タグ:読書会 ( 89 ) タグの人気記事

『日本語ぽこりぽこり』(アーサー・ビナード著、小学館、2005)

c0077412_10304341.jpg読書会「かんあおい」2014年8月の課題図書。
本書はミシガン出身、日本在住の詩人によるエッセイで、日本語のおもしろさを発見し、楽しんでいる詩人の溢れる才気が全編に満ちている。
内容は多岐にわたり、日本語について改めて教えられる事柄もあるが、日本人には常識と思われる事柄もあり、疑問に思うこともないわけではない。たとえば、タイトルのぽこりぽこりについて、漱石の句「吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜」をあげて、これがぼこりぼこりでは感じが違ってしまう、といっているが、サラサラとザラザラの違いを心得ている日本人には当たり前すぎることである。また「泰平のねむりをさますじょうきせんたった四はいで夜も寝られず」の「じょうきせん」は蒸気船と「上喜撰」の掛詞だということも、日本人には常識だと言えよう。著者は日本語のおもしろさとして言及したのだろうとは思うが、どうせなら日本人の気がつかない日本語の変なところを取り上げてくれた方がよい。疑問に思ったのは誤訳の指摘の仕方である。確かに「閑さや岩にしみ入蝉の声」の和訳は著者のものが断然優れていることはわかる。また、glare free(つやけし)やelephant’s-ear(大葉のベコニア)の誤訳はお粗末かも知れない。しかし、それを書物の中で指摘する前に訳者(後ろの二つは著名人二人)に訂正の機会を与えるのが品位ある大人のやり方ではないだろうか。訂正の機会を与えたのに訳者が無視あるいは拒否した、という経緯があったのならやむを得ないが。ひところ誤訳が社会問題になり、そのおかげで翻訳の質が大いに上がったことは確かだが、悪質な出版社、訳者と、そうではないものとを十把一絡げに扱ってはいけない。因みに「閑かさや」の著者による英訳は以下の通り。
Up here, a stillness---the sound of the cicadas seeps into the crags

英語に関する豆知識的な事項興味深く読めるし、大いに勉強になる。特に「マネーのずれ」の次の部分は、日本の紙幣と考え合わせると興味深い。
So when you moving back to America?
When Walt Whitman’s on the ten dollar bill
And Emily Dickinson’s on the five.
When Mark Twain’s on the twenty,
Melville the fifty, Scott Joplin the C-note,
And Fats Waller’s on the dime. (John Gribble)

(2014.6.17読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-09-20 10:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『よみがえる昭和天皇』(辺見じゅん・保阪正康-対談、文春文庫)


c0077412_915727.jpg読書会「かんあおい」2014年6月の課題図書。
副題に「御製で読み解く87年」とある。「御製」ということばは『万葉集』の中と「歌会始」に関する報道などでしかお目にかからないが、昭和天皇の御製は1万首以上あって、公表されているのはそのうち約900首だという。
昭和史の研究者である保坂は、「昭和天皇の御製には、側近の回想録、勅語、記者会見の質疑応答などからは読み取れない、天皇の本当の気持ちが表れている」という。また歌人でありノンフィクション作家である辺見は、「波乱と激動の昭和という時代の、それぞれの時期における天皇の発言集や侍従や側近の記録からは、昭和天皇の実体がよくわからなかったが、お歌には天皇の私的な心、抑制された心情が豊かに表れていて、そのまま昭和という時代の、光と影まで映し出しているのではないかと思うようになった」と言う。そんな二人が、摂政時代から崩御までの87年間の「御製」を辿りながら、昭和天皇のそのときどきの思いを解き明かしつつ、昭和という時代を振り返ったのが本書である。
昭和天皇その人についての印象はさておいて(さておく理由もさておいて)、興味深かったのは御製のほとんどが見事な万葉調の歌であること。たとえば、太平洋戦争後に各地を巡幸した折に詠まれた数々の歌は、まさしく『万葉集』に見られる「国見の歌」なのである。また、古来の風雅な言葉が随所に使われていて、まるで万葉の歌を読んでいるかのような気分になる。例えば次のような歌

たへかぬる暑さなれども稲の穂の育ちを見ればうれしくもあるか

この歌について辺見は「~もあるか、という詠嘆は万葉歌人に好まれた言葉遣いで、現代歌人にはなかなか容易には使えません。私が保坂さんとお会いしてうれしいなあ、という歌を読むのに、うれしくもあるか、と軽々には言えないのです」と言っている。天皇だからこそ使いこなせる言葉、天皇だからこそ可能な歌いぶりというものがある、ということだろう。(2014.6.15読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-09-16 09:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『獄中からの手紙』(郷隼人著、幻冬舎、2014)


c0077412_13561215.jpg
読書会「かんあおい」2014年5月の課題図書。
著者は「朝日歌壇」の常連で、2004年の歌文集『LONESOME隼人』に継ぐ二冊目の本。内容は 「日米の娑婆の人にはあまり知られていないネガティヴなサイド、すなわち、獄塀の内側で日常起こっている汚い側面と悪い刑務官、そして悪い囚人たちのことも書いてみた。僕にしか書けないストーリーを描きたいと思った」という著者のことばが充分に語っている。
読んでいて気になったのはカタカナ語の多用である。英語の中で暮らしている著者としては英語で伝えたいけれどもそれがかなわないので、やむなく次善の手段としてカタカナに置き換えているのだろうが、日本語の文章としては不自然で読みにくい。誰かの言った言葉を日本語で書いておいて、同じことをカタカナで書き加える、ということもしているが、カタカナの部分は邪魔でしかない。元は英語だったことは状況からわかりきっているのだから。日本語だけではどうしても物足りないなら、カタカナは止めて英語、英文そのものを付け加えたほうがまだましではないだろうか。
特に違和感をおぼえるのは歌のなかで、漢字にカタカナのルビを付ける、という形でカタカナが多用されていることだ。たとえば
〇渺茫たる葡萄園(ヴインヤード)より吹いてくる 春風うららイースター・サンデー
〇稲妻のごとく急降下(ダイブ)し野ウサギを捕らえ翔び去る隼(ファルコン)の美技
などであるが、葡萄園はぶどうえん、隼ははやぶさと読んでも字数は変わらないし、急降下も降下だけにすれば問題ないのでは?と思う。(素人の妄言だということは重々承知です。)それに、著者自身がTHOUGHTSの章の中で言っている次のことばと矛盾するのでは?
「僕はエッセイとかエッセイストという用語が大嫌いだ。作文か随筆家と言えばいいではないか。なにを気取ってエッセイストだ」
それはそれとして、内容そのものには心を動かされる歌も多い。心に残ったものを以下に並べておく。
〇椰子の樹の戦(そよ)ぐ加洲の大空よ監獄さえも美しき五月
〇老父(ちち)逝きてふいに寂しき獄の庭老いたる猫に餌を与えやる
〇朝顔もラジオ体操も〈白熊〉もみんな懐かしい祖国(くに)の夏休み
〇獄窓(まど)に聴く夜汽車が次第に遠のけば望郷の念沸々と湧く
〇我を待ち八十四年の人生に三十六年待ち逝きましぬ母
[PR]
by nishinayuu | 2014-08-07 13:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『晩年の美学を求めて』(曾野綾子著、朝日新聞)


c0077412_743033.jpg読書会「かんあおい」2014年4月の課題図書。
28の章からなる随筆集。初出は『一冊の本』2003年7月号~2005年10月号で、2006年の単行本化に当たって加筆訂正されたもの。
新聞広告で見たある週刊誌の記事タイトルに、この著者が「被災者や障害者には甘えがある」という趣旨の発言をしたというものがあった。それで、この本が読書会で取り上げられることになったときは反発をおぼえたのだが、読んでみると、ストレートに弱者を糾弾しているわけではないことがわかった。週刊誌はわざと誤解を招くような取り上げ方をするものなのだ、とあらためて感じた。ただしこの著者は、子ども時代の家庭環境もあってか人一倍精神的に強く、また他人より優れた才能にも恵まれているので、世の中にはほんとうに弱い人間もいるのだ、ということを理解するのは無理かもしれない、とも思った。それはそれとして、この本には心に響くことばがいろいろあった。主なものを書き出してみると――
*善は言葉で言うものではなく行動で示すものであり、悪は口先だけで盛大に言って実行しないのが、羞恥を知るものの行為である。
*どんな表現にも過剰反応しない、安心して喋れるのが夫婦・家族である。そうした防波堤のような相手が少しずつ身の回りから消えるのが、晩年・老年というものの寂しさなのである。
*フランシス・ベーコンのことば――順境の美徳は節度である。逆境の美徳は忍耐である。
*もし神がいないと、この世で自分の考えをわかってくれる人が一人もいないことになる。
*問題のない親は、問題がないというだけでどこかに大きな問題がある。
*不幸に見舞われたときに、人間の自然として神頼みをしそうな気がするなら、普段から「神はいない」などと言うものではない。
*トリノの無名戦士の墓に刻まれた碑銘――私は人生を楽しもうとして/神にすべてを願った。しかし/神はすべて(神の十全性)を楽しませようとして私に人生をくださった。/私が神に願ったことは/なにひとつ叶えてもらえなかった。/しかし、/私が神において希望したことはすべて叶えられていた
*心の中は不満だらけでも表向きだけは明るく振る舞う義務が晩年にはある。明るく生きてみせることは、誰にでもできる最後の芸術だ。

他にもいろいろ心にしみることばがあった。少し前に身近な人をなくしたため、神経過敏になっているせいかもしれない。(2014.3.18読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-06-12 07:05 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『眠る杯』(向田邦子著、講談社)


c0077412_14452817.jpg

読書会「かんあおい」2014年2月の課題図書。
東京新聞などに掲載された50編ほどの短編をまとめたもの。印象的だったものを以下に記しておく。



「眠る盃」:「荒城の月」の「巡る盃」を聞き間違った話。(こういう聞き間違いはよくあるもので、私の身近にもイヴ・モンタンをイモブンタンと思っていた人がいました。)
「字のない葉書」:妹が学童疎開したときの話。(涙なしには読めません。)
「ツルチック」:韓国語の들쭉に由来する言葉。(トゥルチュクはクロマメノキのことで、白頭山一帯にある高山植物。ツツジ科でアサマブドウともいうそうです。)
「父の風船」:「英語の単語を因数分解で解け」という宿題の夢を見た話。
「吾輩は猫である」:小5で出会った。(私は中1でした。)
「国語辞典」:なるべく人の読まない本を読む。
「抽出しの中」:ものの整理が下手で、どこに何があるかわからなくなる。夜中に切手が必要になると友人の澤地久枝女史の家にタクシーで行って切手を恵んでもらう。澤地さんの抽出しはいつもきちんと整理されている。
「騎兵の気持ち」:5階の部屋で悲鳴を聞き、下の道をひったくり男が逃げ、女が追いかけるのを見たが、助けに出てもどうせ間に合わない、と結果的に「高みの見物」をすることになってしまった。人間、あまり高いところに住まない方がいい。歩兵の方が人間的で、騎兵は少しばかり薄情なのではないか、とも思った。
「銀行の前に犬が」:日本に赴任したイギリス人外交官夫妻が日本語の授業で「銀行の前に犬が寝ています」というセンテンスを習い覚えた。こんな会話は一生使うことはあるまい、と笑いあったが、何十年か後ロンドンで、外出から帰ったメイドの口からこのセンテンスを聞いた。(まさか!)
(2014.2.5読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-05-11 14:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『はばたけ!ザーラ』(コリーネ・ナラニィ著、野坂悦子訳、鈴木出版)

c0077412_9115161.jpg『Zahra』(Corine Naranji, 2003)
読書会「かんあおい」2014年1月の課題図書。
副題に「難民キャンプに生きて」とある。主人公は10歳の少女ザーラ。イランのクルディスタン地域から逃げてきたときにはまだ赤ちゃんだったので、ザーラはイラクにあるこの難民キャンプでの生活しか知らなかった。
物語は1989年9月に始まる。早く学校に行きなさい、とお母さんがザーラをせき立てるが、ザーラは気が進まない。前の日、親戚のファティマおばさん一家が遊びに来て、食べたり飲んだり、ファティマおばさんは歌も歌ったりして、とても楽しかったのだが、料理の手伝いで忙しかったザーラは、宿題をする暇がなかったのだ。ムハンマド先生に当てられて答えられなかったら、手を板きれで叩かれる、と思うとなかなか足が進まない。それでもザーラはどうにか学校に間に合って、練習していなかったところもきちんと答えることができた(児童文学の主人公は頭がいいのが原則?)。授業が終わるとザーラは友達のネーダと学校を出る。太陽は真上から照りつけ、あまりの熱気に空気もゆらゆらしているし、くさいゴミ捨て場のあたりにはいつも野良犬がうろうろしている。それでもネーダといっしょにおしゃべりしながら歩く道は楽しい。ネーダと別れてザーラは一人で家に向かう。と、家の方から泣き叫ぶ声が聞こえる。ザーラは足を速め、家の扉に突進し、靴を脱いでスリッパに履き替える。胸がどきどきする。聞こえていたのは、思った通り、母さんの声だった。赤ちゃんの弟レザの具合がまた悪くなったのだ。

この物語には、レザが心配で笑顔をなくしてしまった母親を気遣い、両親が留守のあいだは一家の長女として幼い妹たちの世話をするザーラのけなげな姿が描かれると同時に、イラクの気候風土や難民キャンプの生活環境、クルド人たちの生活習慣などもさりげなく、ふんだんに盛り込まれている。物語が始まる前に「この物語に出てくる国と地域」を示す地図が掲げられ、「難民」とはなにか、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とはなにをするところか、などが平易な言葉で説明されている。物語が先に進むと、ムハンマド先生や村のお医者さんのダヴァイさん、バグダッドの病院のスミス先生、イラクに住む赤十字社のオランダ人スタッフ・アネットさんなどなど、大勢の人たちに助けられて、ザーラの一家に希望にあふれる新しい日々が訪れる。いい人ばかりが登場するいいことずくめの物語ではあるが、児童文学としてはそれが正しい。子供たちに生きる希望を与えることが児童文学のいちばんの使命なのだから。(2014.1.20読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-21 09:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ほんとうに大切なこと』(ヤン・ゴールドスタイン著、松本美菜子訳、ソニー・マガジンズ)

c0077412_113914100.jpg『All That Matters』(Jan Goldstein)
読書会「かんあおい」2013年11月の課題図書。
23歳のジェニファーはカリフォルニアのヴェニスビーチで気を失って倒れているところを発見された。彼女がそこに行ったのは自殺するためだった。輝く夕日に別れを告げ、精神安定剤のザナックスを飲んだのだ。病院で目が覚めると、祖母のギャビーが彼女を見守っていた。5年前に亡くなった母リリの母親で、父の知らせを受けてニューヨークから駆けつけたのだ。
ギャビーは76歳。夫イツィクは21年前に他界して一人暮らしをしており、長年の喫煙のせいで肺をやられている。憤怒のかたまりになり、点滴のために眉間にしわを寄せているジェニファーを見ながら、ギャビーは娘リリの思い出にかけて誓う。ジェニファーに、暗闇から抜け出して光の中に帰る道を必ず見つけさせてみせる、と。
再婚して新しい妻と子供がいるジェニファーの父は、医者のいう鬱病患者のジェニファーを家に引き取るわけにはいかない、金はいくらかかってもいいから専門病院に預けたいと考える。それを知ったギャビーはジェニファーを自分の家に連れて行くことにする。屋根裏部屋に隠れ、死の列車から飛び降り、ポーランドの灼熱地獄から逃げ出したのは、そんな病院に閉じ込められている孫を見るためじゃない、と思ったからだ。こうしてギャビーとジェニファーの、6週間という期限付きの生活が始まる。

ギャビーはもう一人のサラ(『サラの鍵』のサラ)だった。ギャビーを屋根裏にかくまってくれていたポーランド人のプラスキさんが「どんなつらいときでも目と心をちゃんと開けば贈り物が用意されている」と言ったその晩、ギャビーは、もう二度と会えない妹のアンナと氷滑りを楽しんでいる夢を見た。それ以来ギャビーは、その日の贈り物を見つけることを楽しみに一日一日を過ごしたという。この「その日の贈り物に感謝しながら生きる」という心をギャビーからしっかり受け取って、ジェニファーは前を向いて歩き出す。(23歳にしては幼い感じのする)ジェニファーの人生への旅立ちの物語であり、家族の再生の物語である。(2013.10.3読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-12-27 11:39 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『さい果て』(津村節子著、筑摩現代文学大系91)


c0077412_10121043.jpgこれは津村節子と吉村昭の若き日をかなり忠実に描いたと思われる作品である。主人公の春子は大学の文化祭で友人から紹介された志郎と結婚する。早くに両親をなくして伯父の家で育った春子は、少女の頃から自分の家庭を持つことにあこがれていた。しかし、春子があこがれていたサラリーマンらしい家庭生活はわずか二ヶ月しか続かなかった。志郎がそれまで勤めていた紡績会社を辞めて、紡毛糸のブローカーを始めたのだ。しかし志郎の思惑は外れ、事業はたちまち行き詰まる。しかも元々身体の弱かった志郎が病気になったため貯えも尽き、春子は初めて質屋通いも経験する。やがて志郎は、売れ残りのメリヤス製品を各地の市場で売り歩くようになり、そんな夫とともに春子も商人宿に泊まり、寒さに震えながらの先の見えない流浪の旅を続ける。「最果て」と題した第3章にある次の文は、汽車で根室に向かっているときの春子の心の寂寥を映し出していて印象的である。

汽車は、枯れ野を走っていた。/どこまで行っても、人家も人影も見えなかった。こんなところに鉄道が敷かれているのが不思議なほど、人間の気配の全く感じられない原野であった。駅と駅との間隔が、内地のそれと比較して心細くなるほど長かった。このまま汽車は陸の終わりまで行き、海の中へでもはいって行くのではないかと思われた。

同じ作者の『紅梅』に、実家の姉と義兄に離婚を勧められた春子が「こんなに苦労させられたのだから、今別れたら損をすると思った」という思い出話が出てくる。ここでいう「こんな苦労」の部分が詳しく語られている作品である。(2013.10.1読了)
☆この作品は読書会「かんあおい」10月の課題図書『紅梅』の関連図書として読みました。
[PR]
by nishinayuu | 2013-12-21 10:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『紅梅』(津村節子著、文藝春秋)


c0077412_9325743.jpg読書会「かんあおい」2013年10月の課題図書。本作品の初出は2011年「文学界」5月号。
作家である夫が重篤な病を発症した2005年の1月から最期を迎えた2006年夏までを、やはり作家である妻の立場から綴ったもの。吉村昭の闘病と津村節子の介護の日々を基にした「作品」であり、登場人物の名前も変えてあるが、作家活動に関する事項などはそのまま書かれていると思われることから、「記録」に近いものといえよう。ふたりともに創作活動に従事する夫婦というのはさほど珍しくはないかもしれないが、そういう場合は互いに相手を尊重して相手の領域には踏み込まないようにしないと長続きしないだろう。そんな夫婦の微妙な関係が、夫の辛辣でいてユーモアのある言葉と、妻の恨めしさを潜めた優しさから感じ取れる作品である。ただし夫の最後の場面を綴った次の部分には、やりきれなさの頂点に達した妻の気持ちが現れているようで、印象に残る。
夫は息子の首に手を回して何か言った。(中略)夫は息子に何を言い残したのだろう。育子でなくなぜ息子なのだろう。育子が夫の背中をさすっているときに、残る力をしぼって身体を半回転させたのは育子を拒否したのだ、と育子は思う。情の薄い妻に絶望して死んだのだ。あれほど苦しんだ病気から解放された夫は、穏やかな顔で眠っていた。
(2013.9.29読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-12-18 09:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『野いばら』(梶村啓二著、日本経済新聞、2011)

c0077412_20355269.jpg読書会「かんあおい」2013年8月の課題図書。本書は19の章からなり、1、12,19が現代のイングランドとアムステルダム空港、その他は150年前の江戸が舞台になっている。
物語は、醸造メーカーのバイオ事業部に籍を置く縣和彦が「俺」という一人称で語り始める。2009年6月16日、「俺」は仕事の旅の途上、イングリッシュ・ガーデンを見学しようと立ち寄ったコッツウォルズの片隅にある古い屋敷で、屋敷の主であるパトリシアから古いノートを渡される。前の持ち主であるウィリアムが1896年に書いたもので、日本人に読んでもらうことを望んでいたという。「俺」はそのノートを預かって仕事の旅のあいまに読んでいく。
時は1862年に飛び、ウィリアム・エヴァンズが「わたし」という一人称で語り始める。田舎医者の息子で、英海軍情報士官として27歳で香港に赴任して5年。妻エヴェリーンは故郷に残ることを望んだので、単身の赴任である。英国公使館襲撃、生麦事件などで英国と日本の緊張が高まっていたこの年の9月末、エヴァンズは横浜の英国公使館に転任する。赴任直後に成瀬勝四郎という男がエヴァンズの前に現れる。公使館員の雑事と大君政府との連絡を担当し密偵も兼ねる、外国奉行配下の役人である。完璧な北京官話を操り、英語を少々話す成瀬に、エヴァンズは一目で魅了される。成瀬の手配でエヴァンズは日本語の勉強を始める。場所は町外れにある禅久院、教師は70を超えた老人の野上。ところが野上は開国主義者で放言癖があったために斬殺されてしまう。成瀬は次に、親戚の女性・成瀬由紀を連れてくる。水戸に嫁いでいたが離縁されて実家にいる変わった女だという。こうして由紀は日本語の教師として週2回、江戸から泊まりがけで禅久院に通ってくることになった。
知的な美貌の持ち主である由紀は、素晴らしい日本語教師でもあった。日本語の授業の合間に、由紀とエヴァンズはそれぞれが持参した弁当を交換してみたり、エヴァンズが採集している日本の花の話をしたりして、急速に親しくなっていく。そしてある日、由紀の従者の吉次がウマラ(野いばら)を抱えてきたのをきっかけに、エヴァンズはそれが由紀のいちばん好きな花だということを知る。エヴァンズが日本の歴史書や地図の購入を頼んだときや、由紀が「菊合わせ」に案内してくれるというので、エヴァンズがお礼に英公使館に案内すると申し出たときなどに由紀が見せた緊張に、エヴァンズは深い意味を読み取ることはしなかった。しかし来日して1ヶ月経った10月末、日本の政情について互いに探りを入れるために成瀬勝四郎と密会したとき、エヴァンズは由紀の美貌のことを口にしかけて言葉を呑んだ。何か自分を強く押しとどめるものがあったのだ。それが破滅の予感だったことに、エヴァンズはあとで気がついたのだった。
敵対する陣営を背後に背負ったエヴァンズと由紀の、短くも熱い出会いと別れを最後に見届けたのは野いばらの茂みだった。150年後のコッツウォルズで野いばらの茂みを見守るパトリシアは、エヴァンズのノートを読み終えて返しに来た縣に「男って勝手ね」と言うのだが、由紀と同じ日本人であり、エヴァンズと同じ男である縣は、どう応えるべきだったのだろう。(2013.7.17読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-09-18 20:36 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)