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『五体不満足』(乙武洋匡著、講談社)


c0077412_210126.jpg読書会「かんあおい」2013年5月の課題図書。
外見の特異さと満面の笑顔。その一見アンバランスなものを体現している著者が、誕生から現在までを語った自伝である。障害を持って生まれたことを嘆いたり悲しんだりする記述はほとんどなく、一個の人間としてどう生きていたかが明るく爽やかな筆致で綴られていて、実に爽快な本である。
障害者が明るく爽やかに生きていくのは難しいと思われる世の中で、なぜ著者はこれほど前向きになれたのだろうか。その理由として考えられるのは、著者の両親がたぐいまれな資質の持ち主だったことであり、その両親から生まれた著者もまたたぐいまれな資質の持ち主だったことだろう。
両親のユニークさは本書のあちこちで語られている。病院側の配慮からか誕生直後の子どもには会えずにいた母親が、やっと目にすることができたわが子を見たとき、思わず「かわいい」と言ったというのは、この一家のその後を象徴するような場面である。両親は障害を持って生まれた子どもを哀れんで甘やかすということはいっさいなく、なんでも一人でできるように育てる一方で、父は父親と兄の二役をこなしてわが子としっかり付き合い、母は小学校に毎日付き添って廊下で待機する。わが子のために必要とあれば転居も厭わないこの両親は、中学生のわが子が友人と旅行すると聞くと、心配するどころかこれ幸いと香港旅行に行ってしまうユニークな人たちなのだ。こうして著者はすばらしい両親、すばらしい教師、すばらしい友だちを得て学校生活を存分に楽しみつつ成長していく。だから著者には「自分が障害者であるということを自覚する必要も、機会もなかった」。
20歳の秋の夜長、著者はあれこれ考えているうちにふと気がつく。「障害を持った人間しか持っていないものというものが必ずあるはずだ。そして、ボクは、そのことを成し遂げていくために、このような身体に生まれたのではないか」と。これが転機となって著者はまた一歩大きく前に踏み出し、障害者を苦しめている世間の心の壁を取り除くこと、つまりソフトのバリアフリーをめざして歩み出す。あとがきにヘレン・ケラーの「障害は不便である。しかし、不幸ではない」ということばが紹介されている。(2013.5.11読了)
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by nishinayuu | 2013-07-17 21:00 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ビターシュガー』(大島真寿実著、小学館、2010)


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虹色天気雨』(2006)の続編で、2010年の発行。登場人物たちもちょうどそれくらいの歳を重ねたようで、美月(みづき)は中学生になっている。語り手は市子さん。
できることなら、周囲の誰にも嘘はつきたくないし、なるたけ正直に、あけすけに生きていきたいと思ってはいても、残念ながら、日々の暮らしには至る所に様々な罠が仕掛けられていて、いくつになってもろくに成長せず、ぼーっとしたまま易きに流されていると、罠にはまってのっぴきならないところにまで追い込まれ、その挙げ句、つきたくもない嘘までついてしまうことになる、と四十路に突入してからというもの、妙に強く実感していた。
話は市子さんがまさにそういうのっぴきならないところまで追いこまれたところから始まる。ある日市子さんの家に美月がいきなり現れて、リビングでくつろいでいる旭(あきら)に出くわしてしまったのだ。市子さんが、美月の母親である奈津に内緒で、別居中の父・憲吾さんと美月が市子さんのパソコンでメール交換することを許していたのがそもそもの間違い。さらに市子さんが、不始末をしでかしたゲイの三宅ちゃんに拝み倒されて、まりの元恋人である旭を居候として置いてやったのがもう一つの間違いだった。かくして市子さんは、高校からの仲良し3人組の一人である奈津の娘から、3人組のもう一人であるまりの元恋人と同棲している、と誤解され、あきれられ、冷たい目で見られ……と、なんともなさけないことになってしまう。市子さんが懸命に事情を説明した結果、美月にはいちおう言い分を認めてもらえたようだが、それでもなお市子さんは軽率だ、まりちゃんの気持ちをなんで考えてあげないのか、と責められる。しかし当のまりは、初めて結婚したい相手を見つけたとかで、「市子もやっとその気になったか」と勘違いしたまま祝福してくれる。奈津も状況を知るとやはり「市子もやっと」と納得してしまう。旭の居候生活は思いの外長引き、美月や奈津、まりも不意に現れてはおしゃべりしたり食事したりしていき、どさくさに紛れて三宅ちゃんまでそこにまぎれ込むようになる。締めきりのある仕事をしていて時間に追われているはずの市子さん。自分で言うほどぼーっとしているわけでもない市子さん。それでもどこかホンワカしている市子さんのところには、しょっちゅう誰かがやってきてはごろごろしていくのだ。

語り口もホンワカと柔らかく、とても気持ちのよい雰囲気のお話である。作者もきっと市子さんと同じように暖かくて優しい人なのだろう。一つだけ気になったのは、市子さんと美月、奈津の三人で奈津がデパ地下で買ってきた惣菜で食事をする場面。どうせ自分たちだけだし、片付けが面倒だから、と奈津が言うので、プラスチック容器の蓋を開けて並べただけの、いいかげんな食卓で食べた、とあるが、いくら奈津が言いだしたにしても、おっとりゆったりした市子さんらしくない振る舞いで、残念でしかたがない。(2013.4.3読了)
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by nishinayuu | 2013-06-08 11:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『日々の非常口』(アーサー・ビナード著、新潮社)


c0077412_14284591.jpgミシガン生まれの詩人によるエッセイ集。全部で98のエッセイが納められている。その最初のエッセイが「ゲッキョク株式会社」。駐車場の看板にある「月極」を「ゲッキョク」と読んだという話である。実はnishinaも40代の終わりころまで(!)月極というのは駐車場の所有者の名前かなにかだと思っていた。しかも頭の中にはゲツキョクという音があった。小さいツではなく大きいツである。来日6年目にして正しい意味と正しい読みに到達した著者のものしたエッセイ集であれば、興味深い体験談に溢れていないはずはない。

さて、エッセイのテーマは多岐にわたるが、詩人のエッセイだけに特に目を引くのがことばに関するものである。salad days(若かりしころ、若気の至り)、マクドナルドのMc(簡便で型にはまった、安直で粗悪)など、英語のお勉強になる話もあれば、suitcaseが成田に着くとボリュームアップする(2音節の英語が日本語では6音になる)という愉快な英語・日本語比較もある。また、「BSE大発生」「中東の民主化」などはことばの無機質化、婉曲化による事実のごまかしであるとか、英語はアラブ人を指す蔑称には事欠かないという指摘など、鋭い批判もある。一方、日本人と見まがうような繊細な日本語理解にはっとさせられる次のような部分もある。
(英語には冬の終わりに消え残っている雪を表すぴったりしたことばがない。説明臭いRemaining snow,残り物のイメージが強いleftover snow,風流だけれどヤワ過ぎる lingering snowなどに比べて、)日本語の「残雪」はドンピシャリ。その端正な二字には無駄がない。響きも引き締まって、かといってきれいすぎず、濁音のラフなざらつきも残る。そこにぼくは、一種の悲壮美さえ感じる。

エッセイのテーマでもう一つ目を引くのは母国への苦言、批判、糾弾である。原爆投下に疑問を呈し、ベトナム戦争やイラク戦争で米兵の犠牲者数とは比べものにならない膨大な犠牲者を出していることをアメリカ市民が知らずにいることを「優雅な無知」と指摘し、ベトナムで枯れ葉剤を使い、イラクで劣化ウランという放射性廃棄物で作られた砲弾を撃ちまくった米軍を告発し、遺伝子組み換え作物の日本への上陸阻止を訴える。身につけたことばを駆使して優雅な世界に遊びつつ、社会への発信も積極的に行っている著者の活動の一端を窺い知ることができるエッセイ集である。(2013.3.18読了)
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by nishinayuu | 2013-05-30 14:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『冬の龍』(藤江じゅん著、福音館)


c0077412_19535923.jpg読書会「かんあおい」2013年4月の課題図書。
物語は全部で28の章からなり、それらの章が4つのグループにまとめられて、各グループに「一」「陽」「来」「復」というタイトルが付けられている。すなわち、いろいろ悪いことが続いたあとでめでたしめでたしとなる物語であり、季節は冬至から新年に掛けてである。
第1章は「穴八幡の冬至祭」。ここで主人公の寺島シゲル(6年生)、寺島誠(シゲルの父)、松村すず(下宿屋「九月館」の管理人)、山口先生(シゲルの担任)などが紹介される。シゲルは今、父が学生時代に下宿していた九月館に一人で世話になっている。4歳で母を亡くし、父は会社を辞めて故郷に仕事を探しに行っているからだ。その父から松村すずのもとに今月分の下宿代とシゲルへのクリスマスプレゼント代(2000円)が届く。シゲルは自分で貯めてきたお金に父からのお金をプラスしてマウンテンバイクを買うつもりだったが、当てが外れてがっかりする。
第2章「真夜中の肝だめし」で、シゲルと友だちの遠山哲(大勢の兄弟姉妹のお兄さん)、川原雄治(古本屋の息子)、桐沢なつみ(写真屋の娘でクラスの女王様)らが登場。なつみの心霊写真の話を雄治がせせら笑ったことから、男子三人組は夜中に南藏院(面影橋をわたってちょっと行った所にある)に行き、証拠に写真を撮ってこないといけないことになる。午前二時に南藏院で写真を撮っていたとき、三人の前に小槻二郎が現れる。松村すずに会うために信州から来たというこの青年は昔、九月館にあったケヤキの精だった。新しい年が来る前に「龍の玉」を見つけないと禍が起きる、という二郎の話を聞いたシゲルたちは、半信半疑ながらあちこちの寺や神社を訪ね歩くことになる。
物語は、木の精と龍の玉といった幻想的世界と、シゲルたちや下宿人たちの日常生活といった現実の世界が無理なく調和して綴られていき、龍の昇天という大団円のあと、穏やかでさわやかな結末へと導かれていく。そうした流れの中に、早稲田を中心とする各地の寺や神社の歴史や言い伝え、古書に綴られている事柄や古本市と古書蒐集家の世界、昭和初期から始まる九月館の歴史など、様々な事柄の詳細な記述が、収拾がつくのか心配になるほどたくさん盛り込まれている。スーパーで葱を買うエピソードには蕪村の「葱買うて枯れ木の中を帰りけり」なぞが添えられていたりするのだ。とにかく読みでのある大作である。(2013.2.25読了)

☆もともと小学校高学年用の課題図書だったため、近所の図書館にかなりの冊数がそろっていて、おかげで読書会の会員全員が一冊ずつ手許に置いてゆっくり読むことができました。いつものように何人かで回し読みしたのでは内容がつかみきれなかったかも知れないと思うほどに情報量の多い作品です。そのせいか対象の小学校高学年の子どもたちにはあまり読まれていないようで、どの本もまっさらの感じでした。
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by nishinayuu | 2013-05-03 19:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『幕末銃姫伝』(藤本ひとみ著、中央公論新社)


c0077412_20192267.jpg読書会「かんあおい」2013年3月の課題図書。
NHKの大河ドラマで取り上げられてちょっとしたブームになっている新島八重(山本八重)の物語で、ドラマの原作(2012)より前(2010)に書かれた作品である。
1845年生まれの八重が12歳になった年から物語は始まる。藩校・日新館で学ぶ幼なじみの山川大蔵(おおくら)、江戸遊学から3年ぶりに戻ってきた兄の覚馬、弟の三郎などに勝るとも劣らぬ健康な身体と意欲を持ちながら、女としてのたしなみを押しつけられることに反発する八重。後の男勝りのハンサムウーマンの原型がここにある。
やがて会津は幕末の嵐に巻き込まれていく。佐久間象山のもとで学んだ兄の覚馬が早くから公武合体と開国を藩に進言していたこと、藩の優等生である大蔵は佐幕派で攘夷論者だったこと、などの政治的な話と並行して、人々の日常が綴られていく。そこから見えてくるのは、よく言えば生真面目な、はっきり言えば融通の利かない会津藩の上層部の、時代が読めない頭の固さであり、そんな連中の論理によって穏やかな日常を奪われていく人々の姿である。会津に吹き荒れた嵐の中で、大勢の人々が外の世界を知る機会もなく散っていったが、一方で自分なりに精いっぱい闘ったあと、自分の道を見つけて新しい世界に踏み出していった人々もいる。前者の中には玄武隊の隊員だった八重の父、朱雀隊の隊員だった弟の三郎、白虎隊の隊員だった隣家の少年・悌次郎、山川大蔵の妻・登勢などがおり、後者の中には兄の覚馬、夫の川崎尚之助、そして山本家の女たちがいる。
特に印象的なのは八重を取り巻く以下の4人の男たち。
兄の覚馬――藩の砲術指導者であると同時に、思想・学問の指導者でもあった。早くから八重の武術や学問の才能を認め、八重の生き方を支援した。
山川大蔵――器量よしではない八重をずっと女性として愛した人物。八重の方も秘かに思いを寄せていた。
梶原平馬――大蔵とは別のやりかたで、やはり八重を女性として見ていたが、八重は反発するばかりだった。八重の砲術の腕を買って、最後の闘いの際に八重を起用した。
川崎尚之助――事情があってある藩から会津に流れてきた男。覚馬に弟子入りした縁で八重と結婚。常に八重を立て、自分は引っ込んでいるので、八重は軟弱で頼りない男と見ていたが、真に八重を女性として大切にしていたのはこの人物だったのかもしれない。もとの藩を出たときに意地もこだわりも置いてきたのか、恬淡を絵に描いたような人物である。(2013.2.12読了)
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by nishinayuu | 2013-04-21 20:19 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『偶然の祝福』(小川洋子著、角川書店)


c0077412_1658567.jpg読書会「かんあおい」2013年2月の課題図書。
この作品は7つの章からなっており、それぞれ独立した短編として読めるが、いくつか各章に共通する事項がある。それは例えば「死んだ弟」であり、「幼い息子」であり、「飼い犬のアポロ」であり、そしてなによりも「語り手が小説家であること」である。時間は過去から現在へと流れているわけではないが、一人の小説家の子ども時代からシングルマザーになった経緯、子育て中のエピソード、最初の小説や受賞作にまつわるあれこれなどが綴られており、全体で一つの物語となっている。
冒頭の章「失踪者たちの王国」の時点で息子は離乳期を迎えている。ただし、息子とアポロは軽く触れられるにとどまり、「生まれて初めて失踪という言葉を知ったのは、九歳のときだった」と一気に失踪者の話に入っていく。(やはりその年頃にnishinaは「世捨て人」という言葉をロフティングの『ドリトル先生』で、また「異分子」という言葉をザッパーの『愛の一家』で知りました。) 語り手は次々に自分の知っている失踪者を挙げていく。
まずは絨毯屋の娘の叔父さん――タクラマカン砂漠へ子羊の毛皮を求めに行ったきり。このタクラマカン砂漠というややこしい名前は、九歳の語り手にロマンティックな想像さえ呼び起こした。(nishinaの長女はやはり同じ年頃のときに友だちのお母さんが気仙沼の出身だと聞いて、その耳慣れない音の繋がりに衝撃を受け、友人のお母さん=気仙沼という関係式が頭に焼き付いたそうです。)
2番目は6年生のときで、隣の席だった肥満児で左利きの少年のおじいさん――歯医者に入れ歯を残したまま。3番目は中学のときで、保健の先生の婚約者――ウィーンでシュテファン聖堂の墓地に手帳を取りに行って。
4番目は19歳のときで、嘔吐袋(エチケット袋)の収集が趣味だった父方の伯母――税理士と交換したスカンジナビア航空の袋を持って。
「不思議にも彼らは私を慰めてくれる。失踪者の王国は遠いはずなのに、彼らは洞穴に舞い降りてきて、いつまでも辛抱強くそばに寄り添ってくれる。その吐息を私は頬のあたりに感じることができる」という語り手は、続く各章でも様々な喪失と別れを綴っていく。「盗作」では弟の死の衝撃とそれを乗り越えたきっかけを、「キリコさんの失敗」では消えた万年筆とキリコさんとの別れを、「エーデルワイス」ではあなたの弟ですと言って語り手につきまとっていた不細工な男が、こんなに堂々として完全な弟は他にはいない、と思うようになっていたのに春になったら消えていたことを、「涙腺水晶結石症」ではアポロの病気を治して名も告げずに立ち去った‘涙腺水晶結石症の犬を探す旅人’のような獣医のことを、「時計工場」では息子の父親である指揮者が、語り手の妊娠を知って離れていったことを、「蘇生」では‘ことばの湧き出る泉’を失って声もことばも失った苦しい時期のことを。
夢か現かはっきりしない登場人物たち――盗作の元になる話を語ってくれた女性、弟だと称するストーカー男、行きずりの獣医師、時計工場に閉じこもる語り手のもとに現れた蝶の痣を持つ果物売りの老人、そしてもしかしたら、アナスタシアというのは蘇生という意味よ、と言って語り手を見つめたアナスタシアおばあさん――はみんな、失踪者の国から舞い降りてきて、語り手に寄り添ってくれた人々なのだろう。(2013.1.23読了)
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by nishinayuu | 2013-04-06 16:58 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『青い壺』(有吉佐和子著、文藝春秋)


c0077412_160596.jpg読書会「かんあおい」2013年1月の課題図書。
有吉佐和子が40代の時に書いた作品で、最近復刻されて手に入りやすくなったとか。いつも本の冊数不足に悩まされる我が読書会にとってはありがたい本であった。
全部で13の章に分かれていて、どの章にも同じ一点の青い壺が登場して全体を繋ぐ役割を果たしているが、1章ごとに完結する短編としても読めるようになっている。有吉佐和子という作家のすばらしさを再認識させられる作品である。
第一話の主人公は磁器制作者の牧田省造。デパートから依頼された一点物の焼き物が、会心の青に仕上がった。道具屋の安原は、この青い壺が唐物に見えるように古色をつけろ、と言う。決断がつかず悩んでいる夫を見かねて、妻の治子は青い壺をデパートに渡してしまう。
第二話で青い壺はある会社の副社長に贈られる。定年退職した男の妻がデパートで2万円で買い求めて贈ったのだ。退職した夫をもてあます妻も哀れだが、壺を持って出向いた会社で異常な行動を見せる夫は格段に哀れ。
青い壺は第三、第四話で副社長の家で花器として使われたあと、第五話では副社長夫人の稽古仲間、千代子の手に渡っている。千代子は目が見えなくなった母親を都立病院に連れていき、手術を受けさせる。手術は成功し、母親は目が見えるようになったが、65歳以上なので手術も入院も無料だった(そういう時代もあったのですよね)。母親が病院の石田先生にお礼がしたいというので、青い壺を渡す。
そのあと青い壺は、第六話で石田の勘違いからバーのマダムに渡され、第七話でまた石田家に戻され、第八話でさらにそこから盗み出され、第九話で京都は東寺の縁日に現れる。それを東京から70歳記念の同期会にやって来た弓香が3000円で手に入れる。
第十,十一話に登場するのは弓香の孫の悠子。ミッションスクールで栄養士として働く悠子は優しいシスター・マグダレーナがスペインに一時帰国することになったとき、手みやげとして青い壺を渡す。青い壺はスペインに渡ってしまったのだ。その壺は第十二話で病院の掃除婦をしている森シメが501号室で目にする。シメが掃除のときに触ろうとするとその患者に怒鳴られる。
そして第十三話。501号室の患者だった園田先生は香合を届けに来た省造にスペインで見つけた青い壺を見せ、800年前の南宋浙江省の竜泉窯だ、と言う。それは10年前、省造が40代半ばの時に焼いたあの青い壺だった。そのことを省造が告げると、自分の眼を信じる園田は頑として省造のことばを退けるが、心の内では動揺する。もちろん省造も譲らない。しかし帰りの列車が名古屋を過ぎたころ、省造は思うのだった。あの壺にいつの間にあんなにいい古色がついたのか。その壺に10余年ぶりに巡り合えたことを喜ぶべきだと。(1月6日読了)
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by nishinayuu | 2013-03-07 16:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『カノン』(篠田節子著、文藝春秋社)


c0077412_14121100.jpg幻のヴァイオリン』の解説で、共通するものがあるとして勧められていた作品のひとつ。ヴァイオリンを弾く男が幽霊になって主人公の前に現れる、という点は確かに共通する。けれども『幻のヴァイオリン』の幽霊が圧倒的な存在感のある華やかな人物だったのに比べると、こちらの幽霊はいかにも幽霊らしく影の薄い見栄えもしない人物である。実に日本的な、「うらめしや」的な幽霊なのだ。共通点といえるのは、ヴァイオリニストが幽霊になっている点と、ヒロインの容姿があまりぱっとしないという点だろうか。ただしこちらのヒロインは、若い頃は人目を引くとびきりの美人だったということになっている。
ヒロインの瑞穂は教員養成大学で学び、チェロ奏者になる夢をあきらめて小学校の音楽教師をしている。学生時代の一夏、ヴァイオリンの香西康臣、ピアノの小田嶋正寛と三人で合宿練習をしたことがあった。康臣のヴァイオリンには常人とは異なる抜群の音楽性があり、瑞穂のチェロとよく響き合ったが、その響き合いは演奏しているあいだだけのものだった。康臣は他人とうまく交流できない人間だったが、瑞穂とだけは音楽で語り合うことができたのだ。もう一人の正寛は康臣の高校時代からの知り合いで、音楽性はなかったが理詰めに丹念に練習して、短期間でピアノパートをなんとか弾きこなした。ただしこのトリオは合宿練習をしただけで終わり、三人はそれぞれの秘密――瑞穂と康臣の、康臣と正寛の、正寛と瑞穂の――を抱えたまま別れた。それぞれ別の人生を歩んで20年もたったある日、正寛から康臣の訃報がもたらされ、葬儀にいっしょに行くことになったが、正寛がドタキャンしたため瑞穂は一人で松本に行く。そして瑞穂は康臣の弟から、康臣が瑞穂に残した「遺品」を渡される。それはなんとも奇妙な音の流れが録音されたカセット・テープだった。音は確かに康臣のものだったが、メロディーがつかめないうえに、テープを止めても音が流れ続けたり、他のテープに勝手にダビングされていたり、さらにはその音とともに康臣の亡霊が現れたり、という怪奇現象が続く。康臣は20年も交流のなかった瑞穂に何のためにこんな「遺品」を残したのだろうか。

一言でいえば、音楽的蘊蓄小説である。カノン、フーガなどの用語解説からさまざまな曲、作曲家、演奏家、演奏の技法など、素人としては目眩を覚えるような音楽の世界が繰り広げられ、それだけでも読み応えはある。康臣があの世に辿り着けずに彷徨っている現象やら、カセット・テープに残された音の録音の方法やら、不必要に説明的で理屈っぽい叙述が多くて感興が削がれるが、結末は感動的である。(2012.12.19読了)
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by nishinayuu | 2013-02-20 14:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『マエストロ』(篠田節子著、角川書店)

c0077412_1034526.jpg普通、ヴァイオリニストは楽器が傷むという理由から、ネックレスはつけないのだが、神野瑞穂はダイヤのチョーカーをつけて舞台に立つ。なぜなら瑞穂は、株式会社ロイヤルダイヤモンドの副社長・石橋俊介に贅沢な生活を保障され、会社の広告塔となっているからだ。もって生まれた美貌と、クレモナの名器、ピエトロ・ガルネリが奏でる華麗な音楽、そして輝くダイヤが人びとを魅了する。しかし瑞穂は、イメージだけが一人歩きしていて、実際は自分が非力なことを承知している。なにしろ、10年前の国内コンクールで3位入賞したに過ぎないのだから。特にベートーヴェンを弾く段になると瑞穂は不安に苛まれる。
劇的で、奇矯で、グロテスク。瑞穂は、ベートーヴェンを呪う。素人のテクニックは速さで評価されるが、プロの技量は強弱に関わる微妙なニュアンスではかられる。デリケートな音程も、すすり泣くようなピアニシモも瑞穂は弾きこなすが、「強く、もっと強く」と要求しつつ、そこにさまざまなドラマと微妙なニュアンスを要求するベートーヴェンのスフォルツァンドにはついていかれない。
瑞穂がピエトロ・ガルネリの音がおかしいと思ったとき、その楽器を世話した楽器店の柄沢もそのことに気づいて、瑞穂に一人の職人を紹介してくれた。都営住宅に住んではいるが、腕には定評があり、称号なきマイスターとさえ言われているという「保坂のじいさん」である。保坂は修理には6ヶ月かかるので、その間はこれを使ってください、と押し入れから一挺のヴァイオリンを取り出す。瑞穂の苦手なベートーヴェンには向かないが、コレルリにはぴったりの柔らかい音色の楽器だった。もし売るとしたら6000万だというその楽器は、実は保坂が楽器製作人生の締めくくりとして、瑞穂のために作ったものだった。6ヶ月後に自分の楽器を受け取った瑞穂は、借りていた楽器も買い取りたいと申し出る。まさに自分のためにある楽器だと感じたからだ。ところがヨーロッパのオールドヴァイオリンだと思いこんでいたその楽器が、実は保坂の製作したものだと知ったとたん、瑞穂はなんとも理不尽な怒りを覚え、「そんなもの、私は弾くつもりはありません」と言い残して保坂のもとを立ち去る。瑞穂と保坂との繋がりはこれですっぱり切れたはずだったのだが……。

この作品は、演奏家とスポンサー、演奏家を目指す若者と指導者、楽器制作者と販売会社の社員、などが織りなす人間模様をミステリータッチで描いたものである。が、読んでいる最中の印象からも、読み終わったあとの印象からも、ミステリーというより音楽系蘊蓄小説、あるいは蘊蓄系音楽小説と呼びたくなる作品である。(いろいろお勉強になりました。)(2012.12.16読了)
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by nishinayuu | 2013-02-17 10:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『パンツの面目ふんどしの沽券』(米原万里著、筑摩書房)

c0077412_1113094.jpg痛快なエッセイの名手、米原万里によるなんとも大胆なタイトルのエッセイ。「ちくま」に2001年8月号から2003年7月号まで連載したものを手直しして単行本としたこと、その手直しの作業が悪性の癌との戦いの中で思うようにはできなかったこと、などがあとがきに記されている。いつもの「威勢のよさ」が感じられないような気がしたが、後書きを読んで納得した。
といっても決してつまらないわけではなく、いろいろな知識、情報が満載の楽しくてためになる読み物である。例えば、ソ連時代の人びとは用便の後、紙を使わずそのままズボンをあげていたこと、下着を着けていない兵士たちのルパシカの裾が黄ばんでいたこと、工場生産の下着というものがなかったソ連の女性たちはショーツを手作りしていたこと、ポーランド製のレースつきのパンツや中国製の「友誼」印のパンツが貴重品だったことなどが、自他の体験談や各種の記録とともに紹介される。なんと手作りショーツの型紙まで添えられている。このように日本と東欧圏のトイレ文化の違いやパンツ・ズロース談義がしばらく続いたあと、明治期に日本を訪れたモースやビゴーが「ふんどし姿の男」の写真や絵をたくさん残しているという話から、男と女の下着の違い、もしくは類似へと話題が展開していく。
著者の始めのもくろみでは、パンツはグローバルなものでふんどしはナショナルな価値を持つもの、ということになるはずだった。ところが連載を続けるうちに、読者からの体験談やら専門家からの資料提供やらもあって、どうやらパンツよりもふんどしのほうがグローバルなものだったことが判明したという。話はさらに発展して、ヨーロッパ文化圏には「男はズボン、女はスカート」という固定観念が頑強に残っているが、この棲み分けが始まるのはごく最近のことであり、実に長い間、男女の下半身を覆う衣は同じ形状(スカート型)だったこともさまざまな例証とともに詳述されている。(2012.12.9読了)
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by nishinayuu | 2013-02-08 11:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)