タグ:和書 ( 284 ) タグの人気記事

『ソウルの練習問題』(関川夏夫著、情報センター、1984)

c0077412_9221141.jpg「誠実な旅行案内を書こうと意図した。(…)過度の謙虚さにも、尊大さにも、深刻と冷笑のない交ぜにも陥ることなく、一つの誠実な異文化接触のルポルタージュを書きたかったというのが著者の真意だ」とあとがきにある。30年も前に出版された本だが、最近たまたま手に入ったので、今さら、とは思ったが読んでみた。
ソウルの状況は、私が初めて韓国を訪れた1993年と二回目の1994年当時も、ここに書かれているものとあまり違っていなかったような気がする。まだまだ、日本人と韓国人の間には言葉の壁と気持ちの壁があった。それでも私の場合はいやな思いをしたことはない。おそらくそれは私の関心が韓国の風景や文化遺産の方にあって、この著者ほど深く人々と触れ合うことをしていないからではないかと思う。そういう意味で、真摯に韓国、韓国人と向き合い、相互の理解を深めることに心を砕いているこの本の著者の姿勢とバイタリティーに圧倒される。私は2002年と2003年にも友人たちとソウルや慶尚北道を訪れているが、いずれの場合も人々の表情や言動に前には見られなかったゆとりがあり、日本人に対する当たりも前よりさらに柔らかくなっているように感じた。その後は韓国を訪れる機会がなく、昨今の現地の空気は想像するしかない。この著者が『続ソウルの練習問題』を出してくれることを期待したい。

この本の中で最も共感したのが第4部にある「ハングルの贈りもの」の次の部分。要約して引用すると――
朝鮮語は漢字を追放したために膠着語には本来不向きな「分かち書き」を取り入れざるを得なくなったが、この「分かち書き」がまるで不統一なため、ベンケイナギナタ式の誤りをおかしやすい。また、漢字語は同音異義語が多く、ハングルだけではつかみにくいため、難しい漢字が次第に捨てられて行きつつある。さらに同意語、反意語、類語などは漢字の字面を眺めないと発想しにくい。ハングルだけを使っていると造語能力の衰退に繋がり、言語の進化を阻む可能性がある。

韓国語の本を読んでいていちばん困るのが、意味が二通りにとれそうな漢字語がハングルで表記されていることだ。韓国人に尋ねても解決できない場合もある。漢字で表記してくれれば著者の意図も正しく伝わるだろうに、と思うのだが、「韓国人にとって漢字とは日本文化を思い出させるものなので、日本の影響力の排除のためには頑として漢字を退け、世界で最も合理的な文字であるハングルだけを使うのだ」ということらしい。たまに、ハングル表記された漢字語のうしろに括弧に入れて漢字が表記されていることがある。漢字でルビを振っているわけだ。この方式が普及すれば韓国人も漢字に慣れて、そのうちふつうに使い出すかもしれない(!?)(2014.2.26読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-05-23 09:23 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『立原正秋追悼』(白川正芳編、創林社)


c0077412_18133371.jpgこれは立原正秋逝去(1980年8月)の翌年4月に発行された「立原正秋追悼特集号」(同人誌『修羅』第13号)を、1985年にあらためて単行本として出版したものである。「追悼特集号」の編集の中心となったのは同人誌『朱羅の会』代表の白川正芳。執筆陣として吉行淳之介、中野孝次、高井有一、加賀乙彦、後藤明生、佐江衆一等、同人誌『犀』時代からの仲間や、先輩、後輩の作家たち、編集者たちが名を連ねている。
巻頭に掲げられた数葉の写真からは立原の端正で毅然とした雰囲気が伝わり、追悼文のそこここからは立原の作家として、人間としての魅力が強烈に伝わってくる。一方、好悪の情を隠すことをしなかったため、周囲を辟易させることも多かったらしいことが、中野孝次、後藤明生、佐江衆一、神津拓夫などの文を読むとわかる。これらを読むと、周囲とうまくやっていくことができなかった作家、というよりうまくやっていくことを拒否していた作家のようにも思われる。それはともかく、立原正秋とある時期をともに過ごした人たちの証言集であり、立原ファン必携の一冊と言えよう。(私は特にファンではないので、この本は知り合いのファンの方に譲る予定です。)(2014.2.17読了)
☆画像は韓国慶北安東市郊外にある鳳停寺の僧堂。立原正秋が生まれたとき父・李慶文がこの寺の僧だったため、立原は5歳から6歳にかけてこの僧堂に泊まって千字文を手習いし、四書五経の素読を学んだという。
[PR]
by nishinayuu | 2014-05-19 18:14 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『眠る杯』(向田邦子著、講談社)


c0077412_14452817.jpg

読書会「かんあおい」2014年2月の課題図書。
東京新聞などに掲載された50編ほどの短編をまとめたもの。印象的だったものを以下に記しておく。



「眠る盃」:「荒城の月」の「巡る盃」を聞き間違った話。(こういう聞き間違いはよくあるもので、私の身近にもイヴ・モンタンをイモブンタンと思っていた人がいました。)
「字のない葉書」:妹が学童疎開したときの話。(涙なしには読めません。)
「ツルチック」:韓国語の들쭉に由来する言葉。(トゥルチュクはクロマメノキのことで、白頭山一帯にある高山植物。ツツジ科でアサマブドウともいうそうです。)
「父の風船」:「英語の単語を因数分解で解け」という宿題の夢を見た話。
「吾輩は猫である」:小5で出会った。(私は中1でした。)
「国語辞典」:なるべく人の読まない本を読む。
「抽出しの中」:ものの整理が下手で、どこに何があるかわからなくなる。夜中に切手が必要になると友人の澤地久枝女史の家にタクシーで行って切手を恵んでもらう。澤地さんの抽出しはいつもきちんと整理されている。
「騎兵の気持ち」:5階の部屋で悲鳴を聞き、下の道をひったくり男が逃げ、女が追いかけるのを見たが、助けに出てもどうせ間に合わない、と結果的に「高みの見物」をすることになってしまった。人間、あまり高いところに住まない方がいい。歩兵の方が人間的で、騎兵は少しばかり薄情なのではないか、とも思った。
「銀行の前に犬が」:日本に赴任したイギリス人外交官夫妻が日本語の授業で「銀行の前に犬が寝ています」というセンテンスを習い覚えた。こんな会話は一生使うことはあるまい、と笑いあったが、何十年か後ロンドンで、外出から帰ったメイドの口からこのセンテンスを聞いた。(まさか!)
(2014.2.5読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-05-11 14:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『明日死ぬかも知れない自分、そしてあなたたち』(山田詠美著、幻冬舎)


c0077412_1021267.jpg澄川家は、妻を病気で亡くした誠さんと、夫が別の女性のところに走った美加さん、という傷心の二人が出会って生まれた。長男の澄生と長女の真澄は美加さんの連れ子で、次男の創太は誠さんの連れ子、次女の千絵は誠さんと美加さんの子ども、というちょっと変わった構成になっている。だから澄川家ははじめから非常に微妙なバランスの上に成り立っていたのだが、美加にとって特別な存在だった澄生が17歳のときに雷に打たれて死んだことから美加の崩壊が始まり、家族の平穏な生活も終わる。しかし母親の崩壊という一大事がかえって家族を崩壊から免れさせ、やがては再生へと導いていく。
本書はその家族の歴史を「私」「おれ」「あたし」そして「皆」という四つの章に分けて家族の一人一人に語らせる、という構成になっている。「私」は澄生の2歳下で冷静沈着なしっかり者の真澄、「おれ」は四人兄弟の「中間の子」である上、母親が中心の家庭の中で一人だけ母親と血が繋がっていない、という二つの不利な状況の中で奮闘してきた創太、「あたし」は末っ子でしかも両親の血を引く唯一の子どもという好条件のもとで自由気ままに育った千絵であるが、さて「皆」は?

美加は美しく優しい母親の姿をしていながら澄生への偏愛を正当化してしまう、いわば自己中心的欠陥人間として描かれている。それに対して誠さんは実によくできた夫であり、父親としても申し分ない。そして澄生はあり得ないほど完璧な兄であり、創太はほんとうに素直でいじらしい男の子だ。作者の目は、女性に厳しく男性に優しい、と言えよう。(2013.11.3読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-01-27 10:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『暗い絵』(野間宏著、筑摩現代文学大系)


c0077412_9484796.jpg表題にある「暗い絵」というのはブリューゲルの一連の絵を指しており、冒頭にはこのブリューゲルの絵の描写が延々と綴られている。

草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹きすぎる。はるか高い丘のあたりは雲に隠れた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いているその穴の口のあたりは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ち堆い土饅頭の真ん中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重で淫らな感触を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生き物のようにいくつも大地に口を開けている。(中略)またこちらには、爬虫類のような尾をつけた人間が股を広げて腰を下ろし尖った口の中から汚れた唾液をはきかけている。その股の間には、やはりあの大地に開いていると同じ漏斗形の穴がぽかりと開いていて(その尾のある人間は)自分の生活を苦しみという言葉で表情する術さえ知らぬ無表情なそげた顔をして、自分の股の間に開いているあの暗い穴をじっと見つめている。(後略)

主人公の深見進介はこの絵に、貧困に対する痛烈な憤怒、無知と愚昧と冷酷に対する反抗と、民衆への強い執着を見た。ブリューゲルの画集はもともと友人の永杉英作のものだった。京都の大学に在学中、深見進介は永杉の下宿でときたま、数人の友人たちといっしょにこの画集を眺めた。それはシナ事変の勃発前後の、彼らの強烈な精神が日々に光を放ち、自己嫌悪と傲慢が奇妙に混合した日々だった。その友人たちは戦争が信仰するにつれて、あるいは民間の刑務所に繋がれ、あるいは郡の監獄に入れられて獄死した。永杉から画集を借りだして以来、深山はしじゅうこの画集を手元に置いていたが、学校生活を終え、社会に出るようになってからは、頑なに誰ひとりとしてこの画集を見せようと思う人間には出会わなかったのだった。

一つの時代の雰囲気とその時代を生きる青年の心をブリューゲルの絵に托して描いた、陰湿さと暗さの中に自恃によるある種の明るさがほの見える作品である。(2013.10.30読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-01-23 09:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

私の10冊(2013年)


c0077412_1025283.jpg
☆この1年に読んだ本の中から特に気に入った本を選んで、「私の10冊」としてまとめました。また、「私の10冊」の選から漏れた本を「お勧めの20冊」として挙げました。
☆画像は『アントーノフカ』の表紙です。



私の10冊
荷車のペラジー(アントニー・マイエ、訳:大矢タカヤス、彩流社)
さびしい宝石(パトリック・モディアノ、訳:白井成雄、作品社)
奇跡も語る者がいなければ(ジョン・マクレガー、訳:真野泰、新潮クレストブックス)
昼の家、夜の家(オルガ・トカルチュク、訳:小椋彩、白水社)
Prelude(Katherine Mansfield、Constable)
サラの鍵(タチアナ・ド・ロネ、訳:高見浩、新潮クレストブックス)
アントーノフカ(イワン・アレクセーヴィチ・ブーニン、訳:町田清朗、未知谷)
スペインのある農夫へのレクイエム(ラモン・センデール、訳:浜田滋郎、西和書林)
コウモリの見た夢(モーシン・ハミッド、訳:川上純子、武田ランダムハウス)
イーサン・フローム(イーディス・ウォートン、訳:宮本陽吉他、荒地出版社)

お勧めの20冊
The Star Child(Oscar Wilde、Bodley Head)
思い出はそれだけで愛おしい(ダーチャ・マライーニ、訳:中山悦子、中央公論新社)
ティンカーズ(ポール・ハーディング、訳:小竹由美子、白水社)
City(アレッサンドロ・バリッコ、訳:草皆伸子、早川書房)
失われた時のカフェで(パトリック・モディアノ、訳:平中悠一、作品社)
リンさんの小さな子(フィリップ・クローデル、訳:高橋啓、みすず書房)
太陽通り(トーマス・ブルスィヒ、訳:浅井晶子、三修社)
灯台守の話(ジャネット・ウィンターソン、訳:岸本佐知子、白水社)
海にはワニがいる(ファビオ・ジェーダ、訳:飯田亮介、早川書房)
灰色の魂(フィリップ・クローデル、訳:高橋啓、みすず書房)
野いばら(梶村啓二、日本経済新聞)
永遠の0(百田尚樹、講談社)
女が嘘をつくとき(リュドミラ・ウリツカヤ、訳:沼野恭子、新潮クレストブックス)
厳重に監視された列車(ボフミル・フラバル、訳:飯島周、松籟社)
나의 문화유산답사기7(유홍준、창비)
湿地(アーナルデュル・インドリダソン、訳:柳沢由美子、東京創元社)
真昼の女(ユリア・フランク、訳:浅井晶子、河出書房新社)
マグノリアの眠り(エヴァ・バロンスキー、訳:松永美穂、岩波書店)
殺人者の健康法(アメリー・ノートン、訳:柴田都志子、文藝春秋社)
週末(ベルンハルト・シュリンク、訳:藤田真利子、作品社)
[PR]
by nishinayuu | 2014-01-11 10:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『さい果て』(津村節子著、筑摩現代文学大系91)


c0077412_10121043.jpgこれは津村節子と吉村昭の若き日をかなり忠実に描いたと思われる作品である。主人公の春子は大学の文化祭で友人から紹介された志郎と結婚する。早くに両親をなくして伯父の家で育った春子は、少女の頃から自分の家庭を持つことにあこがれていた。しかし、春子があこがれていたサラリーマンらしい家庭生活はわずか二ヶ月しか続かなかった。志郎がそれまで勤めていた紡績会社を辞めて、紡毛糸のブローカーを始めたのだ。しかし志郎の思惑は外れ、事業はたちまち行き詰まる。しかも元々身体の弱かった志郎が病気になったため貯えも尽き、春子は初めて質屋通いも経験する。やがて志郎は、売れ残りのメリヤス製品を各地の市場で売り歩くようになり、そんな夫とともに春子も商人宿に泊まり、寒さに震えながらの先の見えない流浪の旅を続ける。「最果て」と題した第3章にある次の文は、汽車で根室に向かっているときの春子の心の寂寥を映し出していて印象的である。

汽車は、枯れ野を走っていた。/どこまで行っても、人家も人影も見えなかった。こんなところに鉄道が敷かれているのが不思議なほど、人間の気配の全く感じられない原野であった。駅と駅との間隔が、内地のそれと比較して心細くなるほど長かった。このまま汽車は陸の終わりまで行き、海の中へでもはいって行くのではないかと思われた。

同じ作者の『紅梅』に、実家の姉と義兄に離婚を勧められた春子が「こんなに苦労させられたのだから、今別れたら損をすると思った」という思い出話が出てくる。ここでいう「こんな苦労」の部分が詳しく語られている作品である。(2013.10.1読了)
☆この作品は読書会「かんあおい」10月の課題図書『紅梅』の関連図書として読みました。
[PR]
by nishinayuu | 2013-12-21 10:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『紅梅』(津村節子著、文藝春秋)


c0077412_9325743.jpg読書会「かんあおい」2013年10月の課題図書。本作品の初出は2011年「文学界」5月号。
作家である夫が重篤な病を発症した2005年の1月から最期を迎えた2006年夏までを、やはり作家である妻の立場から綴ったもの。吉村昭の闘病と津村節子の介護の日々を基にした「作品」であり、登場人物の名前も変えてあるが、作家活動に関する事項などはそのまま書かれていると思われることから、「記録」に近いものといえよう。ふたりともに創作活動に従事する夫婦というのはさほど珍しくはないかもしれないが、そういう場合は互いに相手を尊重して相手の領域には踏み込まないようにしないと長続きしないだろう。そんな夫婦の微妙な関係が、夫の辛辣でいてユーモアのある言葉と、妻の恨めしさを潜めた優しさから感じ取れる作品である。ただし夫の最後の場面を綴った次の部分には、やりきれなさの頂点に達した妻の気持ちが現れているようで、印象に残る。
夫は息子の首に手を回して何か言った。(中略)夫は息子に何を言い残したのだろう。育子でなくなぜ息子なのだろう。育子が夫の背中をさすっているときに、残る力をしぼって身体を半回転させたのは育子を拒否したのだ、と育子は思う。情の薄い妻に絶望して死んだのだ。あれほど苦しんだ病気から解放された夫は、穏やかな顔で眠っていた。
(2013.9.29読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-12-18 09:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『東学農民戦争と日本―もう一つの日清戦争』(中塚明・井上勝生・朴孟洙著、高文研)


c0077412_9145017.jpg本書は1995年7月に北海道大学文学部の研究室で髑髏が見つかったことをきっかけに、日韓共同の歴史事実の調査・研究が進められ、さらには歴史を学ぶ市民運動が生まれることになった過程を綴ったものである。190ページという小さな本であるが、盛り込まれた内容は深くて重い。できれば参考書として手許に置いておきたい本である。

北海道大学で見つかった髑髏の一つには「韓国東学党首魁ノ首級ナリト云フ 佐藤政次郎氏ヨリ」と墨書され、次のような書き付けが添えられていたという。
髑髏(明治三十九年九月二十日 珍島に於いて)/右は明治二十七年韓国東学党蜂起するあり、全羅南道珍島は彼れが最も猖獗を極めたる所なりしが、これが平定に帰するに際し、その首唱者数百名を殺し、死屍道に横たはるに至り、首魁者はこれを梟(さらし首)にせるが、右はそのひとつなりしが、該島視察に際し採集せるものなり。

本書はまず、日清戦争が東学信徒をはじめとする朝鮮民衆と日本軍との戦いだったことを明らかにする。日本軍ははじめ、「除暴救民 輔国安民 斥和洋」のスローガンを掲げて蜂起した東学農民軍を鎮圧するという名目で朝鮮に出兵した。ところがこれを日本による侵略の危機と見た東学農民軍が朝鮮政府と和議を結んだため、出兵の根拠を失った日本軍は急遽、王宮を占領して王を虜にする。前に朝鮮政府が「朝鮮は自主の国だ」と言ったのを言質にして朝鮮政府を脅し、朝鮮政府が清国軍の撃退を日本に依頼した、という口実で清国軍の撃退、すなわち清国との開戦に踏み出したのだ。
次に本書は東学とはなにか、東学農民戦争とはなんだったのかを解き明かしていく。日本には東学農民について「低俗な民間の迷信的な信仰に、さらに排外主義も加わった得体の知れないもの」という見方が根強くある。それは明治以後、「征韓論」とともに広められた「朝鮮落伍論、・朝鮮他律論」という偏見がもたらしたものであり、新渡戸稲造も司馬遼太郎もこうした偏見に荷担している、と著者はいう。実際の東学は「朝鮮王朝の末期、社会のさまざまな困難を民衆のレベルから改革し、迫り来る外国の圧迫から民族的な利益を守ろうという願い」を反映した思想であり、「万民平等」と「やむを得ずして戦うとしても、命を傷つけぬことを尊しとする」と謳う思想なのだ。この東学農民軍が日本軍の王宮占領を機に再び蜂起したとき、日本軍は宣戦布告もしないまま「討伐」に乗りだして殺戮した。その数3万~5万。さらに、地の利を得て潜伏・攻撃を繰り返す東学農民軍を、南の珍島まで追い詰めて殲滅した。「生け捕りは大いに拷問して焼殺、民家ことごとく焼き討ち」という、東学の思想とは対極にある残忍さだった。
日本は内外からの非難を恐れて朝鮮出兵の経緯を事実とは異なる形に書き換え、東学農民軍の闘いを愚昧な農民の反乱として矮小化した。三人の著者は研究者として、そうした「歴史の偽造」を正し、東学に対する評価を正すために互いに学び合うとともに、東学の故知をたどるツアーを組織するなど、市民レベルの連帯を深める努力を続けている。(2013.9.9読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-11-18 09:15 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『旅立つ理由』(旦敬介著、岩波書店、2011)


c0077412_1193741.jpg帯の惹句に「マスコミのプリズムを通していない素顔のアフリカ、南米を舞台に、普通の人びとの真摯に生きる表情と飾らぬ姿を簡潔に移し取る21の短編」とある。
ミケランジェロが見たいという息子を連れて日本からイタリアへやって来た男。ナイロビで一緒に暮らしている外国人の男とタンザニアのザンジバルに遊びに来た女性。ベリーズの中華料理店で、上海娘とエル・サルバドルの男の間で熱帯の恋愛詩が生まれる瞬間に立ち会った男。17年前、モロッコを訪れた男に、ジェラバを買えとしつこくつきまとったアハメッドという若者。植民地時代のブラジルの首都だったバイーアで、妻の稼ぎに頼って暮らすカポエイリスタ(黒人奴隷の格闘技を得意とする男)の一家。20年前来の念願である潜水少年が採る牡蠣を求めて、メキシコの湾岸のマンディンガにやって来た男と、小学生の息子。
アフリカ人の妻・アミーナの母親が住むウガンダの町への旅ではアフリカの流儀を教えられ、バイーアでブラジル人やアルゼンチンといっしょにとびきりのフェイジョアーダを食べ、ケニアではやはりケニアに住む別れた日本人の妻とときどき会って食事もし、妻・アミーナがナイロビで子供を産んだときはバイーアからリスボン、ロンドン経由で駆ける。これらの旅の物語に共通して登場するのは、ときどきダンさんと呼ばれたりする日本人で、ケニア人の父とウガンダ人の母を持つアミーナを妻とし、男の子の父親でもある男。辺境から辺境へと移動し続ける、するなんともスケールの大きい旅の物語である。
特に印象に残ったのはことばに関する次の二つのくだり。
1.ウルグアイとブラジルの国境をまたいだとたん、決然とした強い音のスペイン語から、一気に、飲み込むような曖昧な音の多いポルトガル語に移行するのだった。
2.かつてバイーアに「バンゾ」という名の店があったが、「バンゾ」とは黒人奴隷たちが故郷に対して抱いた強烈な郷愁のことを指すことばだった。

この本の魅力の一つは内容にマッチした鮮やかな色彩、大胆な構図のイラストが各所に散りばめられていることで、「アミーナの買い出し」の青緑色の象、「カチュンバーリの長い道のり」の花模様の象が特にいい。イラストの作者は門内ユキエ。(2013.7.20読了)
[PR]
by nishinayuu | 2013-09-21 11:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)