『Ancient Light』(John Banville)
「ビリー・グレイはわたしの親友だったが、わたしはその母親に恋をした。恋というのは強すぎる言葉かも知れないが、それに当てはまるもっと弱い言葉を私は知らない。すべては半世紀も前に起こったことで、そのときわたしは15歳、ミセス・グレイは35歳だった」という文で物語は始まる。ビリーが見つけて、少年たちの隠れ家にするつもりだったコッターの館で、夏の間ミセス・グレイと語り手は密会を重ねた。語り手は無我夢中になりながらも罪の意識に苦しめられたが、ミセス・グレイは無邪気で大胆だった。未成年との情事にふける人妻、という陰湿さはみじんも見られなかった。しかし一夏の恋は突然断ち切られる。母親と親友の関係に衝撃を受けたビリーは泣き叫び、ミセス・グレイはなにも言わずに語り手から去って行った。
語り手は60過ぎのもと舞台俳優。老妻との穏やかな日々の中で遠い過去を反芻する語り手には、もっと近い過去の記憶も重くのしかかっている。10年前に最愛の娘が謎の自死を遂げ、いまだにその喪失感から立ち直れずにいるのだ。そんな語り手のもとに映画出演の話が飛び込んでくる。『過去の発明』というタイトルの映画で、主人公アクセル・ヴァンダーを演じてくれ、という話に語り手は乗り気になる。初めての映画出演であり、役者としての実績から演技には自信もあったからだ。映画関係者との関わりが始まる。アメリカの映画会社の幹部マーシー・メリウェザー、監督のトビー・タガート、今をときめく女優のドーン・デヴォンポートなど頭韻を踏んだ名前の人たちと、頭韻を踏まない名前を持つスカウトのビリー・ストライカーだった。やがてドーン・デヴォンポートは娘の影のように語り手の懐に飛び込んでくる。そしてビリー・ストライカーは、娘がスヴィドリガイロフと呼んでいた謎の男のもとへ、さらには遠い過去のミセス・グレイのもとへと語り手を導いていく。
現実のめまぐるしい日々に翻弄されながらも、語り手は幾度も過去の日々に立ち返る。そのたびに過去は様々に色を変えて語り手の前に立ち現れる。過去のイメージは記憶なのか想像なのか。人は知らず知らずに過去を潤色し、美化してしまうこともあるが、逆に自分で作り上げたイメージや思い込みによって過去を歪めてしまうこともある。15歳の祝祭のようだった夏の日々は、そのあとずっと語り手の心に深い痛みとして巣くうことになったが、50年も後になって語り手は初めて知ることになる。それはミセス・グレイにとっても天から与えられた祝祭のときだったのだということを。(2014.12.30読了)