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『猫は川辺で首をかしげる』(リリアン・J・ブラウン、訳=羽田詩津子、早川文庫)


c0077412_10551812.jpg『The Cat Who Went up the Creek』(Lilian Braun、2002)
もと新聞記者で今は地方新聞のコラムニストであるクィラランが、持ち前の推理力で事件を解決するシリーズの24冊目。クィラランが飼っている雄のシャム猫のココは、あたかもクィラランの推理を助けるような行動を示すので「助手」ということになっている。一方、雌猫のヤムヤムはふつうに猫らしいふるまいをみせるだけなので、助手とは見なされていない。
本作の舞台もいつも通り「どこからも400マイル北」にあるムース郡。物語はクィラランが「蚊週間」をテーマに千語の文章を書いているところから始まる。ムース郡では毎年6月半ばになると「若く熱意に溢れた蚊の大群が、森の湿地から一斉に飛び立って、郡じゅうに散開し、観光客に攻撃を開始」するのだ。最後のページをタイプライターから取り出したとき、ココがうなり声を発する。「もうすぐ電話が鳴る」という合図だった。
電話は「クルミ割りの宿」のローリ・バンバからだった。「クルミ割りの宿」は、クリンゲンショーエンの莫大な遺産を相続したクィラランがそれを地域社会に役立てようと設立したK基金が、古いリンバーガー屋敷を買い取って田舎宿として改装したものだ。そしてクィラランの推薦で若いニックとローリのバンバ夫妻が経営者となったのだが、そのローリが「クルミ割りの宿」の建物を黒雲が覆っている気がする、と訴えるのだった。そこでクィラランは宿に数日滞在して、悪意のある霊気が感じられるかどうか確認しよう、と申し出る。こうしてクィラランは夏の間、殺人2件、自殺1件、心臓発作1件との遭遇とそれらの解明に明け暮れることになる。

[ちょっと目に留まった文]
*クィラランは路肩に車を停めて、何本か電話をした。ムース郡は州内で最初に、運転中の携帯電話の使用を禁じたのだ。(原稿はタイプライターで書いているクィラランも、携帯はふつうに使っているのでした。)
*(本の交換会でクィラランはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を借りることにしたクィラランの言葉)「いちばん好きな作家はトロロープなんだが。」(因みに週末の恋人ポリーはワーズワースが好き。)
*(チェノウェスという名前を聞いて)「ウェールズの名前のようですね」クィラランは苗字の由来を知っていることが自慢だった。「(その人は)歌が得意ですか?こういうことわざをご存じでしょう。どんなウェールズ人も歌を歌う。どんなスコットランド人も倹約家だ。どんなイギリス人も不屈の精神の持ち主だ。そして、どんなアイルランド人も戯曲を書く。」

(2016.12.8読了)
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by nishinayuu | 2017-02-05 10:56 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『べつの言葉で』(ジュンパ・ラヒリ、訳=仲嶋浩郎、新潮クレストブックス)

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『In Altre Parole』(Jhumpa Lahiri、2015)
アメリカの作家として『停電の夜に』『その名にちなんで』などで知られる著者が、初めてイタリア語で書いた作品集。21編のエッセイと2編の短編小説で構成されている。


冒頭のエッセイ『横断』で著者は、自身のイタリア語との関係を湖での泳ぎの練習にたとえて語っている。すなわち、20年の間、湖の岸辺に沿って泳ぐような感じでイタリア語を学んできた著者は、イタリア語をよく知り、どっぷり浸かるために、湖の岸を離れて向こう岸へ渡らなければならないと考え、湖の向こう岸よりずっと遠く、大西洋を越えてイタリアへ渡った。イタリアで暮らすために。
『横断』に続く各編には著者がイタリア語に習熟していく過程が綴られている。著者が手こずっているイタリア語がアルファベットとカタカナのルビで表記されている部分も随所にあって、決して読みやすいとはいえないが、たまに類推できる単語もあるので楽しく読める。たとえば、「英語に同義語のない美しい単語」の一つとしてformicolare(うようよ群がる)が挙げられているが、エスペラントで蟻のことをformikoというので、「蟻のように群れる」ということだろう。
カルカッタ(現コルカタ)で生まれ、幼くして両親と共にアメリカに渡った著者は、家ではベンガル語、外では英語という複雑な言語環境の中で生きてきた。イタリア語を習得することは著者にとって、ベンガル語と英語の対立という関係を崩し、三角形の関係にすることだった。これについて著者は次のように言う。
「図を描くとしたら、英語の辺はペン、他の二辺は鉛筆で描くだろう。英語は底辺、いちばん安定して動かない辺だ。ベンガル語とイタリア語はどちらももっと弱く、あいまいだ。(中略)ベンガル語は私の過去、イタリア語は将来の新しい細道で会って欲しい。最初の言語は私の原点、最後のはゴールだ。」
ローマで1年暮らしたあと、1ヶ月だけアメリカに帰った著者は、英語との乖離も感じるようになる。それを通じて読んだり書いたりすることを学んだ言語が、自分を慰めてくれないことに心がかき乱され、動揺するのだ。「自分が決定的な言語もなく、原点もなく、明確な輪郭もない作家だとこれほどまでに感じたことはない」、あるいは「ある特定の場所に属していない者は実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たない私は、世界を、そして机の上をさまよっている。(中略)私は亡命という定義からも遠ざけられている」ということばが心に残る。
英語圏の作家として揺るぎない地位を獲得しているように見える著者が、自分の立つ足場を不安定なものと感じているとは。祖国を離れた人、祖国を失った人は大勢いるが、これほどの作家がその心情を率直に吐露していることに衝撃的を受けると同時に、大いに好感も覚える。不安定さを克服するために新しい言語の世界に飛び込むという発想と言語習得にかける情熱は、やはりただ者ではないというしかない。(2016.11.8読了)
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by nishinayuu | 2017-01-04 10:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ミステリアス・ディナー』(デイヴィド・グレゴリー、訳=西田美緒子、ランダムハウス講談社)

c0077412_10431168.jpg『The Dinner with a Perfect Stranger』(David Gregory)
本書は10の章で構成されており、第1章は「招待状」となっている。「ナザレのイエスとの夕食会にご招待いたします/場所 レストランミラノ/日時 三月二十四日火曜日午後八時より」という文面の招待状の宛先は、オハイオ州シンシナティのブルーイット環境試験所の戦略企画部長ニック・コミンスキー。というわけで本書の語り手のニックは、半信半疑ながらイエスとのディナーに出向く。そして第2章以降は「テーブルへ」「メニュー」「前菜」「サラダ」「メインディッシュ」「デザート」「コーヒー」「支払い」という具合に続いて第10章「帰宅」で終わる。ニックがイエスと差し向かいでディナーを楽しみながら語り合うという設定なのだが、ニックは小学生のように素直だし、イエスは優しい牧師さんのよう。ニックの肩書きには特に意味はなさそうだし、イエスにもミステリアスなところはみじんもなく、ストーリーにも何の捻りもない。タイトルと設定に凝った「キリスト教入門書」というところか。

別れ際にイエスが連絡先としてニックに教えたのは「黙示録三・22」。これを日本語、英語、韓国語、エスペラントで記しておく。

耳のあるものは御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
He who has an ear, let him hear what the Spirit says to the churches.
귀 있는 자는 성령이 교회들에게 하시는 말씀을 들을찌어다.
Kiu havas orelon, tiu aŭskultu, kion la Spirito diras al la eklezioj.
(2016.7.19読了)
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by nishinayuu | 2016-09-18 10:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

韓国の詩「序詩」 尹東柱

c0077412_122678.jpg『나의 문화유산답사기-일본편4 교토의 명소』(2016年8月1日の読書ノート)の末尾で言及した尹東柱の『序詩』と二つの日本語訳を紹介します。
画像は同志社大今出川キャンパスにある詩碑(上)と尹東柱の肖像(下)です。

죽는 날까지 하늘을 우러러
한 점 부끄럼이 없기를,
잎새에 이는 바람에도
나는 괴로워했다.
별을 노래하는 마음으로
모든 죽어가는 것을 사랑해야지
그리고 나한테 주어진 길을
걸어가야겠다.

오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.

日本語訳1(詩碑にある伊吹郷の訳)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒される。

日本語訳2(上野潤の訳)
息絶える日まで天(そら)を仰ぎ/一点の恥無きことを、/木の葉にそよぐ風にも/わたしは心痛めた。/星を詠うこころで/全ての死に行くものを愛さねば/そして私に与えられた道を/歩み行かねばならない。/今夜も星が風に擦れている。

上野訳(1941.11.20)と伊吹訳には、1行目の「天」/「空」、2行目の「恥」/「恥辱」、6行目の「すべての死に行くもの」/「生きとし生けるもの」などの相違点がある。上野訳はキリスト者であった作者と多くの韓国人の心情に合致する訳であり、伊吹訳はかなり日本人的な訳であるといえる。このため伊吹訳は朝鮮日報(1995.10.31,チョ・ヒョンギュン記)で糾弾されたりしている。c0077412_1225833.jpg「これに対して荒川洋治は「韓国人とチョ氏の言葉に寄せる悲痛な情熱には敬服するが、それを押し通すと尹東柱はあなたがただけがわかるもの、あなたがただけのものになってしまう」と述べ、伊吹訳をより普遍性を持つ訳としているという。nishinaとしては荒川洋治の言葉に共感を覚えるが、上野訳の持つ意味もしっかり受けとめたいという思いから二つの訳詩をともに紹介しておく。
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by nishinayuu | 2016-09-14 12:08 | 覚え書き | Trackback | Comments(2)

「時の娘」(ジョセフィン・テイ、訳=小泉喜美子、早川書房)


c0077412_22225921.png『The Daughter of Time』(Josephine Tey, 1951)
本書の主人公はロンドン警視庁のグラント警部。足の怪我で入院中に、ふと目にした写真の男を刑事の目で眺めながら、この男が座る席は被告席ではなく判事席である、と推理した。ところが写真を裏返してみると、その男はリチャード三世だったのだ。警視庁内で「犯人を顔で見分けられる」という評判をとっているグラントには悔しいミスだった。しかしここでグラントの胸に、もしかしたら自分の推理の方が真実を言い当てているのではないかと、という思いが沸き上がる。こうしてグラント刑事によるリチャード三世の人物像の解明が始まる。彼がひそかに名付けた「ちびすけ」と「アマゾン」という二人の看護婦、女優のマータ・ハラード、アメリカ人の青年キャラダイン、ロンドン警視庁の部長刑事ウィリアムスなど周囲の人々を巻き込みながら、膨大な歴史資料を基に現代の捜査の手法によって調べを進めたグラントが得た結論は次のようなものだった。

c0077412_22232068.jpg*イングランドの王・リチャード三世は、王位継承権を持つ甥をロンドン塔で殺害することによって王位を簒奪した人物で、その精神も歪んでいれば肉体も歪んだ醜い男だった、という世に流布する人物像は、ヨーク家のリチャード三世から王位を奪ったチューダー家側の人間が作り上げたイメージであって、実際のリチャード三世は誠実で慈悲深い王であったし、甥の殺害云々もでっち上げである。
*リチャード極悪人説を世間に流布させた張本人はチューダー朝のヘンリー七世時代にカンタベリー大僧正となったジョン・モートンと、モートンの説をそのまま取り込んだヘンリー八世の大法官であったトマス・モアだった。

以上が本書の結論で、リチャード三世極悪人説を覆す驚くべき内容なのだが、実はこのような内容の書物は過去にいくつも出ているという。それなのに「肉体も精神も歪んだ極悪非道な人物」というリチャード三世のイメージは一向に崩れることなく今に及んでいる。実はnishinaもずっとそう思っていたのだが、それはなんといってもシェイクスピアの戯曲『リチャード三世』の強烈なイメージのせいではないだろうか。シェイクスピアのリチャード三世はその徹底した悪人ぶりがかえって人々を魅了するのだ。シェイクスピアがチューダー朝の劇作家だったことを思うと、そういう描き方をしたのは当然のことだったとも言える。その分、当時の思想界をリードしていたトマス・モアの罪は深い、と改めて思う。
ところで、タイトルの『時の娘』は、「ある詩人の言葉」としてローマの文法家Aulus Gelliusが記録したラテン語
Veritatem temporis filiam esse dixit (真実は時の娘なり、と彼は言った)
からとったもので、「権力者は真実を一時は隠すことができるが、真実は時がたてば明らかになる」といった意味である。(2015.10.12読了)

☆2番目の挿入画像はミレー作『ロンドン塔幽閉の王子』です。
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by nishinayuu | 2016-02-03 22:26 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『音楽と文学の対位法』(青柳いづみこ、みすず書房)

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本書はピアニストであり文筆家でもある著者によるエッセイ集で、以下の六つの章からなる。


第1章モーツアルト――カメレオンの音楽
第2章シューマンとホフマンの「クライスレリアーナ」
第3章ショパンとハイネ
第4章ワーグナーと倒錯のエロス
第5章ラヴェルとレーモン・ルーセル
第6章ランボーの手、ドビュッシーの手
この著者の『ピアニストは指先で考える』は、専門的すぎて理解の届かない部分も多かったが、それでも非常に興味深く、楽しい読書体験ができた。それで、図書館でこの本を見つけた時、「♫あの-すばらしい感動を-もう一度♫」と思って手に取った。ところが本書はさらに専門性が高く、音楽と文学に関する膨大な情報に圧倒されるばかりで、とても歯が立たなかった。ヴァイオリニストのクライスラーなら知っているが、ホフマンのクライスラー楽長は読んだこともないし、シュールレアリストたちが高く評価したというレーモン・ルーセルも知らない、というレベルでは理解できるはずもない。そういうわけで「読了」したとは言えない状態だが、おもしろいと思える箇所は数え切れないほどたくさんあった。多すぎて書き切れないので、ほんの少しだけ抜き書きしておく。

*ショパンはまわりの文人たちにこよなく愛された。シューマンもリストもメンデルスゾーンも、同世代の作曲家たちはことごとくショパンの作品や演奏を賛美した。しかし、ショパンは極端に気むずかしく、彼らについての評価は留保するか故意の言い落としで巧みにカモフラージュした。
*貴族性と大衆性の奇妙なまざりあい、民衆という者へのアンビヴァレントな感情がハイネとショパンを近づけたのではないかと思うことがある。
*『ワーグナーとはなにか』の著者ブライアン・マギーによれば、ワーグナーの作品は、とりわけ「感情的に孤立ないし抑圧された人」の想像力を強く刺激する。ニーチェ、コルク張りの部屋で一人で暮らしたプルースト、西欧世界に背を向けてアフリカで生きたシュヴァイツァー、性欲が乏しく、概念を通してしか人と関わることのできなかったバーナード・ショー。このリストに、実姉と近親相関関係にあったといわれるビアズリー、冷感症崇拝のボードレール、同性愛的傾向を隠したトーマス・マン、ロリコンのバーン・ジョーンズやマザコンのファンタン=ラトゥール、マゾヒストのスウィンバーン、他ならぬルードヴィヒ二世などを加えると、ある種の傾向が見えてくるだろうか。
*ドビュッシーの書簡にはたった1通を除いてはランボーのラの字も出てこない。ヴェルレーヌの詩には多くの歌曲を作曲したものの、(中略)ランボーの詩に音楽をつけたこともない。このないないづくしが、かえって意識している証拠ではないかと、うがった見方もしてみたくなる。
*「音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、決して耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽であり続けなければなりません」というモーツァルトの言葉は、「音楽は謙虚に人を楽しませることに努めるべきです」と書いたドビュッシーの言葉と恐ろしいほど似ていて、思わず身体がふるえるほどである。(そして、ドビュッシーの不協和音にあふれる即興演奏に憤慨した同級生に対してドビュッシーは次のように答える。)「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」つまり、当時の耳が不協和音と感じたものが、ドビュッシーにとっては「喜び」だったということになる。
*(ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を絶賛したドビュッシーは、「春の祭典」にはきわめて獰猛だという感想を述べ)のちにアンセルメに本音をもらしている。「ストラヴィンスキーは音楽的ではない方法で音楽を作ろうとしているように思われる。それは、ドイツ人たちが今やおがくずでビフテキを作ることができると表明したのと同じようなものだ」――ロックスパイザー『ドビュッシーの生涯と思想』より。
(2015.8.31読了)
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by nishinayuu | 2015-12-21 10:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『猫は留守番をする』(リリアン・ブラウン、訳=羽田詩津子、早川書房)

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『The Cat Who Wasn’t There』(Lilian Braun, 1992)
本作はシャム猫ココ・シリーズの14冊目、すなわち『猫は山をも動かす』の次の作品で、話はクィラランと猫たちが遠い山での滞在から戻ってきたところから始まる。

クィラランたちのいない間に町では、ドクター・ハリファックスの自殺、娘のメリンダ・ハリファックスの帰郷、演劇クラブが9月に『マクベス』をやることになったこと、ガール・フレンドのポリーが無灯火の車で後を付けてきた男に襲われそうになったこと、などなどいろいろな事件が起きていた。クィラランが予定より早く山から帰ってきたのはポリーのことが心配だったからなのだが、ポリーには特に危機感はなく、それより最近親しくしているアーマ・ハーセルリッチが企画・引率するツアーのことをうきうきと話し、クィラランも一緒にどうか、と誘ってくる。それでクィラランは8月末、ヘブリディーズ諸島とハイランドをめぐるスコットランド・ツアーに旅立つ。ところが、出発時点では16人だった一行のうち、無事に帰国したのは15人だけだった。欠けた一人は旅先のホテルで、それもポリーと同じベッドの上で死んでいたのだった。その人が死んだと思われる時刻に、留守宅ではココが「猫発作」をおこしていたことがあとでわかる。

クィラランとポリーがシェイクスピアの愛読者であることに加えて、町の劇団による『マクベス』上演もあるため、本書にもあちこちにシェイクスピアからの引用がでてくる。しかし今回はそれらよりも、ちょっと目を惹いたおもしろい言葉二つについてメモしておく。
*スカンク・ウォーター(skunk water)――地元の村スカンク・コーナーズの泉から汲んでくる水。クィラランは洒落た食堂で「いつもレモン・ツイストを浮かべ、ロックで飲んだ」とある。湧き水なのでおいしいのだろうが、それでもやっぱり口を付けたくないような……。
*バットウィング・ケープ(batwing cape)――おしゃれなケープなのに、吸血鬼ファッションのようなネーミングで笑える。クィラランはスコットランド・ツアーのお土産としてポリーにこのケープと孔雀の羽のブローチをプレゼントする。ところが、町の「傑出した女性10人」の一人に選ばれたポリーが、表彰会のあとでクィラランに笑いながら報告したところでは、ステージに並んだ女性たちが全員、色違いのバットウィング・ケープと孔雀の羽のブローチを付けていたという。これに対するクィラランの応えが振るっている。「すなわち、わたしが傑出した女性をたくさん知っていることが証明されたわけだ。」(2015.8.27読了)
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by nishinayuu | 2015-12-17 08:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『猫は糊をなめる』(リリアン・ブラウン、訳=羽田詩津子、早川書房)

c0077412_10364848.jpg『The Cat Who Sniffed Glue』(Lilian Braun, 1988)
本作はシャム猫ココ・シリーズの第8巻目。主人公はもと新聞記者のクィラランとその飼い猫のココとヤムヤムである。今回注目の登場人物は銀行家ナイジェル一家(妻のマーガレット、双子の息子のハーレーとデイヴィッド)とチンピラのチャド、古本屋のエド、剥製師のウィリー、壁張り職人のピートなど。もちろんアーチ・ライカ(「ムース郡なんとか」新聞の発行人)、ミルドレッド(フード・ライター)、アイリス・コブ(博物館長)、ポリー・ダンカン(図書館司書)、フランセスカ(インテリア・デザイナー)、ブロディ(警察署長)などのレギュラー・メンバーも活躍する。
事件は銀行家一家のハーレーと妻のベルの殺害から始まり、糊をなめるのが好きなココが、犯人の口ひげが糊で付けたものであることを見破ったことから解決される。
この巻の目玉は全体が戯曲仕立てになっていることで、各章は第一幕、第二幕となっており、幕はさらに第一場、第二場…という具合に細分されて、それぞれの「場」のはじめに「場所」「時」「登場人物」が掲げられている。また、登場人物の一人が古本屋で、学はないけれども大変な読書家で、ことあるごとに著名人の文や名言を引用することになっている。すなわち、文学臭と衒学臭いっぱいの巻なのだ。おもしろいので引用されている名言を以下に記しておく(残念ながら典拠を確認したり原文にあたったりする気力がないので、作者と訳者を信じて訳文のまま記しておくことにする)。
*我々が建物を作り、その後は建物が我々を作る(チャーチル)
*仕事は娯楽よりもはるかに楽しい!(ノエル・カワード)
*宣伝は…知的誠実さと道徳的高潔さを破壊する活動である(トインビー)
*理性が命令を下し、食欲はそれに従うべし(キケロ)
*愛はわたしたちすべてを愚かにする(サッカレー)
*熱意は理性の熱病である(ヴィクトル・ユーゴー)
*もっとも高い文明においても、本はやはりもっとも大きな喜びをもたらす(エマースン)
*小部屋には無尽蔵の富がある(マーロウ)
*生きるために食べ、食べるために生きなくてはならない(フィールディング)
*教育のない人間にとって、引用句の本を読むのはためになる(チャーチル)
(2015.8.19読了)
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by nishinayuu | 2015-12-13 10:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『二度死んだ少女』(ウィリアム・クルーガー、訳=野口百合子、講談社文庫)


c0077412_14415885.png『Blood Hollow』(William Kent Krueger, 2004)
クルーガーを読むのはこれで三冊目。前の2冊はなかなかよかったが、この作品はあまりしっくりこなかった。その理由は二つある。一つは登場人物が無駄に(!?)多すぎ、従ってその登場人物にまつわるエピソードも無駄に(!?)多いため、全体のまとまりが悪いこと。もう一つは土俗信仰、キリスト教信仰などの宗教的要素と神秘的なものが多く盛り込まれているため、素直に物語に入り込めないことである。どちらもこの物語の舞台となっている土地を知るための重要な要素であることは理解できるが。
そういえばこの本の帯には「傑作ハードボイルド第3弾」とある。そこを深く考えずにミステリー作品として読んだのが間違いだったのかも知れない。それで今回は内容には立ち入らずに、言葉に関するあれこれを記録しておくことにする。

*ヴァルハラ――Valhalla。妻を亡くしたフレッチャー・ケイン医師と妹のグローリーが所有する別荘の名。もともとは北欧神話の主神オーデンがアース神族の国アースガルドに建てた戦死者の館。古ノルド語ではヴァルホル(Valhöll)。
*ゴス・ファッション――ゴシックファッション。中世ゴシック時代のヨーロッパ風ファッションの意だが、実際はヴィクトリア朝風・エリザベス朝風が混在。黒を基調とすることからヘヴィメタル・ファッションと混同されることも多い。
*「怒れ、光が消えゆくことに」――rage, rage against the dying of the light. 主人公コーク・オコナーの長女ジェニーがつぶやいて、コークが「なんだ、それは?」と訊いた言葉。ディラン・トマスの詩「Do not go gentle into that good night」の冒頭部分。なお、ディラン・トマスDylan Thomas (1914~1953)はウエールズの詩人・作家。
*オジブワ語/アニシナーベ語――北米大陸の五大湖からその西の平原にかけて居住する原住民の言葉。たとえば「五月」はワビグウニギジス、「ありがとう」はミグウェチ。
メンダクス――Mendāx。ラテン語で「嘘つきの、虚偽の/嘘つき」

付け足し:この本の日本語タイトルが納得できない。このタイトルではミステリー作品と勘違いしてもしかたがないのではないか。それはそれとして、原題を直訳すると『血の窪み』。この場所で少女殺害の嫌疑をかけられたソレム・ウィンター・ムーンは魔術師のヘンリー・メルーの勧めで幻視の探求をする。そして「なにも食べず、なにもしないで」時を過ごした六日目に、ソレムはイエス・キリストと対面して語り合い、自分自身を見つけて世の中に戻ってくる。このキリストというのが、ジーンズ、古いフランネルのシャツ、モカシンシューズを履いた旅行者風の男だったという。この男がまたあとで現れるのを期待したのだが、最後まで謎のままだった。残念。(2015.7.22読了)
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by nishinayuu | 2015-11-23 14:42 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『花はこべ』(大島英昭、ウエップ、2015)


c0077412_15111722.jpg本書は学生時代の友人による第2句集である。俳句とは無縁の人間に貴重な句集を送ってくれたことに感謝しつつ、詠まれた景とそのときの詠み手のたたずまいを想像しながら、また一語一語の音を辞書やインターネットで確認しながら読んだ。おかげで季語や俳句独特の言い回し、難読漢字などの知識が少し増えたような気がする。それはそれとして、俳句の世界ではなぜ難読漢字にルビをつけないのだろうか。鑑賞者に解読の苦しみを味わわせるのも俳句を詠む楽しみのひとつなのか、と勘ぐりたくなる(著者への苦言ではなく、俳句を詠む人全般への思いです)。そうかと思うとルビなど不要と思われるところにルビがあったり、漢字表記でもよさそうなところがひらがな表記になっていたりする。表記に関してなにか決まりのようなものがあるのだろうか。それはともかく、今回せっかく辞書を引き引き解読したので、それらを記録しておくことにする(結果的に無知をさらけ出すことになりますね。)

〇ルビがほしかったことば――石蓴(あおさ)、萍(うきくさ)、穭田(ひつじだ)、秋黴雨(あきついり)、磴(とう:石段/坂道)、榠樝(かりん)、末黒野(すぐろの:野焼きのあとの黒くなった野)、木五倍子(きぶし)、行行子(ぎょうぎょうし:オオヨシキリ)

〇独特の表現――ほろろ打つ(雉、山鳥などが羽ばたきする/羽ばたきして鳴く)、小六月(10月の異称)、捨子花(曼珠沙華の異称)、数へ日(年末の残り少ない日々)、春ならひ(春北風)、鳥曇り(冬鳥が北へ帰る頃の曇り空)、雀がくれ(春の草丈が雀を隠す位に伸びた状態)、まくなぎ(糠蚊の一種。かたまって上下に飛び、目の前につきまとう)、との曇り(空一面に曇ること)

おこがましいので俳句の鑑賞はしない(できない)が、特に心惹かれた句を挙げておく。
藁葺きの屋根の高みを夏の蝶
野茨の実の赤らみてゆくところ
丘あれば丘の形に曼珠沙華
野ぶだうの路傍に熟るる妻の里
声明の途切れ途切れに黒揚羽

(2015.7.1読了)
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by nishinayuu | 2015-11-07 15:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)