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『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル著、高橋啓訳、みすず書房)


c0077412_1122589.jpg『La Petite Fille de Mousieur Linh』(Philippe Claudel, 2005)
主な登場人物はリンさんとバルクさんという二人の老人と、サン・ディウという小さな女の子。リンさんは東南アジアのどこかの国(たぶんベトナム)の人で、息子夫婦とその子のサン・ディウといっしょに長閑な農村で暮らしていた。村は美しく、大人たちはよく働き、子どもたちは元気に遊んでいた。しかしその国ではすでに何年も戦争が続いていた。ある日、畑に出ていた息子夫婦の帰りが遅いので、リンさんが畑に行ってみると、ふたりは爆撃で死んでいた。彼らの遺体から少し離れたところで、無傷のサン・ディウが眼をパッチリ開けていた。サン・ディウはこのとき生後10日だった。
リンさんはサン・ディウをしっかり腕に抱えて船に乗った。長い航海の末に船はようやく目的地に着いた。乗船したとき生後6週間だったサン・ディウは、生後12週間になっていた。新しい国(フランス)は、11月の空の下でどんよりと曇っていて、なんの匂いもしなかった。リンさんはサン・ディウを強く抱きしめ、その耳許で歌をうたったが、それは自分の声と国の音楽を聞くためでもあった。
リンさんは難民収容所に案内され、しばらく他の難民家族といっしょに暮らすことになる。ある日、街の空気を吸いに出かけ、歩き疲れてベンチに坐ると、同じベンチにいた同年配の男が話しかけてくる。背が高くふとっていて、チェーン・スモーカーの男が、バルクです、と言って手を差し出すので、リンさんは「タオ・ライ」と言って両手で男の手を握りしめる。このようにして知りあったふたりは、やがて、会うのが楽しみな、会わずにはいられない大切な友人になっていく。それは心と心の交流であって、互いに言葉はまったく通じないのだ。バルクさんは相手をタオ・ライさんだと思っているが、リンさんはなぜこの人は何度も「こんにちは」というのだろう、と思っている。バルクさんはサン・ディウという名前もサン・デュー(sans dieu 神無し)と覚えてしまう。ほんとうは「穏やかな朝」という意味なのに。
自分が何者なのかを知っている人がいない、言葉もまったく通じない異国で、大切な孫を守るためだけになんとか生きていこうと孤独な闘いを続けているリンさん。過去の苦い思い出にひとりで苦しんできた、やはり孤独なバルクさん。生後すぐに親を亡くし、船に揺られて遠い国まで旅をし、難民収容所でよその子どもたちにおもちゃにされたりしても、決して泣き声を上げない小さな女の子サン・ディウ。この人たちがこのあとどうなるのかも知りたくなる、静謐で心温まる物語である。(2013.4.19読了)
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by nishinayuu | 2013-06-29 11:02 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『닭을 잡는 칼』(문학사상 2009年4月号)

c0077412_18102714.jpg『割雞刀』(菊池三渓著)
これは1883年に発表された漢文小説を韓国語に翻訳したもので、舞台は朝鮮半島、テーマは「明成皇后毒殺」である。日本でも知る人ぞ知る(つまりほとんど知られていない)この作品は、ソウル大学の権寧珉(クォン・ヨンミン)教授が学術誌『文学思想』の2009年4月号で紹介したことにより、韓国ではかなり話題になったらしい。というのも、実際に明成皇后殺害事件の起こった1895年10月(陰暦)よりも12年前に、まるで後の事件を暗示するような作品が書かれていたことがわかったからである。
19世紀末、朝鮮半島では明成皇后と興宣大院君の対立が深まり、日本はそれを利用して朝鮮半島で力を得ようとしていた。この作品の書かれた当時の日本は興宣大院君とは対立関係にあり、明成皇后と友好的な関係にあったため、作者は興宣大院君を悪者にして明成皇后毒殺の首謀者に仕立て上げている。隣国の主要人物たちを勝手に殺したり殺害犯人にしたり、という非礼な内容にはあきれるしかないが、こういう小説を生んだ当時の日本という国の傲岸不遜さと不穏な動きを省みる手がかりとして、一読の価値はある。
内容は全くのフィクションであるが、登場する日本人・朝鮮人の名前や役職、朝鮮の地名などは実在のものが使われており、事件の顛末も詳細に記述されているので、史実と混乱しないよう、よくよく注意しなければならない。それでも、歴史上の人物の名、ソウル周辺の地名、宮闕の名称やその役割、韓国語の古めかしい表現などに数多く接することができるので、韓国語の学習者や韓国文化に興味のある人には役に立つ情報満載の読み物である。(2012.3.29読了)
☆画像は興宣大院君についての児童書から採りました。
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by nishinayuu | 2013-06-26 18:15 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『妻を帽子とまちがえた男』(オリヴァー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子共訳、早川書房)


c0077412_10471372.jpg『The Man Who Mistook His Wife for a Hat』(Oliver Sacks, 1985)
本書には脳神経に異常がある人たちに関する「奇妙」な話が24編収められている。ただし、これは単なる「医学的症例集」ではなく、病気に冒されたことによって常人には想像もできない国を旅した人々の「物語」なのである。著者はアメリカの神経学者で、本書が最初の作品。2作目の『レナードの朝』は映画化され、日本でも1991年に封切られている。
4部からなる本書の第1部は「喪失」と題され、様々な「欠損」、すなわち機能の損傷あるいは不能に苦しむ患者たちが登場する。本書のタイトルとなっている男は視覚喪失の例である。音楽教師だったこの男は喪失した視覚を他の感覚、特に音感によって補うことによって、病は進行したにもかかわらず生涯の最後まで音楽を教えることができたという。この他に、発話機能の喪失、記憶の喪失、運動機能の喪失、固有感覚の喪失などに苦しみながらも人間らしく生きる道を探る人々が登場する。
第2部は「過剰」と題され、第1部の「喪失」とは逆の、過剰や亢進の例が挙げられている。多動、異常興奮、チック、誇大妄想、などなど、「過剰」も「喪失」に劣らずやっかいな病である。「機知あふれるチック症のレイ」は治療の成功例であろう。レイは、週日は薬によって過剰を抑えておとなしく働き、週末は薬をやめて生来のレイらしく軽薄で、熱狂的で、インスピレーションに満ちた人物になるという。
第3部は「移行」と題され、側頭葉や大脳辺縁系へ加えられた異常な刺激の結果起きる追想、幻覚が扱われている。テンカンあるいは中毒症状によって故郷のインドへ戻った幻覚を見ながら逝った少女の話、化学物質のせいで起こった嗅覚過敏症、前頭葉性の脱抑制による「殺人の悪夢」などがとり挙げられている。
第4部は「純真」と題され、ある種の特殊能力を持つ知能障害者の例が挙げられている。そして、彼らの心の「質」について考察し、たとえ知能的な欠陥はあっても彼らの心は精神的に興味深く、完全とさえいえる、と述べている。物語的な存在としては完全であると認められたおかげで人間的に成長していく「詩人レベッカ」、教会の聖歌隊で歌うようになって自分を取り戻した音楽の「生き字引」マーチン、そして頭の中に広大な数の図像を持ち、その世界を自由に歩き回っていた「双子の兄弟」、正確で生き生きとした絵を描く「自閉症の芸術家」ホセなどが登場し、知的障害の人々にも「創造的な知性」があることを教えてくれる。彼らは適切な環境に置かれれば充実した人生を送ることができるが、双子の兄弟のように不適切な医療的措置を施されると生来の天才的能力をなくしてしまうこともあるという。この分野の研究と医療が進歩して、イディオ・サヴァン(知的障害のある天才)たちがより人間らしく生きられる日が来ることを願わずにはいられない。(2013.4.17読了)
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by nishinayuu | 2013-06-23 10:48 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『スノーグース』(ポール・ギャリコ著、矢川澄子訳、新潮社)


c0077412_17533114.jpg『The Snow Goose』(Paul Gallico,1941)
アメリカ生まれの作家ポール・ギャリコ(1897~1976)の初期の代表作「スノーグース」他2編を収めた短編集。翻訳の名手・矢川澄子の訳と、建石修志の繊細で叙情的な装画・挿画によって、文庫本ながら格調の高い一冊となっている。

「スノーグース」――エセックス海岸の沼地にあるうち捨てられた燈台に、1930年の春遅くひとりの孤独な男・ラヤダー(27歳)が住み着いた。彼は人間にも動物にも自然にもあふれる愛情を持っていたが、身体がねじくれているせいで人付き合いから身をひいてしまったのだった。3年目の秋、そんな彼のところに村の少女・フリスが訪ねてくる。胸には怪我をしたスノーグースを抱えていた。こうして始まった男と少女と白鳥の交流は、1940年のダンケルクの撤退作戦で終わりを告げる。英国軍の兵士たちは彼らを救った勇敢な小さなヨットと、ずっとヨットといっしょだったスノーグースのことを感慨を込めて語りあった。
「小さな奇跡」――1950年代のイタリアはアッシジ近郊の村に、ペピーノという10歳の少年がいた。戦争で両親も近親者も失った孤児だったが、だれの世話にもならずにやっていけるだけの財産を持っていた。その財産とは、ろばのヴィオレッタだった。善良で有用で、やさしい目をしていて、いつも微笑んでいるような表情をしたろばだった。ところが早春のある日、ヴィオレッタがふいに病気になった。ペピーノはヴィオレッタといっしょに荷運びやオリーブの収穫の手伝いや酔っぱらいを家に届ける仕事やらをして稼いで貯めていたお金で、獣医のバルトーリ先生に往診を頼んだ。が、獣医の先生もヴィオレッタを治すことはできず、ヴィオレッタは弱っていくばかりだった。ヴィオレッタを救ってくれるものは地上にはないと悟ったペピーノは、聖フランチェスコにすがろうと思い立つ。こうしてペピーノはヴィオレッタの手綱を引いてアッシジの聖フランチェスコ寺院を目指す。
「ルドミーラ」――舞台は19世紀のリヒテンシュタイン公国。ある渓谷にハイリゲ・ノートブルガ(お助け聖女さま)の聖ルドミーラを祀った小さなお堂がある。14世紀に乳搾りの少女・ルドミーラが、その経験と信仰と聖母マリアへの献身故に聖女に列せられ、アルプスに住む家畜や牧夫たちを守護していたのだった。ある夏の終わり、いつ賭場へ売られてもおかしくないちびで弱虫の雌牛が、この聖女さまの像をじっと見つめていた。するとその次の日、その雌牛に生まれて初めてバケツに何杯もの乳を出すという奇跡が起こった。そして雌牛は、夏の終わりの山下りの行列では先頭を歩くという栄光まで得たのだった。
この物語では雌牛も一人前に思いを語っているところが、あくまでも人間が主体の他の2編とは異なっている。

3編とも動物にまつわる奇跡の物語であるが、その「奇跡」については、「ルドミーラ」で合理主義者の代表として描かれている牧夫長のアロワと、信仰の人であるポルダ神父が興味深いやりとりをしている。(2013.4.14読了)
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by nishinayuu | 2013-06-20 17:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『奇蹟も語る者がいなければ』(ジョン・マグレガー著、真野泰訳、新潮クレストブックス)


c0077412_921430.jpg『If Nobody Speaks of Remarkable Things』(Jon Mcgregor, 2002)
この変わったタイトルは登場人物の一人が幼い娘に語る次のようなことばから取られている。

この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある(中略)奇蹟のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、そのすばらしいものをすばらしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう(中略)奇蹟も語る者がいなければ、どうしてそれを奇蹟と呼ぶことができるだろう。

巻頭に「7区」の地図が掲げられ、ふたつの大きな通りとその間にある路地が示されている。路地の片側には奇数番号の建物、もう片側には偶数番号の建物が、全部で29並んでいる。奇数番号の住人を見ていくと、13番に父親と三輪車の男の子が、19番に双子の少年たちとその妹、両親、祖父母が住んでいる。偶数番号の側では、12番に年中洗車している父親と、自分の車を買うためにお金を貯めている若者、16番に上記の幼い女の子と父親、18番にドライアイの若者が住んでいて、その隣の20番は1階によく手入れした口ひげの老人、2階に老夫婦が住んでいる。そのまた隣の22番には三人の若者、サイモン、セアラと「四角い小さな眼鏡の女の子」が住んでいる。以上のうち、12番、16番、19番の住人はパキスタン系で、20番の住人は東欧系である。訳者のあとがきによるとこの7区のモデルはイングランドの地方都市ブラッドフォードにある区で、工業都市であるこの市は非白人の比率が訳8%だという。そんな「7区」に住んでいた人々にスポットライトを当てて映像として焼き付けたような、心に残る作品である。
物語は映画のショットを繋げたような部分と、「四角い小さなメガネの女の子」が一人称で語る部分で構成されている。映画のショット的な部分では、ある一日のこの路地の住民たちの姿が細切れに綴られていく。語り手の視線(あるいはカメラのレンズ)はある人物からある人物へ、さらにまた別の人物へと次々に移動し、前の人物に戻ったと思うとまた次の人物に写っていく。その視線が一人一人の上にとどまる時間が余りに短く、その視線が捉える人物があまりに多い(路地のほぼ3分の2の家の住人が何らかの形で言及されている)ので、初めは誰が誰やら混乱するが、やがて何人か印象的な人物が浮かび上がってくる。そして、印象的な人物たちの一日も、そうでない人物たちの一日も、この日の午後起こるある出来事に向かって集約されていく。それは夏の終わり、8月31日のことだった。
その出来事があった1997年から数年後、「四角い小さな眼鏡の女の子」は、祖母の葬儀に出かけていったスコットランドで、レストラン勤めの感じのいい若者と一夜を過ごす。ある日、妊娠していることに気付いた彼女は、母親に理解してもらいたい、手助けしてもらいたいと思って母親に会いに行く。これまで母親らしい愛情を示してくれなかった母親のところへ行く旅に、一人の若者が同行する。それは18番の住人だった若者の双子の弟だった。あの日の出来事の主役の一人は19番の双子だったのだが、あの日に主役になり損なった18番の若者も双子だったのだ。そして今「四角い小さな眼鏡の女の子」はもう一組の双子を迎えようとしている。(2013.4.13読了)
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by nishinayuu | 2013-06-17 09:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『さびしい宝石』(パトリック・モディアノ著、白井成雄訳、作品社)


c0077412_11234193.jpg『La Petite Bijou』(Patrick Modiano, 2001)
原題の意味は「かわいい宝石」で、語り手が子どもの頃に母親につけられた芸名であり愛称である。母親はパリに出てきてダンスを習い、それで身を立てようとしていた矢先に怪我をして挫折、自分のかわりに娘を芸能界に売り出そうと思ってそんな名をつけたらしい。しかし、語り手の芸歴も母親の芸歴も、ちょっとした映画に親子の役で出ただけで終わる。
物語は、「〈かわいい宝石〉と呼ばれなくなってから、もう十二年ほどが過ぎてしまっていた」という文で始まる。このとき語り手は、ラッシュアワーの地下鉄シャトレ駅で、黄色いコートの女性を見かける。面影がママンにそっくりで、ママンにちがいない、と語り手は思った。昔はおしゃれなものだったと思われるそのコートは、黄色い色が褪せてほとんど灰色になっていた。鼻は先が軽く上を向いていて、眼が澄んでいて、額が目立つ。髪は短めで昔とそんなに変わっていない。苦々しげに口許をぎゅっと結んでいるその女を、語り手はママンだと確信し、女のあとを追って語り手の家とは逆方向の地下鉄に乗り込む。女はシャトー・ド・ヴァンセンヌ駅の一つ手前のベロー駅で下り、電話ボックスに入って誰かに電話をかける。多分、音信の途絶えていないたった一人の人に、あるいは命を長らえているたった一人の人に。それから女は薬局の隣のカフェに入ってキールを注文する。語り手は近くの席に座り、大きな声でキールを注文する。仲間うちのサインだとわかってくれることを期待して。しかし女は表情を変えない。キールのおかわりをして帰宅を遅らせているらしい女を見ながら、語り手はどうしても女の家を突き止めたいと思う。「人間的な情愛」からではなく、モロッコで死んだとされて12年後に、女がどんな所に流れ着いたのかが知りたかったのだ。
母親の人生を探るための手がかりは、母親が残した手帳と25歳頃のものと思われる写真、そして断片的な記憶だけだった。語り手は切れ切れの記憶を辿っていく――母親が年齢をごまかし、次々に偽名を使い、一時は住人が不在の邸宅に入り込んで伯爵夫人を名告っていたこと。ダンサー時代の友人の話ではラ・ボッシュ(ドイツ人)と呼ばれていたこと(これはナチ占領下でドイツ人と何らかの関わりがあったことを匂わせる)。ときどき母親の弟だという優しい叔父さんと過ごしたこと。ある日母親にオーステルリッツ駅に連れて行かれ、一人でフォソンブロンヌ=ラ=フォレに送られたこと。その家の自分の部屋で、いつも母親の肖像画を見ていたことなど。その肖像画を描いた画家トラ・スングロフの名は手帳にもあった。多分母親がパリで最初に知りあった人物だ。が、今はもうその絵がどこにあるのかもわからない。
母親の人生を探りながら、語り手は漂い流れるような自分の人生を改めて見つめることになる。親に捨てられたことから漂うように生きてきて、「さびしい宝石」になってしまった語り手には、けれども温かいまなざしを注ぎ、力強い手をさしのべてくれる人がいる。クリシー大通りのマテ書店で出会ったモロー・バドマエフや、リヨン駅近くのルドリュ=ロラン大通りにある救急薬局の薬剤師などだ。だからこの語り手は『失われたときのカフェで』の少女のような運命を辿ることはないと思われ、ほっとさせられる。けれども語り手の住むパリは、あちこちに侘びしさと不安がひそんでいる街なのだ。ブーローニュの森の近く、立派なお屋敷に「仮住まい」していた一家がとつぜん姿を消す。第2の「さびしい宝石」になりそうなその家の少女に、語り手が手をさしのべようとしていた矢先に。(2013.4.8読了)
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by nishinayuu | 2013-06-14 11:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

韓国の詩 「回想」 鄭炳五


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韓国の詩人・鄭炳五の詩を日本語にしました。原詩は定型詩ではありませんが、訳詞は7音で統一してみました。なお、鄭炳五についての簡単な情報は右欄の「韓国の著名人」をクリックし、のページを開いてご覧下さい。


회상

하늘가엔 구름이
깃털 처럼 날리고
은빛 바다엔
작은 배가 떠 있다

파도에 밀려와
말라버린 해초는
미역인지
다시마인지

바다를 바라보며
옷을 벗는다
보낸 여름보다
더 아픈 가슴으로

몰살 간지럼 온몸으로
짭잘한 냄새 맡으며
어지러이
눈을 감는다

바다가 하도 그리워
찾은 포구
그 곳엔 등대도 있었다


回想

空には白い
羽根雲流れ
しろがね色に 輝く海に
ぽつんとひとつ 小舟が浮かぶ

波に流され 打ち上げられて
干からびている この海藻は
若布だろうか
昆布だろうか

海を見ながら
裸になれば
胸の痛みは
いよいよ深く

うずく身体で 潮の香かげば
思い乱れて
つい目を閉じる

むしょうに海が恋しくなって
やって来た海
その浦辺には 燈台なども あったのだった
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by nishinayuu | 2013-06-10 17:02 | 翻訳 | Trackback | Comments(1)

『ビターシュガー』(大島真寿実著、小学館、2010)


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虹色天気雨』(2006)の続編で、2010年の発行。登場人物たちもちょうどそれくらいの歳を重ねたようで、美月(みづき)は中学生になっている。語り手は市子さん。
できることなら、周囲の誰にも嘘はつきたくないし、なるたけ正直に、あけすけに生きていきたいと思ってはいても、残念ながら、日々の暮らしには至る所に様々な罠が仕掛けられていて、いくつになってもろくに成長せず、ぼーっとしたまま易きに流されていると、罠にはまってのっぴきならないところにまで追い込まれ、その挙げ句、つきたくもない嘘までついてしまうことになる、と四十路に突入してからというもの、妙に強く実感していた。
話は市子さんがまさにそういうのっぴきならないところまで追いこまれたところから始まる。ある日市子さんの家に美月がいきなり現れて、リビングでくつろいでいる旭(あきら)に出くわしてしまったのだ。市子さんが、美月の母親である奈津に内緒で、別居中の父・憲吾さんと美月が市子さんのパソコンでメール交換することを許していたのがそもそもの間違い。さらに市子さんが、不始末をしでかしたゲイの三宅ちゃんに拝み倒されて、まりの元恋人である旭を居候として置いてやったのがもう一つの間違いだった。かくして市子さんは、高校からの仲良し3人組の一人である奈津の娘から、3人組のもう一人であるまりの元恋人と同棲している、と誤解され、あきれられ、冷たい目で見られ……と、なんともなさけないことになってしまう。市子さんが懸命に事情を説明した結果、美月にはいちおう言い分を認めてもらえたようだが、それでもなお市子さんは軽率だ、まりちゃんの気持ちをなんで考えてあげないのか、と責められる。しかし当のまりは、初めて結婚したい相手を見つけたとかで、「市子もやっとその気になったか」と勘違いしたまま祝福してくれる。奈津も状況を知るとやはり「市子もやっと」と納得してしまう。旭の居候生活は思いの外長引き、美月や奈津、まりも不意に現れてはおしゃべりしたり食事したりしていき、どさくさに紛れて三宅ちゃんまでそこにまぎれ込むようになる。締めきりのある仕事をしていて時間に追われているはずの市子さん。自分で言うほどぼーっとしているわけでもない市子さん。それでもどこかホンワカしている市子さんのところには、しょっちゅう誰かがやってきてはごろごろしていくのだ。

語り口もホンワカと柔らかく、とても気持ちのよい雰囲気のお話である。作者もきっと市子さんと同じように暖かくて優しい人なのだろう。一つだけ気になったのは、市子さんと美月、奈津の三人で奈津がデパ地下で買ってきた惣菜で食事をする場面。どうせ自分たちだけだし、片付けが面倒だから、と奈津が言うので、プラスチック容器の蓋を開けて並べただけの、いいかげんな食卓で食べた、とあるが、いくら奈津が言いだしたにしても、おっとりゆったりした市子さんらしくない振る舞いで、残念でしかたがない。(2013.4.3読了)
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by nishinayuu | 2013-06-08 11:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ソーラー』(イアン・マキューアン著、村松潔訳、新潮クレストブックス)

c0077412_932566.jpg『Solar』(Ian McEwan)
彼はなんとなく感じの悪い、チビ、デブ、ハゲで、頭はいいという男の種族、どういうわけかある種の美女にもてたりする、あの種族に属していた。
と冒頭で紹介されるマイケル・ビアードが本書の主人公である。ビアードの頭のよさに関しては、彼が40歳そこそこでビアード=アインシュタイン融合理論によってノーベル賞を受賞していることで立証されているが、さらにオクスフォード時代、ミルトンに関する論文を書いているという女子学生の気を引こうとして短期間にミルトンの主要作品を片っ端から読んで暗記し、彼女との会話の中で詩句を引用したりして彼女に警戒心を起こさせた、というエピソードも挿入されている。ただしノーベル賞受賞後のビアードは、研究所に名誉職として籍を置いたり、あちこちから招かれて講演や簡単なスピーチをしたりして適当に稼ぐのに余念がなく、地道な研究とは縁のない生活を送っている。というのもビアードにとっては食欲と性欲を満たすことが一番の関心事だからだ。
2000年(53歳)の時点でビアードは、5番目の妻との破局を迎えようとしていた。ビアードに当てつけるように愛人を作った妻が急にとてつもない美人に見えだし、別れるのが惜しくてぐずぐずしているが、その最中にも浮気の虫はおさまらない。「地球の温暖化を自分の目で確かめる」という名目の旅行に招待されたので気晴らしにでかけた北極でさんざんな目に合い(この男、とんでもなくドジなのだ)、やっと家に帰ってきたらそこには妻の新しい愛人(なんと研究所の部下)が部屋着でくつろいでいた。その部下が敷物に脚をひっかけて事故死すると、間違いなく自分が疑われる、と考えついて妻のもう一人の愛人(リフォームをしに来た肉体派の男)が置いていった道具箱を利用してその男が殺したように工作する。そして男が殺人罪で服役するや、自分の所業はきれいさっぱり忘れて食欲と性欲の世界に舞い戻る、という驚くべき神経の持ち主なのだ。結局5番目の妻とは別れ、おっとりした雰囲気の愛人に気を許しているうちに、父親になったと告知される。拒絶したくても後の祭りである。
2009年、ビアードはニューメキシコ州のローズバーグに来ている。ビアードが開発した人工光合成によるソーラー発電機を披露するイヴェントが大々的に行われるからだ。ビアードは、5番目の妻の愛人だった部下が暖めていた人工光合成によるソーラー発電のアイディアを、どさくさに紛れて自分の業績にしてしまったのだ。しかしビアードは今、危機的状況にある。長年不摂生をしてきた身体はすぐにも対処しないと危ない状態だと医者から警告されており、殺人の罪を着せた男がビアードに会いにわざわざアメリカまでやってきたという情報があり、もといた研究所からはソーラー発電のアイディア盗用で訴えられようとしているのだ。さらに今、彼の目の前にアメリカの愛人と国に残してきた愛人がもみ合いながら現れ、娘のカトリオナが彼の名を叫びながら突進してくる。
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by nishinayuu | 2013-06-05 09:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『夢みるピーターの七つの冒険』(イアン・マキューアン著、真野泰訳、中央公論新社)

c0077412_10444924.jpg『The Daydreamer』(Ian McEwan)
この作者の作品は、ぐいぐい惹きつけられる反面、不安をかきたてられるものが多いような気がする。『時間の中の子ども』しかり、『贖罪』しかり。不安を感じずに読めたのは『アムステルダム』くらいである。そんな作者が児童物を?という驚きから手にしたのが本書で、よんでみたら児童物というよりは大人のための読み物だった。不安をかきたてられることもない、実に楽しい作品である。
巻頭にオウィディウス『変身物語』の「わたしの目的は別種のものに姿を変じた身体について語ることである」ということばが掲げられている。かくして10歳の男の子である主人公のペーターは、様々なものに変身する。第1章では、7歳の妹が持っているたくさんの人形の中で、よりによっていちばん見にくい人形と身体が入れ替わって人形の不自由さを味わわされ、第2章では17歳の老猫ウィリアムに変身してウィリアムの縄張りを乗っ取った若いボスネコをやっつけ、第6章では気に入らない赤ちゃんと入れ替わってしまい、赤ちゃんから見た自分の姿にはっとし、第7章ではふいに大人に変身して、子どもから見たらつまらなそうな大人の世界にも別の味わいがあることを理解する。ピーターにこうした変身が可能なのは、ピーターがいつでもどこでも夢の世界に入ってしまう子どもだからだ。夢の世界に入ったピーターには、ふだんは見えないものが見えてくる。だから第3章では面倒な家族でもやはりいたほうが安心なことを、第4章ではいじめっ子は周囲が作り出すものであることを、また第5章では人には思いがけない裏の顔があったりすることを発見するのだ。

本書(翻訳書)は漢字にルビが振ってあること、装幀の雰囲気、訳者のあとがきなどから見て、児童書として作られているようだ。しかし「著者のことば」には次のようなくだりがある。
(本書は)イギリスとアメリカでイラスト入りの子ども向け版として刊行され、そしてもっと落ち着いた大人向けの装幀ではその他の多くの国で出版されました。(中略)本書は結局は児童図書館の片隅で静かな一生を送ったり、あるいは忘れ去られたまま死んでしまうことになるのかもしれません。しかし、今のところ私は、本書がいろいろな方面にいくらかの悦びをもたらすかもしれないという希望を捨てていないのです。(1995)
因みにnishinaの行きつけの図書館はこの本を大人向けの書棚に置いている。この図書館の見識に拍手!(2013.3.22読了)
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by nishinayuu | 2013-06-02 10:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)