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『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』(レイチェル・ジョイス、訳=亀井よし子、講談社)


c0077412_10065535.pngThe Unlikely Pilgrimage of Harold Fry』(RachelJoyce

主人公のハロルドは定年退職して半年の65歳の男。学もなく引っ込み思案の性格だが、青年期に一瞬輝いたときに美人の妻モーリーンを得た。そして生まれた男の子デイヴィッドは大変な秀才で、青年期になるとハロルドの手の届かないところに行ってしまう。いい父子関係が築けないハロルドに失望した妻もハロルドを疎んじるようになって、ハロルドは家族の中で孤立していた。

そんなある日、ハロルドの元に元同僚の女性クウィーニーから「癌で余命いくばくもない」という手紙が舞い込む。クウィーニーは、職場でも上司や同僚と親しい関係が築けなかったハロルドが、唯一心を開いてつきあうことができた相手だったのだが、20年前のある日、突然職場を去った。ハロルドをかばった結果の辞職だったのに、彼女が急に姿を消したため、ハロルドは彼女にお礼を言うことも、別れの挨拶をすることもできなかった。自分から彼女の消息を尋ねるべきだった、と悔やみながら、ハロルドはすぐに返信を認める。恩義のある彼女に20年ぶりに出す手紙としては文面がありきたりすぎるような気がしたが、とにかく彼女宛の手紙を投函するためにハロルドは家を出る。近くのポストで投函しようとしてためらい、次のポストでまたためらってその次のポストへ、という具合になかなか投函できないでいるうちに、ハロルドはいつの間にかクウィーニーに向かって歩き始めていた。会いに行くから、それまでちゃんと生きていて、とクウィーニーに呼びかけながら。

旅をするつもりはなかったのに成り行きで旅を始めてしまったハロルド。最初は手持ちのカードで気楽に散財していたが、やがてカードを妻の元に送り返す。身の回りから余分なものをそぎ落としたハロルドは、旅の途上で様々な人と出会い、様々な経験を重ねながら、本物の巡礼者へと変身していく。一方妻のモーリーンも、夫の突然の出奔をきっかけに来し方を振り返る。そして父子関係、夫婦関係がしっくりしなくなったのはハロルドのせいばかりではないことに気づいていく。

20年前にいったい何があったのか、ハロルドは息子のデイヴィッドと和解できるのか、クウィーニーはハロルドを待っていてくれるのか、などなどの謎を秘めたまま、イングランドの西南の果てキングズブリッジから北の果てのベリック・アポン・ツィードへのハロルドの旅の物語は、イングランドの美しい風景の中を行くロードムービーのように進行していく。

「訳者あとがき」によると、著者はBBCテレビやラジオに作品を提供してきた脚本家で、本作は小説としての第1作。世界36カ国で出版が決まっており、映画化権も売れているという。まさしく映画向きの作品である。2017.4.23読了)


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by nishinayuu | 2017-07-27 10:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『この素晴らしき世界』(ペトル・ヤルホフスキー、訳=千野栄一、集英社)


Musíme si pomáhat』(Petr.Jarchovský

c0077412_10235215.jpg原題の意味は「我々はお互いに助け合わなければならない」。翻訳は千野栄一が未完成のまま他界した後、パートナーである保川亜矢子(3章以降)と娘である千野花江(2章)によって完成された。(したがって訳者名は3人の名を併記すべきだが、ブログの制約のため上のような表記になったことを訳者と出版社にお詫びする。)

さて、本書は2012427日に読了し、618日にブログにup(こちら→)している。20年近くチェコスロバキアの(分割後はチェコの)ボヘミア地方の人とエスペラントで文通していたこともあって、当時もチェコにはある程度親近感を持っていたが、本書は一般の翻訳書の一つという印象でしかなかった。再読した今回はミュシャの大作「スラブ叙事詩」を見たばかりのせいか、登場人物たちにより親しみを感じた。登場人物たちが「スラブ叙事詩」に描かれた人々と重なり、そのたくましさの所以が理解できたように思う。たとえば前は「やり過ぎでは」と感じてあまり感動できなかった次のシーンも、今回はなかなかいい、と思えたのだった。

小さな生物の上に六つの成長した男の顔が六人の「父親」のようにかがみこんだ。右から左に、肩に自動小銃をかけたロシア兵、急に厳かな穏やかな顔になったダヴィド・ヴィーネル、やむをえず英雄になった疲れたヨゼフ・チージェク、疲れ切った偽医者のプロハスカ、失神するところだったスロヴァキア人のパルチザン、困惑した追求者の大尉が立っていた。この男たちの世にこの子は生まれたのだ。子どもの産声に、みんなの顔には感動した、少し間の抜けた軟らかな微笑みが浮かんだ。ロシア兵はチージェクを祝福するために手を差し出した。「マールチク(男の子)だ……」ロシア兵が言うと、そのことばはその瞬間、なにかとても神聖な感じに響いた。(ところどころ語句を省略したり変えたりしてあります。)

この作品は刊行と同年の2000年に映画化されており、本も映画も大好評だったという。ただ、映画のキャスト情報はネット上にはほとんどなく、出演映画としてあげられているのは本作だけという俳優ばかりだった。そのなかで唯一プロハスカを演じたヤロスラフ・ドゥシェクだけは本作以外の映画名もあげられている。プロハスカはナチスのシンパで、マリエへの下心から親切ごかしに夫婦に近づき、なにか怪しいと疑って夫婦の身辺を探り、それなのにとっさの機転でナチスの罠から夫婦を救ったりし、戦局が変わると当然ながらパルチザンに捕らえられ、あわやという時に今度はチージェクのとっさの機転で「医者」にされ、追求者たちの見守る中で「医者」を演じきる。このように物語の魅力に貢献している重要人物であればこそ、プロハスカ役にはそれ相応の演技力と格のある俳優が当てられたということだろう。(2017.4.14読了)


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by nishinayuu | 2017-07-23 10:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『書店主フィクリーのものがたり』(ガブリエル・ゼヴィン、訳=小尾芙佐、早川書房)


The Storied Life of a J.Fikry』(GabrielleZevin

表紙裏の紹介文はこんな具合になっている。

c0077412_09333871.pngその書店は島で唯一の、小さな書店――偏屈な店主のフィクリーは、来る日も来る日も、一人で本を売っていた。ある日、所蔵していたエドガー・アラン・ポーの稀覯本が盗まれ、またある日、書店の中には女の赤ん坊がぽつんと置かれていた。フィクリーはこの子を育てる決心をする。すると、手助けしようと島の人たちがやってくるようになる。あまり本を読まなかった人たちも本を買い、語り合う。女の子は本好きになり、すくすくと成長し……。(一部省略や言い換えがあります。)

なるほど、温かい人たちのおかげで偏屈な男の心が解け、拾われた子どもといい親子になっていく、というとことん甘い話らしい、と思って読み始めると、いい意味で裏切られる。ただの甘ったるい小説ではないのだ。妻ニックの故郷に二人で開いた書店を一人でやってくはめになった孤独なフィクリー、書店に置き去りにされた独りぼっちの2歳の女の子マヤ、書店相手の営業を担当する独身女性アメリア、夫の浮気に悩むニックの姉で教師のイズメイ、その夫で書けなくなった作家のダニエル、本とは無縁だったのに足繁く書店通いを始めた警察署長などなど、島の住人たちそれぞれのドラマが盛り込まれた、苦さも辛さもある味わい深いヒューマンドラマなのである。

そしてなによりも、書物に関する知識と情報にあふれた蘊蓄小説でもある。あちこちに本のタイトルや作家の名がちりばめられているばかりでなく、各章の冒頭に、フィクリーが興味を持ち、マヤに読ませたいと考えている短編小説のタイトルとコメントが掲げられている。たとえば『ロアリング・キャンプのラック』(ブレット・ハート、1868)について、フィクリーは次のようなコメントをつけている。

「ラックと名づけたインディアンの赤ん坊を養子にする鉱山の飯場の極めてセンチメンタルな話。大学のセミナーで読んだときは全く感動しなかったが、2年前に再読したときはひどく泣いたので、あの本に涙がしみこんでいるのにきみは気づくはずだ。(中略)小説というものは、人生のしかるべきときに出会わなければならない。覚えておくのだよ、マヤ。ぼくたちが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね。逆もまたしかり。このことは本においても、人生においても真実なのだ。」

さらにこの小説には、盗まれたポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』はどうなったのか、2歳のマヤを書店に置き去りにして自殺した母親はそもそもなぜ島にやって来たのか、というミステリー的な要素もあって、最初から最後まで飽きさせない上出来の読み物である。

c0077412_09332916.jpgポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』について、ちょっと調べてみました。1827年に刊行された詩集で、TamerlaneというのはTiūmr-ilang(ティムール)が英語風に転訛したものだそうです。画像はそのTamerlaneの表紙です。(2017.4.11読了)


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by nishinayuu | 2017-07-15 09:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『いないも同然だった男』(パトリス・ルコント、訳=桑原隆行、春風社)

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Le garçonqui nexistait pas』(Patrice Leconte

本作は『髪結いの亭主』などで知られるフランスの映画監督ルコントによる4作目の小説である。「本は本、映画は映画だ」と言う作者は「日本語版に寄せて」という文で次のように読者に語りかけている。

読者の皆さんが手にされているのは私の最新の小説です。常識はずれで、突拍子もない恋愛物語、決して映画にはなり得なかったような物語。好都合です。小説なのですから。どうかお楽しみください。

主人公は「三十歳そこそこの銀行員」のジェラルド。人からは場合によって40歳に見られたり25歳に見られたりする年齢不詳の男で、自分でも誕生日がいつなのか忘れてしまっている。でもそれはたいした問題ではない。誰ひとり彼の誕生日を祝おうなんて人はいないのだから。なぜなら彼は家族の中でもいつもその存在を忘れられていて、いないも同然だったからだ。家族はアルゼンチンに移住するに当たって、彼を私立中学校に送り込み、彼を除いた自分たちだけの人生を再編成するために飛び立っていった。(なんと哀れなジェラルド!ルナールの「にんじん」のように露骨にいじめられるわけではないが、家族の中でいないも同然の扱いを受けるとは。)

救いはジェラルドがそんな自分を哀れだとは思っていないことだ。いないも同然なのを利用して、子どもの頃は「まんびき」をして欲しいものを手に入れることもしたし、銀行員になってからは勤務時間中に抜け出して私立探偵事務所の職員として尾行やしのび込みをやったこともある。長年勤めている銀行なのに、顧客はもちろん銀行員たちも彼がいてもいなくても気がつかないのだ。

私立探偵として働いた数ヶ月、ジェラルドは自分が役に立ち、有能で、たぐいまれで欠かせない存在だと感じることができた。つまり彼は初めて、存在している、と感じたのだった。

自分が優秀な尾行者であることに気づいたジェラルドは、銀行でただひとり自分の存在を認めてくれているように思われるヴィクトワール(上司の若い女性)の後をつけた。アラゴ大通り支店から地下鉄の駅へ、そして地下鉄で最寄り駅に着くと地上へと続く階段を4段ずつ一気に駆け上がるヴィクトワール。ドアの解錠コードを押そうとしたところで振り返り「あら、まあ、ジェラルド、すごい偶然ね…こんなところでなにしているの?」と快活な口調で言うヴィクトワール。透明人間のはずが見つかってしまったジェラルドがまともな返事もできずにもごもご言って彼女を笑わせたあと、彼女はドアのビーッという音とともに姿を消す。尾行には失敗したがジェラルドは、彼女にとって自分は透明ではない、つまり彼女は自分を影の薄い人間とは見なしていない、と確信する。そこから、彼女を虜にすることも可能なのだ、という考えに飛躍したジェラルドは、彼女をあっと言わせて自分に惹きつけるために「英仏海峡を泳いで」渡ろうと思い立つ。さて、その首尾やいかに。

気楽に読めて、めちゃくちゃ愉快な小説でした。(2017.4.8読了)


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by nishinayuu | 2017-07-07 09:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『歳月』(鄭智我、訳=橋本智保、新幹社)


봄빛』(정지아

c0077412_07044536.jpg原題は「春の光」。1965年に生まれ、『パルチザンの娘』で文壇デビューした作家による短編集である本書には8つの作品が収録されている。個人の人生に食い込んだ現代史の桎梏を基調にして、人生の最後の段階に至った人々と、彼らに振り回されたり優しく見守ったりする人々の作り出す情景を描いた作品が多い。



*風景――主人公は還暦を過ぎた男。村の中心部から遠く離れた山中で、100歳近い母親と二人で暮らしている。5人の姉と3人の兄がいたがみんな次々に家を離れていった。3人の兄のうち上の二人は、若いときに山から来た麗水十四連隊の軍人たちに連れられて行ったまま(つまりパルチザンになったまま)戻ってこなかった。そんな息子たちを待ち暮らしているうちに母親は、いろいろなことを忘れていったが、30年前に母親がまず忘れたのは最後まで母親のところに留まった末っ子のことだった。母親がぼけてからの30年もそれまでの年月と同様、食べて寝て、田畑を耕すこと以外の生き方を知らずにきて、そんな自分を「幸運なことでもなければ不幸なことでもなかった」と思う男。しみじみとした味わいのある話。

*くぎ――5歳の時熱病に冒されたため、人々から「出来損ない」と馬鹿にされながら生きてきたコヌ氏。そんなコヌ氏を二人の心温かい女性たちが守っている。ひとりは、7歳でコヌ氏を引き取って育て上げて今も世話をしてくれているおば。もう一人は夫が山にこもっていた(パルチザンだった)時期だけ連絡が途絶えたが、その後はずっと蓮華が赤く咲く春の日に朝一番のバスでやってくる姉である。

*春の光――威圧的な暴君だった父親がぼんやりした感じになり、穏やかで従順だった母親が口やかましくなっている! ぼけていく両親を目の辺りにした息子は、二人が彼の生命を育てたように、今度は彼が二人を胸に抱き、彼らが死へと旅立っていくのを見届けなければならない、と思うのだった。

*純情――17歳で麗水14連隊に入ったペ・カンウは、6年後山を下りた。山でともに過ごした李鉉相の「生き延びろ」ということばを胸にして。サンシル峠でふと振り返った彼が見たものは二度と戻ることのできない天国だった、命をかけた青春そのものが天国だということを、そのときの彼は知るよしもなかった。(注)麗水14連隊――済州島4.3事件の折に鎮圧命令に背いて反乱軍となり、智異山にこもってパルチザンとなった左翼勢力。

以上の他の「消滅」「羊羹」「23歳、43歳」「歳月」を含めて、どの作品にも印象的な人物たちが登場し、印象的なエピソードが綴られていて、なかなかいい作品集である。ただし、残念ながら日本語がちょっとおかしい。「切歯腐心」「歩武堂々」といった韓国語特有の四字熟語はまあ許すとしても、「なにもしてやれることのできない不幸な父」やら「漠然でかつ抽象的」やら、文法的に間違った表現もあれば、文章のねじれなども散見される。作品の内容がすばらしいだけに、実に惜しい。(2017.4.8読了)


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by nishinayuu | 2017-07-03 07:05 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『女たちのなかで』(ジョン・マクガハン、訳=東川正彦、国書刊行会)


Amongst Women』(JohnMcGahern

c0077412_10114752.jpg舞台はアイルランドの田園地方。登場するのはグレートメドーと呼ばれる家に住む家族で、アイルランド独立戦争の闘士だったモランが専制君主のように君臨している。そしてマギー、モナ、シーラの三人娘と末っ子のマイケル、そして後妻のローズが、気性が激しく気分屋でもあるモランを上手に立てて暮らしている。たとえば、働き者で体力のあるモランは家族にも同様の働きを求め、ローズも娘たちもモランの期待に応えようと懸命に努力する。また一家は毎晩、床に新聞紙を敷いて跪き、敬虔なカトリック信者であるモランの主導で「ロザリオの祈り」を唱えることになっている。これがまた、そうとう時間が掛かる儀式なのだ。

しかし、そんな家族にもやがて変化が訪れる。長男のルークはとうの昔に父親との縁を切ってロンドンに行ってしまったが、娘たちにも家を出るべきときが近づいてきたのだ。まず、マギーが看護婦になるためにロンドンに出て行く。モランはいろいろ理屈を述べて止めようとしたが、最後にはロンドン行きを認める。ローズのおかげで家事から解放されたマギーには新しい仕事、新しい生活が必要だったからだ。そして次はモナとシーラが家を離れることになる。娘たちはみなモランに似て頭がよく、成績がとてもよかったので、教師からは大学進学を勧められていた。それでシーラは医者になりたいという希望を口にしたこともあったが、モランの逆鱗に触れたこともあって、二度とその話はせずに、結局二人とも公務員としてダブリンで働くことになる。家を離れても娘たちは頻繁に里帰りをしては農作業を手伝い、ローズといっしょに家事を楽しんだりする。家を離れる娘たちにモランが言ったように、娘たちにとってグレートメドーはいつでも帰ってこられる「家」なのだった。

女ばかりの家族の中で末っ子としてかわいがられていたマイケルも、家族の誰も意識しないうちに大人に近づいていて、やがて兄のルークのあとを追うように家を離れることになる。そのころにはモランにも次第に衰えが見え始め、娘たちの訪れを心待ちにし、ルークとの関係修復を期待するようになる。

これは、「女たちの中で」わがままいっぱいに、女たちの献身を当然のものとして生きてきたアイルランド男の生涯の物語であると同時に、そんな男に振り回されながらも心の奥では彼を大切に思い、深く愛していた女たちの物語でもある。感情のコントロールができず、愛情を素直に表に出すことも苦手な男と、波風が立たないように心を砕きながらたいていのことは広い心で受け入れる女たちの物語でもある。アイルランドを舞台にした作品は独立戦争の影を感じることなく読むのは難しいが、この作品はそれがあくまでも背景に置かれていて表に出てこないため、普遍的な家族の物語として読むことができる。(2017.3.31読了)


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by nishinayuu | 2017-06-25 10:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ぼくが逝った日』(ミシェル・ロスタン、訳=田久保麻里、白水社)


Le Fils』(Michel Rostain,2011

c0077412_09422449.png本書はそのユニークなタイトルに惹かれて手に取ってみた。そして読み始めたとたんに、「昼日中から毎日必ず泣けてきて、それが五分でやんだり、十分ずつ三回くりかえしたり、一時間ぶっ通しだったりする親父」にでくわした。これだけでこの作品は父親を残して「逝って」しまった息子が語る物語だとわかる。原題は『息子』であるが、本書のタイトルの方がずっといい。

語り手は20031025日(土)に急死する。21歳だった。そのとき親父と母さんが受けた衝撃、その時から始まった疑いや後悔、怒りや悲しみが綯い交ぜになった混乱の日々を、語り手は事細かに語っていく。息子が自ら死を選んだのではないか、という疑いにさいなまれたこと。息子の最期が近づいていることに思い至らず余計なことに気を取られていたこと。死んだと思ったらたちまち葬儀の準備が機械的に始まり、遺体の処理、葬儀の予算、葬儀場の選定、葬儀の段取りや演出、柩の材質、死者の衣裳、遺体の搬送、火葬か土葬かの決定、などなど速やかに決断すべきことが山のようにあったこと。二人の考えが異なってもどちらかが譲って、とにかく二人は混乱を切り抜けていったこと。そうして迎えた葬儀の席で、息子と共に過ごした月曜から土曜までの日々を人々に語りながら親父が、「リオン、おまえが先週私たちにしてくれたことは、すべて贈りものだ」と叫んだこと。この間、親父はほぼずっと泣き続けている。

そして「ぼく」はその後の両親の姿も語る。「両親は夢のことを訪れと呼ぶ。ぼくの訪れを待ちわびる二人にとって、ぼくは出来事であり、よろこびなのだ。二人ともまるで分別がない。あれこれ者に触れることで探しているのは、結局は死んだぼくなのだ。(中略)家の中は、どこもかしこもぼくの写真だらけ。そんなことをしたって、涙を止める役には立たないのに。三段論法――親父はぼくを思うたびに泣く。ぼくを思うときしか幸福を感じない。故に泣くたびに、親父は幸福になる。」

物語の親父はオペラの演出家で母さんはオペラ歌手になっている。作者のミシェル・ロスタン(1942年生まれ)はオペラ演出家で、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラを演出し、作中に親父が2001年に吉田進に作曲を依頼したという言及のある能オペラ『隅田川』も手がけている。すなわちこの作品の親父には作者の姿が色濃く投影されているものと思われる。おそらく作者も最愛の息子か娘を亡くしているのだろう。作中の親父は舞台の成功を祝ってくれた友人に「幸福な気持ちには二度となれなれません」と返事したことを悔やむことになる。その友人が1年後に娘を亡くしてしまうからだ。このエピソードも単なるフィクションではなさそうだ。

それはともかく、訪ねてきたぼくの女友達からぼくが生前、アイスランドに散灰して欲しいと言っていた、と聞いた両親は、エィヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajokull)という山にぼくの灰を撒く。ライオン(リオン)の形をしているように見える火口湖を「リオンの湖」と名付けて友人知人に語る頃には、苦しみの涙が幸せの涙へと変わっているのだった。

この作品は死者の持つ自由な視点を用いることによって、人はどのようにして愛する人の死を乗り越えるかを描ききっていると同時に、死者である語り手その人を輝かしい光の中に蘇らせることに成功している。(2017.3.27読了)


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by nishinayuu | 2017-06-17 09:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『彫刻家の娘』(トーベ・ヤンソン、訳=冨原真弓、講談社)


Bildhuggarens dotter』(Tove Jansson

c0077412_13331328.jpg本作は『ムーミン』でおなじみの作者が綴った自伝的子ども時代の物語。作者の父親ヴィクトル・ヤンソンはヘルシンキの公園でもその作品が見られるという著名な彫刻家で、母親も本書に「造幣局に切手の絵を描きに行く」というくだりがあるようによく知られた挿絵画家だったようだ。そしてこの芸術家一家は1年のうち4ヶ月を小さな島で過ごすのが習慣だった。本書では作者のこうした特異かつ恵まれた家庭環境での体験と冒険が、幼い子どもである「わたし」によって語られている。

「わたし」は想像と創造が得意な子どもで、ひとりぼっちでいることも、怖い思いをすることも大好きだ。独りぼっちで放って置かれれば、自分で考えたお話の中に入り込んで、どんどん怖い状況を作り出しては楽しむ。たとえば、

「夕暮れになると、大きな灰色の生きものが波止場をはい上がってくる。その生きものはのっぺらぼうで、夕闇の中をはいずりまわりながら、するどくとがった手で島を次から次へとおおっていく。」

「なにがいちばんこわいといって、スケートリンクほどこわいものはない。(…)リンクの後ろには例のはいずりまわる生きものが潜み、リンクはぐるりと黒い水に取り囲まれている。水が氷のさけめで息づきゆったりと動き、ときどきため息をついてもり上がり、氷の上にあふれだす。(…)氷のさけめは少しずつ広がり、息づかいがあらくなり、そのうちぽっかり大口をあける。氷の孤島のようなリンクを残して、ついには波止場じゅうが黒い水になるだろう。そして、私たちはいつまでも、いつまでも、すべりつづけるのだ。アーメン。」

ときには家の外で本物の怖い状況が起こることもあるが、そんなときはなおいっそうぞくぞくした気分を楽しむ。「わたし」の怖いもの好きはどうやらパパの影響だ。パパは夜に火事があると必ず家族を起こして赤い空を目当てに現場に駆けつけるが、つく前に消しとめられてしまうと、がっかりしたパパを慰めなければならない。また、嵐が吹き荒れて海一面に真っ白な波が立ち、井戸のところまで海水がおしよせたとき、それまで憂鬱そうだったパパはたちまち元気になってパジャマのまま外に飛び出し、海に流されかけている桟橋を引き戻そうとずぶ濡れになって奮闘するので、わたしも嬉しくて叫び声を上げながら水しぶきを上げて歩き回るのだった。

こんな突拍子もない父親と好対照をなすのが母親である。母親は夫や娘の奇抜な言動にも少しも動じることなく、時にはいっしょに楽しみながらも、上手に家族をまとめている。

「ママとわたしは火のそばに大きないすをよせ、アトリエの灯を消す。ママがお話を始める。――むかしむかし、たいそうかわいい女の子がいました。その子のママは女の子をとってもかわいがっていました。――どのお話の始まりもこうでなければならない。そのあとは適当でいい。」

ムーミンの世界の原点がここにある。(2017.3.19読了)


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by nishinayuu | 2017-06-05 13:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『オリエント急行戦線異状なし』(マグナス・ミルズ、訳=風間賢二、DHC)


All Quiet on the Orient Express』(MagnusMills, 2003

c0077412_10491454.png著者は1954年イギリスに生まれ、イギリスやオーストラリアで様々な臨時雇いを転々とした後、ロンドンでバスの運転手となる。1998年に『フェンス』で文壇デビューし、デビュー後もバスの運転手を続け、後に郵便配達人に転職。現在は執筆に専念しているという(表紙裏にある紹介文より)。本書は上記のような異色の経歴を持つ著者による2作目の長編である。

舞台は避暑地として知られるある村。文中にミルフォードという名が出てくるのでダービシャー州だろうか。あるいは湖の美しい村ということなので湖水地方だろうか。ただし場所の特定はどうでもよく、重要なのは外部の人間にとっては不可解な法則が働いている村だということである。そんな法則に気づかなかったひとりの青年が、村の人々にじわじわと絡め取られていく様子が綴られていく。

ある夏、この村にひとりの青年がやって来る。2週間ほど滞在して、そのあとはトルコを経てさらに東の方へと旅をする予定だった。観光客が去ったあとの村にひとりで残っていた青年は、テントを張っていた土地の所有者トミー・パーカーから声をかけられる。それまでは自分に気づいている様子はなかったのに、と青年はちょっとびっくりするが、どうやら相手はずっと青年を観察していたようなのだ。パーカーだけではなかった。青年がベークドビーンズなどを買う食糧雑貨店の主ホッジも、バーのバーテンたちも、バーに集まる男たちもみんな、なぜか青年の動向に興味津々のようなのだ。

やがてパーカー氏は青年にゲートのペンキ塗りをしないか、と持ちかけてくる。青年は暇つぶしになるからと軽い気持ちで引き受ける。賃金のかわりにキャンプ地の使用量をなしにしてもらうという条件で。それがきっかけで青年はパーカー氏から次々に「雑用」を頼まれ、次々にそれをこなしていく。「宿題」を手伝って、という口実で近づいてきたパーカー氏の16歳の娘は、そのうち宿題を丸投げして寄こすようになる。宿題の作文が賞を取ったりするので、青年も悪い気はしない。バーでもダーツのチームに勧誘されたりして、季節が冬に移る頃には青年はすっかり村人に受け入れられた気分になっていた。

しかし、何となく不可解なことも多かった。パーカー氏は際限なく雑用を回してくるのに賃金の話はしない。パーカー氏がストックしているペンキはほとんどが緑色。バーの常連のブライアンはいつも紙製の王冠をかぶっている、などなどだ。それに、村人たちはなぜか青年を「次の牛乳配達人」と呼んだりする。ディーキンというれっきとした牛乳配達人がいるのに、である。しかしこの人のいい青年もついにある日、村の「悪意」にはっと目が覚めるのである。

これは不条理小説であるけれども、残酷さや不気味さとは無縁で、むしろ主人公の青年のふがいなさと村人たちのたくましさに失笑してしまう、構成も人物描写も見事な作品である。なお、タイトルは見てすぐわかるようにAll Quiet on the Western Front Murder onthe Orient expressの合成である。ということはMurder on the WesternFrontというタイトルもあり得たということになる。(意味深ですね。ところで意味深ってもう古語?)(2017.3.14読了)


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by nishinayuu | 2017-05-28 10:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『椅子取りゲーム』(孔枝泳、訳=加納健次・金松伊、新幹社、2012)


의자놀이』(공지영

本書の前書きで著者は「初めて文学ではない本を書いた」と言っている。すなわち本書は、は韓国で影響力のある作家の一人である著者によるルポルタージュであり、残酷な「椅子取りゲーム」の犠牲者たちと痛みを共にした著者の「史実エッセー」である。

c0077412_09231507.jpgきっかけは2011年にツイッターで知ったある出来事だった。226日の朝、サンヨン自動車無給休職者の父親(44歳)が死んでいるのを17歳の息子と16歳の娘が見つけた。二人の母親は前の年の冬に飛び降り自殺していたため、二人は1年のうち相次いで両親を亡くして孤児になってしまったのだった。サンヨン自動車の整理解雇が始まって以来、母親は12番目、父親は13番目の死だった。そしてその後も自殺者は続き、サンヨン自動車から追い出された2646人のうち22人の労働者と家族が犠牲になったのだった。労働者の解雇は他の企業でもよくあることだが、サンヨン自動車の場合、被解雇者の自殺率の高さは尋常ではない。

13番目の死をきっかけにサンヨン自動車事件について調べ初めた著者は、あらためてことの異様さとおぞましさに気づかされる。国際的な基準に合う車を生産し、韓国の経済発展に貢献してきたサンヨン自動車という大企業にいったい何が起こったのか、サンヨン自動車の工場のある平澤で安定した生活を享受していた労働者たちがなぜストライキをしなければならなかったのか、そのストライキの参加者たちを国家権力がどのように無残に蹴散らしたか、会社側がどのように労働者たちを分断していったか、会社から追われた労働者たちがどのように孤立していったか、そして孤立していった労働者たちがどれほど精神的に追い詰められていったか。

21世紀の出来事とは思えない忌まわしいこの事件は、韓国内でもあまり報道されなかったのではないだろうか。だからこそ著者も詳しいことは知らないまま過ごしてきたのだろう。それに、小説家の自分が取り組むべき問題だろうかというためらいが最初はあった、と著者は正直に述べている。しかし、今や韓国を代表する作家の一人である著者だからこそ、この問題を取り上げて世に問うた意義は大きい。残酷な「椅子取りゲーム」の犠牲になった人々、実体のない幽霊のような者たちと戦い続けている人々に、慈しみのメッセージと共に連帯の意志を送る、と言う著者に大きな拍手を送りたい。(2017.3.4読了)


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by nishinayuu | 2017-05-20 09:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)