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『Prelude』(Katherine Mansfield)

c0077412_16223096.jpg『前奏曲』(キャサリン・マンスフィールド,1918)
キャサリン・マンスフィールドは若くして故郷のニュージーランドを去り、再び故郷の土を踏むことなくフォンテンヌブローで病死した。そんな彼女には家族との思い出をもとに綴った一連のニュージーランド関連作品があり、内容的にそのニュージーランドもののまさに「前奏」といえるのが本作品である。最愛の弟の死をきっかけに書いた『The Aloe Tree』(1916)を書き改め、12の章にまとめたもので、家族が田舎の家に引っ越す場面に始まり、新しい生活に馴染んでいくまでの一人一人の行動や心の動きが綴られている。Aloe(アロエ)はこの新しい家の迷子になりそうなほど広い庭に聳え立つ木で、第6章では三女のケザイアと母のリンダが、第11章ではリンダとその母親のフェアフィールド夫人がその木の前に佇む。第11章の満月に浮かぶaloeの姿に、リンダは自分を遠くに連れだしてくれる舟を見ている。
家族構成は、ひとかどの事業家であり大家族を養う立派な家長であると自負する、健康で陽気で単純な父親のスタンリー/子どもと家から解放されることを夢みる繊細で病弱な美しい母親のリンダ/家事全般を取り仕切り、子どもたちに惜しみない愛情をふり注ぐ祖母のフェアフィールド夫人/リンダの妹で、勝手放題に振る舞う一方でとりとめのない夢に耽ったりもする不安定な年頃のベル/長女の特権を振りかざして優越感に浸っている幼稚な姉のイザベル/のろまで気弱で頼りにならないもう一人の姉のロティー/そしてこれらの人びとや周りの物事をしっかり見ている小さなケザイアで、作者の実際の家族と重なる。すなわち幼いながら鋭い観察力と冷静な判断力を持つ気丈な女の子は作者の分身である。この時点では弟はまだ生まれていない。
家族の他に、転居前に住んでいた家の隣の家族/馬車に乗りきれないという理由で取り残された(?!)ロティーとケザイアを新しい家に送り届けてくれた店の男フレッド/スタンリーを馬車で送り迎えしたり、飼っていたアヒルを殺したり、といろいろな仕事をする下男のパット/三姉妹と遊ぶのが大好きな従兄のピップとラッグズ兄弟/同じ若い女同士のせいでベリルの言動がなにかとしゃくに障る女中のアリスなどが登場する。
作者が6歳のときに一家はウエリントン市Tinakori(ティナコリ)から郊外のKarori(カロリ)へ引っ越している。その当時の一家の暮らしぶりや周りの状況などが再現されていると考えられるこの作品は、マンスフィールドの生まれ育ったニュージーランドという島国への郷愁をかき立ててやまない。(2013.6.25読了)
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by nishinayuu | 2013-08-31 16:23 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『Mr. Reginald Peacock’s Day』(K.Mansfield,Constable)


c0077412_23305035.jpg『レジナルド・ピーコック氏の一日』(キャサリン・マンスフィールド、1920)
5月にサキのレジナルドを読んだが(その記事はこちらこちら)、そういえばマンスフィールド作品の中にもレジナルドがいたことを思いだし、数十年ぶりに再読した。
この作品は声楽家のレジナルド・ピーコック氏のある一日を綴った短編である。ピーコック氏の視点で綴られてはいるが、現実的な妻の目にうつった夢想家の夫の姿を描いたものともいえる。そもそも、ピーコックという名前からして彼が虚栄心の塊の滑稽な人物という役割を与えられていることがわかる。
すなわち彼は芸術家として世間から尊敬されていると自負しているのに、妻からはただのやっかいな夫、息子からは面倒くさい父親、とみなされている。そんなふうに家族の前では形なしの彼も、弟子たちにとってはすてきな声楽家の先生なのだ。だから彼は念入りに身を清め、喉の調子をチェックするためにローエングリンになった気分で声を張り上げる。この日は三人の弟子がレッスンを受けに来た。最初は白いドレスを着て顔を紅潮させたベティー・ブリトル嬢。公園の花がすばらしかった、という彼女に、その花を思いながら歌えば声に艶と暖かみが出る、とアドバイスすると、彼女は賞賛のまなざしで彼を見る。次は外国人特有の優美な立ち居振る舞いのウィルコウスカ伯爵夫人。恋の歌を練習し、あと一息というところまでこぎ着ける。三人目はメアリアン・モロウ嬢。歌い始めると目に涙があふれ、顎が震えてしまうので、彼は、歌わなくていいですよ、と言って彼女のためにピアノを弾く。帰り際に感謝の言葉を述べる弟子たちに、彼は内心の喜びを抑えて謙虚に「まことに嬉しく存じます」と答えるのだった。
妻がそんな彼をただの稼ぎ手としか見ていないようなのが、彼には納得できない。そもそも、朝、彼を起こすのにも、芸術家を眠りの世界から呼び起こすという細やかさが全くない起こし方をする。自分はずっと前から起きて働いているのだ、と言わんばかりの格好でずかずかと寝室に入ってきて「レジナルド、7時半です。起きる時間よ」とだけ言って出て行くのだ。その後も、息子のためにお金がいるという話と、今夜は夕ご飯が必要かどうかの確認だけ。夜になって彼がティンバック卿のパーティーから戻ったとき、妻は既にベッドに入っていた。縮こまって寝ている姿を見た彼は、もう一度だけ妻に優しいことばをかけてみようと思い立つ。ところが彼の口をついて出たことばは、なんと「まことに嬉しく存じます」だった。(2013.6.14読了)
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by nishinayuu | 2013-08-28 23:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

韓国の詩 「懐かしい金剛山」 韓相億

c0077412_21292443.jpg8月10日の記事で触れた「懐かしい金剛山」を7・5調の詩に訳してみました。「懐かしい金剛山」は1962年に6・25の12周年に当たって文化広報部の要請で作られた歌曲です。作曲は崔永燮で、曺秀美(スミ・ジョーとして知られる世界的歌手)やプラシド・ドミンゴらによって歌われています。ドミンゴの歌はこちらで聞くことができます。

그리운 금강산 한상억
누구의 주제런가 맑고 고운 산
그리운 만이천봉
말은 없어도 이제야 자유 만민
옷깃 여미며
그 이름 다시 부를 우리 금강산
수수 만 년 아름다운 산
더럽힌 지 몇 해 오늘에야 찾을 날 왔나
금강산은 부른다

懐かしい金剛山   韓相億
誰が言いしか 清らなる
麗しき山 懐かしき
一万二千の 峰みねよ
ことばにこそは 出さねども
自由万民 今こそは
襟を正して もう一度
その名を呼ばむ 金剛山
数万年を 経てもなお
この山こそは清らなれ
汚されしより 幾とせか
ついに尋め行く 時や来し
金剛山は 呼んでいる


注1:冒頭の部分は直訳すると「誰の主題であろうか」。あるサイトでは「誰の主宰であろうか」としてあるが、主宰は주재なのでどうだろうか。「主宰」や「主題」ではわけがわからないので「言いしか」としておいたが、これもあまりピンと来ない。
注2:下から2行目の頭は떠나간지や못가본지というヴァージョンもあるが、『甲乙考試院』に引用されている形のままにしておく。

なお、この日本語訳はメロディーに合わせて歌えるようにはなっていません。
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by nishinayuu | 2013-08-24 21:34 | 翻訳 | Trackback | Comments(4)

『サレーダイン公爵の罪業』(チェスタートン著、直木三十五訳、平凡社)


c0077412_16522947.jpg『The Sins of Prince Saradine』(Chesterton, 1911)
物語は探偵のフランボーが1ヶ月の休暇を取り、ヨットに乗って旅に出るところから始まる。今はウエストミンスターに事務所を構えているフランボーだが、昔はパリで活動していて、その地のもっとも有名な人物として多くの讃辞や謝辞を受け取った。そのひとつにイギリスの消印のある封筒があり、中には「現代のあらゆる立派な人物にはもはや会い尽くしたので、いつかあなたにお会いしたいものです。あなたが探偵をまいて見当違いの逮捕をさせる手際はフランス史における最も光彩ある場面です」と書かれた名刺が入っていて、名刺の表には「公爵サレーダイン、蘆の家、蘆の島、ノーフォーク州」と印刷されていた。これが記憶にあったフランボーは、ノーフォークの広沢地方(東部の湿地帯)に行ってみることにする。フランボーが旅に備えてヨットに積んだのは、「鮭の缶詰、何挺かのピストル、一壜のブランデー、そして、ひょっこり死なないとも限らないので一名の坊さん(師父ブラウンのこと)」である。
さて、フランボーとブラウンが訪れたサレーダイン公爵の屋敷には次のような人たちがいた。給仕頭のミスター・ボウル(陰気なタイプのひょろ長い男で、ごま塩頭。家令か侍従のように尊大)、家政婦のアンソニー夫人(威風を備えた美貌の持ち主で、イタリア訛がある)、それから当主の公爵(白い帽子、黄色い胴着、黄色い手袋という、役者の扮装のようないでたちで外から戻ってくる。世事に長けてはいるがそわそわしていて、信用のおけない感じ)。彼らを観察したブラウンは、公爵は客のもてなしはうまいが家政には疎い様子であること、ミスター・ボウルは家政全般を任されていて、まるで公爵の法律顧問のようであること、アンソニー夫人はおどおどしていて、日陰の女のようであることに気づく。
ところでブラウンはミスター・ボウルから、公爵は弟の大尉からひどい仕打ちを受けている、という話を聞き出したので、アンソニー夫人にそのことを確かめると、夫人は、兄弟はどちらが悪人でどちらが善人ともいえない、兄弟二人とも悪人だ、と言うのだった。
そこへ新たな人物が登場する。シシリア人のアーントネリという青年が、母を盗み取り父を崖から突き落とした、として公爵に決闘を申し込んできたのだ。公爵は、アンソニー夫人と同じ陰鬱な茶色の目をしたこの青年にあっけなく殺されてしまう。遅ればせに到着した警官にアーントネリが連行されるや、ミスター・ボウルは前まえから整えられていた食卓について、美味を食らい、かつ美酒を飲むのだった。
公爵に勧められて舟で釣りに出ていたため何も知らなかったフランボーに、ブラウンが事の次第を説明してから言う。これは君の「探偵をまきて見当違いの逮捕をなさしむる手際」に知恵を借りた犯罪だ、と。(2013.6.17読了)

☆「(ゴイサギが)小児の打ち出す豆太鼓のようにポコボン、ポコボンと啼いていた」という部分があります。原文ではどんな表現なのか、また日本では普通どう表現するのか知りたくなりました。
☆この作品は「青空文庫」で読みました。青空文庫の底本は平凡社の『世界探偵小説全集 第9巻ブラウン奇譚』だそうです。
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by nishinayuu | 2013-08-22 16:52 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『徒然草』(兼好法師著、小学館・日本古典文学全集)


c0077412_22422083.jpg数年前、友人たちと里山を散策した折、ある家の脇にある柚の木にしっかり囲いがしてあるのを見たアラフォーの女性が、「これってまさに、まわりを厳しく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか、よね」と言った。「おぬし、やるのう」と軽く応じておいたが、彼女が当たり前のように引用した『徒然草』がこちらにとってはすっかり遠いものになっていることに気がついた。それ以来ずっと気になっていたので、本棚で眠っていた本をこのたび久しぶりに取り出して読んでみた。
読んでみると前の方の段は記憶に残っているものが案外多かった(受験勉強の名残?!)。読み進むにつれて、有職故実に関するもの、貴族の子弟用の教訓的なものが増えていき、これらはほとんど覚えていないので、まあ新鮮といえば新鮮ではあった。なにかのときに使えそうなくだりを記しておく。
第5段:配所の月、罪なくて見ん事(今時、配所もないでしょうが)/第18段:昔より、賢き人の富めるは稀なり(いじましく聞こえるので内輪でしか使えませんね)/第62段:ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君はおぼゆる(「こ・ひ・し・く」思う、と言う意味ですが、いったいいつ使うつもりじゃ)/第72段:賤しげなるもの。居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。(中略)人にあひて詞の多き。(中略)多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵(塵塚の塵も多いのは見苦しいでしょうに)/第73段:下ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は怪しき事を語らず(テレビやSNSにも当てはまりそう)/第82段:すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。し残したるを、さてうち置きたるは、面白く、いきのぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず作り果てぬ所を残す事なり(未完であればまだ向上の余地がある、ということですね)/第137段:すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。(中略)片田舎の人こそ、色こく万はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし(出不精の言い訳に使えそう)/第167段:品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉れにても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出ててこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みてこれを忘るべし(どきっ!人より勝るなどとは思っていないけれど、ちょっとした慢心はあるかもしれない)/第190段:いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、にくかりなん。(中略)よそながら、ときどき通ひ住まんこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ(その通り)/
(2013.6.12読了)
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by nishinayuu | 2013-08-19 22:42 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『よくできた女』(バーバラ・ピム著、芦津かおり訳、みすず書房)

c0077412_926840.jpg『Excellent Woman』(Barbara Pym,1952)
本書は戦後間もない頃のロンドンを舞台に、一教区の住人たちの人間模様を描いた読み物である。語り手のミルドレッドは30過ぎの未婚女性。田舎の牧使館育ちで、今は両親の残したわずかな財産を頼りにロンドンで気ままなひとり暮らしをしている。彼女によれば、このような境遇の女性は他所さまのことに興味を持ったり首を突っ込んだりしてしまうのは自然の成り行きで、ましてや牧師の娘の場合、それはもう絶対に避けられないことなのだ。というわけで、彼女はいつも誰かの人生に巻き込まれ、他の人たちの悩み――賛美歌作家たちのもう少し高尚な物言いを借りれば「重荷」と言ってもいい――を背負わされ、劇的なことが起こるときにはいつもティーポットを手にして他人のためにお茶を入れることになる。彼女は一大事のときに誰もがあてにし、彼女の方でもついそれに応えてしまう「よくできた女」なのだ。
彼女を振り回す「他所さま」の主な面々は以下の通り。
彼女の住むフラットの階下に引っ越してきたネイピア夫妻。夫はハンサムで女たらしの海軍将校ロッキー、妻は有能な文化人類学者で美人のヘレナ。
ヘレナと同じ文化人類学者で金髪男性にありがちなうぬぼれたそぶりのエヴァラード・ボーン。
教区牧師とその姉。牧師は40歳くらいで苦行僧的な風格が備わっているジュリアン。姉は弟と教会のために献身的に尽くすことが生き甲斐になっているウィニフレッド。
教区に引っ越してきた「牧師の未亡人」のミセス・グレイ。

しかし彼女は黙って人に利用されているだけの人間ではない。冷静な観察力、鋭い感受性とユーモア感覚をもっている女性であり、窮地に立たされてもうまく切り抜ける才覚のある女性なのだ。心の中で展開する夢や世間への批判、皮肉などが時折態度や言葉に出てしまうところなど、現実にもいかにもありそうなはなしである。物語は最後に、苦い片思いしか経験のないミルドレッドの新しい恋の始まりをほのめかして終わる。(2013.6.9読了)

☆ちょっと気になったことがふたつ。一つは「“ええ、そうですわね”私は自信なさげに言いながら」の「自信なさげ」。他人のことを評している感じがするのですが。
もう一つは「何をにやけているんだい?」という表現。他人の色恋を想像してつい顔が緩んでしまった語り手に目の前の男が言う言葉なのですが、この「にやける」は誤用ではないでしょうか。
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by nishinayuu | 2013-08-16 09:26 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『マンゴー通り、ときどきさようなら』(サンドラ・シスネロス著、くぼたのぞみ訳、晶文社)


c0077412_11485169.jpg『The House on Mango Street』(Sandra Cisneros,1984)

この作品の舞台はアメリカ合衆国の南西部に位置する架空の町。プエルトリコやメキシコから憧れの国アメリカにやってきた人たちが住む移民の町だ。語り手のエスペランサは次のように語り始める。

わたしたちはずうっとマンゴー通りに住んでいたわけじゃない。まえはルーミスの三階に住んでいたし、そのまえはキーラーだった。キーラーのまえはポライナにいて、そのまえのことはおぼえていない。よくおぼえているのは引っ越しばかりしてたってこと。引っ越しのたびに家族がひとり、ふえていたような気がする。マンゴー通りに越してきたとき、家族は六人になってた。ママ、パパ、弟のカルロス、キキ、妹のネニー、それにわたし。

移民たちは少しでも暮らし向きがよくなれば「もっといい家」を求めて引っ越しをする。だから語り手の一家も何度も引っ越しをしてマンゴー通りにたどり着いたのだが、いずれはここも出て行くつもりでいるのだ。そんなマンゴー通りにはいろいろな人が住んでいて、いろいろなことが起こる。
猫をいっぱい飼っていて、少し北の方に越していったキャシー。スペイン語と英語の名前を持つ犬といっしょにその家に越してきたメメ・オルティス。テキサス生まれのルーシーとその妹のレイチェル。プエルトリコ人のルーイとその従姉と従兄。誰かが人生を変えてくれるのを待っているマリン。子どもが多すぎて手におえないロサ・バルガス。空を飛ぶ練習をして地面にたたきつけられたアンヘル・バルガス。大学に行っている優等生のアリシア。アルバイト先で知りあった東洋人の年配の男。エスペランサの詩をじっと聞いてくれて、書き続けるのよ、と励ましてくれたルーペおばさん。英語も話せない密入国者で、ひき逃げされて死んでしまったジェラルド。テネシーから来たアール。チンピラのサイア。太りすぎているからか、英語が怖いからか、とにかく外に出てこないママシータ。夫に監禁されて甘いジュースばかり飲んでいるラファエラ。夫が何度も出て行ってしまって不幸せなミネルヴァ。美しすぎるせいで父親に殴られ、父親から逃げるために結婚したら今度は夫から家に閉じこめられるサリー。
上掲の引用文の言葉遣いや文字遣いから想像できるように物語の冒頭ではまだ幼さの残る少女だった語り手は、マンゴー通りでの様々な見聞や体験を通して成長していき、やがてマンゴー通りを出て行く日を思い描くようになる。(2013.6.6読了)
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by nishinayuu | 2013-08-13 11:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『갑을고시원 체류기』(박민규著)

c0077412_15311450.jpg『甲乙考試院滞在記』(朴珉奎)
作者は1968年生まれで、現在韓国で最も注目されている作家の一人。文学トンネ新人作家賞、ハンギョレ文学賞、イサン文学賞などを受賞している。政治性を排して日常を描き、重いテーマを軽い雰囲気で表現する作家といわれる。確かにこの作品も、深刻な状況を描きながら随所に笑いが盛り込まれていて、読んでいて楽しく、読後感も爽やかである。
物語は主人公の大学生が1991年に考試院で過ごした一年を描いたものである。主人公は父親が借金を抱えて家も手放すことになったため、自分でなんとか暮らしていかなければならなくなった。それで、「月9万ウォン、食事提供」という超安値で好条件の甲乙考試院を見つけて飛びつく。手許には兄が工面してくれた30万ウォンしかなかったからだ。考試院というのはもともと各種の高等試験を受験する若者のための宿舎だったから、受験生でもない自分を受け入れてくれるだろうか、と主人公は心配だったのだが、意外なことにあっさり入居できた。なんのことはない、この頃の考試院は受験のために入居する所ではなくなっていて、ただの廉価な宿舎として利用されていたのだ。
甲乙考試院に入居した主人公はびっくり仰天する。廊下は40センチ幅しかなく、すれ違うときは一人が壁に貼り付いてもう一人が通り過ぎるのを待っていなければならない。部屋は机を置くと脚を伸ばして寝る余地もなくなる。窓はなく、隣室との仕切りはベニヤ板一枚。つまり、どこかの国の「脱法ハウス」そっくりの、劣悪な居住空間なのだった。もちろんトイレ、洗面所は共同で、男も女も他人の目や耳を気にしていては暮らせない。入居者は、日雇い労働者やアルバイト店員、風俗店で働く女たちなどだったが、考試院にふさわしい本物の受験生も一人いた。もう何年も司法試験を受け続けている、通称「キム検事」である。
甲乙考試院の玄関には「室内静粛」という額がかかっているが、主人公は入居した日からこの「静粛」にがんじがらめになる。主人公に割り当てられた部屋がよりによって「キム検事」の隣の部屋だったのだ。仕切りの板は薄いばかりでなく上部が天井には届いていないので、音が筒抜けになる。受験勉強でぴりぴりしているキム検事はどんなに小さな音でも聞きつけて、「静かにしろ」と言いに来る。それで主人公は、音を立てずに体内からガスを放出する方法を工夫し、音を立てずに歩く優雅な歩き方をいつの間にか身につけていく。あとから思えばそれは「静粛(ジョンスク)」と仲良く、つまりジョンスク(○淑)さんと仲良く暮らしつつ、いろいろな人と出会い、いろいろなことを経験した1年だった。(2012.2.23読了、2013.7.16再読))

☆この作品ははじめ一人で読み、以前読んだ『그렇습니까. 기린입니다』ほど奇想天外なところがない、と思いながらさらっと読み流しました。1年以上経ってから韓国語講座で一つ一つの文章を検討しながら丁寧に読みました。講師の先生のおかげで、思考の流れをそのまま綴っていくような特異な文体も、色彩と音を融合させたとっぴともいえる比喩も、細かいところまで理解できました。また、体内から静かに出て行くガスを熱帯魚にたとえて、その熱帯魚を「懐かしい金剛山」に合わせて泳がせた部分などは、朗々とした歌声とメロディーを知らなければイメージとして浮かび上がってこない、したがってその比喩の妙味がわからない、ということを思い知ったのでした。なお、「懐かしい金剛山」については2週間ほどあとで記事にする予定です。
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by nishinayuu | 2013-08-10 15:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『残念な日々』(ディミトリ・フェルフルスト著、長山さき訳、新潮クレストブックス)


c0077412_13491429.jpg『De helaasheid der dengen』(Dimitri verhulst)
物語の舞台は、ベルギーはフランダースの小さな村・レートフェーデヘム。語り手は物語の冒頭ではまだ小学生のディメトリー(名前から作者とかなり重なる人物だと推察できます)。この語り手の叔母であるロージーが村に帰ってくるという噂が村の男たちの間を駆けめぐる、というエピソードで物語は始まる。叔母はまれに見る美女で、彼女と寝ることが村の男の誇りだったが、他所の男と結婚してブリュッセルに行ってしまったのだ。ごくまれに叔母と夫は娘のシルヴィーを連れて高級車で村にやってきたが、語り手の一家はこの親戚を軽蔑していたし、村の人たちにもそれはわかっていた。
語り手の一家は、祖母、父とその三人の弟、そして語り手、という構成だった。母親は結婚10年で夫も息子も捨てて出て行った。無産階級であることを誇りにしている父は、離婚した相手に家具を全部持って行かれて所有物がゼロになったことを喜び、母親(語り手の祖母)の家に転がり込んだ。父と叔父たちはこの男の城で、とことんだらしなく、不潔で怠惰な暮らしをしていた。生のミンチ肉を素手で食べ、おならやゲップはし放題、トイレのドアを開けたまま大便をし、酔っぱらって卑猥な歌を歌い、あばずれ女を引き込み、しょっちゅう警察や財産差し押さえ人がやってくる。そんな暮らしを、気取った都会の人間に見られるのはさすがに気まずかった。それでも今回やってきたのはロージーとシルヴィーだけだったので、一家の男たちはいつものペースを変えることなく、シルヴィーをカフェに連れて行ってしまう。同じくだらしなくて不潔で怠惰な村人たちのたまり場であるカフェで、シルヴィーは荒っぽい歓迎を受け、人生初のビールを味わったあとはとことん酔っぱらい、卑猥な歌も覚えて、一家の血と、実の父親であるある村人の血をしっかり受け継いでいることを証明する。数日後に迎えに来たロージーの夫は、シルヴィーが他人の子だということも知らずにふたりを高級車に叩き込んで帰って行く。
語り手が小学生だということは一家の男たちの頭からすっぽり抜けていたか、あるいはわかってはいても小学生にはそれにふさわしい環境が必要だとは思いもよらなかったのかも知れない。とにかく、理想とは正反対ともいえる凄まじい環境だった。ある日、特別青少年育成課から「息子さんを育てておられる環境と状況を見に来ました」と若い女性調査員が訪ねてきたほどだ。確かにとんでもない環境であり、父や叔父たちの暮らしぶりは「残念な」ものではあったかもしれないけれども、けっして恥ずべきものではなかった。父や叔父たちは一致団結していたし、彼らなりに語り手をかわいがってくれてもいた。それに、息子たちの酷い汚れ物を片っ端から洗濯し、食事からなにからいっさいの世話をやく肝っ玉の据わった祖母がいた。祖母は幼くして母に捨てられた語り手をしっかり受け止めて愛してくれた実質的母親でもあった。だから語り手は、同級生のフランキーから「きみたちは下等な人間だ、大酒飲みでけんかはするし、村のごろつきみたいなものだ。社会保障を利用するパラサイトだ。だからきみとはもう遊んじゃ駄目だってお父さんが言った」と言われても動じることはなかった。ただ、団結心の強いうちの家族のだれかれを侮辱したら、フランキーもその父親も痛い目に遭うことになる、と言い聞かせてはやった。
全体の2/3くらいまでが怒濤のような少年時代の回想で、あとの1/3に大人になってからのフランキーとの再会や祖母のその後、息子や恋人のことなどがしっとりしたトーンで綴られている。(2013.6.3読了)
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by nishinayuu | 2013-08-07 13:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『昼の家、夜の家』(オルガ・トカルチュク著、小椋彩訳、白水社)

c0077412_22174945.jpg『Dom Dzienny, Dom Nocny』(Olga Tokarczuk, 1998)
本書は1962年生まれのポーランド作家トカルチュクによる長編第4作。冒頭に次のようなエピグラフが掲げられている。
家はそこに住む人の、ひとまわり大きな身体と思えばいい。日を受けて育ち、夜の静寂に眠る家も、夢を見ないことはない。どうして見ないはずがあろう?夢で家は町を離れ、緑の森や小高い丘へ向かうではないか。――カリール・ジブラーン(訳:池央耿)
「昼の家」と「夜の家」、現実と夢、生と死などを対立するものとしてではなく、同時に存在していてしかも常に揺れ動いているものとして呈示するこの作品を象徴するようなエピグラフである。
そして最初の断章「夢」で、語り手は「最初の夜、わたしは動かない夢を見た。夢の中で、わたしは観念そのもの、視線そのものだった」と語り始める。
次の断章「マルタ」では、語り手とその夫Rが移り住んだ家での隣人である年寄りの女性が紹介される。おいおいわかってくるのだが、マルタは冬の間は姿を見せず、春になっていきなり語り手たちの前に現れる。語り手の問いかけにはまともに答えず、意味深長な人生訓めいたことばを披瀝して語り手を考え込ませる。秋の終わりには飼っていた鶏3羽をつぶして3日間で骨まで食べ尽くし、冬籠もりしてしまう。仕事はカツラ職人ということで、いろいろな人から集めた髪の毛を編んでいる。まるで運命の機を織る女神か魔女のように。
続いて「何某氏(近所の住人)」、「ラジオ・ノヴァ・ルダ(ローカルラジオ局)」、「マレク・マレク(やはり近所の住人)」と続いた後、またまた「夢」。ただし今度は人びとが夢を書き込むインターネットのサイトがある、という話から始まって、人びとの見る夢には相似点があり、それらを繋いでいったら一貫性のある物語になるだろう、という具合に展開していく。どうやら語り手は「物書き」らしい。
語り手が移り住んだのはチェコとの国境に近い小さな町ノヴァ・ルダ周辺の山村である。巻末近くの挿話「ノヴァ・ルダ」で町は「谷間と、斜面と、丘の上にある町。もっとも夏が短い町。雪がけっして溶けきらない町。太陽が昇らない町。ドイツが掘った地下トンネルが、プラハとヴロツワフとドレスデンに通じている町。断片の町。シロンスクと、プロイセンと、チェコとオーストリア=ハンガリーと、ポーランドの町。終焉の町。時間が漂流する町。存在の境界で、みじんも動かずに、ただあり続ける町」と、様々なことばで紹介されている。
物語は全部で111の断章(もしくは挿話)からなり、語り手の暮らし、マルタとの交流、膨大な数のキノコとそれらのレシピ、クリシャ、アグニェシュカ、ボボルといった村の人びとに関するエピソード、聖女伝とそれを書いた修道士の物語、様々な天体現象、フォン・ゲーツェンのお屋敷、わたしのお屋敷、ドイツ人との共同生活、ドイツ人が立ち去った後の村の奇妙な活気、刃物師派とノヴァ・ルダの創設者のことなどなど、この土地の古い伝説と比較的新しい伝説、そして現在のできごとが、順不同で綴られている。中でも印象的なのはチェコとポーランドの国境で、両国をまたぐようにして息絶えたペーター・ディーターの挿話と、狼化妄想にとりつかれたエルゴ・スムの挿話である。一見ばらばらでありながら緩やかに関連しているこれらの挿話によって、この土地の性格と歴史が浮かび上がる。そしてこれらの物語性のある挿話の合間に、夢と現実・視線と視点など様々な事柄に関する考察が織り込まれて、考察する主体とともに読者はこの土地を俯瞰したり、遠くから見たり、意識の世界を浮遊したりしてから、またこの土地に(もしかしたら新たな夢の世界に)舞い戻ってくるのだ。フォン・ゲーツェンがトウヒの森に突っ込んでいったDKWの車を何年も後にRが発見したり、トウヒがSOLINGENのナイフを抱え込んだまま古木になっていったりする土地に。(2013.5.29読了)

☆キノコのレシピに「スメタナ」ということばが登場します。作曲家のような名前だけどいったいなに?と思っていたら、訳者あとがきに「サワークリーム」とありました。
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by nishinayuu | 2013-08-04 22:19 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)