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『風土記の世界』(三浦佑之、岩波新書)

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本書は古代文学、伝承文学を専門とする学者である著者が「風土記とはどういう書物か、なにが書かれているのか、どういうおもしろさがあって、どんなところが大事なのか」という情報を一般読者向けにまとめたものである。始めの2章が風土記の成立や内容の概説、第3章以降が国別の内容紹介となっている。

始めの2章で「8世紀初頭の日本列島を記録した資料」である『風土記』の成立や内容が概説されている。すなわち『風土記』は平城京への遷都から3年後の和銅6(713)年に律令政府が各地方に発した「風土記撰録の命令」によって編まれたものである。「風土記」と呼ばれるのは後のことで、本来は政府の命に対する報告文書である「解」と呼ばれる公文書だった。撰録すべき項目は、特産品、土地の肥沃状態、山川原野の名前の由来、古老が相伝する旧聞異事などだった。当初政府は、中国の例にならって紀(歴代天皇の事跡の記録)・志(支配領域の現状の記録)・列伝(皇子や臣下の事跡の記録)から成る「日本書」の編纂を目指したが、養老4(720)年に「日本紀」が成立したあと、何らかの理由で頓挫したものと思われる。この「日本紀」が現在『日本書紀』と呼ばれているもので、本来は「日本書 紀」であったはずである。そして『風土記』は、「日本書 志」のために収集された記録の名残と考えられる。
第3章以降で国別の内容が紹介される。現在、いちおうまとまった形で遺る風土記(解)としては、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の五か国のものがあり、逸文(後の文献に引用されて遺ったもの)として30~40か国のものがある。それら「もう一つの歴史と伝承の宝庫」の内容とそれらの読み解き方が詳しく、そしてわかりやすく紹介されていく。
第3章は常陸国風土記では正史の「日本書」紀にはもちろん、『古事記』にも出てこない「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」が取り上げられ、古事記の倭建命・日本書紀の日本武尊が風土記ではなぜ天皇として登場するのかが考察されている。古事記・日本書紀のヤマトタケル伝説ではただの通過点としてしか存在しない常陸国が、その風土記で一方的な形で倭武天皇への熱い思いを寄せているのは、東征の帰途における悲劇的な死が伝えられる以前の、東への遠征が通過儀礼として機能することによって皇位につくはずのヤマトタケルが常陸国において生き続けていたからだ、という論は説得力がある。
第4章では出雲国風土記が他の風土記とは違って撰録の命令から20年も経った天平5(733)年に提出されたのはなぜか、選録の責任者が国守ではなく国造となっているのはなぜか、「日本書」紀との関係は、などが考察されている。さらに出雲国の特殊性とその神話、「日本海文化圏」、出雲の神々の始祖であるカムムスヒ、出雲神話と古事記神話の関係、などなど興味深い話が盛り込まれている。
第5章では播磨国風土記、豊後国・肥前国風土記に見られる笑われる神や天皇、女性首長、鮎釣り、稲作などに関する伝承が取り上げられていて、風土記の世界のおもしろさが伝わってくる。
230ページほどの新書ながら、かなり中身の濃い一冊である。(2016.8.14読了)
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by nishinayuu | 2016-10-28 09:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『茶の本』(岡倉覚三、訳=村岡博、岩波文庫)


c0077412_9544990.jpg本書は1906年にニューヨークで出版された『The Book or Tea』の翻訳本で、昭和4年に第1刷が出ている。著者の弟で英文学者の岡倉由三郎が「はしがき」を記しており、昭和36年の版から巻末につけられた「解説」は英文学者の福原麟太郎が記している。岡倉由三郎は生涯のほとんどを東京高等師範学校の教授として過ごした人物で、訳者の村岡博と福原麟太郎は東京高等師範学校における由三郎の弟子である。

本書は7章からなり、各章のタイトルと概要は以下の通り。
*第1章「人情の碗」――茶は日常生活の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達す
*第2章「茶の諸流」――茶道の鼻祖・陸羽、日本において茶は生の術に関する宗教である
*第3章「道教と禅堂」――道教は茶道に審美的理想の基礎を与え、禅道はこれを実際的なものとした、人生の些事の中にも偉大を考える禅の考え方が茶道の理想
*第4章「茶室」――茶室の構造における象徴主義、外界の煩わしさを遠ざかった聖堂
*第5章「芸術鑑賞」――美術鑑賞に必要な同情ある心の交通、現今の美術に対する表面的熱狂は真の感じに根拠をおいていない
*第6章「花」――茶の宗匠と生花の法則、生花の流派
*第7章「茶の宗匠」――茶の宗匠の芸術に対する貢献と処世術上に及ぼした影響、利休の最後の茶の湯

『The Book of Tea』はボストン美術博物館の日本およびシナ部の首脳として毎年の半ばを過ごすようになった著者が、その地に多くの知己を得ながらも故郷への感傷につき動かされて著したもので、親友のジョン・ラファージ画伯に奉献したものだという。すなわち西欧人相手に英文で「文学的に」書いたものなので、当時一般の日本人には馴染みがなかったと思われる西欧人の名前がたくさん出てくる。たとえば数寄屋の狭さを表すのに「5人しか入れない」といえばすむのに「グレイスの神よりは多く、ミューズの神よりは少ない数」となっていたり、「能の『鉢の木』の旅の僧とは実はわが物語のハルンアルラシッドともいうべき北条時頼に他ならなかった」となっていたりする。おもしろいけれどもちょっとやり過ぎではないだろうか。一方、漢文の引用(訳文では書き下し文になっている)や和歌、俳句などの引用もある。たとえば第4章には露地を作る奥義として藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ」が出てくる。漢文は意味をとって英訳すればすむかも知れないが、和歌は原書ではどのように扱われているのだろうか。とにかく英文で読むにしても日本訳で読むにしても、簡単に読める作品ではないことは確かだ。
先頃読み終えた「京都踏査記」で著者の兪弘濬氏が本書を引用しながら茶室や茶道について解説していた。兪弘濬氏が読んだ『茶の本』を読んでいないのは日本人としてまずいと思い、我が家の書棚に長い間眠っていた『茶の本』を引っ張り出した。まず英文の原書を読んでから日本語訳を読もう、と思っているうちに時が経ってしまっていたのだが、今回読んでみて、原文で読むのはムリ、と思った。それに日本人が日本文化についてのあれこれをわざわざ漢字表記のない言語で読む必要もない、とも思ったのだった。(2016.7.9読了)
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by nishinayuu | 2016-09-02 09:55 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『あなたの本当の人生は』(大島真寿美、文藝春秋)


c0077412_9593287.jpg本書は2014年に刊行されたもので、初出は別冊文藝春秋303号~311号。
まず登場するのは新人作家の国崎真美。新人賞をもらったあとはぱっとせず、またまた300枚分の原稿を没にされたところだ。
国崎真美の原稿を没にしたのは担当編集者の鏡味(かがみ)。「おまえ森和木(もりわき)ホリーの弟子にならねえか」と言うなり、国崎真美を連れて森和木ホリーの屋敷へ。
鏡味の鳴らしたチャイムに応えて玄関に出てきたのは宇城(うしろ)圭子。20年ほど前、市民会館の事務員をしていたときに、講演に来た森和木ホリーにお茶を出したり挨拶に来た人をさばいたりしたのが縁で、森脇ホリーの秘書になった。森脇ホリーに「あなたの本当の人生はここにはない」と言われたのが決め手だった。森脇ホリーは何年かに一度、この台詞を口走るのだが、国崎真美もこの台詞を言われるかも知れない。もし言われたら、彼女がどうなるか追跡調査をしてみよう――そんなことを考えながら宇城はさりげない顔で国崎真美を森脇ホリーの待つ部屋に案内する。
二階の大きな部屋で国崎真美を待っていたのは「錦船シリーズ」という超ヒット作を持つ森脇ホリー。二度目の脳梗塞を起こしてから足の動きがおかしくなり、そのせいもあってか最近は創作意欲も起きない。仕事関係のことはもちろん、家の中の雑事も宇城にまかせていて、20年あまり前に宇城に声を掛けたのは実に正しいスカウトだった、と思っている。

森脇ホリーは国崎真美を見るなり「あなた、チャーチル(錦船シリーズに登場する黒猫)に似てるわね」と言う。鏡味がぐふっと吹きだし、宇城もうっすらと笑う。こうしてチャーチルこと国崎真美は森脇ホリーの広大な屋敷で暮らし始めるのだが、さて、国崎真美の本当の人生は?

時たま無性に大島真寿美が読みたくなるときがある。それはちょっと疲れているときやストレスがたまっているときだ。今回もそんな状態のなかでこの本を手に取った。期待通り、ふんわりと温かく、とても気持ちが安らぐ読み物だった。ここで、大島真寿美の作品を既読と未読に分けてメモしておく。
これまでに読んだ作品――『香港の甘い豆腐』『ほどけるとける』『かなしみの場所』『水の繭』『チョコリエッタ』『虹色天気雨』『宙の家』『羽の音』
これから読む予定の作品――『ビターシュガー』『戦友の恋』『それでも彼女は歩き続ける』『ゼラニウムの庭』『三月』『ワンナイト』『ピエタ』
(2016.6.13読了)
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by nishinayuu | 2016-08-17 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『天に遊ぶ』(吉村昭、新潮社)

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読書会「かんあおい」2016年7月の課題図書。
本書は平成8年1月から平成11年4月にかけて、『波』その他に掲載された「超短編」21編を収録したもの。各作品の概要は以下の通り。

*鰭紙――天明年間の飢饉について調べている学者が目にした古文書に、若い女が人肉を食べる場面の記録があり、その箇所につけられた鰭紙に女の身元が記されていた。
*同居――5年前に妻を亡くした後輩にある女性を紹介したところ、二人の関係は順調に進展した、と思いきや後輩が、彼女には「同居ニン」がいるので結婚できない、と報告してくる。
*頭蓋骨――終戦直後に樺太避難民の船が沈没した海辺で、40年も経って漁網に幼児の頭蓋骨がかかったという。作家は村を訪れて漁師の話を聞いたが、帰途は散々で不審訊問まで受ける。
*香奠袋――文壇人の葬儀は出版社の編集者たちが引き受けるのが習いだ。そんな葬儀に現われるある上品な老女を、編集者たちは警戒しながらも心待ちにする。
*お妾さん――「私が生まれ育った町にはお妾さんの住む家が多かった」で始まり、空襲の時、道沿いの墓所にしゃがんでいた頼れるもののなにもないお妾さん母子の姿で終わる。
*梅毒――桜田門外の変の現場指揮者だった関鉄之介は梅毒患者だったのでは?と疑われていたが、梅毒ではなく糖尿病だったことを調べ上げた作家。関の子孫に報告すると相手の顔が輝いた。
*西瓜――離婚した妻が、ある男に執拗に求婚されて困っている、と言ってくる。さてその真意は? 
*読経――葬儀でひときわ高く錆のある読経の声が響く。声の主は少年の頃、過失で弟を死なせた男だった。
*サーベル――大津事件で無期刑に処せられた津田三蔵の親族に会ったあと墓を訪れた作家は、墓の異様な小ささに驚くとともに、手向ける花を持たずに来たことを悔やむ。
*居間にて――伯父の死を知らされた伯母が身を震わせて笑ったと報告する妻。忍従の人生だったからか、でも妻の場合はそんなことはあるまい、と思う夫。
*刑事部屋――ある家に二人組の強盗が入った。その家の息子と友人の仕業だとにらんだ警察から息子の友人である自分に呼び出しがかかって……
*自殺(獣医その1)――肺癌と診断された犬が道に飛び出して車にはねられた。医者と飼い主のやりとりから敏感に事情を察して自殺したのかもしれない。
*心中(獣医その2)――飼い主の女性によって無理心中の片割れにされたダックスフント。傷も癒えて女性の息子に引き取られていく。
*鯉のぼり――孫と二人暮らしだった老人の家には孫が事故で死んだ後も毎春鯉のぼりが翻った。
*芸術家――自称小説家の峰村と一緒に出奔した従妹が岩手県下にいることがわかって……
*カフェ――友人からすすめられた敷島を一本吸ったことで、少年時代に住んでいた町とそこにいた人々が鮮やかに浮かび上がった。
*鶴――同人誌の仲間だった岸川の通夜。遺族席にいたのは妖艶ともいえる美しい女性だった。岸川がかつて妻子を捨てて走った25歳年上の女性だから、79歳になっているはずだった。
*紅葉――大学時代の友人が終戦から4年目に奥那須の温泉宿に滞在していたときの体験談。一夜を隣室で過ごした男女は殺人犯たちだった。
*偽刑事――取材先では刑事に間違われることがよくある。八丈島でまたそんな気配が見えたので同行者を刑事に仕立てたら天罰が下って、飛行機は欠航、やっと飛んだと思ったら大揺れ。
*観覧車――離婚した妻・娘と一日を遊園地で過ごした男。妻への未練に突き動かされて復縁を迫るが、二人を見送った後、性懲りもなく浮気の虫がまたうずく。
*聖歌――姉の葬儀の席で聖歌斉唱が始まったとき、驚くほど豊かなテノールが会堂内に響いた。姉が親の反対で結婚をあきらめた、もと同じ音楽部にいた男だった。
(2016.4.23読了)
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by nishinayuu | 2016-06-30 10:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ことり』(小川洋子、朝日新聞出版、2012)

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「小鳥の小父さんが死んだとき、遺体と遺品はそういう場合の決まりに則って手際よく処理された。つまり、死後幾日か経って発見された身寄りのない人の場合、ということだ」という文で始まるこの物語は、いわゆる孤独死をした一人の男の、物心ついてから死に至るまでのあれこれを綴ったものである。


「小鳥の小父さん」というのは、彼がボランティアで近所の幼稚園の鳥小屋を掃除していた時期に園児たちが付けた呼び名だった。ある事件のせいで幼稚園から拒否されるまで、彼の鳥小屋掃除は20年近く続いた。園児たちだけではなく他の人たちからも「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになっていた彼だったが、鳥小屋掃除をやめてからは「ことり」と陰でこそこそ呼ばれたりした。これは彼の晩年の話である。
彼に初めて幼稚園の鳥小屋を見せてくれたのは、七つ年上のお兄さんで、それは彼が六つになったばかりのころだった。13歳のお兄さんは小鳥のことをとてもよく知っていて、弟にいろいろ教えてくれたが、お兄さんの言葉が分かるのは弟だけだった。学校の先生も、お父さんもお母さんも、近所の人たちも、みんなお兄さんの言っていることが分からなかった。なぜならお兄さんは11歳を過ぎたあたりから自分で編み出した言語でしゃべり始め、13歳のころにはその言語「ポーポー語」はすっかり完成されていたからだ。弟はそれ以来「ポーポー語」を話す兄と一緒に生きてきた。両親が亡くなった後もずっと。それは世間的に見れば寂しく孤独な人生といえるかもしれないが、「小鳥の小父さん」にとってはそれなりに充実した、ある意味では波乱万丈の人生だったのだ。

2012年発行の書き下ろし作品。(2016.1.23読了)
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by nishinayuu | 2016-04-15 10:00 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

私の10冊(2015年)


c0077412_10135424.jpg☆この1年に読んだ本の中から特に気に入った本を選んで、「私の10冊」としてまとめてみました。また、「私の10冊」の選から漏れた本を「お勧めの10冊」として挙げてみました。
☆画像は「風の丘」です。

私の10冊
白の闇(ジョゼ・サラマーゴ、訳=雨澤泰、NHK出版)
Julius Caesar(Shakespeare, Greenwich House)
아침의 문 (박민규、문학사상)
チボー家の人々(マルタン・デュ・ガール、訳=山内義雄,白水Uブックス)
チェスをする女(ベルティーナ・ヘンリヒス、訳=中井珠子、筑摩書房)
風の丘(カルミネ・アバーテ、訳=関口英子、新潮クレストブックス)
八月の六日間(北村薫、角川書店)
暗いブティック通り(パトリック・モディアノ、訳=平岡篤頼、白水社)
時の娘(ジョセフィン・テイ、訳=小泉喜美子、早川書房)
死んでいる(ジム・クレイス、訳=渡辺佐智江、白水社)

お勧めの10冊
蠅の乳しぼり(ラフィク・シャミ、訳=酒寄進一、西村書店)
ある小さなスズメの記録(クレア・キップス、訳=梨木香歩、文芸春秋)
あらしの前、あらしのあと(ドラ・ド・ヨング、訳=吉野源三郎、岩波書店)
だから荒野(桐野夏生、毎日新聞社)
日本語の正体(金容雲、三五館)
나의 문화유산 답사기(유홍준、창비)
Bartleby the Scrivener(Melville、国書刊行会))
どこ行くの、パパ(ジャン=ルイ・フルニエ、訳=河野万里子、白水社)
ある青春(パトリック・モディアノ、訳=野村圭介、白水Uブックス)
方丈記(鴨長明、小学館日本古典文学全集)
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by nishinayuu | 2016-02-07 10:16 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『音楽と文学の対位法』(青柳いづみこ、みすず書房)

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本書はピアニストであり文筆家でもある著者によるエッセイ集で、以下の六つの章からなる。


第1章モーツアルト――カメレオンの音楽
第2章シューマンとホフマンの「クライスレリアーナ」
第3章ショパンとハイネ
第4章ワーグナーと倒錯のエロス
第5章ラヴェルとレーモン・ルーセル
第6章ランボーの手、ドビュッシーの手
この著者の『ピアニストは指先で考える』は、専門的すぎて理解の届かない部分も多かったが、それでも非常に興味深く、楽しい読書体験ができた。それで、図書館でこの本を見つけた時、「♫あの-すばらしい感動を-もう一度♫」と思って手に取った。ところが本書はさらに専門性が高く、音楽と文学に関する膨大な情報に圧倒されるばかりで、とても歯が立たなかった。ヴァイオリニストのクライスラーなら知っているが、ホフマンのクライスラー楽長は読んだこともないし、シュールレアリストたちが高く評価したというレーモン・ルーセルも知らない、というレベルでは理解できるはずもない。そういうわけで「読了」したとは言えない状態だが、おもしろいと思える箇所は数え切れないほどたくさんあった。多すぎて書き切れないので、ほんの少しだけ抜き書きしておく。

*ショパンはまわりの文人たちにこよなく愛された。シューマンもリストもメンデルスゾーンも、同世代の作曲家たちはことごとくショパンの作品や演奏を賛美した。しかし、ショパンは極端に気むずかしく、彼らについての評価は留保するか故意の言い落としで巧みにカモフラージュした。
*貴族性と大衆性の奇妙なまざりあい、民衆という者へのアンビヴァレントな感情がハイネとショパンを近づけたのではないかと思うことがある。
*『ワーグナーとはなにか』の著者ブライアン・マギーによれば、ワーグナーの作品は、とりわけ「感情的に孤立ないし抑圧された人」の想像力を強く刺激する。ニーチェ、コルク張りの部屋で一人で暮らしたプルースト、西欧世界に背を向けてアフリカで生きたシュヴァイツァー、性欲が乏しく、概念を通してしか人と関わることのできなかったバーナード・ショー。このリストに、実姉と近親相関関係にあったといわれるビアズリー、冷感症崇拝のボードレール、同性愛的傾向を隠したトーマス・マン、ロリコンのバーン・ジョーンズやマザコンのファンタン=ラトゥール、マゾヒストのスウィンバーン、他ならぬルードヴィヒ二世などを加えると、ある種の傾向が見えてくるだろうか。
*ドビュッシーの書簡にはたった1通を除いてはランボーのラの字も出てこない。ヴェルレーヌの詩には多くの歌曲を作曲したものの、(中略)ランボーの詩に音楽をつけたこともない。このないないづくしが、かえって意識している証拠ではないかと、うがった見方もしてみたくなる。
*「音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、決して耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽であり続けなければなりません」というモーツァルトの言葉は、「音楽は謙虚に人を楽しませることに努めるべきです」と書いたドビュッシーの言葉と恐ろしいほど似ていて、思わず身体がふるえるほどである。(そして、ドビュッシーの不協和音にあふれる即興演奏に憤慨した同級生に対してドビュッシーは次のように答える。)「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」つまり、当時の耳が不協和音と感じたものが、ドビュッシーにとっては「喜び」だったということになる。
*(ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を絶賛したドビュッシーは、「春の祭典」にはきわめて獰猛だという感想を述べ)のちにアンセルメに本音をもらしている。「ストラヴィンスキーは音楽的ではない方法で音楽を作ろうとしているように思われる。それは、ドイツ人たちが今やおがくずでビフテキを作ることができると表明したのと同じようなものだ」――ロックスパイザー『ドビュッシーの生涯と思想』より。
(2015.8.31読了)
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by nishinayuu | 2015-12-21 10:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『八月の六日間』(北村薫、角川書店、2014)

c0077412_21164585.jpg本書は2014年5月に初版が発行された短編集である。五つの章からなり、各章は2011年から2014年にかけて『小説 野生時代』と『小説 sari-sari』に掲載されている。
第1章「九月の五日間」ではまず、30代も終わりに近づいた女性編集者が山女子になったきっかけが語られる。3年前、仕事のストレスと私生活のどんよりした不調が重なっていた語り手を、活力いっぱいの部下「藤原ちゃん」が山行きに誘ってくれたのだった。行き先は大菩薩に近い滝子山。語り手は、山から手を差し伸べられてしっかりその手を握ったそのときの感動を、次のように述べている。
細い涸れ沢の上を紅葉のアーチが先まで続いていた。木漏れ日が優しく落ち、葉のひとつひとつが頭上できらめいていた。(中略)空から降ってくるのは、素朴なのに荘厳さを感じさせる光。色がそのまま音楽だった。(中略)この世のものとは思えない眺め。わたしが足を向けずにいた間も、ここには、この自然があり、わたしが帰った後もある。それがとても有り難いことに思えた。

かくして語り手は忙しい仕事の合間に山歩きをするようになり、少しずつ腕(脚?)をあげていく。そして3年後には標高3800mの槍ヶ岳に挑戦するまでになっている。これが第1章の「九月の五日間」である。その2年後、40代に突入してから裏磐梯の雪山(第2章「二月の三日間」)。編集長に昇格した年、山と出会った5年後には蝶が岳、常念岳、燕岳を縦走(第3章「十月の五日間」)。次のゴールデンウィークには「8時ちょうどのあずさ」で春の雪山を体験(第4章「五月の三日間」)。続いてパラオ出張などをこなした後、裏側から北アルプスに入り、薬師平、雲ノ平、高天原温泉、双六岳、鏡平へと尾根歩き(第5章「八月の六日間」)。
語り手は編集者という設定なので、山行きには必ず本を携行する。たとえば戸板康二の『あの人この人 昭和人物師』、内田百閒の文庫本、『向田邦子 映画の手帳』、南方熊楠の『十二支考』、川端康成の『掌の小説』、吉田健一の『私の食物誌』、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』、西村美佐子の歌集『風の風船』、中島敦の『南洋通信』という具合。新旧取り混ぜて、といいたいところだが、ちょっと旧が勝っている感じの選択だ。本の選択より興味深いのは山に携行する食べ物の選択。たとえば「二月の三日間」ではおにぎりとメロンパン、板チョコ、フィナンシェ、月餅、レーズンサンドに甘いものの詰め合わせ袋(中身はアーモンドチョコ、ミニビスケットサンド、干しマンゴー、オランジェット)と甘いもののオンパレード。一応しょっぱいものの袋(品川巻とじゃがりこチーズ味)も用意されるが、断然甘いものに偏っている。語り手が山で出会ったバルトークが好きな「麝香鹿さん」などは山小屋を出る時に1本の羊羹を手にして、それをかじりながら歩くということになっている!
編集者として関わる作家たち、同じ業界にいながら6年も出逢わなかったもと同居人、山で行き合った人々など登場人物と彼らにまつわるエピソードも多彩で、「一人山歩きの話」と「自立したアラフォー女子の話」がうまく絡み合った楽しい読み物である。(2015.8.8読了)
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by nishinayuu | 2015-12-05 20:23 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『花はこべ』(大島英昭、ウエップ、2015)


c0077412_15111722.jpg本書は学生時代の友人による第2句集である。俳句とは無縁の人間に貴重な句集を送ってくれたことに感謝しつつ、詠まれた景とそのときの詠み手のたたずまいを想像しながら、また一語一語の音を辞書やインターネットで確認しながら読んだ。おかげで季語や俳句独特の言い回し、難読漢字などの知識が少し増えたような気がする。それはそれとして、俳句の世界ではなぜ難読漢字にルビをつけないのだろうか。鑑賞者に解読の苦しみを味わわせるのも俳句を詠む楽しみのひとつなのか、と勘ぐりたくなる(著者への苦言ではなく、俳句を詠む人全般への思いです)。そうかと思うとルビなど不要と思われるところにルビがあったり、漢字表記でもよさそうなところがひらがな表記になっていたりする。表記に関してなにか決まりのようなものがあるのだろうか。それはともかく、今回せっかく辞書を引き引き解読したので、それらを記録しておくことにする(結果的に無知をさらけ出すことになりますね。)

〇ルビがほしかったことば――石蓴(あおさ)、萍(うきくさ)、穭田(ひつじだ)、秋黴雨(あきついり)、磴(とう:石段/坂道)、榠樝(かりん)、末黒野(すぐろの:野焼きのあとの黒くなった野)、木五倍子(きぶし)、行行子(ぎょうぎょうし:オオヨシキリ)

〇独特の表現――ほろろ打つ(雉、山鳥などが羽ばたきする/羽ばたきして鳴く)、小六月(10月の異称)、捨子花(曼珠沙華の異称)、数へ日(年末の残り少ない日々)、春ならひ(春北風)、鳥曇り(冬鳥が北へ帰る頃の曇り空)、雀がくれ(春の草丈が雀を隠す位に伸びた状態)、まくなぎ(糠蚊の一種。かたまって上下に飛び、目の前につきまとう)、との曇り(空一面に曇ること)

おこがましいので俳句の鑑賞はしない(できない)が、特に心惹かれた句を挙げておく。
藁葺きの屋根の高みを夏の蝶
野茨の実の赤らみてゆくところ
丘あれば丘の形に曼珠沙華
野ぶだうの路傍に熟るる妻の里
声明の途切れ途切れに黒揚羽

(2015.7.1読了)
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by nishinayuu | 2015-11-07 15:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『だから荒野』(桐野夏生、毎日新聞社、2013)


c0077412_10565861.jpgこの作品の初出は毎日新聞朝刊(2012年1月1日から2012年9月15日まで連載)で、単行本化に当たって大幅に加筆・修正されたという。またドラマ化されて、NHK-BSの日曜夜22:00~22:49に全8回で放送された。このドラマを何気なく見始めたらけっこう面白くて、5回くらいまでは見たのだが、終わりの方は見損なってしまった。最後がどうなったか気になったので原作を読んでみた。その結果、ドラマと原作にもいろいろ相違点があることが判明。結局『だから荒野』という作品には三つのヴァージョンがあるわけだが、大筋は、一人の女性の自分探しの旅を描いたロード・ムービーであり、家族の崩壊と再構築の物語である。
物語の冒頭でヒロインの森村朋美は46歳の誕生日を迎える。家族の誰も誕生日を祝ってくれそうもないので、朋美は自分で新宿のレストランを予約し、夫の浩光と長男の健太、次男の優太を誘う。ところが、念入りに化粧をし、この日のために用意した若々しいチュニックに着替えた朋美を、家族はうんざりしたような目で見るばかり。高1の優太は一緒に出かけることさえ拒否。浩光は浩光で、いつも通りに朋美が運転するものと決めてかかっている。誕生日の朋美にお酒を楽しませてやろうという気遣いは全くないのだ。さらに、グルメサイトに投稿してそれなりの評価も得ているらしき浩光は、朋美の予約したレストランにあれこれ難癖をつけはじめる。このとき朋美ははっと気づく。朋美は家族の誰にとっても大切な人間ではなくなっていたのだ。それなら、と朋美は食事を中断して席を立つ。家族という「荒野」を捨てて一人で車に乗り込んだ朋美は、どこかにあるに違いない「沃野」を求めて走り出す。高速道路に乗って遠い長崎に向かう1200㎞の長い旅がはじまったのだ。

はじめはヒロインの視点で描かれているが、次第に夫や子どもの視点も取り込まれてきて、女には見えていて男には見えないもの、逆に女から見ればつまらないことでも男には大事なこと、などが浮かび上がってくる。なんの取り柄もないだめ主婦のように思えた朋美がきっぱりした大胆さ(長崎の語り部老人・山岡のいう「猛々しさ」)の持ち主だったこと、無神経で自己中でどうしようもない夫に思えた浩光にも同情すべき点がなくはないこと、健太にも優太にもそれぞれ事情や言い分があることなどを、巧みな展開の中で納得させてくれる作品である。(2015.4.14読了)
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by nishinayuu | 2015-07-22 10:58 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)