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『死の翌朝』(ニコラス・ブレイク、訳=熊木信太郎、論創社)

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The Morning After Death』(Nicholas Blake1966

舞台はハーバード大学がモデルと思われるガボット大学。登場するのはガボット大学の教授をはじめとする大学関係者たち。



主要人物は以下の通り(登場順)。

*ナイジェル・ストレンジウェイズ……イギリス人の私立探偵。客員研究者としてガボット大学ホーソン・ハウスの寄宿舎に滞在中。

*チャールズ・ライリー……アイルランド人の詩人。客員詩人として滞在中。

*チェスター・アールバーグ……ガボット大ビジネススクール教師。

*スーキー・テート……エミリー・ディキンスンをテーマに博士論文を執筆中の大学院生。

*マーク・アールバーグ……ガボット大文学部教師。チェスターの弟。

*エゼキエル(ジーク)・エドワーズ……ホーソン・ハウスの寮長。オクスフォード大時代のナイジェルの同級生。

*メイ・エドワーズ……ジークの妻。

*ジョシア(ジョシュ)・アールバーグ……ガボット大文学部教授で専門は古典文学。チェスターとマークの異母兄。ホーソン・ハウスは3兄弟の父親が建てて大学に寄贈したもの。

*ジョン・テート……スーキーの弟。ガボット大学の学生。ジョシアとの間で論文をめぐる諍いがあり、停学中。

物語は上記の5番目までの人物がエミリー・ディキンスンの故郷アマーストにドライブする場面から始まり、車の中での会話からそれぞれの人物の立場や人間関係が大体わかるようになっている。それに続くのはディキンスンの家の前にみんなを並べてナイジェルが記念写真を撮る場面。ここでは各人の顔立ちや身なりなどが詳しく描かれていて、人柄が類推できる。このあとに「『歴史的な写真だな』とナイジェルは独りごちたが、何気ないその言葉がいかなる意味を持つことになるか、幸いにもまだ気づいていなかった」という意味深な文が続く。この日一緒にドライブした男女は、このあとホーソン・ハウスの殺人事件の当事者、もしくは重要参考人になっていくのだ。

作者のニコラス・ブレイクは、本名セシル・デイ=ルイス――かの有名な桂冠詩人その人であり、『丘の上の樫の木』などで知られる小説家でもある。(2017.5.13読了)


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by nishinayuu | 2017-08-16 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『バーチウッド』(ジョン・バンヴィル、訳=佐藤亜紀・岡崎淳子、早川書房)


Birchwood 』(John Banville1973

舞台はアイルランド。語り手は長い不在のあとでかつて住んでいた屋敷バーチウッドに戻ってきたガブリエル・ゴドキン。

c0077412_09305283.png「ひとはあるがままを覚えていると思い込んでいるが、実のところ未来まで持ち越せるのは、ありもしない過去を造り上げる断片でしかない。(中略)輝く夏の朝、屋敷の部屋には素早く静かな警戒感が漲り、玩具やティーカップは前夜のままなのにまるで別物のようになった。夕方、おびえた鷭が池の水面を横切って飛ぶと、風景が二つに割れたように見えた。東風が吹くと煙突が歌った。こうした様々なこと、これらのマドレーヌを私は再びかき集め、記憶と照らし合わせ、埋もれた帝国の地図を作ろうとする考古学者のように継ぎ合わせたが、それでも物自体は私から逃れ、屋根裏や地下室――私が好んで佇む忘れられた片隅に足を踏み入れない限り、過去が芽吹くことはなかった。暮れ方、裏階段の緑のガラスが嵌まったドアの脇、椰子の鉢植えの横で私が足を止めると、年月は消え去った。」

このような語り口でバーチウッドにまつわる物語が展開していく。屋敷と農地をめぐって対立する父方のゴドキン一族と母方のローレス一族、突然屋敷に現れたマーサ叔母とその子マイケル、東屋で爆死する祖母、狂っていく母――そしてある日、ガブリエルは「行方不明の双子の妹」を探すために、サーカスの一行に加わって旅に出る。サーカスの華やかな興業、自由奔放な人間関係に魅了された旅も一年で終わる。ジャガイモの不作による飢饉で国中が混乱に陥ったのだ。

「行方不明の双子の妹」のことをはじめとする家族の謎に、アイルランドの歴史が歪んだ時間軸で絡まってきて、つかみ所がないまま最終章になだれ込んでいく。そしてその最終章で家族の秘密は、一気に、あっけなく解き明かされる。

20088月に『海に帰る日』を読んで以来、作者のジョン・バンヴィルの名が頭を離れなかった。201412月に『いにしえの光』を読んだら、ジョン・バンヴィルの名がいよいよ頭にこびりついてしまった。どちらも独特の雰囲気と余韻のある作品ではあるけれども、特に好きな作品というわけではなかった。作品そのものよりも、タイトルと作者名がとにかく印象的だった。しかし、この『バーチウッド』が、28歳という若いときの作品で凝りすぎているせいか、あるいは訳文の文体と文字遣いのせいかわからないが、とにかく読みにくい作品だったおかげで、ジョン・バンヴィルという名の魔力から少し自由になった気がする。(2017.5.10読了)


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by nishinayuu | 2017-08-12 09:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『あるロマ家族の遍歴』(ミショ・ニコリッチ、訳=金子マーティン、現代書館)


c0077412_10075620.jpgund dann zogen wir weiter 』(MišoNikolić

本書の元となっている原書は『そしてわれわれは旅をつづけた~あるロマ家族の遍歴~』(1997)と『放浪者~あるロムの歩んだ道~』(2000)の2冊で、いずれもオーストリア・ドイツ語で書かれたもの。著者は1941年に生まれ、ベオグラード市北端にあるロマ居住区で青年時代を過ごし、のちに難民としてウィーンに定住した。1990年代に妻、二人の息子とバンドを結成し、リードギター奏者として活躍した。

本書には著者の生家の家族のこと、独立して妻と一緒に築いた家族のことを中心に、ロマ社会の様々な様相と、ロマが一般社会の一員として生きていくことの難しさが詳細に綴られている。衝撃的なのは、著者の親しい人々の多くがスリや窃盗、物乞いで生計を立てたり、占いや移動遊園地の経営を生業としていたりすることだ。しかし、それは彼らが教育を受ける機会に恵まれていなかったせい、あるいはまともな仕事に就く機会に恵まれていないせいであって、一人一人の努力ではどうにもならない面があるのだということが本書を読んでいるうちにわかってくる。そんなロマの人々の中にあって、著者は子どものころからなにをやらせてもすぐにトップクラスになるような恵まれた資質の持ち主だったようだ。素晴らしいのは、傑出した能力の持ち主である著者が自分や家族の幸せだけでなく、ロマ社会全体の幸せを強く願っていることで、そんな著者の心がひしひしと感じられてくる作品である。締めくくりの部分で著者は次のように言っている。

「非ロマの人々はロマはいつも結束が固い、と信じ込んでいるようだが、ロマは自分たちが危機的状態にあるときには結束するが、そうでないときはてんでんばらばらだ。ロマの社会でも裕福な者は貧しい者を見下すし、貧乏人は金持ちを羨んで背後で悪口を言う。善人は阿呆扱いされ、生意気で口達者な者が尊敬されるという現実がロマ社会にもある。けれども、貧乏人だろうが金持ちだろうが、強かろうが弱虫だろうが、賢かろうが無知だろうが、人間は誰もが尊敬されなければならない。」

本書にはもう一人、ロマへの理解を深めるために尽力した人物が出てくる。ロマ研究者であるオーストリアのモーゼス・ハイシンク(Mozes Heinschink)である。ハイシンクはユーゴスラビアやトルコからウィーンへ移住したロマと1958年から接してロマニ語を学び、ロマ4800人ほどの証言や童話・歌などを集めている。また、著者とは特に親しい関係にあり、著者の子どもたち5人全員の代父を務めている。

訳注や解説がどっさりついているが、今後のために押さえておきたいことばだけ厳選して記しておくことにする。

ロマ(Roma)インド発祥の少数民族の総称/ロム(Rom)ロマの男性単数形/ロムニ(Romni)ロマの女性単数形/カルデラシュ(Kalderaš)ロマの諸グループの一つ。伝統的生業は馬喰/スィンティ(Sinti)ロマの諸グループの一つ。伝統的生業は楽士/ガジェ(Gaže)非ロマ

2017.4.29読了)


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by nishinayuu | 2017-08-04 10:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』(レイチェル・ジョイス、訳=亀井よし子、講談社)


c0077412_10065535.pngThe Unlikely Pilgrimage of Harold Fry』(RachelJoyce

主人公のハロルドは定年退職して半年の65歳の男。学もなく引っ込み思案の性格だが、青年期に一瞬輝いたときに美人の妻モーリーンを得た。そして生まれた男の子デイヴィッドは大変な秀才で、青年期になるとハロルドの手の届かないところに行ってしまう。いい父子関係が築けないハロルドに失望した妻もハロルドを疎んじるようになって、ハロルドは家族の中で孤立していた。

そんなある日、ハロルドの元に元同僚の女性クウィーニーから「癌で余命いくばくもない」という手紙が舞い込む。クウィーニーは、職場でも上司や同僚と親しい関係が築けなかったハロルドが、唯一心を開いてつきあうことができた相手だったのだが、20年前のある日、突然職場を去った。ハロルドをかばった結果の辞職だったのに、彼女が急に姿を消したため、ハロルドは彼女にお礼を言うことも、別れの挨拶をすることもできなかった。自分から彼女の消息を尋ねるべきだった、と悔やみながら、ハロルドはすぐに返信を認める。恩義のある彼女に20年ぶりに出す手紙としては文面がありきたりすぎるような気がしたが、とにかく彼女宛の手紙を投函するためにハロルドは家を出る。近くのポストで投函しようとしてためらい、次のポストでまたためらってその次のポストへ、という具合になかなか投函できないでいるうちに、ハロルドはいつの間にかクウィーニーに向かって歩き始めていた。会いに行くから、それまでちゃんと生きていて、とクウィーニーに呼びかけながら。

旅をするつもりはなかったのに成り行きで旅を始めてしまったハロルド。最初は手持ちのカードで気楽に散財していたが、やがてカードを妻の元に送り返す。身の回りから余分なものをそぎ落としたハロルドは、旅の途上で様々な人と出会い、様々な経験を重ねながら、本物の巡礼者へと変身していく。一方妻のモーリーンも、夫の突然の出奔をきっかけに来し方を振り返る。そして父子関係、夫婦関係がしっくりしなくなったのはハロルドのせいばかりではないことに気づいていく。

20年前にいったい何があったのか、ハロルドは息子のデイヴィッドと和解できるのか、クウィーニーはハロルドを待っていてくれるのか、などなどの謎を秘めたまま、イングランドの西南の果てキングズブリッジから北の果てのベリック・アポン・ツィードへのハロルドの旅の物語は、イングランドの美しい風景の中を行くロードムービーのように進行していく。

「訳者あとがき」によると、著者はBBCテレビやラジオに作品を提供してきた脚本家で、本作は小説としての第1作。世界36カ国で出版が決まっており、映画化権も売れているという。まさしく映画向きの作品である。2017.4.23読了)


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by nishinayuu | 2017-07-27 10:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『この素晴らしき世界』(ペトル・ヤルホフスキー、訳=千野栄一、集英社)


Musíme si pomáhat』(Petr.Jarchovský

c0077412_10235215.jpg原題の意味は「我々はお互いに助け合わなければならない」。翻訳は千野栄一が未完成のまま他界した後、パートナーである保川亜矢子(3章以降)と娘である千野花江(2章)によって完成された。(したがって訳者名は3人の名を併記すべきだが、ブログの制約のため上のような表記になったことを訳者と出版社にお詫びする。)

さて、本書は2012427日に読了し、618日にブログにup(こちら→)している。20年近くチェコスロバキアの(分割後はチェコの)ボヘミア地方の人とエスペラントで文通していたこともあって、当時もチェコにはある程度親近感を持っていたが、本書は一般の翻訳書の一つという印象でしかなかった。再読した今回はミュシャの大作「スラブ叙事詩」を見たばかりのせいか、登場人物たちにより親しみを感じた。登場人物たちが「スラブ叙事詩」に描かれた人々と重なり、そのたくましさの所以が理解できたように思う。たとえば前は「やり過ぎでは」と感じてあまり感動できなかった次のシーンも、今回はなかなかいい、と思えたのだった。

小さな生物の上に六つの成長した男の顔が六人の「父親」のようにかがみこんだ。右から左に、肩に自動小銃をかけたロシア兵、急に厳かな穏やかな顔になったダヴィド・ヴィーネル、やむをえず英雄になった疲れたヨゼフ・チージェク、疲れ切った偽医者のプロハスカ、失神するところだったスロヴァキア人のパルチザン、困惑した追求者の大尉が立っていた。この男たちの世にこの子は生まれたのだ。子どもの産声に、みんなの顔には感動した、少し間の抜けた軟らかな微笑みが浮かんだ。ロシア兵はチージェクを祝福するために手を差し出した。「マールチク(男の子)だ……」ロシア兵が言うと、そのことばはその瞬間、なにかとても神聖な感じに響いた。(ところどころ語句を省略したり変えたりしてあります。)

この作品は刊行と同年の2000年に映画化されており、本も映画も大好評だったという。ただ、映画のキャスト情報はネット上にはほとんどなく、出演映画としてあげられているのは本作だけという俳優ばかりだった。そのなかで唯一プロハスカを演じたヤロスラフ・ドゥシェクだけは本作以外の映画名もあげられている。プロハスカはナチスのシンパで、マリエへの下心から親切ごかしに夫婦に近づき、なにか怪しいと疑って夫婦の身辺を探り、それなのにとっさの機転でナチスの罠から夫婦を救ったりし、戦局が変わると当然ながらパルチザンに捕らえられ、あわやという時に今度はチージェクのとっさの機転で「医者」にされ、追求者たちの見守る中で「医者」を演じきる。このように物語の魅力に貢献している重要人物であればこそ、プロハスカ役にはそれ相応の演技力と格のある俳優が当てられたということだろう。(2017.4.14読了)


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by nishinayuu | 2017-07-23 10:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『書店主フィクリーのものがたり』(ガブリエル・ゼヴィン、訳=小尾芙佐、早川書房)


The Storied Life of a J.Fikry』(GabrielleZevin

表紙裏の紹介文はこんな具合になっている。

c0077412_09333871.pngその書店は島で唯一の、小さな書店――偏屈な店主のフィクリーは、来る日も来る日も、一人で本を売っていた。ある日、所蔵していたエドガー・アラン・ポーの稀覯本が盗まれ、またある日、書店の中には女の赤ん坊がぽつんと置かれていた。フィクリーはこの子を育てる決心をする。すると、手助けしようと島の人たちがやってくるようになる。あまり本を読まなかった人たちも本を買い、語り合う。女の子は本好きになり、すくすくと成長し……。(一部省略や言い換えがあります。)

なるほど、温かい人たちのおかげで偏屈な男の心が解け、拾われた子どもといい親子になっていく、というとことん甘い話らしい、と思って読み始めると、いい意味で裏切られる。ただの甘ったるい小説ではないのだ。妻ニックの故郷に二人で開いた書店を一人でやってくはめになった孤独なフィクリー、書店に置き去りにされた独りぼっちの2歳の女の子マヤ、書店相手の営業を担当する独身女性アメリア、夫の浮気に悩むニックの姉で教師のイズメイ、その夫で書けなくなった作家のダニエル、本とは無縁だったのに足繁く書店通いを始めた警察署長などなど、島の住人たちそれぞれのドラマが盛り込まれた、苦さも辛さもある味わい深いヒューマンドラマなのである。

そしてなによりも、書物に関する知識と情報にあふれた蘊蓄小説でもある。あちこちに本のタイトルや作家の名がちりばめられているばかりでなく、各章の冒頭に、フィクリーが興味を持ち、マヤに読ませたいと考えている短編小説のタイトルとコメントが掲げられている。たとえば『ロアリング・キャンプのラック』(ブレット・ハート、1868)について、フィクリーは次のようなコメントをつけている。

「ラックと名づけたインディアンの赤ん坊を養子にする鉱山の飯場の極めてセンチメンタルな話。大学のセミナーで読んだときは全く感動しなかったが、2年前に再読したときはひどく泣いたので、あの本に涙がしみこんでいるのにきみは気づくはずだ。(中略)小説というものは、人生のしかるべきときに出会わなければならない。覚えておくのだよ、マヤ。ぼくたちが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね。逆もまたしかり。このことは本においても、人生においても真実なのだ。」

さらにこの小説には、盗まれたポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』はどうなったのか、2歳のマヤを書店に置き去りにして自殺した母親はそもそもなぜ島にやって来たのか、というミステリー的な要素もあって、最初から最後まで飽きさせない上出来の読み物である。

c0077412_09332916.jpgポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』について、ちょっと調べてみました。1827年に刊行された詩集で、TamerlaneというのはTiūmr-ilang(ティムール)が英語風に転訛したものだそうです。画像はそのTamerlaneの表紙です。(2017.4.11読了)


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by nishinayuu | 2017-07-15 09:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『いないも同然だった男』(パトリス・ルコント、訳=桑原隆行、春風社)

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Le garçonqui nexistait pas』(Patrice Leconte

本作は『髪結いの亭主』などで知られるフランスの映画監督ルコントによる4作目の小説である。「本は本、映画は映画だ」と言う作者は「日本語版に寄せて」という文で次のように読者に語りかけている。

読者の皆さんが手にされているのは私の最新の小説です。常識はずれで、突拍子もない恋愛物語、決して映画にはなり得なかったような物語。好都合です。小説なのですから。どうかお楽しみください。

主人公は「三十歳そこそこの銀行員」のジェラルド。人からは場合によって40歳に見られたり25歳に見られたりする年齢不詳の男で、自分でも誕生日がいつなのか忘れてしまっている。でもそれはたいした問題ではない。誰ひとり彼の誕生日を祝おうなんて人はいないのだから。なぜなら彼は家族の中でもいつもその存在を忘れられていて、いないも同然だったからだ。家族はアルゼンチンに移住するに当たって、彼を私立中学校に送り込み、彼を除いた自分たちだけの人生を再編成するために飛び立っていった。(なんと哀れなジェラルド!ルナールの「にんじん」のように露骨にいじめられるわけではないが、家族の中でいないも同然の扱いを受けるとは。)

救いはジェラルドがそんな自分を哀れだとは思っていないことだ。いないも同然なのを利用して、子どもの頃は「まんびき」をして欲しいものを手に入れることもしたし、銀行員になってからは勤務時間中に抜け出して私立探偵事務所の職員として尾行やしのび込みをやったこともある。長年勤めている銀行なのに、顧客はもちろん銀行員たちも彼がいてもいなくても気がつかないのだ。

私立探偵として働いた数ヶ月、ジェラルドは自分が役に立ち、有能で、たぐいまれで欠かせない存在だと感じることができた。つまり彼は初めて、存在している、と感じたのだった。

自分が優秀な尾行者であることに気づいたジェラルドは、銀行でただひとり自分の存在を認めてくれているように思われるヴィクトワール(上司の若い女性)の後をつけた。アラゴ大通り支店から地下鉄の駅へ、そして地下鉄で最寄り駅に着くと地上へと続く階段を4段ずつ一気に駆け上がるヴィクトワール。ドアの解錠コードを押そうとしたところで振り返り「あら、まあ、ジェラルド、すごい偶然ね…こんなところでなにしているの?」と快活な口調で言うヴィクトワール。透明人間のはずが見つかってしまったジェラルドがまともな返事もできずにもごもご言って彼女を笑わせたあと、彼女はドアのビーッという音とともに姿を消す。尾行には失敗したがジェラルドは、彼女にとって自分は透明ではない、つまり彼女は自分を影の薄い人間とは見なしていない、と確信する。そこから、彼女を虜にすることも可能なのだ、という考えに飛躍したジェラルドは、彼女をあっと言わせて自分に惹きつけるために「英仏海峡を泳いで」渡ろうと思い立つ。さて、その首尾やいかに。

気楽に読めて、めちゃくちゃ愉快な小説でした。(2017.4.8読了)


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by nishinayuu | 2017-07-07 09:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『歳月』(鄭智我、訳=橋本智保、新幹社)


봄빛』(정지아

c0077412_07044536.jpg原題は「春の光」。1965年に生まれ、『パルチザンの娘』で文壇デビューした作家による短編集である本書には8つの作品が収録されている。個人の人生に食い込んだ現代史の桎梏を基調にして、人生の最後の段階に至った人々と、彼らに振り回されたり優しく見守ったりする人々の作り出す情景を描いた作品が多い。



*風景――主人公は還暦を過ぎた男。村の中心部から遠く離れた山中で、100歳近い母親と二人で暮らしている。5人の姉と3人の兄がいたがみんな次々に家を離れていった。3人の兄のうち上の二人は、若いときに山から来た麗水十四連隊の軍人たちに連れられて行ったまま(つまりパルチザンになったまま)戻ってこなかった。そんな息子たちを待ち暮らしているうちに母親は、いろいろなことを忘れていったが、30年前に母親がまず忘れたのは最後まで母親のところに留まった末っ子のことだった。母親がぼけてからの30年もそれまでの年月と同様、食べて寝て、田畑を耕すこと以外の生き方を知らずにきて、そんな自分を「幸運なことでもなければ不幸なことでもなかった」と思う男。しみじみとした味わいのある話。

*くぎ――5歳の時熱病に冒されたため、人々から「出来損ない」と馬鹿にされながら生きてきたコヌ氏。そんなコヌ氏を二人の心温かい女性たちが守っている。ひとりは、7歳でコヌ氏を引き取って育て上げて今も世話をしてくれているおば。もう一人は夫が山にこもっていた(パルチザンだった)時期だけ連絡が途絶えたが、その後はずっと蓮華が赤く咲く春の日に朝一番のバスでやってくる姉である。

*春の光――威圧的な暴君だった父親がぼんやりした感じになり、穏やかで従順だった母親が口やかましくなっている! ぼけていく両親を目の辺りにした息子は、二人が彼の生命を育てたように、今度は彼が二人を胸に抱き、彼らが死へと旅立っていくのを見届けなければならない、と思うのだった。

*純情――17歳で麗水14連隊に入ったペ・カンウは、6年後山を下りた。山でともに過ごした李鉉相の「生き延びろ」ということばを胸にして。サンシル峠でふと振り返った彼が見たものは二度と戻ることのできない天国だった、命をかけた青春そのものが天国だということを、そのときの彼は知るよしもなかった。(注)麗水14連隊――済州島4.3事件の折に鎮圧命令に背いて反乱軍となり、智異山にこもってパルチザンとなった左翼勢力。

以上の他の「消滅」「羊羹」「23歳、43歳」「歳月」を含めて、どの作品にも印象的な人物たちが登場し、印象的なエピソードが綴られていて、なかなかいい作品集である。ただし、残念ながら日本語がちょっとおかしい。「切歯腐心」「歩武堂々」といった韓国語特有の四字熟語はまあ許すとしても、「なにもしてやれることのできない不幸な父」やら「漠然でかつ抽象的」やら、文法的に間違った表現もあれば、文章のねじれなども散見される。作品の内容がすばらしいだけに、実に惜しい。(2017.4.8読了)


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by nishinayuu | 2017-07-03 07:05 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『女たちのなかで』(ジョン・マクガハン、訳=東川正彦、国書刊行会)


Amongst Women』(JohnMcGahern

c0077412_10114752.jpg舞台はアイルランドの田園地方。登場するのはグレートメドーと呼ばれる家に住む家族で、アイルランド独立戦争の闘士だったモランが専制君主のように君臨している。そしてマギー、モナ、シーラの三人娘と末っ子のマイケル、そして後妻のローズが、気性が激しく気分屋でもあるモランを上手に立てて暮らしている。たとえば、働き者で体力のあるモランは家族にも同様の働きを求め、ローズも娘たちもモランの期待に応えようと懸命に努力する。また一家は毎晩、床に新聞紙を敷いて跪き、敬虔なカトリック信者であるモランの主導で「ロザリオの祈り」を唱えることになっている。これがまた、そうとう時間が掛かる儀式なのだ。

しかし、そんな家族にもやがて変化が訪れる。長男のルークはとうの昔に父親との縁を切ってロンドンに行ってしまったが、娘たちにも家を出るべきときが近づいてきたのだ。まず、マギーが看護婦になるためにロンドンに出て行く。モランはいろいろ理屈を述べて止めようとしたが、最後にはロンドン行きを認める。ローズのおかげで家事から解放されたマギーには新しい仕事、新しい生活が必要だったからだ。そして次はモナとシーラが家を離れることになる。娘たちはみなモランに似て頭がよく、成績がとてもよかったので、教師からは大学進学を勧められていた。それでシーラは医者になりたいという希望を口にしたこともあったが、モランの逆鱗に触れたこともあって、二度とその話はせずに、結局二人とも公務員としてダブリンで働くことになる。家を離れても娘たちは頻繁に里帰りをしては農作業を手伝い、ローズといっしょに家事を楽しんだりする。家を離れる娘たちにモランが言ったように、娘たちにとってグレートメドーはいつでも帰ってこられる「家」なのだった。

女ばかりの家族の中で末っ子としてかわいがられていたマイケルも、家族の誰も意識しないうちに大人に近づいていて、やがて兄のルークのあとを追うように家を離れることになる。そのころにはモランにも次第に衰えが見え始め、娘たちの訪れを心待ちにし、ルークとの関係修復を期待するようになる。

これは、「女たちの中で」わがままいっぱいに、女たちの献身を当然のものとして生きてきたアイルランド男の生涯の物語であると同時に、そんな男に振り回されながらも心の奥では彼を大切に思い、深く愛していた女たちの物語でもある。感情のコントロールができず、愛情を素直に表に出すことも苦手な男と、波風が立たないように心を砕きながらたいていのことは広い心で受け入れる女たちの物語でもある。アイルランドを舞台にした作品は独立戦争の影を感じることなく読むのは難しいが、この作品はそれがあくまでも背景に置かれていて表に出てこないため、普遍的な家族の物語として読むことができる。(2017.3.31読了)


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by nishinayuu | 2017-06-25 10:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ぼくが逝った日』(ミシェル・ロスタン、訳=田久保麻里、白水社)


Le Fils』(Michel Rostain,2011

c0077412_09422449.png本書はそのユニークなタイトルに惹かれて手に取ってみた。そして読み始めたとたんに、「昼日中から毎日必ず泣けてきて、それが五分でやんだり、十分ずつ三回くりかえしたり、一時間ぶっ通しだったりする親父」にでくわした。これだけでこの作品は父親を残して「逝って」しまった息子が語る物語だとわかる。原題は『息子』であるが、本書のタイトルの方がずっといい。

語り手は20031025日(土)に急死する。21歳だった。そのとき親父と母さんが受けた衝撃、その時から始まった疑いや後悔、怒りや悲しみが綯い交ぜになった混乱の日々を、語り手は事細かに語っていく。息子が自ら死を選んだのではないか、という疑いにさいなまれたこと。息子の最期が近づいていることに思い至らず余計なことに気を取られていたこと。死んだと思ったらたちまち葬儀の準備が機械的に始まり、遺体の処理、葬儀の予算、葬儀場の選定、葬儀の段取りや演出、柩の材質、死者の衣裳、遺体の搬送、火葬か土葬かの決定、などなど速やかに決断すべきことが山のようにあったこと。二人の考えが異なってもどちらかが譲って、とにかく二人は混乱を切り抜けていったこと。そうして迎えた葬儀の席で、息子と共に過ごした月曜から土曜までの日々を人々に語りながら親父が、「リオン、おまえが先週私たちにしてくれたことは、すべて贈りものだ」と叫んだこと。この間、親父はほぼずっと泣き続けている。

そして「ぼく」はその後の両親の姿も語る。「両親は夢のことを訪れと呼ぶ。ぼくの訪れを待ちわびる二人にとって、ぼくは出来事であり、よろこびなのだ。二人ともまるで分別がない。あれこれ者に触れることで探しているのは、結局は死んだぼくなのだ。(中略)家の中は、どこもかしこもぼくの写真だらけ。そんなことをしたって、涙を止める役には立たないのに。三段論法――親父はぼくを思うたびに泣く。ぼくを思うときしか幸福を感じない。故に泣くたびに、親父は幸福になる。」

物語の親父はオペラの演出家で母さんはオペラ歌手になっている。作者のミシェル・ロスタン(1942年生まれ)はオペラ演出家で、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラを演出し、作中に親父が2001年に吉田進に作曲を依頼したという言及のある能オペラ『隅田川』も手がけている。すなわちこの作品の親父には作者の姿が色濃く投影されているものと思われる。おそらく作者も最愛の息子か娘を亡くしているのだろう。作中の親父は舞台の成功を祝ってくれた友人に「幸福な気持ちには二度となれなれません」と返事したことを悔やむことになる。その友人が1年後に娘を亡くしてしまうからだ。このエピソードも単なるフィクションではなさそうだ。

それはともかく、訪ねてきたぼくの女友達からぼくが生前、アイスランドに散灰して欲しいと言っていた、と聞いた両親は、エィヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajokull)という山にぼくの灰を撒く。ライオン(リオン)の形をしているように見える火口湖を「リオンの湖」と名付けて友人知人に語る頃には、苦しみの涙が幸せの涙へと変わっているのだった。

この作品は死者の持つ自由な視点を用いることによって、人はどのようにして愛する人の死を乗り越えるかを描ききっていると同時に、死者である語り手その人を輝かしい光の中に蘇らせることに成功している。(2017.3.27読了)


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by nishinayuu | 2017-06-17 09:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)