タグ:ことば ( 134 ) タグの人気記事

c0077412_09575568.jpg


Level ofLife』(Julian Barnes, 2013

著者は『終わりの感覚』で2011年にブッカー賞を受賞した作家。OEDの編集に携わっていたこともあるという。




本書はそれぞれ独立した内容を持つ3つの章によって構成されている。

1章「高さの罪」の主人公は、史上初めて上空から地表を撮影したフェリックス・トゥルナション(18201910)通称ナダール。ジャーナリスト、風刺画家、写真家、気球乗り、発明家、起業家でもあったナダールは同時代の人々から「発散する元気の量が仰天レベル」(ボードレール)、「才気煥発の愚か者」(ネルバル)、「頭がよく回る、合理性の欠片もない男」(後に親友となった編集者)などと評されている。また、「写真を芸術の高みに引き上げんとするナダール」(ドーミエによる風刺画)という絵に登場し、彼の乗った気球ルジアン号もマネやルドンの絵に描かれている。さらに、ビクトル・ユゴーが宛名に一語「ナダール」と書いて出すと手紙がちゃんと届いた、というエピソードも残している。第1章にはこのナダールのほかに気球旅行をした女優のサラ・ベルナール、ドーバーからイギリス海峡を越えてフランスに飛んだ英国軍人フレッド・バーナビーも登場する。

2章「地表で」は上記のサラ・ベルナールとバーナビーの出会いと別れを綴った恋愛物語。もちろん実話ではなくフィクションであるが、彼らに関するエピソードや同時代人による評が盛り込まれていて楽しい。例えば「ベルナールは生涯を通じてナダールの――最初は父ナダール、のちに息子ナダールの――被写体であり続けた」とか、「身長はようやく150㎝ほど」、「共演の男優とは必ず寝ていた」、「感嘆するほど目立つことに秀でた人物」(ヘンリー・ジェイムズ)、「嘘っぽく、冷たく、気取り屋。あのパリ風シックには胸が悪くなる」(ツルゲーネフ)などなど。あの『スラブ叙事詩』の画家ミュシャ/ムサが描いたベルナールを思い浮かべながら読むのも一興である。

3章「深さの消失」は、最愛の妻をほとんど突然失ったバーンズが、妻のいない日々をどのように生きたかを綴ったもの。出会ってから30年という歳月をともに歩んできてこれからも歩んでいくはずだった妻の死によって、作家は奈落の底に突き落とされる。悲しみと苦しみにとらわれ、周囲の言葉に傷つき怒り、ついには自分も消えてしまおうと考える。一人残された者のそんな思いが事細かに綴られていて、胸を打つ。第1章は本来組み合わさるはずのない物事の組み合わせによって高みへと導かれる物語、第2章は出会うはずのない者同士が出会って高みに到達するが、いきなり高みから突き落とされる物語だった。そしてこの第3章のテーマは、高みから突き落とされたあとはどうなるか、ということである。まだ光は見えていないが、光を見ようとする意思が感じられる終わり方である。いつかある日、本書に救われる日が来るかもしれない、と思いながら読み終えたのでした。(2017.11.14読了)


[PR]
by nishinayuu | 2018-01-16 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


c0077412_09144379.jpg


本作品は「どうやらあがったようだわ。宇藤聖子は露の晴れ上がった空を見上げてそう呟いた。」という文で始まる。「あがった」のは「雨」だと思わせておいて、数行先で雨ではなく別のものの話だということがわかるのだが、なにやらゆったりした家庭小説の始まりを期待させる書き出しである。

主人公の宇藤聖子は、知り合いの税理士事務所で週三日ほどアルバイトをしているが、主婦業も完璧にこなす50台はじめの女性。夫の守とは大学の同級生で、出産前までは丸の内でばりばり働いていたという設定。それでこの夫婦の会話にはマルグリット・デュラスとかオクタビオ・パス、トーベ・ヤンソン、クロード・シモンなどの名がぽんぽん飛び出す。零細編集プロダクションを営む夫がある晩持ち出した名前は伊藤整だった。ある会社のPR誌を引き受けることになり、創業者の趣味を入れて伊藤整の『女性に関する十二章』のようなものを書くようことになったという。「文筆業が本業でその傍ら編集もやっている」という建前の夫はこの仕事に乗り気になっていて、『女性に関する十二章』をきみも読んでみる?と聖子に聞く。自分は家の本棚から見つけた文庫本を読むから、聖子はタブレットで読めばいいという。すでにキンドルで電子書籍を買ってあるのだ。まさに今の時代のごく一般的な夫婦、ということだろう。(因みにnishinaも新しもの好きの夫のおかげでずいぶん前からキンドルを使っているが、周りにいる同年代の友人知人には同類が見当たらない。)

こうして伊藤整の『女性に関する十二章』と付いたり離れたりしながら『彼女(聖子)に関する十二章』が展開していくことになる。初恋の男性の息子との邂逅に始まり、彼女なりにめまぐるしい男性との関わりが綴られていき、その合間に適度な蘊蓄も挟み込まれていて、中年女性の日常を綴ったエッセイのような趣もある。そして最後はまた冒頭と呼応するように「あがった」話で締めくくられている。この作者の本は『小さいおうち』しか読んでいないので、他の作品も読んでみようかという気分になった。たとえば泉鏡花賞を受賞している『妻が椎茸だったころ』とか、チャンドラーか?と突っ込むのがお約束と思われるタイトルの『長いお別れ』とか。

目にとまった部分を軽重は度外視して書き留めておく。

*阿野弥也子なんか、すっごいこと書いてて、あっちこっちから怒られているけど、それでもブイブイ威張りながら書いている。(あの作家のことですね。)

*守に仕事をくれた会社の会長が、若い男に動物としての種まき本能が欠けているから少子化問題が起こるのだという論理から、PR誌のタイトルを『種を蒔く人』にしたいと言い出した。それを聞いた聖子は初恋の人・久世佑太は「種を蒔く人」になったのだ、と思う。

*伊藤整による『金色夜叉』の要約。

*初恋の相手は一生の間その人の美の原型となる。

*アンドレア・デ・サルトがアンドレア・デ・サルトでなかったとしたら、『吾輩は猫である』の冒頭は、あんなにおかしいだろうか。

*お金を使わずに生きることにかけている片瀬さんと喫茶店に入ると、チェット・ベイカーの『レッツ・ゲット・ロスト』が流れていた。

*「自分のエゴも他人のエゴも肯定する」のがキリスト型の愛で、「他人のために自分のエゴを否定する」のが孔子型の愛だ。

*孔子型の愛は自己犠牲を称揚する日本的な情緒とつながる。そして「いつだって日本で軍事化が進められるときには、日本的情緒が引っ張り出される」と伊藤整は言っている。

*『遠くへ来たもんだ』(海援隊)と『遠く来たもんだ』(中原中也)じゃ大違いよ、と言って聖子はタブレットで中也の詩を読む。「この詩、いいよね」と聖子がしみじみ言い、「いいね」と言って妻を見上げる守に微笑み返す。

2017.10.28読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-12-26 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)


Aunts Aren’tGentlemen』(Wodehouse――1974年の英国版

TheCatnappers』(Wodehouse)――1975年のアメリカ版

c0077412_09041249.jpg本書はイギリスのユーモア作家・ウッドハウス(18811975)による最後の作品である。邦訳のタイトルは内容が一目でわかるアメリカ版のタイトルをもとに、ジーヴス・シリーズの1作であることも示していて、よくできたタイトルではある。一方のイギリス版のほうはちょっと意味不明な感じがし、そのせいでかえって興味がかきたてられそうな、捨てがたいタイトルとなっている。種明かしをしてしまうと、イギリス版のタイトルは本作の最後にバーティーがジーヴスに向かって言う次のような台詞から来ている。

「僕らの心は落ち着いている。なぜかというとここニューヨークはダリア・トラヴァース夫人から五千キロも離れているからだ。僕はあの懐かしき肉親を愛しているし、むしろ崇拝している。しかし彼女の道徳規範は弛緩しているんだ。何かしたいとなったら彼女はどどんと行って、それをやる。今回のねこの件でそうしたみたいに。叔母さんという種族の問題はなんだかわかるか?彼女たちは紳士じゃない。」

物語の主人公バーティーは、胸にぶつぶつができたため田舎に療養に行くことになる。行く先はサマセットの保養地ブリッドマス・オン・シーの近くにあるメイドン・エッグスフォード。その地に滞在中のダリア叔母さんがコテージを捜してくれた。同行するのはバーティーのお側付き紳士で生き字引のジーヴス。さてふたりが到着してみると、メイドン・エッグスフォードは「魔境」だった。アフリカ探検家でバーティーの仇敵であるプランク少佐を手始めとして、バーティーがかつてプロポーズして断られたヴァネッサ・クック、かつての学友で今やヴァネッサの恋人となっているオルロ・ポーターなどなど、バーティーの苦手な連中がわんさといるではないか。しかも土地の競馬大会を巡ってやっかいな事件が持ち上がる。ブリスコー大佐の持ち馬シムラ号に一財産を賭けたダリア叔母さんが、クック大佐の飼い猫をさらおうと企てたのだ。というのはシムラ号と互角の力を持つクック大佐の持ち馬ポテトチップ号はねこと仲良しで、ねこがそばにいないと力が発揮できないとわかったからだ。バーティーはこのねこさらい計画に巻き込まれてさんざんな目に遭うことになる。

この作品の魅力の一つは、気のいい青年紳士のバーティーと、控えめだが凜としたジーヴスのやりとりにある。ふたりは頻繁に古典や詩歌を引用する。時にはバーティーが言葉遣いが正しいかどうかをジーヴスに確かめる。そしてジーヴスはつねに的確に応える。ストーリーを楽しむと同時にイギリス紳士の教養あふれる会話を味わうための作品と言えよう。(2017.10.25読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-12-22 09:10 | Trackback | Comments(1)

翻訳練習 課題4

c0077412_12534172.jpg

今学期の韓国語講座「翻訳の秘訣」で練習したものの記録です。(2017.11.6


秘訣-10 説明を要する言葉は①括弧に入れる②本分に組み込む③脚注にする。

原文:ニートの若者を減らそうと、各県ではあらゆる取り組みを始めて、ニートの自立を目指している。

訳文:①니트족(무위도식 청년) 줄이기 위해 각현에서는 다양한 대책을 세워서 니트족의 자립을 지원하고 있다.

②무위도식하는 청년을 가리키는 니트족 줄이기 위해 각현에서는……

니트 영어 NEET 약어. NEET Not inEducation, Employment or Training 줄임말로 취학도 취업도 하지 않고 직업 훈련도 받지 않는 15~34살의 젊은이를 말한다.


秘訣-11 時には本文の語句を果敢に削除する。

原文1:その晩、子猫はなんとなく眠れませんでした。空には満月が浮かび、町は静まり返っています。

訳文:그날 밤 아기 고양이는 잠이 오지 않았어요. 하늘에는 보름달이 떴고(아니면: 보름달이 뜬 하늘 아래) 마을은 더없이 고요했어요.

原文2:いじめっ子は自分のしたことを思い、なんだか恥ずかしい気持ちになりました。

訳文:왕따를 시킨 아이는 자기가 한 짓이 생각나니 부끄러운 마음이 들었습니다.


秘訣-12 意味を曖昧にするような否定表現は使わない。

原文1:「今現在、好きな人がいないとも言えないというか

訳文:실은 요즘 좋아하는 사람이 있어……

原文2:最近は漢字の読めない若者が少なくない。

訳文:요즘은 한자를 못 읽는 젊은이 많다.

原文3:(旅先で息子について話す夫婦の会話)

  A:一雄、ちゃんと宿題してるかしら。

  B:あいつのことだから、ゲームでもやってるんじゃないか。

訳文:A가즈오가 숙제를 제대로 했을까요?

B녀석이라면 개임이나 하고 있겠지.


[PR]
by nishinayuu | 2017-12-18 12:57 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)


c0077412_09381878.jpgSummer』(Lisa Grunwald,1985

副題にA storyabout loving …and letting goとある。すなわち本書は強い愛情で結ばれた家族の物語であり、その中の一人があの世へ旅立つのを残される者たちがそれぞれのやり方で受け入れていく物語である。舞台はマサチューセッツ州の半島ケープ・コッドの沖合にあるサンダース島。ケープ・コッドと付近の島々はニューイングランドの中流階級が好んで夏を過ごすリゾート地である。

63日、父親の操縦する自家用飛行機で島へ向かうところから物語は始まる。語り手のジェニファーは18歳。シカゴからボストンへと飛行機、タクシーを乗り継ぎ、父親が自家用機を置いている郊外の飛行場に着いて、遠くからこちらを見ている両親の姿が見えたとき、ジェニファーは心の中でつぶやく。「もうすぐ死ぬんだ」。しかし、背骨の腫瘍で余命いくばくもないはずの母親のルルは、まだいつも通り前向きで、楽天的だった。父親は日常の細々したことはすべて妻に頼っている芸術家気質の彫刻家で、病気の説明を一通りしたあと、話は唐突に(とジェニファーは感じた)「ネプチューンの馬」に飛んでしまう。強い愛情で結ばれている二人が、永遠の別れを前にしてすこしも動揺を見せないことがジェニファーには理解できない。そこでジェニファーは、父親は現実を受けとめるのを拒絶しているのであって、実際に妻から取り残されたら生きていけないだろうから、なんとかして二人を同時にあの世へ送ろう、と思い立つ。

7月から8月へと時が移るにつれてルルの病状はみるみる悪化する。その間ジェニファーの企ては遅々として進まず、ただその企てのおかげで知り合ったベンジャミンへの恋心は募っていく。初めての恋に戸惑うジェニファーに、年齢相応に経験を積んでいる姉のヒラリーは具体的な助言を与える。そして母親のルルはある日、それはルルが死を迎えつつある日だったが、「ジェニファーが愛するに値する人間だ」という確かな自信を与えてくれたのだった。それが、ルルがジェニファーに与えてくれた最後の贈り物だった。そんな中で父親は「回転木馬」の制作に熱中していた。ジェニファーはその「回転木馬」を母親ルルへの最後のプレゼントだと思っていたが……。

メモ:回転木馬の見物人に見える側を「ロマンス・サイド」と呼び、いちばんてっぺんに取り付けられる木馬を「フライング・ジェニー」と呼ぶ。

2017.9.28読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-11-20 09:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

c0077412_13331815.jpgThe Complete Worksof Sakiに収録されている1編でタイトルの意味は「見落とし」あるいは「手抜かり」といったところ。1923年の作品。



ホームパーティーに招く客の人選を任されたレディ・プラウシュ。名前を書いたメモ用紙をあれこれ組み合わせながらレナ・ラドゥルフォードに言う。「まるで中国のパズルだわ。」(あるポーランド人がフィンランド語を「ヨーロッパの中国語」と言っていたのを思い出しました。「ちんぷんかんぷん」ということですね。)夫のサー・リチャードからは、執筆に集中したいのでとにかく和やかなパーティーにして欲しい、と言われている。過去のパーティーではいろいろなトラブルがあった。前の年は女性参政権運動の問題で、さらにその前年はクローヴィス・サングレイルがクリスチャン・サイエンスの祭司的立場の女性にいたずらを仕掛けたせいで、パーティーは大荒れになり、サー・リチャードの書いたものは批評家たちに酷評される羽目になった。

そんな過去の悪夢を繰り返さないようにとレディ・プラウシュが悩んでいるのは、アトキンスンとマーカス・ポパムのふたりだ。彼らはどちらも穏健なリベラルで福音派であり、女性参政権にはどちらかというと反対で、ファルコナー・レポートとダービーのクラガヌールに関する判定は支持している。そこまでは問題なしなのだが、唯一わからないのが彼らの「動物の生体解剖」に対する考えだ。それを聞いたレナ・ラドゥルフォードが、簡単に「賛成・反対」で答えられるアンケートを葉書で送ったらどうか、と提案する。さっそく葉書が送られ、返信が届いて、二人とも「生体解剖」には反対だということがわかり、レディ・プラウシュは用意してあった招待状を二人に送った。ところがアトキンスンとポパムがハイエナよりも凄まじい格闘をはじめて、パーティーはぶちこわしになってしまった。人物調査に大きな見落としがあったせいだった。

本作もサキ独特の雰囲気が楽しく読める作品である。当時の社会の出来事や人々の関心事が盛り込まれていて、とてもお勉強になる作品でもある。作中に取り上げられている主な出来事・事件を記しておく。

*婦人参政権運動――大きな社会運動となってアメリカにも波及した。

*トルキスタンの土地保有権問題

*ファルコナー・レポート――1911年。予算決定における下院優先の原則を打ち立て、累進課税に対する上院の抵抗を排除。

*クラガノール――1913年のエプソムダービーで先頭でゴールしたが、進路妨害で失格となった。このレースでは婦人参政権論者がレース中の馬群に突進して転倒し、4日後に死亡するという事故もあった。

*バルカン戦争――イギリス世論もギリシャ派とブルガリア派に分かれた。

2017.9.1読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-11-04 13:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)


c0077412_09275223.jpg本を読みながら、作中人物が町を歩いている描写があれば街の地図を、作中人物が家の中を動き回る描写があれば家の間取り図を頭の中に描くのはだれでもやることだろう。私の場合、本に出てくるのが実在する場所であれば、地図を広げながら読むことも多い。そして間取りは、書中の文言を頼りに自分で描いてみるのだが、これがなかなかうまくいかない。家全体の形、方位、広さ、部屋と部屋の位置関係を示す文言が不十分なことが多いからだ。それで読み始めに書いた間取り図が、そのあとの描写とは合わなくなって書き直すこともあるし、何度書き直しても納得のいく間取り図が完成しないことも少なくない。そんな「未完成の間取り図」に悩む者にとって、本書の出現は衝撃的だった(大げさな!)。

本書は13の作品を収録した短編集である。そしてすべての作品に間取り図がついている。というより、まず間取り図があって、本文はその間取り図から妄想したもの、という形になっているのだ。間取りはいずれもユニークで、そこから妄想された話も各自各様に風変わり。各作品の冒頭に間取り図が提示されているのはもちろんだが、すべての間取り図が別刷りで添付されている(大きさと紙の厚さがイマイチではあるけれど)。そうした作り手側の遊び心と仕掛けを素直に受け入れて楽しむのがこの本の正しい読み方であろう。

特に印象に残った作品は次の6――船の舳先にいるような/ふたごの家/どちらのドアが先?/浴室と柿の木/家の中に町がある/カメラのように

その他の収録作品――隣人/四角い窓はない/仕込み部屋/カウンターは偉大/巻貝/月を吸う/夢に見ました

*メモ1――「ふたごの家」に「身体のサイズが同じなのをいいことに服はおもやいにするし」という文があり、「おもやい」?と思って調べてみました。長崎、博多などで使われる言葉で、意味は「いっしょに使う/共有する/share」だとか。動詞の「もやう」(古語では「もやふ」)の名詞形「もやい」に美化語の「お」がついたものだそうです。初めて知った今知った。

*メモ2――「巻貝」に「作業がひと段落したときに」という文があります。これは明らかに「いちだんらく」のまちがいですね。でも最近は誤読のほうが幅をきかせているので、そのうち「いちだんらく」と言ったり書いたりしたら笑われることになるかもしれません。

2017.8.18読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-10-23 09:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

c0077412_10110148.jpg The SevenGood Years』(Etgar Keret2015

本書は息子レヴの誕生から父親の死までの7年間の出来事を描いたノンフィクション作品で、36篇のエッセイで構成されている。本書を読めば、パレスチナの人々の土地を奪って建国されたイスラエルという国で、人々がなにを思い、どのように日々を送っているのかが、少しはわかるかもしれない。印象的なエピソード満載なので抜粋は難しいが、ほんの一部をあげてみると――

*ミサイルが一斉発射されたとき、ぼくらはもう一度、日々民間人を攻撃せざるを得ない占領国ではなく、自分たちのために闘う、敵国に囲まれた小さな国となれたのだ。だからぼくらがみんなひそかにちょっとだけホッとしたとしても不思議ではないだろう?(1年目「戦時下のぼくら」)

*過去数年にわたってぼくは多くの祝日をイスラエル国外で過ごしてきた。空軍の戦闘機が頭上をデモンストレーションして飛ぶのを見て独立記念日を過ごしたりせずに済むのには、いくらかホッとするところがあったのは認めざるを得ない。でも、ヨム・キプール(大贖罪日)のときだけは全力でイスラエル国内にいようとしてきた。テルアビブの大通りで小鳥の声が聞こえるのはヨム・キプールのときだけだ。明日はもうヨム・キプールではないと知った息子が泣き出した。それは正しい反応だ。(3年目「スウィート・ドリーム」)

*七つ年上の兄さんがいて、ぼくはいつも大きくなったら兄さんのようになりたいと思っていた。兄さんは12歳のとき神様を見つけてユダヤ教の寄宿学校に入り、15歳のとき宗教を捨てて大学で数学とコンピュータサイエンスを勉強し、21歳のとき兵士になったが「イスラエル国防軍兵士にふさわしくない行為」のために投獄され、数年後にはハイテク企業を辞職して「急進的な」活動に従事し、この5年は奥さんとタイに住んで世界をちょっとだけよい場所にするための国際組織を運営している。ぼくの乗ったゾウの前を自分でゾウを操りながら進む兄さんを見て、大きくなったら兄さんのようになりたいという子ども時代の感覚が戻ってきた。(3年目「英雄崇拝」)

*ここ10年ほど毎年ポーランドを訪問してきた。ぼくの一族のほとんどがそこで恐ろしい状況の中で死んでいったのだけれど、彼らが暮らし、数世代にわたって栄えたのもポーランドであり、この地とそこに住む人々にひきつけられるぼくの気持ちはほとんど神秘的でさえあった。(5年目「想像の中の故国」)

*19年前、ブネイ・ブラクの小さな結婚式場でぼくの姉は死んだ。今ではエルサレムでも最も正統派ユダヤ色の濃い地域に住んでいる。(4年目「亡き姉」)

*文学イベントでクロアチアのザグレブに行った時、地元のカフェのウエイターから聞いた話。「戦争中、それぞれの言語では他意のない言葉の選択も、険悪な政治的含意があるように受け取られかねなかった。コーヒーをさす言葉はクロアチア語、ボスニア後、セルビア語でそれぞれ異なっていたため、客はみんなエスプレッソを注文し始めた。それなら中立なイタリアの言葉だから。そして一夜にしてここではコーヒーではなくエスプレッソのみを出すようになった。」(6年目「お泊まり」)

*ワルシャワのとある通りにぼくらの家が建てられた。その細い家に母さんより歳をとった女性がやって来てジャムをくれた。昔この近くにユダヤ人の友達がふたりいて、その子たちがゲットーに移る前に、おばあさんの母親が作ってくれたジャムサンドをあげたという。細い家のキッチンでジャムをつけたパンを食べた。(7年目「ジャム」)

「イスラエルのユダヤ人」だからこそのエピソードに出会えるのはもちろんだが、どこの国のどんな人でも共感できそうなエピソードも多い。また、全編にユーモアとペーソスがあふれていて充実した読書が楽しめる。なお作者ケレットは、村上春樹が「壁と卵」のスピーチをした2009年エルサレム賞の審査員の一人だという。(2017.7.27読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-10-07 10:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

c0077412_09324251.jpg

Anne of Green Gables』(Lucy Maud Montgomery,1908

『赤毛のアン』シリーズの第1巻目「グリーンゲイブルズのアン」である本書を改めて読み直してみたのは、ある人から次のような疑問をぶつけられたからだった。

5章でアンが自分の身の上を語りながら「トマスの小母さんはあたしを牛乳で育ててくれましたの。あのねえ、あたしにはわからないんですけれど牛乳で育った子はおかあさんのお乳で育つのよりよくなるわけなんでしょうか?あたしがいたずらをするたんびに、小母さんは牛乳で育てたのにどうしてそんな悪さをするのかって叱りましたよ」と言っているが、当時は母乳でなく牛乳で育てることが奨励されていたのだろうか。

そこで、グーテンベルク・プロジェクトで原文に当たってみたところ、この部分は次のようになっている。

Shebrought me by hand. Do you know if there is anything in being brought up byhand that ought to make people who are brought up that way better than otherpeople? Because whenever I was naughty Mrs. Thomas would ask me how I could besuch a bad girl when she had brought me up by hand---reproachful-like.

[bringup by hand]を辞書で調べてみると「母乳でなく人工乳で」と「手ずから、手塩にかけて」という二つの意味が出ている。村岡花子さんは前者の意味にとって訳したため、人工乳育児と母乳育児を比較するような、かなり大胆な意訳になったのではないだろうか。ここは後者の意味にとって、[other people]も「それほど大切に育てられていない子たち」くらいにしておいたほうがいいように思われる。当時のカナダで人工乳育児と母乳育児の善し悪しが問題になっていたのだとしたら話は別であるが。

上記の部分を除けば、本書の文は驚くほど滑らかで読みやすい。古くさい表現(ほしがっていなさる、連れて行ってくだすった、あなたがきあわせなすって)があったり、今では普通に使われるゼラニウムが「あおい」となっていたり、とちょっと気になる点がないわけではないが、インターネットもない時代にこれだけの翻訳をやってのけた訳者の力量にあらためて感銘を受けた。

シリーズの中ではやはりこの最初の巻が断然面白い。アンがどんどん変化し、成長していくのにつれて、アンに振り回されるマリラもどんどん変化し、成長(?)していくところがいいし、そのふたりの変化を満足げに見守っているマシュウはほとんど変化しないところもいい。(2017.6.2読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-09-05 09:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

c0077412_10551812.jpg『The Cat Who Went up the Creek』(Lilian Braun、2002)
もと新聞記者で今は地方新聞のコラムニストであるクィラランが、持ち前の推理力で事件を解決するシリーズの24冊目。クィラランが飼っている雄のシャム猫のココは、あたかもクィラランの推理を助けるような行動を示すので「助手」ということになっている。一方、雌猫のヤムヤムはふつうに猫らしいふるまいをみせるだけなので、助手とは見なされていない。
本作の舞台もいつも通り「どこからも400マイル北」にあるムース郡。物語はクィラランが「蚊週間」をテーマに千語の文章を書いているところから始まる。ムース郡では毎年6月半ばになると「若く熱意に溢れた蚊の大群が、森の湿地から一斉に飛び立って、郡じゅうに散開し、観光客に攻撃を開始」するのだ。最後のページをタイプライターから取り出したとき、ココがうなり声を発する。「もうすぐ電話が鳴る」という合図だった。
電話は「クルミ割りの宿」のローリ・バンバからだった。「クルミ割りの宿」は、クリンゲンショーエンの莫大な遺産を相続したクィラランがそれを地域社会に役立てようと設立したK基金が、古いリンバーガー屋敷を買い取って田舎宿として改装したものだ。そしてクィラランの推薦で若いニックとローリのバンバ夫妻が経営者となったのだが、そのローリが「クルミ割りの宿」の建物を黒雲が覆っている気がする、と訴えるのだった。そこでクィラランは宿に数日滞在して、悪意のある霊気が感じられるかどうか確認しよう、と申し出る。こうしてクィラランは夏の間、殺人2件、自殺1件、心臓発作1件との遭遇とそれらの解明に明け暮れることになる。

[ちょっと目に留まった文]
*クィラランは路肩に車を停めて、何本か電話をした。ムース郡は州内で最初に、運転中の携帯電話の使用を禁じたのだ。(原稿はタイプライターで書いているクィラランも、携帯はふつうに使っているのでした。)
*(本の交換会でクィラランはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を借りることにしたクィラランの言葉)「いちばん好きな作家はトロロープなんだが。」(因みに週末の恋人ポリーはワーズワースが好き。)
*(チェノウェスという名前を聞いて)「ウェールズの名前のようですね」クィラランは苗字の由来を知っていることが自慢だった。「(その人は)歌が得意ですか?こういうことわざをご存じでしょう。どんなウェールズ人も歌を歌う。どんなスコットランド人も倹約家だ。どんなイギリス人も不屈の精神の持ち主だ。そして、どんなアイルランド人も戯曲を書く。」

(2016.12.8読了)
[PR]
by nishinayuu | 2017-02-05 10:56 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

読書と韓国語学習の備忘録です。


by nishinayuu