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『ゴリオ爺さん』(バルザック、訳=中島英之、青空文庫)

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Le PèreGoriot』(Honoré de Balzac

時は1819年。主要舞台はパリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りにあるメゾン・ヴォーケ。この類いの家では家主が下の階に住み、最上階の5階には使用人が住む。その間にある部屋は上階に行くほど家賃が安くなる。物語の主要人物であるゴリオは、入居した58歳のときは裕福だったので家主と同じ2階に住んだが、3年目の末には4階の45フランの部屋に移った。最初に持っていた立派な家具調度は消え、服装も着た切り雀のみすぼらしいものになり、やせてしわくちゃになっていた。家主のヴォーケ夫人はゴリオが裕福だったときは同棲を考えたほどだったが、ゴリオにその気がないとわかってゴリオを下宿のつまはじき者にすることを思い立ち、呼び名を「ゴリオ爺さん」と変えた(以上がこれまでのいきさつ)。それでゴリオは物語の冒頭からゴリオ爺さんとして登場する。

ヴォーケ夫人の下宿人たちをざっと紹介すると

*2階――ヴォーケ夫人(家主。48歳)、クチュール夫人、ヴィクトリーヌ・タイユフェール(美少女だが悲しみをたたえた顔。庶子のため父親から認知されていない)。

*3階――ポワレ老人(元下級国家公務員)、ヴォートラン(恰幅がよく、弁の立つ40がらみの男。実はツーロンから逃走した徒刑囚で仲間から「不死身」と呼ばれている危険な男。不整な金を動かして利益を得る、闇の銀行家)。

*4階――ミショノー嬢(ハイミス)、ゴリオ爺さん(元イタリア麵製造業者で資産家、現在は吝嗇で陰険で小心者。実は大金を投じて貴族に嫁がせた二人の娘たちのために、金銭ばかりか身も心も命までも献げる父親)。

*臨時の下宿人――ウージェーヌ・ド・ラスチニャック(南フランスのシャラント県出身。高等法律大学志望であると同時に、社交界入りを目指す。すなわち「法と道徳は富の前には無力」という言葉を信じて、「博士となり、時代の寵児となる!」と決意して、宮廷に仕えたことのある叔母のつてで社交界の花であるボーセアン子爵夫人に近づく。

物語は「ウージェーヌの社交界デビュー」から「不死身の事件」「ゴリオ爺さんの死」へと波瀾万丈な展開を見せ、最後は次のように終わっている。

「(ゴリオの埋葬を見届けたウージェーヌは)腕組みをしてじっと雲を見つめた。それからヴァンドーム広場の記念柱と廃兵院の丸天井の間にある華麗な社交界に視線を投げかけたあと、つぶやく。さあ今度はおまえと一対一の勝負だ!と。そして社交界へ挑む第一幕として、ニュシンゲン夫人(ゴリオの二番目の娘)宅に向かった。」

ゴリオの父性愛は、愚かしくて無様なものであるが、見方によっては時代の制約の中で最善を尽くした尊くも美しいものだったと言えなくもない。また、ゴリオの娘たちをはじめとする女性たちの言動も、彼女たちの置かれていた状況を考えれば納得できる。この作品は、19世紀前葉のパリの雰囲気が伝わってくるし、あちこちにちりばめられた警句やことわざ、言葉遊びでちょっと一息つけるし、映像を見ているかのように鮮やかな場面展開が楽しめる。モームが「世界の10大小説」の一つにあげただけのことはある作品である。

本作品は201531日訳出の青空文庫版で読みました。(2017.10.21読了)


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by nishinayuu | 2017-12-14 14:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『Princess September』(Somerset Maugham)

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本作は1963年に4巻本として発行された短編集の第4巻に収録されている。(今回読んだのは1980年代発行の版。)


舞台はシャム王国。シャムの王様は二人の娘に「夜」と「昼」という名を付けたが、娘が4人に増えたので最初の二人の名前を変えて、4人を「春」「夏」「秋」「冬」と呼ぶことにした。そのあとまた3人の娘が生まれると、全員を曜日の名で呼ぶことにした。そして8人目が生まれたとき、はたと困った王様は12ヶ月の名で娘たちを呼ぶことにした。王様は極めて規律正しい精神の持ち主なのだった。そのあと生まれたのがこの物語の主人公で、王様の決めた規則に従って「9月」と名付けられたセプテンバー王女だ。

さて物語は、何度も名前を変えられてちょっと性格がねじれてしまった姉たちと違って、かわいくて優しい子に育ったセプテンバー王女が、まどから飛び込んできたナイチンゲールとなかよくなって……という、まあよくある展開になっている。

8ページ余りのごく短い話なので、あっという間に読める。読みどころは、物事がすべて規則的になっているシャムの王室の様子と、決して暴君ではないのになにかというと「首を撥ねる」ことで物事を解決しようとする王様、という「異国情緒」だろうか。(「王様と私」と同じように、シャムが「ちょっとへんてこな」国として描かれているわけです。)

ところで、手許の本は長年放置しておいたため紙面の黄ばみが進んだ古い版で、使われている活字がとても小さい。日本語や韓国語だったら読もうと思っても読み取れそうもない大きさである。それなのに、英語の活字は読み取れる。漢字やハングルに比べると、アルファベットというのは本当によくできた文字である、と改めて思った。(2017.10.5読了)


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by nishinayuu | 2017-12-10 11:42 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹、文藝春秋)


c0077412_14284604.jpgColorlessTsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage

本書はまず、その奇抜なタイトルで人目を引く。ひらがな表記の「つくる」が名前だと気づくのに数秒要するし、気づいたあとも今度は「色彩を持たない」ではたと考えさせられる。印象的なタイトルであることは確かだ。


「色彩を持たない」の意味は読み始めればすぐに解明される。主人公は高校時代に5人からなる親友グループに属していて、主人公以外はみな名前に色名がついていたのだ。男子の赤松、青海(おうみ)と女子の白根(しらね)、黒埜(くろの)の4人は「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」が呼び名となり、色名を持たない主人公だけは「つくる」と呼ばれた。大都会郊外の中の上クラスの家庭、両親は団塊世代で父親は専門職か一流企業勤務、母親はおおむね家に入る、学校は受験校なので成績レベルも高い、という共通点を持つ5人は、それぞれが正五角形の1辺であるような緊密な共同体だった。

しかし、それぞれ個性的で目立った特質の持ち主であるほかの4人に比べ、主人公にはこれと示せるような特質は具わっていない(少なくとも彼自身はそう感じていた)。すべてにおいて中庸で,色彩が希薄だった。まさしく「色彩を持たない多崎つくる」だった主人公は、「いつかその親密な共同体からこぼれ落ち、あるいははじき出され、一人あとに取り残されるのではないかというおびえを、常に心の底に持っていた。」そして大学二年生の夏休みに、主人公は4人から絶縁される。何の説明もなく、一方的に。このため読者は、深く傷ついた主人公に寄り添ってこの後の展開を辿ることになる。

音楽通の著者は、本作品では主人公が大学で親しくなった灰田文紹という青年(彼の名前も色つき!)を通して様々な蘊蓄を披瀝している。その最たるものがタイトルにある「巡礼の年」に関する部分だろう。灰田と一緒にレコードであるピアノ曲を聞いていたとき、主人公はそれが「シロ」がよく弾いていた曲だと気づく。何という曲かと尋ねる主人公に灰田が答える。リストの『巡礼の年』という曲集にある第1年、スイスの巻に入っている『ル・マル・デュ・ペイ』(Le Mal du Pays)で「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」という意味だと。演奏しているのはラザール・ベルマン(Lazar Berman)というロシアのピアニストで、繊細な心象風景を描くみたいにリストを弾く、リストの曲は技巧的で表層的なものだとみられているが装飾の奥に独特の深みが巧妙に隠されている、リストを正しく弾けるピアニストは新しいところではベルマン、古いところではクラウディオ・アラウくらいかな…と説明が続く。(おそれいりました。)

この著者との出会いは『ノルウェーの森』で,その印象が余りに悪かったのでそれ以来ずっと避けてきた。それが、ジョージ・オーウェルとどう関連があるのかという興味で読んだ『1Q84』が思いの外面白かったので、毛嫌いするのは止めにして,今回本作を読んでみた。『ノルウェーの森』アレルギーの人にぜひお勧めしたい作品である。(2017.10.3読了)


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by nishinayuu | 2017-12-06 14:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『사진관집 이층』(신경림, 창비)


c0077412_11053132.jpg『写真館の二階』(申庚林、創批、2014

著者のシンギョンニムは現代韓国を代表する詩人の一人。1936年、忠清北道忠州出身で、民衆の暮らしを見つめた作品で知られる。代表的な作品に『農舞』(1977)、『南漢江』(1987)などがあり、『酔うために飲むのではないからマッコリはゆっくり味わう』という谷川俊太郎との対詩集も出ている。

『私の文化遺産踏査記』の『南漢江編』にも引用されている「再び欅が」という詩を原文で紹介しておく。詩人には生家にある欅を詠んだ「遅い欅」という作品があるが、「再び欅が」は80歳のときにこの欅を見て新しい感懐を抱いて「再び」詠んだのだという。

다시 느티나무가

고향집 느티나무가/터무니없이 작아 보이기 시작한 때가 있다./ 때까지는 보이거나 들리던 것들이/문득 보이지도 들리지도 않는다는 것을 알면서/나는 잠시 의아해하기는 했으나/내가 커서거니 여기면서,/이게 세상 사는 이치라고 생각했다.

오랜 세월이 지나 고향엘 갔더니,/고향집 느티나무가 옛날처럼 커져 있다./내가 늙고 병들었구나 이내 깨달았지만,/내눈이 이미 어두워지고 귀가 멀어진 것을,/나는 서러워하지 않았다.

다시 느티나무가 커진 눈에/세상이 너무 아름다웠다./눈이 어두워지고 귀가 멀어져/오히려 세상의 모든 것이 아름다웠다.

2017.10.1読了)


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by nishinayuu | 2017-12-02 11:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)