、ひたすらメルシェの推理だけに的が絞られている。また、音楽に関してはタルティーニやストラディヴァリ、文学に関しては「スガンさんの山羊」などが出てくるが、これといった蘊蓄はないし、時には邪魔になる「注」もないため、とにかくさらっと読める作品である。ただし、一つだけ、「ある本に出てくる犬のランタンプラン」というのは何のことかわからない。ここは「注」が欲しかった(と勝手なことを考えたのでした)。(2016.1.11読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-04-03 10:52 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)