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『A Patchwork Planet』(Anne Tyler著、 Ballantine Books)


c0077412_13205512.jpg物語の舞台はアン・タイラー作品の定番の舞台であるバルティモア。登場人物は、これもアン・タイラー作品では定番といえる、富や名声とは縁のない世界の人びとである。
物語は主人公のバーナビーとソフィアがフィラデルフィア行きの列車に乗り合わせる場面から始まる。発車間際にある男が、フィラデルフィア駅で待っている娘に忘れ物のパスポートを渡してくれ、と居合わせた女性に頼みこむ。車中でバーナビーはその女性を観察する。上品できちんとしていて、確かに信頼できそうな女性である。我が身を振り返ってバーナビーは、男が自分を選ばなかったのは当然だと納得する。もうすぐ30歳の誕生日を迎えるバーナビーは、結婚して娘をもうけたが離婚しており、住まいは賃貸住宅、仕事は「何でも屋」の職員、という世間的にはなんの信用もない男である。この日は彼が月に一度、9歳の娘と過ごすことを許されている日だったのだが、約束の時間に遅れたため元妻から「もう来るな」と言われてしまう。
バーナビーの雇い主ミセス・ディブルは自分の親を見送った経験から「何でも屋」をはじめた女性で、ある店でバイトをしていたバーナビーを今の仕事に引き込んだ。バーナビーの哲学的雰囲気(彼女のことばによるとIt was very Zen of you)が気に入ったのだという。仕事先は主に老人たちの家で、買い物、掃除、修繕、片付など、それこそ「何でも」やるし、時間も早朝から深夜まで、顧客の要請があればいつでも駆けつける。その顧客にソフィアの叔母が加わる。列車に乗り合わせて以来、少しずつ近づいていたソフィアとバーナビーの距離が一挙に縮まる。やがて彼女との将来を考えるようになったバーナビーは、彼女をまず母方の祖父母に紹介する。彼らは全面的にバーナビーの味方だからだ。それから実家の両親や兄の一家にも会わせる。美人で何事も優雅に完璧にこなすソフィアのおかげで、一家の困り者のバーナビーは少し面目を施す。ところが、ソフィアの叔母が、お金を盗まれた、と言いだしたことからバーナビーは窮地に立たされる。若い頃、警察の世話になったこともあるバーナビー。その彼を全面的に信頼してくれたのは、飾り気も色気も皆無の、気の合う仕事仲間でしかなかったマータインだった。

切手大の布をつなぎ合わせた、今にもばらばらになりそうなパッチワーク作品「惑星地球」を残したミセス・アルフォードをはじめとする「何でも屋」の顧客たち、バーナビーの一族の人たちなど、一人一人の人物が目に見えるようにくっきりと丁寧に描かれている。また、下記のような心に残る描写があちこちに散りばめられていて、読み終えるのが惜しくてたまらなくなる作品である。
*日の出前の一瞬、空が深く透明なブルーになり、loom!というような音が聞こえる。
*離婚した頃、娘のオウパル(Opal)は父親の顔がわかり始めたところで、バーナビーがベッドに近づくと「ああ」と声を上げて身をくねらせ、抱き上げてもらおうと手を伸ばしたものだった。
(2012.4.22読了)
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by nishinayuu | 2012-06-13 13:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『The Selfish Giant』(Oscar Wilde著、Bodley Head)


c0077412_20472476.jpg1888年に発表された短編集『The Happy Prince』に収録された5編のうちの一つである。長くて重い作品を続けて読んだので、ちょっと気に入っているこの作品を息抜きに読んでみた。
「毎日午後になると、学校から帰ってきた子どもたちは大男の庭に行って遊ぶのだった。それは広くて美しい庭で、やわらかな緑の草に覆われていた。草の上にはそこここに、きれいな花が星のように咲いていて、12本の桃の木は、春になるとピンクや真珠色の可憐な花を咲かせ、秋にはおいしい実を付けた。それらの木には小鳥たちがやってきて、ほんとうにきれいな声で鳴いたので、子どもたちは遊びを中断してその歌声に耳を傾けるのだった。」
と始まる物語は、このあと急転する。友人であるコーンウォールの人食い鬼(!)のところに行っていた大男が、7年ぶりに帰宅して、庭に入り込んで勝手気ままに遊んでいた子どもたちを追い出してしまうのだ。庭に高い塀を巡らせ、勝手に入ったら告訴するぞ、という立て札まで立てて。すると大男の庭は一年中冬に閉ざされてしまうのだが、やがてある日、大男の庭にまた春が訪れる。子どもたちがいつのまにか塀を破って庭に侵入していたのだ。はたと気がついた大男は、子どもたちが庭で遊ぶのを黙って眺め、ひとりの小さな子が木に登れずに泣いているのを見れば木の枝に坐らせてやり、とすっかり優しいいい人に変身するのである。ちょっとお説教臭いところはあるが、なによりも四季の変化に富んだ色彩鮮やかな庭の様子が印象的で、この作品を素材にした絵本や動画作品がたくさんあるのも頷ける。ただし、最後にまた小さな男の子が登場する場面は、宗教臭が強すぎて感興がそがれる。キリスト教圏では違和感なく受け入れられるのかも知れないが。
ところで、自分の庭に侵入してくる者を閉め出すのはselfishなことだろうか。他人の庭に勝手に入り込む者のほうがよりselfishでは?この大男はselfishというよりill-naturedもしくはunkind, narrow-mindedと形容するほうがふさわしい。しかし、これらのことばを使うと大男がほんとうに根性の悪い人間になってしまう。それで、作者はユーモアを交えて、あえてselfishとしたのかもしれない。さて、Selfishの日本語訳としては「利己主義の、自分本位の、身勝手な、わがままな」などがあるが、翻訳書のタイトルはほとんどが「わがままな大男」となっている。まあ、前の三つはちょっと堅いので、「わがままな」がいちばんまし、ということかもしれないが、selfishということばの持つ迫力が感じられないのが惜しい。「わがままな」よりは「自分勝手な」のほうがいいのでは、などと思いながらあれこれの訳を調べていたら、大男のことばを「おねえことば」にしている「超訳」があって、そのタイトルが「自己中の大男」となっていた。格調の点では問題があるかもしれないが、ニュアンスとしてはこれがぴったりかもしれない。(2012.3.20読了)
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by nishinayuu | 2012-05-07 20:47 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

私の10冊(2011年)


c0077412_1132422.jpg☆この1年に読んだ本の中から特に気に入った本を選んで、「私の10冊」としてまとめてみました。また、「私の10冊」の選から漏れた次点の本+気に入ったわけではないけれど読んでよかった本をまとめて、「お勧めの10冊」として挙げてみました。
☆ブログにup済みのものにはリンクをつけました。なお、画像は「バーデンバーデンの夏」の表紙です。

「私の10冊」
  フィオナの海(ロザリー・K・フライ、訳:矢川澄子、集英社)
  輝く日の宮(丸谷才一、講談社)
  暗き目の暗殺者(マーガレット・アトウッド、訳:鴻巣友希子、早川書房)
  すべて倒れんとする者(サミュエル・ベケット、訳:訳安堂信也・高橋康也、白水社)
  凱旋門(レマルク、訳:山西栄一郎、新潮社)
  ペンギンの憂鬱(アンドレイ・クルコフ、訳:沼野恭子、新潮社)
  木曜の男(チェスタトン、訳:吉田健一、創元社)
  シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々(J・マーサー、市川恵里、河出書房新社
  バラの構図(K・M・ペイトン、訳:掛川恭子、岩波書店)
  そんな日の雨傘に(ヴィルヘルム・ゲナツィーノ、訳:鈴木仁子、白水社)

「お勧めの10冊」(2011年)
  バーデンバーデンの夏(レオニード・ツィプキン、訳:沼野恭子、新潮社)
  羊の歌(加藤周一、岩波書店)
  カブールの燕たち(ヤスミナ・カドラ、訳:香川由利子、早川書房)
  ピアニストは指先で考える(青柳いづみ子、中央公論社)
  緑の家(バルガス=リョサ、訳:木村榮一、岩波書店)
  日本語が亡びるとき(水村美苗、筑摩書房)
  A Year Down Yonder (Richard Peck、Puffin)
  イースターエッグに降る雪(ジュディ・バドニッツ、訳:木村ふみえ、DHC)
  失われた時を求めて 13(マルセル・プルースト、訳:鈴木道彦、集英社)
  リリィ、はちみつ色の夏(スー・モンク・キッド、訳:小川高義、世界文化社)
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by nishinayuu | 2012-01-15 11:58 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『A Year Down Yonder』(Richard Peck著、Puffin)

c0077412_9265354.jpg『A Long Way From Chicago』から8年経った1937年の9月から約1年間の物語。15歳になったメアリ・アリスが、シカゴからたった一人で列車に乗って、田舎のおばあちゃんのところにやってくる。大恐慌のあとの長引く不景気のせいで父が失業したため、一家は家も失った。新しく移った家は二人しか住めない小さな家だったので、17歳の兄のジョーイは資源保護団体で植林の仕事をするために西部へ行き、15歳のメアリ・アリスはおばあちゃんのもとに預けられたのだ。
メアリ・アリスが久しぶりに会ったおばあちゃんは、相変わらず大きくて、無愛想で、突拍子もない人だった。よそ者のメアリ・アリスをカツアゲしようとした同級生のバーディックを懲らしめるために、彼女が通学に使っていた馬の手綱を解いて逃がし、物理的に当分学校に来られないようにしたり、ペカン・パイを作るために、夜陰に乗じて他所の家のペカンの木にその家のトラクターをぶつけて、どっさり実を落として拾い集めたりする。けれども一方で、11月11日の休戦記念日の野外パーティーが寂れたアバーナスィー農場で催されたときは、余裕のありそうな人たちに強制的にお金を出させて、貧しい農場の女主人がかなりのお金を手にできるようにしてやったりもするのだ。また、ずっとあとの話だが、町が大竜巻に巻き込まれたあとで、おばあちゃんはまずペカンの木の家にかけつけて、その家のひとり暮らしの老人を瓦礫の下から救い出すと、その足で仇敵の女性の安否を確認しに行く。
さて、そんなおばあちゃんは12月になると寒い夜の森に出かけては罠をしかけて狐を捕らえ、毛皮を売ってお金を貯める。そして、メアリ・アリスがクリスマスにみんなの憧れのマリア様の役をすることになっても、別に関心がなさそうに見えたおばあちゃんだったが、公演の日に背の高い青年といっしょに会場にやってくる。それはおばあちゃんが、メアリ・アリスといっしょにクリスマス休暇を過ごさせるために招いたジョーイだった。
気取った名士夫人が、実は町の鼻つまみ一族・バーディックの血を引いていたことが明らかになったことにも、郵便局員の女性が町中の笑いものになったことにも、メアリ・アリスの先生がおばあちゃんの家の下宿人と結婚することになったことにも、おばあちゃんは一枚も二枚も噛んでいた。次は何をしでかすのか、目が離せないおばあちゃんなのである。(2011.10.29読了)
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by nishinayuu | 2012-01-09 09:27 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『Magic Hour』(Kristin Hannah著、 Ballantine Books)


c0077412_1137109.jpg米国西海岸最北部のワシントン州に位置するオリンピック・ナショナル・フォレストは、美しい自然と深い闇を抱えた広大な森である。その森の中からある日、がりがりに痩せた5、6歳の女の子が現れる。町の警察に保護、というより捕獲されたその少女は言葉も通じず、身元についての手がかりもなかった。少女の身柄を預かることになった町の警察署長のエリーン・バートンは、精神科医の妹ジュリア・ケイツに協力を求める。子どもを対象とする精神科医のジュリアは、担当していた患者が殺人事件を起こしたことから犠牲者の親たちやマスコミに糾弾され、それまでの名声も失って精神的にどん底の状態だった。そんなときに姉から声をかけられたジュリアは、マスコミから身を隠すつもりで故郷の町に戻ってくる。子どもの頃から美人で人気者だった姉に対して、妹のジュリアは目立たない陰のような存在だった。姉はそのまま地元で警官になり、妹は外の世界に飛び出して才能を開花させた。ジュリアは町とは縁を切ったつもりだったのだ。しかし今、挫折を味わい、世間の目を怖れていたジュリアにとって、自分を信頼して呼んでくれた姉は心を許せる味方だった。こうして二人は森から現れた少女の身元を明らかにするために、そしてなによりもこの少女をこの世界の一員にするために、緊張と不安の日々を送ることになる。
ジュリアはやがてこの少女をアリスと呼ぶようになる。ジュリアが『不思議の国のアリス』を毎日少しずつ読み聞かせているうちに、少女がこの本を気に入って、前に読んだページを開いて催促するようになったからだ。最初はベッドの下に隠れていたアリスがジュリアの目を見るようになり、ジュリアの真似をしてトイレを使うようになり、ジュリアに少しずつ近づくようになり、やがてジュリアの手に触れるようになり、本を読むことをせがむようになる。そしてある日、ジュリアのことばをかなり理解できるようになっても強いトラウマのせいで声が出せなかったアリスが、ついにことばを発するときが来る。アリスが初めてジュリアに言ったことばは「ここにいて」と「んねがい(おねがい)」だった。ジュリアが精神科医としての力量を世間に再認識させるための必須条件は、アリスを話せるようにすることだった。しかし、初めてことば発したアリスを感極まって抱きしめたジュリアは、精神科医のジュリアではなかった。毎日片時も離れずにアリスの世話をし、アリスの怖れや悲しみ、喜びや希望をともに感じるようになっていたジュリアは、いつの間にかアリスの母親になっていたのだ。
このまま「めでたしめでたし」となるわけではないが、表紙のイラストからハッピーエンディングであることはじめからわかっているし、極悪人は登場しない(というかちょっと触れられるだけで登場させてもらえていない)ので、主人公たちとともに悲しみ、ともに喜びながら読み終えることができる。もう一つ付け加えれば、物語の舞台となっているこの田舎町がなんともすばらしい町なのだ。エリーンの仲間の警察官たちをはじめ、アリスの主治医であるマックス、町の人びとなど、だれも彼もがアリスとジュリアを温かく包みこんでいる。(2011.9.30読了)
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by nishinayuu | 2011-12-12 11:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『King Henry the Eighth』(Shakespeare著、 Greenwich House)


c0077412_10285018.jpgこの作品はシェイクスピアがロンドンを去って故郷のストラットフォードに帰ったあと、1613年かそれより少し前に書かれたものと考えられている。語彙や文体などからジョン・フレッチャー(シェイクスピアのあとを継いで国王一座の座付き作家となった人物)との合作と考えられており、1590年代に発表された他の9編の史劇と同格には語れない作品であるとみなされている。
この史劇が取り上げているのは、ヘンリー8世が妻のキャサリンを王妃の座から追放しようと画策を始めるところから、キャサリンの侍女だったアン・ブーリンと結婚して女児(後のエリザベス1世)をもうけるまでの期間である。プロローグでこの劇は権力者が転落していく深刻な劇であることが予告されているが、はたしてまずバッキンガム公爵が大逆罪でロンドン塔に送られ、続いて彼を陥れたウルジー枢機卿もまた失脚していき、王妃キャサリンも失意のうちに世を去る。キャサリンを追い出す形で王妃となったアン・ブーリンも、歴史上はこのあとロンドン塔に送られて斬首刑になり、ヘンリー8世は次々に妻を替えていくことになるが、それらのエピソードはいっさい端折られている。そうした後日のエピソードは同じことの繰り返しでしかないからであろうが、この史劇に取り上げられている場面だけでヘンリー8世という人物の傲慢さも、快楽的で冷酷なところも充分伝わってくる。
さて、それではこの劇は陰惨で暗い雰囲気のためあまり歓迎されなかったのではないかと思えてくるが、実がそうではなく、むしろスペクタクル的な演出で観客を惹きつけたらしい。その証拠として、第1幕第4場、ヘンリー8世がアン・ブーリンを見初めるウルジー邸におけるパーティーの場面で派手に火を使ったため、1613年6月29日にグローブ座が火事になって全焼した、という記録が残っているという。
(2011.7.29読了)
☆画像はハンス・ホルバインによるヘンリー8世の肖像。
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by nishinayuu | 2011-10-18 10:26 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『Trouble Is My Business』(Raymond Chandler 著、Penguin)

c0077412_10585598.jpgタイトルとなっているこのあまりにも有名なことばは、私立探偵のジョン・ダルマスが仕事の仲介者であるアンナ・ホールスィのYou might get into troubleということばに応えて言ったもので、上記の本では2ページ目に登場する。トラブルに巻き込まれるかもしれない、と言うアンナに、「トラブルがおれの商売だぜ」、とカッコヨク応えたわけで、清水俊二訳では「怖じけづいてちゃ商売にならない」、稲葉明雄訳では「事件屋稼業」と、やはりカッコヨク訳されている。
さて、仕事に取りかかってみると、ダルマスは行く先々で死体に遭遇する。最初の死体はジーターに雇われていた調査員アーボウガスト、次は二人組の殺し屋の片割れフリスキー・Lavon(読み方がわかりません-汗)、そしてジーターの息子のジェラルド、という具合。だからダルマスは、上記のような粋がった台詞を吐いたわけではなく、「俺っていつもトラブルに巻き込まれちゃうんだよね」と言ったのではないかと思えてくる。因みにジーターというのは息子が付き合っているハリエット・ハントレスに関する調査をアンナに依頼した人物。登場人物は以上の他に、ハリエットの後見人である有力者マーティ・エステル、ジーターの運転手ジョージ、ハリエットの住むエル・ミラノの管理人(?)ミスター・グレゴリー、そして主要人物ではないが絵になりそうな人物としてvery Englishなジーター家の執事などである。
ところで、この名台詞を吐いた人物はマーロウだと記憶していたのに、ダルマスとなっていて、おや、と思った。ウエブで調べてみたところ、チャンドラーの多くの作品において、発表当時カーマディやダルマスなどの名を持っていた主人公もしくは語り手が、後にマーロウに統一されていったらしい。したがって日本語訳もダルマス(清水俊二訳)とマーロウ(稲葉明雄訳)が混在しているという。(2011.3.18読了)
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by nishinayuu | 2011-06-19 10:59 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『No Greater Love』(Danielle Steel著、Dell)


c0077412_1017041.jpg物語は1912年4月10日に始まる。ウインフィールド一家の8人――父のバートラムと母のケイト、長女のエドウィナ、長男のフィリップ、次男のジョージ、次女のアレックス、三女のファニー、赤ん坊のテディ――は、エドウィナの婚約者・チャールズの両親を訪問した後、ケイトの姉・リズとルパート夫妻の豪壮な邸宅に滞在している。邸宅は極地のように寒く、主のルパートは子ども嫌い(著者はイギリス嫌い?)なので、一家のイギリス滞在の終わりは、主にとっても客にとっても喜ばしいことである。こうして一家はアメリカに向かう船に乗る。船の名はタイタニック。処女航海で氷の海に沈んだあの豪華客船である。
物語の3分の1はタイタニックに乗船していた家族8人とエドウィナの婚約者・チャールズの運命に当てられている。1912年4月15日の午前2時過ぎ、父と母、そしてチャールズは船とともに氷の海に消え、6人の子どもたちだけが残される。結婚をひかえた幸せいっぱいの娘だったエドウィナは、一瞬にして5人の弟妹の母親役という過酷な立場に立たされる。女と子ども優先の救命ボートに乗れずに、海に飛び込んだ後で救い上げられた16歳のフィリップ、12歳なのに父が11歳だと偽ったためボートに乗れたジョージ、海が怖くて船室に隠れていたのを見つけられて最後の最後にボートに投げ込まれた6歳のアレックス――みんな恐ろしい体験からなかなか立ち直れない。そんな弟妹をきちんと育て上げることにエドウィナは自分の青春の日々を捧げる。そうして12年後に、エドウィナにやっと明るい日差しが注ぎ始める。
タイタニックの遭難の場面は、ウインフィールド一家という特定の人物集団の行動を追っているので臨場感満点の展開になっている。また、両親と婚約者の喪失そのものと同じくらいエドウィナを苦しめたのが、母が自分たちとともにボートに乗ることを拒んで、夫とともに死ぬことを選んだことだったのだが、それがどうしてそれほどにエドウィナを苦しめたのかが後のほうできちんと説明されている。『Bugalow2』はむだな繰り返しの分が多くてあきれたが、その点この作品には冗長なところがなく、しかも必要なことは充分に書き込まれていて、読み応えのある作品となっている。(2011.2.28読了)
☆タイタニックの遭難場面には、調査記録や研究書に基づいて書かれており、救命ボートが人数分用意されていなかった、2等航海士のライトラーは頑として救命ボートに男性を乗せなかった、すぐ近くの海にいた船は無線を切っていたためタイタニックのSOSは届かなかった、などなど多くの事実がうまく物語に組み込まれています。ただ、タイタニックのバンドが最後にhymnのAutumn(こんな賛美歌あった?)を演奏した、というところがちょっと引っかかったので調べてみました。最近の研究によると、バンドが最後に演奏したのは当時流行していたSonge d’automne(秋の夢)という悲しいワルツだったということです。賛美歌が演奏されたという説もあるので、ごっちゃになったのかもしれませんね。
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by nishinayuu | 2011-05-26 10:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『Bungalow2』(Danielle Steel 著、Dell)


c0077412_10224841.jpg家事育児の傍ら趣味的に文筆活動もしていた中年女性・タニアに訪れた波瀾万丈の数年間を描いた小説である。ある日、タニアのもとにハリウッド映画のシナリオを書かないか、という話が飛び込んでくる。シナリオの仕事をするには数ヶ月の間家を離れてハリウッドで暮らす必要がある。平凡で平穏な家庭生活に満足していて、はじめはまったくその気がなかったタニアも、チャンスを逃すな、という夫の熱心な勧めもあって、ついにハリウッド行きを決意する。ビバリーヒルズの豪華ホテルにある「バンガロー2」に住むことになったタニアは、「シンデレラ」気分を味わう。華やかな映画人たちとのつきあいも始まる。
一方、残してきた家族のほうにも新しい生活が始まろうとしていた。隣の家に住んでいたタニアの親友が、いつの間にかタニアの後釜に収まってしまったのだ。夫とは強い信頼関係で結ばれ、3人の子どもたち(といってもすでに大学生と高校生なのだが)のよき母親であると自負していたタニアが、夫には裏切られ、子どもとの関係はこじれる、という試練にさらされる。しかしタニアは絶望のなかから立ち上がり、やがてシナリオ作家として大成功を収め、新しい家族とも出会うことになる。
波瀾万丈といっても、ハッピー・エンディングが待っていることが予想できる気楽なエンターテインメントである。ただし、同じ内容が何度も繰り返し語られて話の進展があきれるほど遅いのが難点。全体のページ数は413ページだが、200ページあれば充分なのでは?といらいらさせられるので、精神衛生にはあまりよくないかもしれない。(2011.1.9読了)
☆Chapter24の終わりのほうに次のような文が出てきます。let one’s hair downは「気を許す」、「うち解ける」という意味ですが、いくら慣用句でも男性に使うとなにか変、と思ってしまいました。
The only time he let his hair down with her was when he saw her with his children.
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by nishinayuu | 2011-04-14 10:18 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『The Memory Keeper’s Daughter』(Kim Edwards著、Penguin)


c0077412_10395540.jpg1964年の冬の夜、デイヴィッドとノラ夫妻に初めての子供が生まれる。ブリザードのせいで担当の産科医が来られなかったため、整形外科医であるデイヴィッドが赤ん坊を取り上げることになる。元気な男の子が生まれたあと、思いがけずもう一人、女の子が生まれる。その女の子を見たデイヴィッドは、とっさにその子を妻の目から隠す。その子は明らかにダウン症だった。心臓病で苦しんで死んだ妹と、妹の死から立ち直れなかった母親を見て育ったデイヴィッドは、妻に同じ苦しみを味あわせたくなかったのだ。デイヴィッドはその場に立ち会っていた看護婦のキャロラインに子供を渡し、ある施設に預けるように依頼する。そしてノラには双子の片割れは死産だった、と告げる。キャロラインは施設まで行くことは行ったが、そこの有様に衝撃を受けて、子供を抱いたまま家に戻り、荷物をまとめて子供とともに姿を消す。
この日からデイヴィッドには我が子を捨て去り、その秘密を一人で抱える苦しみの日々が、ノラには一度も抱かないままに女の子を失った悲しみの日々が、そしてキャロラインにはデイヴィッド夫妻や世間から隠れて女の子を育てるという緊張の日々が始まる。
なんとも重いテーマの作品である。デイヴィッドの一瞬の判断が三人のその後の人生を決定したわけだが、三人の中では当のデイヴィッドがやはり最も過酷な生を生きることになったと言える。言い換えれば、二人の女性たちは、過酷な生を生きながらもやがてそれを乗り越えて前に進んでいく。そして彼女たちが一人ずつ育てた双子の将来にも明るい光が見えてくるのである。重いけれども救いがあって、爽やかな感動を覚えながら本を閉じることができる。(2010.11.15読了)
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by nishinayuu | 2011-03-06 10:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)