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韓国の詩「今日」 パク・ゴノ

c0077412_10553883.jpg☆韓国の詩を日本語に訳しました。翻訳というより逐語的和訳です。原詩は『타다가 남은 것들』(김미숙朗誦)からとりました。なお、原詩は定型詩ではありませんが、訳詞は5音と7音で統一してみました。

ある日わたしは
古い手紙を見つけ出す。
見なれた文字のあいだから
落ち葉のように歳月が落ちて過ぎ去る。

過ぎ去るものは歳月だけか。
いや歳月は過ぎることなく、
面影だけを後に残して愛が過ぎ去る。

雨の降る日は
窓のガラスを伝って落ちる思い出に
飲みかけのコーヒーが冷めていく。
それなのにまだわたしの胸は温かく……

少し向こうをあなたはひとり
冷たい雨に濡れながら行く。

なにも寂しいことなどはない、
すべては去っていくものなのだ
どうせわたしは
すべてが去ったそのあとにまた
訪れてくるロマンを捨てることはできない。

そうなのだ。
去ってしまった
あなたとともに
涙もさっと追い払わねば。

そうしていつか
古い手紙の中のあなたが
まるで知らない他人のように
思われてくる。

遠く離れて
あなたのことを眺めてみると
前よりずっとはっきり見える。
はっきりとした姿のままで
あなたは絶えず変わり続ける。

変化するのは永遠のもの
永遠なのは変化するもの

熱く冷たい時のはざまを
わたしはなにか
よくわからない掟のもとに
今日という日を生きて行く。
今日という日を生きて行く。


오늘
어느날 나는
낡은 편지를 발견한다.
눈에 익은 글자 사이로
낙엽같은 세월이 떨어져 간다.

떨어져 가는 것은 세월만이 아니다.
세월은 차라리 가지 않는 것,
모습을 남겨둔 채 사랑이 간다.

비오는 날
유리창에 흘러내리는 추억은
한잔의 커피를 냉각 시킨다.
그러나 아직도 내 마음은 따스한 것을……

저만큼의 거리에서
그대 홀로 찬비에 젖어간다.

무엇이 외로운가,
오차피 모든 것은 떠나고
떠남속에서 찾아드는
또 하나의 낭만을
나는 버릴 수가 없다.

그렇다.
이미 떠나버린
그대의 발자욱을 따라
눈물도 보내야 한다.

그리고 어느날
내가 발견한 낡은 편지속에서
낯선 사람을 만나듯
그대를 보게 된다.

아득한 위치에서
바라다 보이는 그대는
옛날보다 더욱 선명하다.
그 선명한 모습에서
그대는 자꾸만 달라져 간다.

달라지는 것은 영원한 것
영원한 것은 달라지는 것

뜨겁고 차가운 시간과 시간 사이로
나는 이해할 수 없는
하나의 공식 속에서
오늘을 살아간다.

오늘을 살아간다.
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by nishinayuu | 2011-09-29 14:44 | 翻訳 | Trackback | Comments(2)

『木曜の男』(G.K.チェスタトン著、吉田健一訳、創元推理文庫)

c0077412_9585543.jpgロンドン郊外のサフロン・パークは奇妙に芸術的な雰囲気の住宅街だった。ここである晩、無政府主義者で赤髪の詩人ルシアン・グレゴリーと、法則や秩序に美を認める金髪の詩人ガブリエル・サイムが、不思議な具合に夕焼けした空を背景にして議論を繰り広げる。サイムの「君はほんとうは無政府主義者ではない」ということばに侮辱を感じたグレゴリーは、サイムのことばが間違っていることを証明するために、これから面白い経験をさせてあげる、と言う。警察には話さないことを条件に、グレゴリーはサイムを辻馬車に乗せて、テームズ川沿いのチズウィックにある居酒屋に連れて行く。薄暗い店内ですばらしくおいしいエビを楽しんだサイムが葉巻を手にとると同時に、木のテーブルが回り始め、やがてふたりは椅子とテーブルごと猛スピードで地下の空洞に吸い込まれる。
地下は無政府主義者の要塞だった。 彼らの代表者会議は議長の日曜をはじめとして曜日名で呼ばれる7人からなり、この日は空席となっていた木曜を新たに選出することになっていた。グレゴリーはその木曜に選ばれる手はずになっていたので、それによって自分が本物の無政府主義者であることをサイムにわかってもらえる、とワクワクしていた。ところがこのときいきなりサイムがグレゴリーに、実は自分は警察の回し者だ、と身分を明かす。そして会議の席で演説をふるってグレゴリーを圧倒し、木曜の位置を手に入れてしまう。
全体の1/4ほどまでのここまでの展開も奇想天外だが、その後はさらに荒唐無稽というか不条理というか、そんな世界が繰り広げられていく。あらすじは書ききれないので、心覚えのために無政府主義会議のメンバーの特徴を記しておく。
日曜:ヨーロッパ無政府主義中央会議議長。大きすぎて目に入らないほど山のように大きな男。
月曜:中央会議の書記。笑みが右の頬を上ってから左の頬を下る、という歪んだ笑顔の持ち主。
火曜:ポーランド人。名前はゴゴル。早い段階で警察のスパイだとわかり、会議を追放される。
水曜:サン・テュスタッシュ公爵。フランスのカレーでサイムと決闘する。
木曜:主人公。詩人。
金曜:ウォルムス教授。今にも死にそうな老人のくせに、信じがたい俊足でサイムを尾行する。
土曜:医者で名前はブル。黒眼鏡をかけ、感じの悪い若さを持った男。
巻末の解説に「著者の父親は水彩画、模型製作、写真、彩色ガラス、透かし彫り細工、幻灯、中世紀装飾などに余技を示すとかい趣味豊かな人物であった。これが直接チェスタトンの絵画への嗜好に受け継がれたわけである」とあるように、全編が幻想と美しい色彩に溢れた映画作品のような雰囲気の作品でもある。(2011.7.7読了)
☆5章「恐怖の饗宴」の最後の方に次のような文章があります。「何でも誇張して考えたがるサイムにとっては、テームズ川に沿って月光を浴びて寒々しく光っている建物が、月の世界に聳える山脈のように見えた。しかし月が詩的であるのも、月の中に兎がいると考えられているからである。」
ヨーロッパでは月の模様を男や女の横顔や立ち姿などに見立てるのが一般的だと思っていましたが、兎に見立てる例もあるのでしょうか。この部分だけなんとなく東アジア的な感じがして気になります。
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by nishinayuu | 2011-09-26 09:59 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『まっぷたつの子爵』(イタロ・カルヴィーノ著、河島英昭訳、晶文社)


c0077412_1354625.jpg1952年に発表された作品で、原題はIl Visconte Dimezzato。1957年の『木のぼり男爵』、1959年の『不在の騎士』とともに1960年に『我々の祖先』と題した1巻にまとめられている。
物語は「昔トルコ人との戦争があった」という文で始まる。ここに言う戦争は1716年のトルコ対オーストリア戦争のことで、血気盛んな若者だったテッラルバのメダルド子爵は、ボヘミアの平原に陣を構えるオーストリア皇帝のもとにはせ参じた。勇敢に戦って敵の砲台の下まで攻め込んだ彼を、敵の大砲が空中に吹き飛ばした。彼の身体はまっぷたつに引き裂かれ、胸部と腹部はいっさいなくなった。右眼と右耳、右頬と半分の鼻と半分の口、半分の額という頭部と、右腕と右足だけの身体で、メダルドは故郷のテッラルバに帰還した。彼を待っていた父親に挨拶もせずに自分の部屋に引きこもったメダルドは、ドアを叩き続ける乳母のセバスティアーナにも応えようとしなかった。
父親が絶望のうちに死んだ後、メダルドは城を出て野や山を歩き回った。彼の歩いた道にはまっぷたつに切り裂かれた梨やメロンが枝にぶら下がり、まっぷたつにされた蛙が飛び歩いていた。そして従僕たちが沼のほとりでメダルドを見つけたとき、半分にされた茸が沼の面を埋めていたが、たくさんの毒茸だけはその半身が見つからなかった。メダルドはそれを森の小径で出会った少年に「フライにしてみな」と言って渡したのだった。その少年というのが、メダルドの甥で当時7歳か8歳だった「ぼく」である。
テッラルバに戻ってきたのは「メダルドの悪い半分」だった。テッラルバはメダルドの悪行と暴政に苦しむ。ぼくもたびたびまっぷたつにされそうになる。しかし「おまえが半分になったら、無知で鈍い完全さから抜け出せる。完全な人間の知恵ではわからないことが、おまえにもわかるようになるだろう」というメダルドのことばがぼくの心を捉える。やがてメダルドは羊飼いの娘パメーラに恋をする。賢いパメーラがあの手この手で返事を延ばしているあいだに、メダルドの右半分がテッラルバに辿り着いて……。
というわけで、身体が半分になっても生きている、という実に荒唐無稽なお話。戒律主義者のユグノー教徒たちが住む「寒さが丘」や、快楽主義的ならい病者たちが住む「きのこ平」などが、それぞれユグノー教徒の亡命や退廃的芸術家たちの象徴として描かれており、善と悪に二分された子爵の存在とともに寓話性を高めている。その一方で子爵の甥でありながらほとんど孤児のような「ぼく」と、その唯一の友だちであるトレロニー博士には小説の登場人物としてのリアリティーがあり、寓話と言い切ることもできない不可思議な雰囲気の物語になっている。
巻頭に一枚だけ入っている原田維夫の絵(版画?)がなかなかいい。物語りの途中にもあと数枚入れて欲しかった。(2011.6.22読了)
☆右半分と左半分が決闘する場面に「真向唐竹割り」という語があります。「真っ向から竹割り」のミスプリ?と思わず辞書をひいてしまいました。なんのことはない、「真っ向、唐竹割り」でしたが、初めてであった言葉でした。剣豪小説や戦記物を読み慣れている人にはごく当たり前の言葉なのでしょうが。
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by nishinayuu | 2011-09-23 13:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ねじれた夏』(ウィロ・デイビス・ロバーツ著、笹野洋子訳、講談社)

c0077412_18434245.jpg14歳の少女・シシーを主人公とするヤング・アダルト小説。
シシーは小さい頃から夏はいつも、クリスタル・レイクのほとりにある祖父母の家で過ごしている。前の年はパパが出張することになったハワイに家族みんなでついて行き、パパの仕事が終わってからもそこで過ごしたため、クリスタル・レイクには来られなかった。それでシシーは、毎夏いっしょに過ごしてきた仲間たちに一年ぶりに会えることと、14歳になったこの夏は「大きな子たち」の仲間に入れてもらえるかもしれないことを期待して、祖父母の家にやってきたのだった。
ところが祖父母のコテージに着いてみると、リーナ・シュリークの姿はなく、別の女性が台所で働いていた。この家で20年以上も働いていたリーナが「去年のごたごた」のときにやめたと聞いて、シシーはショックを受ける。いとこのジニーと湖に泳ぎに出かけたシシーは、リーナの息子・ジャックの姿をさがす。ジャックの姿も、その兄で大きい子たちのリーダー的な存在であるブロディの姿も見えない。今年こそはジャックに一人前の女の子として認めてもらおうと思っていたのに。
「去年のごたごた」というのは、仲間のひとりであるゾーイ・シレクが他殺体で見つかり、犯人としてブロディが捕まった事件だった。ブロディは裁判の結果25年の刑が確定して刑務所に入り、リーナは祖父の家で働くのをやめ、ジャックも仲間たちから離れたのだという。これらのことをシシーの一家はまったく知らされていなかった。一族や仲間のだれもが、誰かがシシーたちに知らせたと思っていたらしい。
ジャックやリーナに会って話を聞いたシシーは、ゾーイ殺しの犯人は別にいる、と確信して秘かに調べ始める。力になって欲しいというリーナの願いを、祖父は聞き入れなかったという。それで祖父の机の引き出しを探ってみると小切手帳が見つかる。14ヶ月の間、毎月1000ドルが現金に換えられているのがわかったが、なんのためかはわからない。それからシシーは、地域の住人たちのうち15歳以上の人たちの一覧表も作成する。名前、動機、機会、アリバイ、備考の欄を作り、わかったことを書いていく。祖父の部屋でその作業をしているとき、電話のベルが鳴る。シシーが受話器を取ると、何も言わないうちに相手がしゃべる。「忘れてんじゃないかね、ジャッジ(判事)。もう待てんぞ」。
ジャックの協力でシシーの捜査は少しずつ核心に迫っていき、同時にジャックとの友情(と愛情)も深まっていく。ミステリーとして読むにはいまいちだが、青春小説としてはなかなかいい。(2011.6.18読了)

☆疑問が一つ。「わたしは息もたえだえといったようすでつばを飲みこんでから、二、三回深呼吸をした」という表現には違和感があるのですが、いかがでしょうか。
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by nishinayuu | 2011-09-20 18:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『カブールの燕たち』(ヤスミナ・カドラ著、香川由利子訳、早川書房)


c0077412_21282265.jpg1996年、アフガニスタンの首都カブールは過激なイスラム原理主義者集団・タリバンの支配下に置かれた。極端なイスラム法――女子校は閉鎖する、女は外で働いてはいけない、女は外出時に全身を覆うチャドリを着なければならない、サッカー、テレビ、音楽などいっさいの娯楽は禁止する、(『カイトランナー』に鮮やかに描かれているあの)凧揚げも天への冒涜に当たるので禁止する、などなど――が布告され、市民から「当たり前の生活」を奪い去った。
老人と子どもと物乞いが溢れ、至るところで宗教警察が目を光らせているカブールの片隅で、夢も希望もなく日を送っている二組の夫婦がいた。アティク・シャウカトと妻のムサラト、そしてモフセン・ラマトと妻のズナイラである。裕福な家庭で育ったモフセンも、名士の娘で女性解放のために戦う司法官だったズナイラも、今は職を失って、息を潜めるようにして暮らしている。アティクは公開処刑を待つ女囚たちを収容する拘置所で、臨時雇いの看守をしている。ソ連軍との戦いのとき、負傷して置き去りにされた彼を献身的に看病してくれた、命の恩人であるムサラトは今、不治の病に冒されている。職場には死刑囚、家には死の床にある妻、という毎日に疲れ果てているアティクに、妻を捨ててしまえ、と忠告する人もいるが、アティクはそこまで非情にはなれない。そんなアティクのもとに、ある日新しい死刑囚が送られてくる。夫殺しの罪で公開処刑されることになったズナイラだった。チャドリを脱いで瞑想に耽るズナイラの姿を見たとき、アティクはその美しさ、神々しさに打たれ、陶然となる。アティクの話を聞いたムサラトは、アティクが初めて人間らしい感情を持ったことを祝福し、心を開いて彼女と新しい道を進みなさい、と言う。そして公開処刑の日、チャドリに身を包んだムサラトが拘置所に姿を現し、「あの人は死なないわ。彼女はあたしがあげられなかったものを全部くれるわ。(あたしは)死んだら、生きているよりずっと役に立てるのよ。お願い。やっとあなたに運が向いてきた。それをむだにしないで」と言う。こうしてズナイラに扮したムサラトは死刑囚として引き立てられていき、ズナイラは処刑を見物に行く拘置所関係者の家族たちといっしょに、小型バスで公開処刑の行われる競技場へと運ばれる。

ひとりの女が公開処刑される場面で始まり、競技場での公開処刑でクライマックスに達したあと、気がふれたように街をさまようアティクの姿で終わる、なんとも凄絶な小説である。善良ではあるがどこかひ弱な夫たちに対して、じっと堪えることを知っている妻たちの精神的な強さが印象的で、特にムサラトの崇高な愛が光彩を放っているが、このムサラトの愛も結局アティクを救うことはできなかったのである。ハッピー・エンディングではないところが、リアリティーがあっていい。
作者は1955年にアルジェリアで生まれた、本名をムハマド・ムルセフールという男性。ヤスミナ・カドラは彼の妻の名で、アルジェリア軍の将校時代に執筆活動を始めたため、軍の検閲を逃れるために用いたペンネームだという。(2011.6.15読了)
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by nishinayuu | 2011-09-17 21:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

リクゼンタカタ (特派員メモ ニューヨーク)


c0077412_10222295.jpg☆新聞のコラム(2011.4.7朝日新聞)を韓国語にしました。原文は韓国語の下の「リクゼンタカタ」をクリックしてご覧ください。
画像はアイスランドで噴火した火山の写真です。


[일본발의 지진재해뉴스를 읽을때, 피재해지역 지명의 발음이 매우 어렵다.] 뉴욕의 라디오국에서 일하는 미국인 여성이 투덜대고 있었다. [방송하기 전에는 일본의 지명을 잘 발음하기 위한 발음연습을 거를 수 없습니다.]
듣자 하니, [陸前高田][南相馬][平泉]가 각별히 어렵다고 말한다. [음절이 많아서 강약을 붙이는 방법이 알기 어렵다]. 한편 [久慈]나[野田]와 같은 지명은, 짧아서 그런지, 자신감을 가지고 발음할 수 있다고 한다.
외국지명의 발음이라면, 일본인 기자인 나도 번번이 괴로움을 당했다. 시카고 교외에서 메릴빌(Merrillville)이라는 거리로 가는 길을 물었는데, 그 메릴빌이 통하지 않았다. 내가 잘 하지 못하는 r와l 가 수북이 담겨져 있기 때문이다. 내가 진짜 싫어하는 v도 끼어들어 있다.
캐나다의 수도 오타와(Ottawa)에서는 내가 말한 [오타와]가 오타와시민들에게 통하지 않았다. 내가 t와w를 정확하게 발음할 수 없기 때문이지만, 아니, 지명따위로 기가 꺾이면 신문기자는 그 직무를 감당해 낼 수 없다.
내가 아는 한, 최근 발음하기 제일 어려웠던 지명은 에이야프얄라요쿨(Eyjafjallajokull). 작년에 유럽의 항공로를 마비시킨 아이슬란드에 있는 화산의 이름이다. 화산의 분연이 가라앉을 때 까지, 이 이름은 연일 각국 신문기자나 아나운서들의 혀를 꼬부라지게 만들고 있었다.

「リクゼンタカタ」
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by nishinayuu | 2011-09-14 10:24 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『失われた時を求めて 7』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社)


c0077412_9164994.jpg原作の第4編「ソドムとゴモラ」の前半が収められた巻である。
この巻は語り手が中庭で、ゲルマント公爵夫妻の帰宅を待ち伏せしているところから始まる。ゲルマント大公夫人からカードを受け取った語り手は、それがほんとうに夜会への招待なのかを公爵夫妻に判断してもらおうと思ったのだ。ところがそこで語り手は思いがけない場面を目撃することになる。中庭にたまたま出てきた二人の男、シャルリュス男爵と元チョッキ職人のジュピヤンが、顔を合わせたとたんに「男と女」に変貌したのだ。こうして語り手は、常々男らしさを誇りにしているシャルリュス男爵がソドムの世界に属する人物であり、そこではひとりの女であることを発見する。
ゲルマント大公夫人邸の夜会の場面では、自宅のパーティーへの出席者を確認するためにやってきたサン・トゥーヴェルト公爵夫人、死ぬ前に妻と娘を引き合わせたいというスワンの頼みを拒否するゲルマント公爵夫人、シュルジ夫人の美貌の息子たちに見とれるシャルリュス男爵、売春宿を礼賛するサン・ルーなど、さまざまな人物がさまざまな話題を展開する。ゲルマント大公がドレーフュスの無実を信じるようになり、ドレーフュス支持になったいきさつなども語られる。
続いて語り手にとって二度目のバルベック滞在の場面となり、ここで語り手は祖母の晩年に自分が見せた心ない態度を思い出して苦しみ、祖母の死を改めて悲しむ。その悲しみが徐々におさまると、語り手はアルベルチーヌと再び親密になって、ホテルに呼びつけたり遊びに出かけたりする。そんなある日、アルベルチーヌが女友達のアンドレと踊っているところを見た医師のコタールが、彼女たちは快楽に耽っている、と言ったことから語り手は、アルベルチーヌはゴモラの世界の女かもしれない、という疑いを抱く。

この巻で興味深いのは言葉にまつわるいくつかのエピソードである。なかでもかなりのページを割いて語られているのがバルベックのホテルの支配人による「滑稽な間違い」の数々で、「あなた様にはふさわしくない部屋」と言うべきところを「あなた様にはもったいない部屋」、「勲章をもらった」と言うべきところを「鞭をもらった」と言ったりしている。訳者による註に正・誤のフランス語が示されているが、本文は滑稽さが充分に伝わる日本語訳になっていて、安心して読める。支配人の間違いはかわいげがあるが、このホテルには変なプライドのせいで言葉づかいがおかしいエレベーター係もいて、こちらの方は語り手をいらだたせる存在として描かれている。さらに、語り手がフランソワーズの言葉づかいについて、「発音も正確だし、リエゾンの間違いもないし」と皮肉を浴びせたあと、心の中で次のように言っているのが印象的である。「このような非難は、あまりにばかげたものだった。というのも、私たちが得意になって正確な発音を心がけているフランス語の単語それ自体が、ラテン語やザクセン語をでたらめに発音するゴール人の口によって作られた[リエゾンの間違い]にすぎず、私たちの国語は、他の言語の不完全な発音に他ならないからだ。」(2011.6.13読了)
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by nishinayuu | 2011-09-11 09:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『男どき女どき』(向田邦子著、新潮社)


c0077412_12303848.jpg読書会「かんあおい」2011年6月の課題図書。
タイトルの「男どき女どき」は、『風姿花伝』の「花伝第七別紙口伝」の終わりのほうにある次の言葉からとられている。
【また、時分をも恐るべし去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時(おどき・めどき)とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、必ず悪き事またあるべし。これ力なき因果なり。】
すなわち、「男どき」とは運のいい時、ついている時のことで、「女どき」はその逆についていない時、めぐり合わせの悪い時のことである。
全体は5部構成になっており、Ⅰは小説集、Ⅱは小説と旅行記、Ⅲ~Ⅴはエッセイ集である。
Ⅰの『ビリケン』――駅までの道の途中にある果物屋のおやじに、石黒は秘かにビリケンというあだ名をつけていた。石黒がちらりと見るとビリケンのほうもじろりと見返す。それが毎朝の習慣になって5年程たった頃、ビリケンが病気で死んでしまう。そのあとでふとしたことからビリケンが神田の古本屋の息子だったことがわかる。石黒は学生時代にその古本屋で万引きをして主人にしぼられたことがあり、その恥ずかしい場面を当時やはり学生だったビリケンに見られたことを思い出す。ビリケンがじろりと睨んだのは、あのときの石黒を覚えていたからなのか。ビリケンが残した日記にはそのことが記されているのではないか、と石黒は悩むのであるが……(後略)。――「ビリケン」ということばに昭和を感じる。
Ⅱの『鉛筆』――ケニアのルドルフ湖上の筏に立つ少年の脚と、アンコールワットで観光客の足元を懐中電灯で照らして20円から30円のお金を得ていた少年たちの脚。一方はチョコレート色で、もう一方はくすんだ色だったが、いずれも鉛筆のように細かった、という印象的な旅行記。
Ⅲの『私と職業』――「一日に一つ、自分で面白いことを見つけて、それを気持のよりどころにして、真剣半分、面白半分でテレビの脚本を書いている」という文の「面白半分」の使い方が面白いけれども、正しくはなんと言うべきか、しばらく考えてしまった。
Ⅳの『反芻旅行』――「旅も恋もそのときも楽しいが、反芻はもっと楽しいのである」ということばに続いて、「ところで、草を反芻している牛はやはり、その草を食べたときのことを思い出しながら口を動かしているものであろうか」とある。牛の気持ちまではわからないが人間の場合は、例えば口に戻ってきた薬のカプセルなどをうっかり噛んでしまうと酷い目にあう。(普通の人は反芻しない?)
Ⅳの『アンデルセン』――アンデルセンがパン屋だと思っている若者に、「アンデルセンやグリムの童話を読んだことないの?」と偉そうに言ったあと、グリムはどんな作品を描いているのかと聞かれて答えに詰まる話。――そう言われてみると『赤ずきん』、『白雪姫』くらいしか思い浮かばないので、グリム童話集を引っ張り出して調べてしまった。『金のがちょう』『ラプンツェル』『ブレーメンの音楽隊』『ヘンゼルとグレーテル』『シンデレラ』などなど、いっぱいあった!
Ⅴの『美醜』――飼っている牡猫のビルが、若くて美人の雌猫には目もくれず、何度も仔を生んだ小肥りで醜い年増猫を選んだという話。「つまり、ビルは山口百恵を振って悠木千帆を選んだのである」などと言えるのがすごい。悠木千帆(樹木希林)とよほど仲がいいのだろう。
ほかには『ゆで卵』、『草津の犬』、『サーカス』、『笑いと嗤い』、『無口な手紙』なども面白く読んだ。(2011.6.10読了)
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by nishinayuu | 2011-09-08 12:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『俳句脳』(茂木健一郎・黛まどか著、角川書店)


c0077412_10123497.jpg俳句と黛まどかに興味があって読んでみた。
第一部「俳句脳の可能性」で茂木健一郎は、研究のキーワードである「クオリア(感覚の持つ質感)」の説明から始める。続いて俳句こそは「クオリアの言語化」であると説き、感情の宇宙遊泳が日常にいながらにしてできるように、脳を「俳句脳」にすることを勧める。
「俳句脳対談」という副題のついている第二部「ひらめきと美意識」は、脳科学者のやや固い話を俳人が的確でやわらかなことばで受けながら、「はまる」メカニズムや俳句革新の歴史、日本人の美意識、俳句は第二芸術か、名句の条件、などなどについて語り合っている。特に印象的だった部分をあげると――1.西欧の巡礼道は神に向かって歩直線的に歩く道だが、その直線的な道を日本の巡礼者は、まるで熊野や四国を巡礼するようにあちこち寄り道をしながら巡り歩く、という話。2.桑原武雄の「第二芸術論」に対して虚子が「ほう、俳句も芸術になりましたか」と言った、という話。3.「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」には千代女の手で描かれた「朝顔や釣瓶とられて貰ひ水」という、あとで推敲したと思われる句がある。「朝顔や」と「切れ」を入れることによって目の前の朝顔ではない別の普遍的な朝顔がイメージされる、という話。4.「降る雪や明治は遠くなりにけり」は「明治」でなければならない。「明治」という語が動かないことが俳句では重要だ、という話などである。
第三部は言ってみれば俳句入門講座である。ここで黛まどかは季語の役割、雅語の効用を述べ、「俳句の畑を耕す」こと、「俳句の目」を持つことの大切さを説く。そして俳句には「定型」「季語」「切れ」という三つの縛りがあって、この「制約があってこそむしろ思いきり跳躍できるのです。言葉は、型があるから羽ばたくのです」という。また、「俳句の国際化」の項では、世界の国々に「HAIKU」愛好者が増えているのを喜びつつ、俳句の定義が国、個人によってまちまちなのを嘆く。これに関しては「俳句」が単なる一行詩ではないことを明らかにするために、世界共通のルールを作るべきで、季節のない国の存在や、原語による音節やリズムの違いを考慮して、「切れ」をどこかに入れるというのはどうか、と提言しているのが興味深い。(2011.6.1読了)
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by nishinayuu | 2011-09-05 10:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『イエメンで鮭釣りを』(ポール・トーディ著、小竹由美子訳、白水社)


c0077412_1732263.jpgイギリス人たちが鮭釣りを楽しむように、イエメンでも人びとが鮭釣りを楽しめるようにしよう、という奇想天外なプロジェクトの顛末と、それに巻き込まれた人びとのどたばたぶりを描いた物語である。プロジェクトの発端となる話を持ちかけたのはイエメンの資産家シャイフ・ムハンマド、プロジェクトを推進するのは不動産売買とコンサルタントを専門とする会社の社員であるハリエット・タルボット、技術面を担当するのは国立水産研究所に所属するアルフレッド・ジョーンズ博士で、この3人を中心に話は展開する。
最初にハリエットからプロジェクトへの協力を求められたとき、アルフレッド(略称フレッド)はそっけなく拒絶する。科学者としては当然のことだ。ところが、上司のデイヴィッド・ザグデンから圧力がかかる。プロジェクトには外務省も首相も関心を示している、と言うのだ。この時点でフレッドは妻のメアリに、あまりに突拍子もない話だし、ザグデンの理不尽な圧力にはがまんがならないから辞表を出そうかと思う、とメールを送る。すると銀行の管理職に向かって邁進中のメアリからは、今でも年収の多い妻におんぶしているのにバカなことを考えるな、と言う返信が来る。結局フレッドは辞表を出しそびれて、ハリエットと会うことになり、さらにはスコットランドにあるシャイフ・ムハンマドの広大な別邸で鮭釣りを楽しむ、という具合に事態が進展していく。シャイフ・ムハンマドの人柄と信念に魅せられたフレッドは、「イエメンで鮭を釣る」ことの可能性はゼロではないと思い始める。
フレッドはプロジェクトに前向きに取り組み、徐々に成果を上げていく。キャリアのために外国に長期滞在するメアリとは意思疎通がうまくいかなくなる一方で、ハリエットへの尊敬と憧れは強まる。フレッドにとっては初めての恋だった。やがて、フレッドがシャイフ・ムハンマドやハリエットともに取り組んだプロジェクトが大詰めを迎え、イギリスの首相を迎えて「イエメンで鮭釣りを」する日がきて……。

この作品は、Eメール、連絡メモ、書簡、日記、尋問、インタビューなどを組み合わせたユニークな形式で綴られている。また、極限まで膨らんだ風船が破裂するような終わり方もユニークである。その破裂によって物も人も吹き飛ばされ、破裂のとばっちりでフレッドを振り回した破廉恥な連中もそれなりの報いを受ける。もちろんフレッドも例外ではないのだが、彼はなぜかひとりだけ、以前よりもちょっと幸せになっているように見える。シャイフ・ムハンマドやハリエットとの交流が彼を人間的に成長させたのだ。それに、どうやらメアリもフレッドの方に顔を向け始めている。
「訳者あとがき」によると2007年に出版された本作品は同年、コミカルな小説を対象とするボランジェ・エヴリマン・ウッドハウス賞を受賞している。 『スパイたちの夏』も過去の受賞作の一つだそうだ。(2011.5.31読了)
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by nishinayuu | 2011-09-02 17:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)