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『頭のうちどころが悪かった熊の話』(安東みきえ著、理論社)

c0077412_21435857.jpg読書会「かんあおい」2012年5月の課題図書。
装丁・挿絵(下和田サチヨ)の雰囲気と文字の大きさなどから、一見したところでは幼児から小学校低学年向けの本に見えるが、奇抜なことば遊びや意味深な話がいっぱい盛り込まれており、生意気盛りの少年少女でも、人生経験を積んだ中高年でも、それぞれがそれなりに楽しめそうな作品である。全体は7つのエピソードからなり、それぞれのエピソードには中心となる動物、鳥、虫などがいて、独立した一つの話として読むこともできる。ところどころに「旅人」が登場して、全体を緩く繋ぐ役目を果たしている。
「頭のうちどころが悪かった熊」――熊はレディベアが誰なのか思い出せない。どこかで頭を打ったらしいのだ。陸亀とクマバチ、毛虫に尋ねて回る。黒くて毛だらけで4本脚らしいとわかって、黒い毛織りのクッションを載せたゆり椅子に座ってみる。ゆり椅子は恐怖で熊を放り出す。そこにレディベアが現れて、どこに行ってたのさ、とパーンと熊の頭を後ろからはたく。
「いただきます」――旅人が動物たちの嘆きを順に聞かされる。トラはキツネを食べた罪深さを嘆き、キツネはニワトリを、ニワトリはトカゲを、トカゲはクモを、クモは金バエを食べた罪深さを嘆く。ぐるぐるまわりだったんだね、と旅人はトラに言って、パンを分け与えてやる。トラの目には涙があふれ、そして口には涎があふれる。パンではもの足りないトラの目の前には旅人が……。
「ヘビの恩返し」――父さんヘビが子どものヘビに、カコの実を食べると過去のことしか考えられなくなるから食べてはいけない、と言ったそばから自分がカコの実を食べてしまう。子ヘビが卵の飲み込み方を聞いても父さんヘビは、手があいたら教えてやる、というばかり。子ヘビは、もう父さんにはお手あげさ、と思う(どちらも手なんかないのに)。そのうち親子げんかになり、父さんヘビは子ヘビを呑み込んでしまう。そこへトラが通りかかって、父さんヘビの口からのぞいている子ヘビのしっぽを引っ張って出してやる。ところが子ヘビが父さんヘビのしっぽをつかんでいたので、父さんヘビは裏返しになってしまい……
「ないものねだりのカラス」――木の枝と枝が作った白い隙間を見て、シラサギだ!と思ったカラスの話。
「池の中の王様」――100匹兄弟の一人であるオタマジャクシの〈ハテ?〉は1/100であることに満足せず、親のようになりたいとも思わなかった。やがてハテはヤゴと友だちになり、二人は、離れていても、どんなに姿を変えても、お互いに相手を見つけられる、友だちってそういうもんさ、と言い合って暮らす。そしてある日、ハテはなりたくなかった父親と同じ姿になっている自分を発見し、ヤゴはヤゴで……。
「りっぱな牡鹿」――牡鹿の名はホーイチ(この名に注意!)。森のみんなの悩みを聞いてやっている。アライグマが潔癖症の悩みを相談にきて「パンを洗ってしまうのだけれど、洗ってしまったら意味がなくなる」というのを聞いて、なにかがツノにひっかかった(鹿なので)。ダチョウが、飛べないのに鳥でいることに何の意味があるの、と聞いてきたとき、ホーイチはひっかかっていたものの正体に気づいて爆発する。生きていくのに意味なんてない、生きていくだけで充分なんだ、これからは意味のあることはいっさいしない、と決心したホーイチは……。
「お客さまはお月さま」――〈頭のうちどころが悪かった熊〉の親友で、不眠症の月の輪熊の話。風がびょうびょう吹く寒い夜、月の輪熊が空を見上げると三日月がついてくる。ずっとついてきてほしいなあ、というと、月は洞穴の家までついてきて、いっしょに家の中に入ってくる。きみの胸にぼくがいる。ぼくたちは兄弟かもしれない、と言って。さてそれから……。(2012.4.29読了)
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by nishinayuu | 2012-06-21 21:44 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『カラフル』(森絵都著、文藝春秋社)


c0077412_9513483.jpg読書会「かんあおい」2012年4月の課題図書。産経児童出版文化賞の受賞作である。
話は次のように始まる。
死んだはずのぼくの魂が、ゆるゆるとどこか暗いところへ流されていると、いきなり見ず知らずの天使が行く手をさえぎって、
「おめでとうございます、抽選に当たりました!」
と、まさに天使の笑顔を作った。

やけに軽い書き出しで、しかも「天使は美形の優男」で、名前はプラプラだという。まるでコミックではないか、と思いながら読み進めると、意外にも(コミックは読まないのに偏見の塊ですね)しっとりとして心温まるストーリーが展開されていく。子どもにも大人にも希望と勇気を与える上質の読み物となっており、森絵都人気の理由が理解できる一冊である。

主人公の「ぼく」は、天上界のボスが気まぐれで実施する抽選に当たって、再挑戦のために下界に戻されることになる。天使の説明によると、前世で大きな過ちを犯して死んだ者は、輪廻のサイクルから外されることになっているのだが、下界のだれかの身体を借りて修行すれば、無事に輪廻のサイクルに戻れるという。こうして「ぼく」は前世の記憶を失ったまま、小林真として病院のベッドで目覚める。真は三日前に自殺を図った少年で、10分前に「ご臨終です」と宣告されたのに、奇跡的に生き返ったのだ。
小林家は四人家族。父親は最近悪徳商法がばれた会社の社員で、上層部が総辞職したため、いきなり部長に昇進して大喜びしている。母親はいかにも良妻賢母といった感じの主婦だが、趣味で通っているフラメンコ教室の講師と不倫している。兄の満は弟に向かって「この死にぞこないが」と言うような、無神経で意地悪な高校生。そして真は半年後に受験を控えた中学生。背の低いことに悩んでいて、成績もぱっとしないし、友だちもいなかったが、絵だけは達者で、美術の時間と部活の美術部で絵を描くことだけを楽しみに通学していたらしい。
久しぶりに登校した「ぼく」は、みんなの視線攻撃を浴びたり、チビ女に「セミナーに行って前向きでポジティブな人間に生まれ変わってきたんでしょ。でもそんなの小林君に似合わない」などと絡まれたりして、ぐったり疲れた。それでも真についてチェックしておくために美術室を訪れると、そこには真の描きかけの油絵があった。続きを描くポーズだけをするつもりだったのに、実際に描きたくなって見よう見まねで描き始めると、次第に筆が滑り出していた。この部屋で真はほっとしたんだ、とキャンバスの前で確信したとたん、「ぼく」はなぜだか胸がつまった。ところで、プラプラの話では、「ぼく」が前世の記憶を取り戻し、前世で犯した過ちの大きさを自覚したその瞬間に修行は終わり、「ぼく」の魂は借りていた人間の身体を離れて昇天する、ということだが……。(2012.3.3読了)
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by nishinayuu | 2012-04-25 09:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ダウンタウンに時は流れて』(多田富雄著、集英社)

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1934年生まれの世界的免疫学者・多田富雄によるエッセイ集。2003年から2009年にかけて、各種の雑誌、新聞、パンフレットなどに発表された文をまとめたものである。
読書会「かんあおい」2011年11月の課題図書。


第一章には、「春楡の木陰で」「ダウンタウンに時は流れて」「チエコ・飛花落葉」の3編が収められており、いずれも著者が米国滞在中に知りあって深い関わりを持った人びととの思い出を綴ったものである。
「春楡の木陰で」に登場するのはコロラド州デンバーの老夫婦。1964年の初夏、著者は喘息研究所の研究員として初めて渡米する。そのとき下宿させてもらったのがジュリアン・ストリート2329番地のとんがり屋根の家だった。主のジョージ・トレゴは無愛想な老人だったが、その妻のメアリーは英語にイマイチ自身のない著者に英語のレッスンをしようと申し出てくれた。「夕鶴」の英訳などの作業を通して著者とメアリーの距離は縮まり、ジョージの芝刈りの手伝いをしているうちにジョージもうち解けてきた。翌年のクリスマスにはささやかなプレゼントのやりとりもするほどに親しくなっていたが、春になってメアリーが心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。以前から心臓が悪かったのに、医療保険未加入のため医者に行っていなかったのだ。慣れない土地で慣れない葬儀を手伝い、残されたジョージがなんとか立ち直ったのを見届けて、著者は日本に帰国する。2年後にまた渡米した著者がかつての下宿を訪れたとき、ジョージは病床にあり、著者のことは覚えていないようだったという。
「ダウンタウンに時は流れて」に登場するのはリノ・クインというバーで働く人たちと店の常連たち。好奇心にあふれた著者は、西部劇のような世界に魅せられて、このバーに足繁く通うようになる。当時流行ったペトラ・クラークの歌「ダウンタウン」にせき立てられるように。労働者たちのたまり場に舞い込んだ著者は、初めは奇異な目で見られるが、やがて店の常連として受け入れられる。研究所の仲間や、日本人社会の人たちからは顰蹙を買ったが、著者は貧しいアメリカ人とのふれあいに喜びを感じていた。でっぷりしたバー・クインのアンジーとも親しくなり、その子どもで問題児だというトミーについて相談されたりする。帰国するときには店をあげての送別会があり、ウエスタンバンドの盲目のギター弾きマイクは、著者に向かってジャンバラヤをひときわ高く歌ってくれた。しかし、その後デンバーのダウンタウンは開発が進み、1971年に訪れたときは摩天楼街に変わっていた。1975年にコロラド大に講演に招かれたとき、著者はアンジーを探し出して訪ねる。アンジーは糖尿病でほぼ失明し、トミーは刑務所に入っていた。
「チエコ・飛花落葉」に登場するのはいわゆる戦争花嫁の日本女性。著者が出会った当時チエコは40歳くらいで、中華料理店でウエイトレスとして働いていた。初めて入ったこの店で食事を終えた著者が、財布を忘れているのに気がついて途方に暮れていると、チエコが代金を立て替えてくれた。そのチエコの心意気に感じた著者はその後もこの店に通うようになる。チエコは女学校を出たあと横浜で米国軍人と知り合い、「愛し合って」結婚したが、酒に溺れて暴力を振るうようになった夫とは離婚して、働きながら二人の子どもを育てていた。著者はチエコに感謝すると同時に元気づけたい気持ちもあって、研究所のパーティーにチエコを招待する。ど派手な服装で現れたチエコは周囲から浮いていたが、彼女なりにパーティーを楽しんだようだった。そのころからチエコと子どもたちの間には垣根があったが、結局両者の垣根はなくなることはなく、チエコは孤独なまま心身ともにぼろぼろになって消えていった。ひとりの女の哀れな一生を思い、著者は慟哭する。
第二章は短いエッセイを集めたもので、比翼連理の妻との関係、睾丸除去の顛末、白秋の詩との出会い、「わが青春の小林秀雄」、15歳年上の叔母の思い出、「姨捨」から想起した思い、最後になった妻との二人旅、妻に捧げる詩、免疫学者ニールス・イェルネの思い出など、いずれも中身の濃いエッセイである。
米国滞在中に知りあったいわば行きずりの人びととの交流をいつまでも大切にする人情の深さに、半身不随になりながらもその苦痛をユーモアで包み込んでしまう強さに、そして衰えを知らない創作欲に、ただただ圧倒される。(2011.10.1読了)
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by nishinayuu | 2011-12-19 00:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『男どき女どき』(向田邦子著、新潮社)


c0077412_12303848.jpg読書会「かんあおい」2011年6月の課題図書。
タイトルの「男どき女どき」は、『風姿花伝』の「花伝第七別紙口伝」の終わりのほうにある次の言葉からとられている。
【また、時分をも恐るべし去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時(おどき・めどき)とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、必ず悪き事またあるべし。これ力なき因果なり。】
すなわち、「男どき」とは運のいい時、ついている時のことで、「女どき」はその逆についていない時、めぐり合わせの悪い時のことである。
全体は5部構成になっており、Ⅰは小説集、Ⅱは小説と旅行記、Ⅲ~Ⅴはエッセイ集である。
Ⅰの『ビリケン』――駅までの道の途中にある果物屋のおやじに、石黒は秘かにビリケンというあだ名をつけていた。石黒がちらりと見るとビリケンのほうもじろりと見返す。それが毎朝の習慣になって5年程たった頃、ビリケンが病気で死んでしまう。そのあとでふとしたことからビリケンが神田の古本屋の息子だったことがわかる。石黒は学生時代にその古本屋で万引きをして主人にしぼられたことがあり、その恥ずかしい場面を当時やはり学生だったビリケンに見られたことを思い出す。ビリケンがじろりと睨んだのは、あのときの石黒を覚えていたからなのか。ビリケンが残した日記にはそのことが記されているのではないか、と石黒は悩むのであるが……(後略)。――「ビリケン」ということばに昭和を感じる。
Ⅱの『鉛筆』――ケニアのルドルフ湖上の筏に立つ少年の脚と、アンコールワットで観光客の足元を懐中電灯で照らして20円から30円のお金を得ていた少年たちの脚。一方はチョコレート色で、もう一方はくすんだ色だったが、いずれも鉛筆のように細かった、という印象的な旅行記。
Ⅲの『私と職業』――「一日に一つ、自分で面白いことを見つけて、それを気持のよりどころにして、真剣半分、面白半分でテレビの脚本を書いている」という文の「面白半分」の使い方が面白いけれども、正しくはなんと言うべきか、しばらく考えてしまった。
Ⅳの『反芻旅行』――「旅も恋もそのときも楽しいが、反芻はもっと楽しいのである」ということばに続いて、「ところで、草を反芻している牛はやはり、その草を食べたときのことを思い出しながら口を動かしているものであろうか」とある。牛の気持ちまではわからないが人間の場合は、例えば口に戻ってきた薬のカプセルなどをうっかり噛んでしまうと酷い目にあう。(普通の人は反芻しない?)
Ⅳの『アンデルセン』――アンデルセンがパン屋だと思っている若者に、「アンデルセンやグリムの童話を読んだことないの?」と偉そうに言ったあと、グリムはどんな作品を描いているのかと聞かれて答えに詰まる話。――そう言われてみると『赤ずきん』、『白雪姫』くらいしか思い浮かばないので、グリム童話集を引っ張り出して調べてしまった。『金のがちょう』『ラプンツェル』『ブレーメンの音楽隊』『ヘンゼルとグレーテル』『シンデレラ』などなど、いっぱいあった!
Ⅴの『美醜』――飼っている牡猫のビルが、若くて美人の雌猫には目もくれず、何度も仔を生んだ小肥りで醜い年増猫を選んだという話。「つまり、ビルは山口百恵を振って悠木千帆を選んだのである」などと言えるのがすごい。悠木千帆(樹木希林)とよほど仲がいいのだろう。
ほかには『ゆで卵』、『草津の犬』、『サーカス』、『笑いと嗤い』、『無口な手紙』なども面白く読んだ。(2011.6.10読了)
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by nishinayuu | 2011-09-08 12:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『世界でたったひとりの子』(アレックス・シアラー著、金原瑞人訳、竹書房)


c0077412_10341272.jpg読書会「かんあおい」2011年8月の課題図書。原題はThe Hunted。
主人公はタリンという名の少年。保護者のディートは、トランプの賭で金持ちから手に入れたタリンを、子どもが必要な人に貸し出して暮らしている。ここは子どもというものがいなくなった世界なのだ。科学の進歩によって老化防止剤が開発された結果、高齢化が進み、平均寿命は延びたが、そのせいで新しいウイルスが生まれた。生殖能力を破壊するこのウイルスが老化防止剤を飲んでいない人にも感染して、世界から子どもが消えていった。つまり、ある人びとが長寿を手に入れた代わりに、ある人びとは生まれることさえできなくなったのだ。
老化防止剤を飲んだ人は外見はいつまでも若いままだが内部からの腐敗は止められないので、120歳くらいになると身体の活動が停止して死ぬ。ところが、内部からの腐敗を止めるPPインプラントという方法があって、これを受けるといつまでも大人にならない。たとえばかわいい踊り子のミス・ヴァージニアは、55歳なのに11歳に見える。世間で見かける子どもはみんなこのPPインプラントを受けた子どもであって、子どもの顔と身体を持っているが、その心と魂はこの世には存在したことのない新しい生物のものなのだ。PPインプラントは違法なのだが、タリンが成長していって商売道具として使えなくなるのを心配したディートは、タリンにPPを受けさせようと画策する。それを知ったタリンはディートのもとから逃げ出す。PPの子どもの心の悲しみを知っているからだ。しかしタリンにはどこにも行く当てはない。心の片隅にかすかな記憶――女の人の匂い、男の人の匂い、麦畑と鳥のさえずり、犬の吠える声――があるのだが。
ひとりぼっちの少年が自分を取り囲む敵意に満ちた世界を彷徨い、逃げまどい、疲れ果てた末に、ついに記憶のなかの光景にたどり着くまでの物語。的確な描写と緻密な構成、緊迫感あふれる展開で飽きさせないし、最後には感動が待っているが、全編に充満している暗い重苦しさが読後にも残る。落ち込んでいるときには手にしてはいけない作品である。(2011.5.24読了)
☆ディートがタリンを部屋に閉じこめてPPインプラントを施術する医者を呼びに行っている間に、タリンは苦心惨憺のうえ、やっとのことで部屋から逃げ出します。その場面のあとに、タリンが「家を出て4分と15秒きっかりたったとき、ディートと女と医者が……」とあるのですが、この「きっかり」がひっかかります。「きっかり」の位置のせいでしょうか、あるいは半端な時刻と「きっかり」の組み合わせのせいでしょうか。
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by nishinayuu | 2011-08-28 10:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『スノードーム』(アレックス・シアラー著、石田文子訳、求龍堂)


c0077412_2025372.jpg読書会「かんあおい」2011年8月課題図書の関連図書。原題はThe Speed of the Dark。
若い科学者クリストファー・マランは「光の減速器」に関する研究に没頭していた。家族も友人もいない彼は、同僚たちともうち解けない風変わりな青年だった。そんな彼がある日、同僚のチャーリーに一綴りの原稿とスノードームを托して失踪する。そのスノードームは、逆さまにするとドームの中に雪が舞い飛ぶふつうのスノードームではなく、一つの町の極小模型が閉じこめられた、逆さまにしてはいけないドームだった。そして原稿には、少年のクリストファーを主人公とする信じがたい物語が綴られていた。
クリストファーは幼いときから父の手で育てられた。赤ん坊の時に母親がいなくなったからだ。父は修道院広場で似顔絵を描いて暮らしを立てている売れない画家だった。広場で「動く銅像」のパフォーマンスをしているポッピーは、若くて美しいダンサーで、ときどきクリストファーたちの家に来て食事をしたり、時には泊まっていったりした。クリストファーはいつか三人がほんとうの家族になる日を夢みていた。しかし、ポッピーとの暮らしを夢みている人が他にもいたのだ。それは、ポッピーがシーズン・オフにアルバイトをしている「ありえない美の館」の経営者エルンスト・エックマンさんだった。エックマンサンは小さくて太りすぎの醜い男だったが、ミニチュア彫刻の達人だった。「鉛筆の芯の先に彫ったエンパイア・ステート・ビル」、「砂糖粒から掘り出された氷山に乗ったセイウチとペンギン」、「針の穴を通る駱駝」などが閉じこめられている小さなガラスのドームも、それらを作ったエックマンさんも、クリストファーは大好きだった。しかしエックマンの心は複雑だった。醜い自分を避けずに慕ってくれるクリストファーはかわいかったが、その父親は憎らしかった。自分が得られないポッピーの愛を手に入れていたからだ。そんなある日、「針の穴を通る駱駝」を静止した彫刻ではなく動く彫刻にしたい、というエックマンの努力が実る。「光の減速器」が完成して、動くものを極小化することに成功したのだ。エックマンが次にとった行動は……。
ある日ポッピーが行方不明になり、やがて父もいなくなって、クリストファーはひとり、取り残される。幼い頃からの怖れが現実のものになってしまったのだ。エックマンの援助で高校、大学と進学して社会に出たクリストファーは、研究に没頭する。「光の減速器」で極小化されたものを元の大きさに戻す器機を作り出すために。そしてドームに閉じこめられている自分の家族を取り戻すために。けれどもある日、クリストファーは気がついたのだ。器機を作り出そうとしているうちに時はどんどん過ぎ去ってしまうことを。だから今、彼がすべきことはいつになるかわからない研究を続けることではなく、一日でも早く家族と合流することだと。
奇想天外な構想で読ませ、読後にはしみじみとした余韻を感じさせる物語である。ただし、情感の籠もらない短文が連なっていること、必要不可欠とは思えない記述(たとえば雨が降っていたとか、止んだとか)が頻繁に出てくること、などのせいで全体にメリハリがなく、特に前半はまどろっこしくて眠くなる。
(2011.5.26読了)
☆光のスペクトルを思い出すのに役に立つ、として次のような文があげられています。これも必要不可欠とは思えない記述の一つですが、作者のサーヴィス精神をありがたく受け取っておきましょう。英語圏の人たちの苦労を偲びつつ。
Richard Of York Gained Battle In Vain(ヨーク家のリチャードは戦いに勝ったがむだだった)――ひとつひとつの単語の頭文字が赤、(Red)、橙(Orange)、黄(Yellow)、緑(Green)、青(Blue)、藍(Indigo)、紫(Violet)の頭文字と同じ。
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by nishinayuu | 2011-08-24 20:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『利休にたずねよ』(山本兼一著、PHP)


c0077412_0165465.jpg読書会「かんあおい」2011年4月の課題図書。
24の章からなるこの作品は、第1章が天正19(1591)年2月28日の利休切腹の日に当てられ、章を追うごとに過去に遡っていって23章に至ると、最終章でまた第1章と同じ日に戻る、というユニークな構成になっている。また、第1章は利休、第2章は秀吉、第3章は細川忠興、という具合に各章がそれぞれ特定の人物の視点から語られる形になっていて、各章の題目の下にその人物の名前が掲げられ、その横に時(年号、日付、時刻など)と場所(地名、建物名など)とともに、切腹の何日、何年前かが記されている。いずれも読み手の興味をかき立てる(とともに、読み手の混乱を防ぐ?)ための心憎い仕掛けである。
秀吉が利休に切腹を命じた理由については諸説あるが、この作品では「茶道に関する考え方で二人が対立した」という点に重点が置かれている。豪華で華やかなものを好む秀吉は、利休の美意識に一目置きながらも、利休の茶を「どうにもせせこましく、いじましゅうていかん」と思う。一方の利休は、鋭利な美意識をもち、それを見せるも隠すも自在な秀吉を、さすがに天下人になる人物は違う、と感じ入りながらも、美を見極める目は自分こそが天下一であると思う。それでも本能寺の変のあと数年間は、秀吉は利休の茶道を利用して自分の威信を高め、利休は秀吉の威信を利用して自分の茶道を発展させる、という持ちつ持たれつの関係が続いたのだった。
二人の男の心がすれ違っていくきっかけとして語られるのが、利休の若き日の恋の形見である緑釉の香合。捕らわれの身の高麗の娘に恋した与四郎(若き日の利休)は、いっしょに高麗に逃れようとするが、追い詰められて心中を図る。結局女だけが死に、死に損なった与四郎の手許に緑釉の香合が残される。利休は高麗の娘の思い出が詰まったその香合を堅く守り、秀吉の執拗な所望も拒絶する。そんな香合を、利休の死を見届けたあとで妻の宗恩が、庭の石灯籠に投げつけて粉々に砕く。というわけで、フィクションの部分は見事に完結する。緑釉の香合が今に伝わっていないのは宗恩が砕いてしまったから、というわけである。
(2011.3.10読了)

☆利休が従来の四畳半だった茶室をどんどん狭くしていって、三畳や二畳、果ては一畳と四分の三の茶室を作ったというくだりでは、津川雅彦が扮した秀吉が「利休よ、この部屋狭すぎないか(もっとくだけた言い方でしたが)」という大東建託のCMがちらついて困りました。
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by nishinayuu | 2011-06-07 00:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ひとりだけのコンサート』(ペーター・ヘルトリング著、上田真而子訳、偕成社)


c0077412_1194720.jpg読書会「かんあおい」2011年2月の課題図書。
フレンツェは3ヶ月後には13歳になる少女。(ただし、ペーター・クノルの絵ではどう見ても男の子にしか見えない。)本屋さんで働いている母親(フレンツェはマムスと呼んでいる)は、夫(ヨハネス)が最近元気がないことを心配している。フレンツェはヨハネスとマムスが言い争ったり、ヨハネスが夜中に帰宅して怒鳴り散らしたりするで、心を痛めている。ある日、昼間にキオスクでビールを飲んでいるヨハネスを見かけたフレンツェは、ボーイフレンドのホルガーといっしょにヨハネスの会社に行ってみる。そして、ヨハネスの会社が他の会社に吸収されてしまったこと、ヨハネスが200万を超す失業者のひとりになっていたことを知る。マムスはヨハネスを理解しようとつとめるが、ヨハネスは心を閉ざし、家を出てしまう。
両親のことが心配で勉強も手につかないフレンツェは、ヴァイオリンを弾くことで心を慰める。ある日、地下街でフルートを吹く少年を見かけたフレンツェは、失業者救済を訴えるためのコンサートを開くことを思い立つ。ホルガーの協力のもとに開いたフレンツェの「ひとりだけのコンサート」はしかし、ヨハネスの気持ちを傷つけてしまい、ヨハネスをいっそう家族から遠ざける結果に終わる。

ペーター・ヘルトリングはドイツの社会派児童文学の書き手で、ドイツでは最も人気のある作家のひとりだという。『ヒルベルという子がいた』(1974)をはじめとして『おばあちゃん』『ベンはアンナが好き』『ヨーンじいちゃん』『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などの作品は、いずれも上田真而子の訳で日本にも紹介されている。(2011.1.27読了)
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by nishinayuu | 2011-05-08 11:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『みずうみ』(よしもとばなな著、新潮社)


c0077412_10324415.jpg読書会「かんあおい」2010年11月の課題図書。私にとっては『キッチン』『とかげ』以来の三冊目のよしもとばななである。
語り手はママを亡くしたばかりの「ちひろ」で、壁画専門の売れない画家である。私生児として育った息苦しい田舎町を逃げ出してひとり暮らしをしている。アパートの窓から外を眺めるのが癖のちひろは、斜め向かいのアパートの窓辺でやはりいつも外を眺めている中島くんに気づく。中島くんもちひろに気づいて二人は遠くから挨拶を交わすようになるが、長い間ちひろは窓辺の中島くんを風景のように眺めるだけで慰められていた。
ママのことで長く部屋を開けていたちひろが戻ってきたとき、街でばったりであった二人は初めて一緒にお茶を飲む。そのとき中島くんが言う。「ちひろさんの窓明かりがないと、つらくて寂しい」と。それから少しずつ二人は近づいていき、やがて中島くんはちひろの部屋で泊まっていくようになる。そうなるまでに少なくとも1年はたっていた。
中島くんは変わった見た目をしていた。棒っきれみたいな手首、長い指、ぽかんと開いた口、首筋の情けないような線……。ちひろは「中島くんが好きで好きで、いつか中島くんが星になる日が来ても(彼には星になるのが似合いすぎる。そもそも彼は生きている感じが薄すぎるのだ)、私は中島くんの魂とともにいるだろう」と思うのだった。そんな中島くんがある日、静かなみずうみのほとりに住む懐かしい友だちに会いに、いっしょに行ってくれないか、つらくて一人では行けないから、と言う。ちひろはすぐに承知する。理由はまだよくわからなかったが、彼を傷つけることは普通の人を傷つけるよりもずっと恐ろしかったから。

深い傷を負った魂に訪れる再生を綴った、希望に満ちた物語でなかなかよかったが、ただひとつ、「す××心」という言葉がひっかかる。口にする人物(ちひろ)の品格を疑わせ、作品全体の品格も下げるこんな言葉を使う必要があるのだろうか。いくらでも違う言葉で言い換えられるだろうに。(2010.10.26読了)
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by nishinayuu | 2011-02-25 10:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『水曜日のうそ』(クリスチャン・グルニエ著、河野万里子訳、講談社)

c0077412_1010425.jpg読書会「かんあおい」2010年8月の課題図書。
パリ郊外のドゥイユ・ラ・バールに住む一家の物語。家は5階建てのマンションの2LDKで、パパとママ、わたし(イザベル、15歳)の三人。近くにはパパの父親であるおじいちゃんが住んでいて、ワタシガコレージュ(中学)に入ってからはこちらから訪ねることは減って、おじいちゃんが毎週水曜の正午にやってきて30分だけ過ごしていくようになっていた。ところが、リセの教師を辞めて大学院に通い、めでたく博士号を取得したパパのところに、リヨン第三大学から助教授の職が舞い込む。リヨンに引っ越そう、とママ。おじいちゃんをどうする、とパパ。話し合いの末、赤ちゃんが生まれることでもあるし、とにかくリヨンに引っ越そう、82歳のおじいちゃんには引っ越しのことは秘密にして、今まで通り毎週水曜日の正午にここで会おう、ということになる。独立精神の強いおじいちゃんの気持ちを尊重した窮余の選択だった。水曜の正午から30分部屋を使わせてもらう、という条件で元のマンションをグレー夫妻に売り、一家はリヨンの4LDKのマンションに移り住む。こうしてわたしたちの「水曜日のうそ」が始まった。
しかし、おじいちゃんにはわたしたちのうそがわかっていた。わかっていながら、水曜日のデートを続けてくれていたのだ。しかもおじいちゃんは新しい友人たちに囲まれていた。わたしのボーイフレンドのジョナタンはしょっちゅうおじいちゃんを訪問して、演劇について語り合い、音楽を楽しんだ。グレー夫妻はおじいちゃんがコメディー・フランセーズのプロンプター・ボックスにいた時期に、マチネーの定期会員だったことがわかり、おじいちゃんと仲良しになっていた。何度かいっしょにシェルブールにも旅行していた。おじいちゃんがすすめてもパパは一度も行かなかったシェルブールへ。そして、リヨンに引っ越してから8ヶ月後の6月におじいちゃんは亡くなった。会いに来るはずのおじいちゃんが現れないのを心配したグレー夫妻が、家まで行っておじいちゃんが死んでいるのを見つけたのだった。
息子一家のうそに調子を合わせてあの世に旅立ったおじいちゃん。おじいちゃんを尊重しているつもりで実はひどいことをしてしまったとわかったパパ。自分のことで手一杯で何もできなかったわたし。それぞれの気持ちが痛いように伝わってくる。ただし、ママにまるで存在感がないのがちょっと不自然でもあり、残念でもある。(2010.7.12読了)
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by nishinayuu | 2010-11-07 10:10 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)