<   2014年 04月 ( 8 )   > この月の画像一覧

『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』(ロバート・クーヴァー著、斎藤兆史・上岡伸雄訳、作品社)


c0077412_1340957.jpg『Pinocchio in Venice』(Robert Coover, 1991)
19××年のある冬の晩、アメリカ大陸からやってきた一人の老人が、病と時差ぼけと大いなる不安と多大な荷物を抱えてヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に降り立つ。この老人こそはかつて木片から作られ、青い髪の妖精の言いつけを守った褒美として人間の子供にしてもらったピノッキオである。まじめに努力を重ね、学問の世界であまたの業績を上げてノーベル賞を二度も受賞し、今や百歳を超えたピノッキオは、人生を振り返り、断片的に著述してきた自伝の最後の章を書き上げるために、故郷に戻ってきたのだ。しかし、世界の魔都と信じられているヴェネツィアに、一般の旅行者が裏玄関だと思っている方から入ってきたのがそもそもの間違いだったのだろうか。ピノキオは到着するなり、「狐」と「猫」にさんざんな目に遭わされてしまう。しかもこれは始まりなのだ。

猥雑で汚らしい情景描写が延々と続くかと思うと、いきなりペダンティックになったり、言葉遊びが始まったりして、決して読みやすい作品ではない。しかもやたらに饒舌で、大部の作品である。それでも途中でやめるのは惜しい、と思わせるものがある。老ピノキオのこれまでの努力は無駄だったのかどうか、彼の行き着く先を見極めないうちはやめられなくなってしまうのだ。大人の読者のための「ピノッキオ」である。(2014.2.2読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-29 13:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『友情』(フレッド・ウルマン著、清水徹・清水美智子訳、集英社)


c0077412_9274288.png『Reunion』(Fred Uhlman, 1971)
これは、16歳から18歳の間にあった二人の少年が育んだひたむきな友情と悲痛な別れ、そして長い年月を経た後の思いがけない「再会」を描いた、短いけれども深く心にしみる作品である。
物語は1932年1月に始まる。語り手はシュトゥットガルトのカール・アレクサンダー・ギムナジウムの生徒で、16歳の誕生日を迎えたばかりだった。ドイツの灰色の暗い日に、語り手のクラスに一人の少年が転校してくる。姓をグラーフ・ホン・ホーエンフェルスといい、ホーエンフェルス城館で生まれたという、まるで別世界から来たみたいな少年・コンラディンだった。クラスの少年たち――シュヴァーベン地方特有の、鈍重で凡庸、健康だが想像力に乏しい連中――に飽き足らなかった語り手の前に、友情というものについて抱いているロマンチックな理想に応えてくれる少年、絶対的な信頼と忠誠と自己犠牲への要求を理解してくれる少年として立ち現れたのがコンラディンだった。それから1年あまりの間、彼は「その人のためには喜んで生命を投げ出したいと思う」友だった。しかしこのとき、始めは遙か遠いものとしか思えなかったナチズムが、ついにシュヴァーベン地方まで飲み込もうとしていた。そしてもはやこの国は、まずシュヴァーベン地方の人間であり、次にドイツ人であり、そして最後にユダヤ人なのだ、と思って暮らしてきた語り手一族に、これまで通りに暮らすことを許さなかった。両親によってアメリカへと送り出されることになった語り手のもとに、コンラディンは別れのことばを送ってくる。「ぼくはヒトラーこそがドイツの希望だと信じている。残念ながら新生ドイツにはきみの居場所はないだろうから、きみがアメリカ行きを選択したのは賢明なことだ。二人の道が分かれてしまうのはつらいけれども、きっといつの日か、ぼくたちの道は再び交わることだろう。ぼくは永久にきみを忘れない」と。
それから4半世紀あまり、9千日を超える日々の多くが、枯れ木に残る乾いた葉のように死んでいる、そんな歳月のあとで、コンラディンが希望を込めて言ったことば通りに、確かに二人の道は再び交わったのだった。(2014.1.22読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-25 09:28 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『はばたけ!ザーラ』(コリーネ・ナラニィ著、野坂悦子訳、鈴木出版)

c0077412_9115161.jpg『Zahra』(Corine Naranji, 2003)
読書会「かんあおい」2014年1月の課題図書。
副題に「難民キャンプに生きて」とある。主人公は10歳の少女ザーラ。イランのクルディスタン地域から逃げてきたときにはまだ赤ちゃんだったので、ザーラはイラクにあるこの難民キャンプでの生活しか知らなかった。
物語は1989年9月に始まる。早く学校に行きなさい、とお母さんがザーラをせき立てるが、ザーラは気が進まない。前の日、親戚のファティマおばさん一家が遊びに来て、食べたり飲んだり、ファティマおばさんは歌も歌ったりして、とても楽しかったのだが、料理の手伝いで忙しかったザーラは、宿題をする暇がなかったのだ。ムハンマド先生に当てられて答えられなかったら、手を板きれで叩かれる、と思うとなかなか足が進まない。それでもザーラはどうにか学校に間に合って、練習していなかったところもきちんと答えることができた(児童文学の主人公は頭がいいのが原則?)。授業が終わるとザーラは友達のネーダと学校を出る。太陽は真上から照りつけ、あまりの熱気に空気もゆらゆらしているし、くさいゴミ捨て場のあたりにはいつも野良犬がうろうろしている。それでもネーダといっしょにおしゃべりしながら歩く道は楽しい。ネーダと別れてザーラは一人で家に向かう。と、家の方から泣き叫ぶ声が聞こえる。ザーラは足を速め、家の扉に突進し、靴を脱いでスリッパに履き替える。胸がどきどきする。聞こえていたのは、思った通り、母さんの声だった。赤ちゃんの弟レザの具合がまた悪くなったのだ。

この物語には、レザが心配で笑顔をなくしてしまった母親を気遣い、両親が留守のあいだは一家の長女として幼い妹たちの世話をするザーラのけなげな姿が描かれると同時に、イラクの気候風土や難民キャンプの生活環境、クルド人たちの生活習慣などもさりげなく、ふんだんに盛り込まれている。物語が始まる前に「この物語に出てくる国と地域」を示す地図が掲げられ、「難民」とはなにか、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とはなにをするところか、などが平易な言葉で説明されている。物語が先に進むと、ムハンマド先生や村のお医者さんのダヴァイさん、バグダッドの病院のスミス先生、イラクに住む赤十字社のオランダ人スタッフ・アネットさんなどなど、大勢の人たちに助けられて、ザーラの一家に希望にあふれる新しい日々が訪れる。いい人ばかりが登場するいいことずくめの物語ではあるが、児童文学としてはそれが正しい。子供たちに生きる希望を与えることが児童文学のいちばんの使命なのだから。(2014.1.20読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-21 09:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『승경』(구효서)


c0077412_11523657.jpg
『勝景』(具孝書)
韓国語講座(週1回、各1時間半)の購読テキスト。2013年11月15日からほぼ2ヶ月かけて精読した。原本は『文学思想』(2006.8)。



「蕎麦の実を、と言ったまま彼女は口を閉ざした。午後2時で、外は五月の陽光に溢れていたが、部屋の中はほの暗く、ひんやりしていた」という文で始まる。語り手は30代の韓国人作家で、「彼女」というのは57歳の未亡人。作家は長崎を背景にした作品を書くために、長崎に近くて滞在費は安くてすむタテノ村にしばらく滞在していた。作品が無事に仕上がり、帰国するばかりになった作家は、以前から村長がいやに熱心に勧める「彼女」への訪問をしてみるか、と思い立ってやってきたのだった。こうして作家は、たぐいまれな美貌と妖艶な所作の持ち主で、不思議な手振りを交えて語るこの未亡人の口から、彼女の半生とこの村の謂われを知ることになる。若くしてこの村に流れてきた彼女は、ここでひとりの誠実で勤勉な男性と出会った。この出会いが彼女に生きる力を与えたばかりでなく、村にも奇跡をもたらしたのだった。

韓国流健康食品の材料が韓国語と日本語発音のハングル表記でずらずらと並んでいるところや、彼女が作家へのお土産を、冷凍食品なのでソウルの取引先に注文して配達させます、と言う場面など,具体的で現実的な描写がある一方で、次のような荒唐無稽なエピソードもある。
村にあるたった一つの山は、長崎に原爆が落ちたとき、爆風でてっぺんが吹き飛んだ。それで村の重心が狂ってしまった。村のバランスを取り戻すために山とは反対側の村はずれに大きな池を掘ろう、と夫が言い出した。健康食品の製造販売で貯めた私財を投じ、たっぷり日当を払って村の人々も巻き込んだ。やがて大きな池ができあがって水を満たすと、村はバランスを取り戻した。

長崎の近郊にあって、村人たちが一体となって自然のバランスを取り戻した村。日本人と韓国人が互いを尊重しつつ平和に暮らす村。現代に現出した美しい民話の世界である。(2014.1読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-17 11:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ペリカンの冒険』(レーナ・クルーン著、篠原敏武訳、新樹社)

c0077412_1111191.png『Ihmisen vaatteissa』(Leena Krohn, 1976)
主人公はフィンランドの都会に住む少年エミル。田舎に残って新しい家族と暮らすお父さんと別れて、お母さんと二人で都会に出てきてアパートで暮らしている。お母さんが夕方も仕事をするときは、エミルは近くの食堂に行って一人で食事をする。ある日エミルは、食堂の片隅で、新聞を逆さまに持って座っている人を見かける。他の人は誰も気づいていないようだったが、それは人間ではなく、明らかに大きな白い鳥だった。
こうしてエミルとペリカンとの交流が始まる。ペリカンはエミルたちと同じアパートに住んでいて、ヒューリュライネルと名のっていた。紳士服を着こなし、エミルの手助けで文字を覚え、仕事を見つけて人間社会の一員として暮らし始めたペリカンは、図書館に通ってあらゆる知識を吸収していく。芸術活動にも目覚めてオペラ劇場に通い、オーケストラの一員となり、歌手としてデビュー、とペリカンの人間活動はとどまるところを知らない。

ガチョウのモルテンの背中に乗って旅をしたニルスのように、エミルがペリカンの背中に乗って空を飛ぶエピソードも出てきたりして、楽しくて中身の濃い物語となっている。絵的にも美しいこの物語は2004年に「ペリカンマン」というタイトルで映画化され、2005年にシカゴ国際子供映画最優秀賞を受賞したという。(2014.1.19読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-13 00:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『This Charming Man』(Marian Keyes著、Penguin)


c0077412_2035437.jpg



これは一見チャーミングで実はとんでもない男に惑わされた女たちの物語である。

主な登場人物は以下の通り。
Paddy de Courcy:またの名はQuicksilver(移り気の)de Courcy。アイルランドの2大政党の一つNew Irelandの副リーダー。気に入らないとすぐに殴る暴力男である。
Grace Gildee:有能な雑誌記者。
Lola:セレブを顧客とするスタイリスト。
Marnie:Graceの妹で、二人の娘を持つ母親。アル中。
Dee:New Irelandの女性党員。

はじめはばらばらに登場する上記の女性たちが、最後に一丸となってPaddyの政治生命を絶つ、という復讐劇であるが、そこに至るまでの話の長いこと。家族や友人、職場の仲間や顧客など登場人物がやたらに多く、本筋とは関係のないエピソードもうんざりするほど盛り込まれている。特にMarnieのアルコール浸りの日々のの描写と、Lolaの言動の分単位、秒単位の描写は冗長でいらいらさせられる。それでもアイルランドの政治状況に触れているところや、女装趣味の男たちの涙ぐましい奮闘ぶりなど、興味深いエピソードも盛りだくさんで、おもしろいと言えなくもない。情けない状態だった女性たちがついに立ち上がり、男を追い詰めていくところはちょっと感動的、と言えなくもない。(2014.1.18読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-09 20:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ネザーランド』(ジョセフ・オニール著、古屋美登里訳、早川書房)


c0077412_1038397.jpg『Netherland』(Joseph O’Neill, 2008)
本書はお正月休みのあいだに読もうと図書館で借りた2冊中の1冊。もう1冊は『従順な妻』で、偶然2冊とも異邦人の目で見たアメリカが描かれた物語だった。土地も主人公の境遇も全く違うが、運転免許証取得にまつわるエピソード、配偶者がアメリカから去った後も主人公はアメリカに残っていた点など、共通項も多い。

語り手の「ぼく」はオランダ人のハンス・ファン・デン・ブルーク。かつてニューヨークでばりばりの証券アナリストとして活躍し、現在(2006年)はロンドンで妻と息子と一緒に暮らしている。因みに妻のレイチェルについて語り手は「一度は袂を分かって別の道を進んでいったが、その後で心から好きになった相手が、運のいいことに、すでに自分が結婚していた伴侶だった」と述べている。そんな語り手のところにある日、ニューヨーク・タイムズ紙の記者から電話がかかってくる。チャック・ラムキッスーン“らしき残骸”がゴワナス運河で発見されたという。チャック・ラムキッスーンという名前とその尋常でない最期を聞かされた語り手の胸に、ニューヨーク時代の思い出がわき上がる。妻との不和のせいでわびしく惨めだったニューヨークでの生活、そこに光を与えてくれたチャックとの出会い、チャックを通して知り合った有色人種ばかりのクリケット仲間との交流、そして2001年9月11日を境に変わってしまったアメリカという国。さらに語り手の記憶は、生まれつき陽気な資質を持ち合わせていなかった母と暮らした子供時代、ロンドンやハーグで過ごした日々へとさかのぼる。

作中の随所に印象的な描写がある。たとえば

マンハッタンの翳った部分を歩いていると、ときどきマグリットの絵に入り込んだ気分になる。通りが夜で空が日中の絵だ。2003年1月、ぼくがニューヨーク自動車組合のある建物からよろよろと外に出ると、ヘラルド・スクエアはそんなふたつの世界がある夢のような夕暮れだった。

あるいはまた

最後にアメリカで過ごした八月には、次々と雷雨が襲ってきた。今でもその様子がありありと目に浮かぶ。いきなりあたりが深海のような緑色に変わり、サイコロのような霰がアスファルトの上で跳ね、雨の川がチェルシー地区を縦横に流れ、空を覆う目映い光が何度も部屋の窓から見えた。

書き出すときりがないのでやめるが、翻訳でもこれだけ味わい深いのだから、原文はさぞかし、と想像している。(2014.1.10読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-05 10:38 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『従順な妻』(ジュリア・オフェイロン著、荒木孝子・高瀬久美子訳、彩流社)


c0077412_14373079.jpg『The Obedient Wife』(Julia O’Faolain, 1982)
作者は短編小説作家ショーン・オフェイロンと童話作家アイリーン・オフェイロンの娘。1932年にロンドンで生まれ、ダブリンの大学で学んだ後、ローマとパリに留学。フィレンツェでアメリカ人の歴史学者ラウロ・マーティンズと結婚後、ロサンゼルスとロンドンを拠点にして活躍している――と訳者あとがきにある。
が、寡聞にして作者の名も、有名だという両親の名も初耳である。訳者あとがきには「日本ではまだあまり馴染みのない作家」とも書かれているので、何となく安心すると同時に、新しい作家を知ったうれしさも感じる。
物語の舞台はロサンジェルス・ビバリーヒルズの北方にあるビバリーグレンの丘陵地帯。科学技術の点では高度に進んでいるが、迷信深い土地柄である。イタリー人一家の主婦・カーラはこの土地で13歳の息子マウリーツィオと二人で暮らしている。夫のマルコが会社から呼び戻されてミラノに戻ることになったとき、カーラは息子の学校のことを口実にこちらに残った。マルコとの結婚生活を続けるかどうか、じっくり考える必要があったのだ。それ以来3ヶ月のあいだ別居が続いている。
マウリーツィオはフランス式のリセに通っている。カーラは同じ学校に5人の子供たちを通わせているシビルと交友があるが、カトリック教徒のくせに子供を教会付属の学校ではなくリセに通わせているシビルを、変わっている、と思っていた。シビルの方はカーラを相手に、司祭のリオへの熱い思いを綿々と訴えるが、カーラはまともに相手にする気にはなれないでいる。隣の家には乳がんで乳房を失った美貌の女性ジェーンがいて、同棲していたポーランド移民のカジミールとの関係に苦しんでいる。カジミールはワンダという若い女のところに走ってしまったのだ。ワンダはだらしない女で、一人娘の育児もほとんど放棄している。マウリーツィオはこの野生児のようなイヴィーにすっかり惹きつけられている。それやこれや、カーラはいろいろやっかいごとに取り囲まれているが、アメリカにもカトリックにも幻想を抱いていないので常に冷静だった。ところがシビルのためにリオに働きかけているうちにリオと接する機会が増え、いつの間にかリオとカーラの間に親密な時間が流れ出して……。

異邦人の目で見たアメリカとアメリカ人が描かれていて、とても興味深い作品である。訳も全体的には読みやすくて良かったが、シビルの口調はちょっと時代がかり過ぎているのではないか。また、〈すべて姦夫に石もて投げよ〉という部分は、〈姦夫を石もて打て〉もしくは〈姦夫に石を投げよ〉ではないだろうか、とちょっと気になった。(2014.1.5読了)
[PR]
by nishinayuu | 2014-04-01 14:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)