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『日々の非常口』(アーサー・ビナード著、新潮社)


c0077412_14284591.jpgミシガン生まれの詩人によるエッセイ集。全部で98のエッセイが納められている。その最初のエッセイが「ゲッキョク株式会社」。駐車場の看板にある「月極」を「ゲッキョク」と読んだという話である。実はnishinaも40代の終わりころまで(!)月極というのは駐車場の所有者の名前かなにかだと思っていた。しかも頭の中にはゲツキョクという音があった。小さいツではなく大きいツである。来日6年目にして正しい意味と正しい読みに到達した著者のものしたエッセイ集であれば、興味深い体験談に溢れていないはずはない。

さて、エッセイのテーマは多岐にわたるが、詩人のエッセイだけに特に目を引くのがことばに関するものである。salad days(若かりしころ、若気の至り)、マクドナルドのMc(簡便で型にはまった、安直で粗悪)など、英語のお勉強になる話もあれば、suitcaseが成田に着くとボリュームアップする(2音節の英語が日本語では6音になる)という愉快な英語・日本語比較もある。また、「BSE大発生」「中東の民主化」などはことばの無機質化、婉曲化による事実のごまかしであるとか、英語はアラブ人を指す蔑称には事欠かないという指摘など、鋭い批判もある。一方、日本人と見まがうような繊細な日本語理解にはっとさせられる次のような部分もある。
(英語には冬の終わりに消え残っている雪を表すぴったりしたことばがない。説明臭いRemaining snow,残り物のイメージが強いleftover snow,風流だけれどヤワ過ぎる lingering snowなどに比べて、)日本語の「残雪」はドンピシャリ。その端正な二字には無駄がない。響きも引き締まって、かといってきれいすぎず、濁音のラフなざらつきも残る。そこにぼくは、一種の悲壮美さえ感じる。

エッセイのテーマでもう一つ目を引くのは母国への苦言、批判、糾弾である。原爆投下に疑問を呈し、ベトナム戦争やイラク戦争で米兵の犠牲者数とは比べものにならない膨大な犠牲者を出していることをアメリカ市民が知らずにいることを「優雅な無知」と指摘し、ベトナムで枯れ葉剤を使い、イラクで劣化ウランという放射性廃棄物で作られた砲弾を撃ちまくった米軍を告発し、遺伝子組み換え作物の日本への上陸阻止を訴える。身につけたことばを駆使して優雅な世界に遊びつつ、社会への発信も積極的に行っている著者の活動の一端を窺い知ることができるエッセイ集である。(2013.3.18読了)
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by nishinayuu | 2013-05-30 14:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

蕪村春秋-その2「五月雨」

c0077412_1404198.jpg数年前に新聞に掲載されていたコラムを韓国語に訳してみました。原文は韓国語の下にある「五月雨」をクリックしてお読み下さい。

장맛비

장마의 계절
물살이 센 강앞에
작은 집 두채


이 하이쿠(俳句)를 보면 곧 생각나는 명작이 하나 있다. [오쿠의 오솔길(奧之細道)]에 실린 하이구로, 바쇼(芭蕉)가 모가미-천(最上川) 강가에서 지은 것이다.

장마의 비를
모아서 세차구나
모가미 강류


부손(蕪村)이 이 바쇼의 작품을 몰랐을 리가 없기 때문에, [집 두 채] 라는 하이쿠는 바쇼를 충분히 의식하면서 지은 작품임에 틀림없을 것이다. 하이쿠는 불과 17음으로, 보통 그 17음 중에 계절을 나타내는 말인 계어(季語)가 포함된다. 즉 자유롭게 다룰 수 있는 것은 고작 10음 정도다. 작품의 모습이 다소간 닮은 점은 피할 수 없는 일이라고 할 수도 있다.
그런데, 이 두 개의 하이구의 경우, 닮은 것은 모습뿐, 그 내면에 있는 것이 완전히 다르다. 그 차이야 말로 내가 여러번 이야기해온 영상성이다.
바쇼의 하이쿠를 영상화 하려면, 한 컷 있으면 충분하다. 더 많은 컷을 거듭하도라도, 설명적이 될 뿐, 별로 의미가 없다. 다만, 영상을 단지 스토리를 설명하는 수단으로 사용하는 멍텅구리 TV디렉터들이라면, 지금이 기회라는 듯이, 물살의 기세를 설명하기 의해 카메라를 좌우로 움직일 텐데……
바쇼의 하이쿠가 훌륭한 응축이라면, 부손의 하이쿠에는 무한한 퍼짐이 있다. 도저히 한 컷으로는 전체를 찍을 수 없다. 두 채의 집에 사는 불안한 사람들을 촬영하기 시작하면, 연달아 컷이 늘어난다. 온 식구들의 표정을 묘사하는 것만으로도 상당히 재미있는 영상이 된다.
그것은 부손의 하이쿠에 드라마가 있기 때문이다.

장맛비 와서
논마다의 어둠이
가득 차 있네


보통 [논마다의 달]이라고 한다. 논을 물들이는 달빛은 논 한 구획씩 그 멋이 다르다. 장맛비때문에 달은 보이지 않지만, 짙은 쥐색의 물빛은 논마다 다르다. 아무 일도 아닌 듯이 지은 하이구인 것 같지만, 부손의 하이구에는 이 만큼의 영상성이 있다.
(지은이:타카하시 오사무)

「五月雨」
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by nishinayuu | 2013-05-27 14:01 | 翻訳 | Trackback | Comments(2)

『秘密の庭』(チェスタートン著、直木三十五訳、平凡社)


c0077412_14294043.jpg『The Secret Garden』(Chesterton)
物語の舞台はパリの警視総監の家で開かれた晩餐会。「家の中からの出口はたくさんあるが、庭から世の中への出口がない」という、いってみれば密室状態の庭で起きた殺人事件を、捜査のベテランである警視総監ではなく、さえない小男のブラウンが見事に解決する。人物や場所の描写が丁寧で楽しめるし、ストーリー展開も納得できる、安心して読めるミステリーである。登場人物は以下の通り。
ヴァランタン:パリの警視総監。犯人の追跡には無慈悲だが、刑罰には寛大な人物。
イワン:ヴァランタン邸の老執事。
ガロエイ卿:英国大使。かんしゃく持ちの老人。
ガロエイ夫人:鶴のような姿の上品な女性。
マーガレット・ブレーアム:ガロエイ家の娘。いたずらっ子風の少女。
モン・サン・ミッシェル公爵夫人と二人の娘
シモン博士:尊大な医学博士。額に太い皺がある。
ブラウン師父:英国エセックス州コブホールの僧侶。
オブリアン:フランス遣外駐屯軍司令官。アイルランド生まれでガロエイ家とは古い知り合い。借金を踏み倒してフランスに逃亡し、イギリス風礼儀はすっかり忘れている。
ジュリアス・ケイ・ブレイン:晩餐会の主賓。ヴァランタンが大探偵旅行を企てたときに知己になった男で、数百万ドルの財産家。本文の人物紹介に「彼は何によらず進歩的と考えられる物が好きであった。彼はヴァランタンを進歩的な男だと思った――それが恐るべき間違いの原因となった」とある。

さて、事件というのは――オブリアンが娘のマーガレットに近づくのを怖れたガロエイ卿が書斎のある裏手の方に行くと、マーガレットが真っ青な、侮辱を受けたような顔をしてばたばたと駈けだしてくるのに出遭う。オブリアンはどこに?と家の奥の方に入っていくと、庭に通じる勝手口があった。青い服の丈の高い姿(オブリアン)が庭を横切って書斎の方に歩いて行き、建物の中に消えるのを見てあとを追ったガロエイ卿は、草の中で木か石のようなものに足を引っかける。首と胴体が切り離された男の死骸だった。晩餐会の客たちのだれも見覚えのない男だったが、晩餐会に出席するはずの客だったことは服装が夜会服であることでわかった。ヴァランタンの指示で一同が書斎に集まってみると、ブレインの姿が消えていた。さて犯人はオブリアンなのか、ブレインなのか、それとも……?(2013.3.15読了)
☆この本は青空文庫で読みました。青空文庫の底本は「ブラウン奇譚」(平凡社、1930)です。
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by nishinayuu | 2013-05-24 14:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『失われた時のカフェで』(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳、作品社)


c0077412_9442223.jpg『Dans le cafe de la jeunesse perdue』(Patrick Modiano)
『廃墟に咲く花』(2007年10月読了)と同じく、パリを舞台にした物語。『廃墟に咲く花』では読んでいるうちに時と場所の迷路に入り込んだような気分になったが、この作品では今目にしている街の背後にある、今はもう失われてしまった街と人々の姿を薄い膜を通して見ている気分にさせられる。見えてはいるけれど触れることも取り戻すこともかなわぬものへの憧憬がしみじみと伝わってくる作品である。
物語は一人の若い女性について複数の語り手が語っていく形で展開する。最初の語り手である「僕」は「失われた若者たち」のたまり場だったカフェ・コンデに現れた謎の女性ルキが、一時はカフェの常連のようになったが、また突然姿を消したことを語る。「僕」については、国立高等鉱業学校(エリート校の一つ)の学生であり続けることに疑問を持っていたことくらいしかわからないのだが、街で行き会った彼女と連れの男性にそのことを相談する場面が本書のあとのほうに出てくる。
次に登場する語り手はケスレィ。ルキことジャクリーヌ・ドゥランクの行方を突き止めるよう、その夫から依頼された私立探偵である。ケスレィはカフェ・コンデの常連であるキャプテンことボーイングが書き留めているメモによって、ジャクリーヌがバックスキンのジャケットのブルネットの男とカフェに現れた日をチェックし、彼女がセルス通りのホテル・サヴォアに1ヶ月前から投宿していること、ロランという男性とカフェ・コンデで待ち合わせしていることなどを突き止める。しかしケスレィはそのことを夫には知らせないことにする。ジャクリーヌは15歳のころからなにかから逃げ続けてきたこと、そして今は夫から逃げて身を隠していることがわかったからだ。
3番目に登場する語り手はジャクリーヌ・ドゥランク。謎の女性自身が生い立ちから現在までのことを細かく語っていく。印象的なのはクリシー大通りの朝方まで開いていた本屋/文房具屋のくだり。

そう、この本屋はただ単に一つの避難場所だっただけでなく、私の人生のなかのひとつのステップでもあった。閉店の時間までよく私はそこに残っていた。(中略)読み物を続けたままで、彼(店主)は私にこうささやいた。「どう?君の幸せが見つかった?」……(中略)今でもまだ、眠れないこんな夜、私にはときどきあの声が聞こえる。あのパリのアクセント――あの坂道の通りたちのアクセントで。「どう?君の幸せが見つかった?」

そして最後にジャクリーヌの恋人だったロランが、謎を残したままいなくなった彼女との最後の日々を語る。「だれかを本当に愛した時は、その人の謎も受け入れなくてはならない」ということばをかみしめながら。
(2013.3.14読了)
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by nishinayuu | 2013-05-21 09:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『花火』(パトリック・ドゥヴィル著、野崎歓訳、白水社)


c0077412_1733784.jpg『Le Feu d’Artifice』(Patrick Devill)
本作品はフランスの出版社ミニュイが1992年に刊行したもので、当時の作者の年齢は35歳である。
登場するのは作者と同年代とおぼしき若者たち。語り手の「ぼく」と友人のルイ、ガールフレンドのアネット・ヴェルヌ、女友達のジュリエット、ジュリエットの男友達である「スズメバチ」、また別の女友達のロジー、リュシールなどなど。ただし、以上のうち何人かは同一人物である。というのは、ジュリエットが変装の名人で、老若男女の誰にでも変身してしまうという特技の持ち主だからだ。このジュリエットは作中で次のように紹介されている。
破壊や荒廃と引き換えにでも快楽を求め、ばらばらに砕けて言葉も失った恋人たちを後に残して突き進み、化粧品はランカスターを愛用、ついには自分自身も大惨事のうちに姿を消してしまう。ジュリエットはそんな女の子たちの一人だった。
主な舞台はロワール川の河口にある街ナント。「ぼく」がここにやって来たのは、この街の地理研究所で恋人のアネットが所長として働いているからだった。そして「ぼく」は大学でいっしょに哲学を学び、今は地理学者になっているルイを呼び寄せて研究所で働けるようにした。彼を助けるためでもあり、何もかもうまく行かない自分のためでもあった。ルイは街に来てすぐにジュリエットと知りあい、夢中になった。「ぼく」はジュリエットのことを少し前から知っていて、彼女が万引きをしたりハッシッシュを仕入れたりすること、変装癖があって、ある界隈ではテレビゲームの王者として知られていることなどを突き止めていたが、ルイには言わなかった。
ところで「ぼく」は、税金の違いにつけ込んで、中古の最高級車をブリュッセルからパリに運んで売ることで生計を立てている。キャデラック1台で1,2ヶ月の生活費が稼げるのだ。その他に「ぼく」はラジオ局にちょっとした小話を売っている。さらに、ルイのことを本にしようと思っていて、ルイに毎日の出来事を日記に書いて報告するようにさせる。「ぼく」はアネットとは分かれ、ルイやジュリエットと行動を共にする。時にはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンへ、時には南フランス、イタリア、モロッコへ、と彼らは「エンジン全開で」駆けめぐる。

なお、この作品の終わり方について訳者は次のように述べている。
旅がいったん終わっても、到達点こそが実は出発点なのであり、物語は最後に冒頭へと逆流していく。しかもそこには実に微妙な、メビウスの話に譬えるしかないような捩れが生じている。その思いがけない捩れの眩惑を楽しんでいただけたならば、訳者としては本望である。
(2013.3.11読了)
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by nishinayuu | 2013-05-18 17:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『火のくつと風のサンダル』(ウルズラ・ウェルフェル著、関楠生訳、学研)


c0077412_15234916.jpg『Feuerschuh und Windsandale』(Ursla Wölfel)
「新しい世界の童話シリーズ」の一冊。といっても50年前ごろから始まったシリーズなので、今となっては別に新しくはないのだが、ファージョンの「町かどのジム」、プロイスラーの「小さい魔女」、ブリョイセンの「小さなスプーンおばさん」などの創作童話を大塚勇三、渡辺茂男ら定評のある訳者が翻訳している信頼できるシリーズである。1922年生まれの作者によるこの作品は、1962年にドイツ児童図書大賞を受賞している。
もうすぐ7つになるチムは組じゅうで一ばんのでぶで、学校中で一ばんのちび、おまけに貧乏な靴屋の息子だ。チムの家は地下にあって、靴直しを頼みに来るお客さんは階段を下りてやって来る。お父さんは面白い話をするのが上手で、チムやお母さんに旅回りの靴直しをしていた頃のお話をよくしてくれる。おかあさんはそんなお父さんといるのが嬉しくて、貧乏などはちっとも気にせずに、一日じゅう笑ったり歌を歌ったりしている。チムも、そんなお父さんとお母さんが大好きだ。それでもチムは自分がもっと違う人間だったらいいな、と思ったりする。
そんなチムのために、両親は特別の誕生日プレゼントを用意する。誕生日の朝、テーブルの上には子供用の赤い靴と大人用のサンダル、大小二つのリュックサックが置いてあった。赤い靴とサンダルはお父さんが作ったもので、リュックサックはお母さんが作ったものだ。お誕生日のプレゼントは、それらを身につけ、新しい名前で旅をすることだった。こうして夏休みに、赤い靴を履いて「火のくつ」と名告るチムと、サンダルを履いて「風のサンダル」と名告るお父さんは、ふたりで4週間の旅に出る。

いわゆる知識人ではないけれども広い教養をもっていて、それをおもしろおかしく伝えるという技も持っているすてきなお父さん、ゼラニウムの花のように明るいお母さんと、ふたりのもとで伸びやかに育つ少年を描いた爽やかな児童文学作品である。たくさん挿入されている挿絵(久米宏一画)も作品の雰囲気にぴったりですばらしい。(2013.3.7読了)
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by nishinayuu | 2013-05-15 15:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

韓国の詩 「お前に俺がわかるのか」 鄭炳五


c0077412_17201028.jpg韓国の詩人・鄭炳五の詩を日本語にしてみました。原詩は定型詩ではありませんが、訳詞は7・5調にしてあります。なお、鄭炳五についての簡単な情報は右欄の「韓国の著名人」をクリックし、のページを開いてご覧下さい。


네가 나를 아느냐     정병오

요일을 말하자면 태양의 날
얻어 입은 옷의 단을 줄이기 위해
세탁소로 간다

노랗게 물든 노을 바라보다가
동네 아이들의 뛰어가는 모습이거나
도란도란 이야기하며 걷는 모녀의 모습에서
삶의 이치가 저절로 알아지는
그 고마움을 생각하며 걷는데
행색이 수상하다며 강아지가 짖는다

그냥저냥 무시하고 가는데
멈칫멈칫 따라오며 자꾸만 시비를 건다

문득 가던 길을 멈추고
냅따 발을 구르니
깨갱거리며 줄행랑이다
"너는 무엇을 보았느냐"


お前に俺がわかるのか

曜日をいえば日曜日
もらった服の裾詰めに
洗濯店に向かう道

空は黄金に夕焼けて
近所の子らは駆けまわり
母と娘は二人連れ
彼らを見ればひとりでに
なぜ生きるのか理解でき
心も脚も弾むのに
怪しいやつと見とがめて子犬のやつが吠え立てる

知らぬふりしてやったのに
へっぴり腰で追ってきて しつこく吠えて責め立てる
足をぴたりと止めてから
ぱっと後ろを振り向くと
きゃんきゃん鳴いて逃げていく
「子犬よ、お前、いったいなにを見たんだね?」
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by nishinayuu | 2013-05-12 17:24 | 翻訳 | Trackback | Comments(1)

『City』(アレッサンドロ・バリッコ著、草皆伸子訳、白水社)


c0077412_9412932.jpg『City』(Alessandro Baricco)
冒頭の場面はある出版社の一室。8人の女性が読者に電話アンケートをしていて、そのうちのひとりが十数分もアンケートとは関係のないおしゃべりをしている。彼女の名はシャツィ・シェル、おしゃべりの相手はグールドという少年。明日13歳になる、というグールドは、アンケートの内容に怒った友人がそちらに行って手当たり次第にものを壊したり、もしかしたら電話のコードであなたの首を絞めるかもしれない、と言う。友人のひとりは2メートル47センチもある巨人で、もうひとりは頭がつるつるで口がきけない子だという。グールドがしゃべり、シャツィもしゃべっているうちに10数分経ってしまう。これがシャツィとグールドの出会いで、そのあと電話アンケートの仕事をやめさせられたシャツィは、グールドの誘いで彼の家政婦になる。
グールドは6歳のときに、5人の大学教授からなる委員会のテストによって天才と認定され、小学校に通い始めて6日目にある大学の研究グループに放り込まれ、11歳で大学を卒業した。つまり子ども時代を持たない少年だった。母親はある日家からいなくなり、軍関係の仕事をしている父親も家を離れていて、週に一度、家政婦に様子を聞くために電話をしてくるだけ。ただし、本当はこのときまで家政婦はいなかった。口のきけない家政婦がいることにして、口のきけない友だちのプーメランを電話口に出していたのだ。しゃべれる人が黙っているのとは違う沈黙なので、父親は電話口に家政婦がいると信じていた。その家政婦はやめたことにして、シャツィを新しい家政婦したのだ。父親はシャツィが気に入ったようだ。
こうしてシャツィとグールドはいっしょに暮らし始める。グールドの友人、巨人のディーゼルと口の聞けないプーメランも大抵いっしょだ。車にも乗れず、列車の座席にも座れないので遠くに出かけたことのないディーゼルのために、シャツィとグールドはトレーラーまで買ったが、その黄色いトレーラーはずっと庭においてあった。車を買うお金がなかったせいもあるが、もっと大きな理由がある(それはずっと先まで読み進まないとわからない仕掛けになっているのです)。グールドが15歳になったとき、ある有名大学から研究に参加して欲しいという依頼が来る。父親は、これはテニスにたとえればウインブルドンに呼ばれるようなものだ、と言って喜ぶ。しかしシャツィはグールドに少年らしい生活をしてもらいたいと思っている。そしてある日、グールドは誰にもなにも言わずに姿を消す。シャツィはグールドの門出を秘かに悦び、自分もまた新しい道を歩き出す。

シャツィとグールドの物語とはなんの脈絡もなく、クロージングタウンを中心に繰り広げられるウエスタンの物語と、ラリー・ゴーマンというボクサーの物語が語られる。シャツィとグールドの物語は多くが会話で占められているので紙面に空白が多いのに対して、ウエスタンとボクサーの物語は切れ目のない文で紙面が埋め尽くされ、それが数ページも続いたりする。読み進むうちにわかってくるのだが、ウエスタンはシャツィがメモを取りながら書き続けている物語で、ボクサーのほうはグールドがトイレの中などで声に出して綴っている物語なのだ。1冊に3冊分の物語がぎっしり詰まった、とにかく読み応えのある本である。(2013.3.6読了)
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by nishinayuu | 2013-05-09 09:41 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ナタリー』(ダヴィド・フェンキノス著、中島さおり訳、早川書房)

c0077412_15404527.jpg『La délicatesse』(David Foenkinos)
原題は「繊細さ」という意味のフランス語。本文中にラルースによるこの語の定義と、その形容詞形の定義が載っている。形容詞形の定義は――1.非常に繊細な;快い、洗練された、優美な 2.脆弱な、虚弱な 3.困難な;危険な 4.思いやりのある、如才ない。
ナタリーは美しくて聡明な女性。学生の時に理想の男性フランソワに出会って結婚した。学業と家事を両立させ、卒業してスウェーデン系の会社に就職してからも仕事と家事をテキパキとこなし、フランソワとの生活を楽しんだ。フランソワに出会ってから7年間、そんなふうに幸せいっぱいだったナタリーの時間が突然断ちきられる。ジョギングしていたフランソワが車にはねられて死んでしまったのだ。
ナタリーは何も考えないため、空白の中にいるために仕事に没頭する。自分の若さにも美貌にも無関心で、社長のシャルルが血迷って攻勢をかけてきてもぴしゃりと拒絶する。そんなことが数ヶ月続いたあとで、ある日ナタリーの執務室に部下のスウェーデン人、マルキュスが書類のことで相談にやってくる。この、ぎこちなくて容貌もぱっとしないスウェーデン人、「東側の国」の人間のようなところがあって、なにかルーマニアやポーランドのようなものを感じさせる、「暗いのが天性であるスウェーデンでは盛り上げ役になる」というマルキュスのせいで、ナタリーの人生は大きく変わることになる。マルキュスはぎこちなくて容貌もぱっとせず、憧れの女性にふられて泣いたこともある一見頼りない男だったが、なによりも「繊細で、思いやりのある」男でもあったのだ。

最初に言及したラルースの定義をはじめとして、この作品には本文中や注の形で様々な情報やコメントがちりばめられている。たとえばマルキュスがナタリーの誘いに怖じ気づく場面にはカミュやサルトルの台詞、二人が向かい合ったままかたまっている場面にはマグリットの絵が出てきたりするが、さらりと扱われているので決してペダンティックではない。特に愉快なのはナタリー、アリスなどの人名や、スウェーデン、スイス、アメリカ、リヒテンシュタイン、ロシア、スペイン、スウェーデン、ウプサラといった国名や地名が喚起するイメージに関するコメント。これらの情報やコメントがこの作品の大きな魅力となっていることは間違いない。残念なのは、読者として若い女性だけを‘想定’したような‘装幀’になっていることだ。
なお、この作品はオドレイ・トトゥの主演で映画化され、2011年12月に公開されている。ただし日本では未公開で、公開の予定もないらしい。(2013.2.27読了)
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by nishinayuu | 2013-05-06 15:41 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『冬の龍』(藤江じゅん著、福音館)


c0077412_19535923.jpg読書会「かんあおい」2013年4月の課題図書。
物語は全部で28の章からなり、それらの章が4つのグループにまとめられて、各グループに「一」「陽」「来」「復」というタイトルが付けられている。すなわち、いろいろ悪いことが続いたあとでめでたしめでたしとなる物語であり、季節は冬至から新年に掛けてである。
第1章は「穴八幡の冬至祭」。ここで主人公の寺島シゲル(6年生)、寺島誠(シゲルの父)、松村すず(下宿屋「九月館」の管理人)、山口先生(シゲルの担任)などが紹介される。シゲルは今、父が学生時代に下宿していた九月館に一人で世話になっている。4歳で母を亡くし、父は会社を辞めて故郷に仕事を探しに行っているからだ。その父から松村すずのもとに今月分の下宿代とシゲルへのクリスマスプレゼント代(2000円)が届く。シゲルは自分で貯めてきたお金に父からのお金をプラスしてマウンテンバイクを買うつもりだったが、当てが外れてがっかりする。
第2章「真夜中の肝だめし」で、シゲルと友だちの遠山哲(大勢の兄弟姉妹のお兄さん)、川原雄治(古本屋の息子)、桐沢なつみ(写真屋の娘でクラスの女王様)らが登場。なつみの心霊写真の話を雄治がせせら笑ったことから、男子三人組は夜中に南藏院(面影橋をわたってちょっと行った所にある)に行き、証拠に写真を撮ってこないといけないことになる。午前二時に南藏院で写真を撮っていたとき、三人の前に小槻二郎が現れる。松村すずに会うために信州から来たというこの青年は昔、九月館にあったケヤキの精だった。新しい年が来る前に「龍の玉」を見つけないと禍が起きる、という二郎の話を聞いたシゲルたちは、半信半疑ながらあちこちの寺や神社を訪ね歩くことになる。
物語は、木の精と龍の玉といった幻想的世界と、シゲルたちや下宿人たちの日常生活といった現実の世界が無理なく調和して綴られていき、龍の昇天という大団円のあと、穏やかでさわやかな結末へと導かれていく。そうした流れの中に、早稲田を中心とする各地の寺や神社の歴史や言い伝え、古書に綴られている事柄や古本市と古書蒐集家の世界、昭和初期から始まる九月館の歴史など、様々な事柄の詳細な記述が、収拾がつくのか心配になるほどたくさん盛り込まれている。スーパーで葱を買うエピソードには蕪村の「葱買うて枯れ木の中を帰りけり」なぞが添えられていたりするのだ。とにかく読みでのある大作である。(2013.2.25読了)

☆もともと小学校高学年用の課題図書だったため、近所の図書館にかなりの冊数がそろっていて、おかげで読書会の会員全員が一冊ずつ手許に置いてゆっくり読むことができました。いつものように何人かで回し読みしたのでは内容がつかみきれなかったかも知れないと思うほどに情報量の多い作品です。そのせいか対象の小学校高学年の子どもたちにはあまり読まれていないようで、どの本もまっさらの感じでした。
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by nishinayuu | 2013-05-03 19:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)