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「コーヒーの味」 経済気象台


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☆新聞のコラム(2010.10.16朝日新聞)を韓国語に訳しました。
原文は韓国語の下にある「コーヒーの味」をクリックしてご覧ください。

커피의 맛

맑게 갠 가을 날에 가까이 있는 초등학교에서 흘러오는 음악에 이끌려 그 운동회를 보러 갔다.
자그마한 언덕위에 돗자리를 편다. 교정전체를 바라볼 수 있는 아주 좋은 자리다. 보통때는 일로 바쁜 아버지들도 오늘은 가정 서비스다. 일가단란의 온화한 풍경이 전개되어 있다.
운동회도 한창일 때, 드디어 구경거리인 [어버이와 자식의 릴레이 경주]가 시작되었다. 아랫배는 조금 나오기 시작했을망정, 옛날에는 운동에 소질이 있었음 직해 보이는 아버지들이 머리띠를 맨 씩씩한 매무새로 집결했다.
대단한 성원이다. 그 성원속에서 아버지들은 마구 넘어진다. 그 넘어지는 패턴은 모두가 한결같은데, 몸이 앞으로 고꾸라질 듯이 비틀거리면서 다리가 꼬인 후에 배가 땅에 닿는다.
그 중에는 일어나서 다시 뛰어가다가 또 넘어지는 경우마저 있다. 짐작건대, 머리속에서는 옛날의 영광을 강렬히 기억하고 있기 때문에, 자 달려라, 어서 달려라, 더 빨리, 하면서 지시를 연발한다. 그런데 다리는 오랫동안의 불섭생 때문에 쇠퇴가 심하다. 그 결과 머리나 상체가 앞서가고, 몸이 앞으로 기울어지는 것 같다.
경제나 정치에서도 사정은 마찬가지다. 윗 사람이 잔소리를 하더라도, 아랫 사람의 행동이 따라가지 못하면 일은 진행되지 않는다. 때로는 지나친 잔소리가 반항을 유발하는 경우조차 있다.
다음과 같은 미국 우화가 있다. 백인인 주인이 중국인 종업원에게 “그 동안 내가 지나치게 잔소리를 한 것 같아. 그리고 입에 담지 못할 말을 하며 경칭도 붙이지 않아서 미안하다. 오늘부터는 미스터를 붙여서 부르겠다” 라고 했더니, 종업원은 공손히 이렇게 대답했다고 한다. “감사합니다. 그럼 저도 매일 아침에 드시는 커피에 소변을 섞어 왔지만, 그 것을 그만두겠습니다.” 경영자와 정치인인 여러분. 매일 아침에 맛이 있는 커피를 마시고 계십니까?

「コーヒーの味」 
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by nishinayuu | 2011-08-30 14:54 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『世界でたったひとりの子』(アレックス・シアラー著、金原瑞人訳、竹書房)


c0077412_10341272.jpg読書会「かんあおい」2011年8月の課題図書。原題はThe Hunted。
主人公はタリンという名の少年。保護者のディートは、トランプの賭で金持ちから手に入れたタリンを、子どもが必要な人に貸し出して暮らしている。ここは子どもというものがいなくなった世界なのだ。科学の進歩によって老化防止剤が開発された結果、高齢化が進み、平均寿命は延びたが、そのせいで新しいウイルスが生まれた。生殖能力を破壊するこのウイルスが老化防止剤を飲んでいない人にも感染して、世界から子どもが消えていった。つまり、ある人びとが長寿を手に入れた代わりに、ある人びとは生まれることさえできなくなったのだ。
老化防止剤を飲んだ人は外見はいつまでも若いままだが内部からの腐敗は止められないので、120歳くらいになると身体の活動が停止して死ぬ。ところが、内部からの腐敗を止めるPPインプラントという方法があって、これを受けるといつまでも大人にならない。たとえばかわいい踊り子のミス・ヴァージニアは、55歳なのに11歳に見える。世間で見かける子どもはみんなこのPPインプラントを受けた子どもであって、子どもの顔と身体を持っているが、その心と魂はこの世には存在したことのない新しい生物のものなのだ。PPインプラントは違法なのだが、タリンが成長していって商売道具として使えなくなるのを心配したディートは、タリンにPPを受けさせようと画策する。それを知ったタリンはディートのもとから逃げ出す。PPの子どもの心の悲しみを知っているからだ。しかしタリンにはどこにも行く当てはない。心の片隅にかすかな記憶――女の人の匂い、男の人の匂い、麦畑と鳥のさえずり、犬の吠える声――があるのだが。
ひとりぼっちの少年が自分を取り囲む敵意に満ちた世界を彷徨い、逃げまどい、疲れ果てた末に、ついに記憶のなかの光景にたどり着くまでの物語。的確な描写と緻密な構成、緊迫感あふれる展開で飽きさせないし、最後には感動が待っているが、全編に充満している暗い重苦しさが読後にも残る。落ち込んでいるときには手にしてはいけない作品である。(2011.5.24読了)
☆ディートがタリンを部屋に閉じこめてPPインプラントを施術する医者を呼びに行っている間に、タリンは苦心惨憺のうえ、やっとのことで部屋から逃げ出します。その場面のあとに、タリンが「家を出て4分と15秒きっかりたったとき、ディートと女と医者が……」とあるのですが、この「きっかり」がひっかかります。「きっかり」の位置のせいでしょうか、あるいは半端な時刻と「きっかり」の組み合わせのせいでしょうか。
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by nishinayuu | 2011-08-28 10:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『スノードーム』(アレックス・シアラー著、石田文子訳、求龍堂)


c0077412_2025372.jpg読書会「かんあおい」2011年8月課題図書の関連図書。原題はThe Speed of the Dark。
若い科学者クリストファー・マランは「光の減速器」に関する研究に没頭していた。家族も友人もいない彼は、同僚たちともうち解けない風変わりな青年だった。そんな彼がある日、同僚のチャーリーに一綴りの原稿とスノードームを托して失踪する。そのスノードームは、逆さまにするとドームの中に雪が舞い飛ぶふつうのスノードームではなく、一つの町の極小模型が閉じこめられた、逆さまにしてはいけないドームだった。そして原稿には、少年のクリストファーを主人公とする信じがたい物語が綴られていた。
クリストファーは幼いときから父の手で育てられた。赤ん坊の時に母親がいなくなったからだ。父は修道院広場で似顔絵を描いて暮らしを立てている売れない画家だった。広場で「動く銅像」のパフォーマンスをしているポッピーは、若くて美しいダンサーで、ときどきクリストファーたちの家に来て食事をしたり、時には泊まっていったりした。クリストファーはいつか三人がほんとうの家族になる日を夢みていた。しかし、ポッピーとの暮らしを夢みている人が他にもいたのだ。それは、ポッピーがシーズン・オフにアルバイトをしている「ありえない美の館」の経営者エルンスト・エックマンさんだった。エックマンサンは小さくて太りすぎの醜い男だったが、ミニチュア彫刻の達人だった。「鉛筆の芯の先に彫ったエンパイア・ステート・ビル」、「砂糖粒から掘り出された氷山に乗ったセイウチとペンギン」、「針の穴を通る駱駝」などが閉じこめられている小さなガラスのドームも、それらを作ったエックマンさんも、クリストファーは大好きだった。しかしエックマンの心は複雑だった。醜い自分を避けずに慕ってくれるクリストファーはかわいかったが、その父親は憎らしかった。自分が得られないポッピーの愛を手に入れていたからだ。そんなある日、「針の穴を通る駱駝」を静止した彫刻ではなく動く彫刻にしたい、というエックマンの努力が実る。「光の減速器」が完成して、動くものを極小化することに成功したのだ。エックマンが次にとった行動は……。
ある日ポッピーが行方不明になり、やがて父もいなくなって、クリストファーはひとり、取り残される。幼い頃からの怖れが現実のものになってしまったのだ。エックマンの援助で高校、大学と進学して社会に出たクリストファーは、研究に没頭する。「光の減速器」で極小化されたものを元の大きさに戻す器機を作り出すために。そしてドームに閉じこめられている自分の家族を取り戻すために。けれどもある日、クリストファーは気がついたのだ。器機を作り出そうとしているうちに時はどんどん過ぎ去ってしまうことを。だから今、彼がすべきことはいつになるかわからない研究を続けることではなく、一日でも早く家族と合流することだと。
奇想天外な構想で読ませ、読後にはしみじみとした余韻を感じさせる物語である。ただし、情感の籠もらない短文が連なっていること、必要不可欠とは思えない記述(たとえば雨が降っていたとか、止んだとか)が頻繁に出てくること、などのせいで全体にメリハリがなく、特に前半はまどろっこしくて眠くなる。
(2011.5.26読了)
☆光のスペクトルを思い出すのに役に立つ、として次のような文があげられています。これも必要不可欠とは思えない記述の一つですが、作者のサーヴィス精神をありがたく受け取っておきましょう。英語圏の人たちの苦労を偲びつつ。
Richard Of York Gained Battle In Vain(ヨーク家のリチャードは戦いに勝ったがむだだった)――ひとつひとつの単語の頭文字が赤、(Red)、橙(Orange)、黄(Yellow)、緑(Green)、青(Blue)、藍(Indigo)、紫(Violet)の頭文字と同じ。
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by nishinayuu | 2011-08-24 20:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『神去なあなあ日常』(三浦しをん著、徳間書店)


c0077412_10251926.jpg2009年に発行されたこの物語の主人公は、『月魚』や『まほろ駅前多田便利軒』に引き続いてまたまた男の子(『まほろ』の主人公はおじさんだが、女性を女子というのが流行っているので、男性も男子、つまり男の子でいいかな、と思ってこう書きました)。舞台は三重県の山奥にある神去(かむさり)村。人里離れた、インターネットも使えず、携帯電話も圏外になってしまうようなこの辺鄙な村に、林業の研修生として送り込まれた主人公・平野勇気が綴った一年間の記録という形になっている。
そもそも自分の意志でこの村に来たわけではない勇気は、無人駅に迎えに来ていたチンピラのような風体の男・ヨキに携帯の電池パックを捨てられてしまい、あきれて家に帰ろうとする。ところが、終電はなんと午後7時25分で、もう出たあとだった。ヨキの車で最初の研修場所である森林組合の事務所に連れて行かれてからも何度も脱走を試みるが失敗。そのあとは神去村の最深部である神去地区に車で運ばれたため、逃げ出すのは諦める。勇気を研修生として受け入れたのは、近隣の民有林の干ばつなどを一手に引き受けている中村林業株式会社で、当主は自身も広大な山地を所有する中村清一。幼い息子の山太はとてもかわいく、妻の祐子はめったに見ないほどの美人だった。下宿先となったヨキの家にもタイプは違う美人妻・みきがいて、この村は美人率が高い、と勇気は思う。さらに直紀という未婚の美人も登場して、勇気に勇気を与える(!)ことになる。
山を守り、山に守られながら生きる人びとの暮らしぶりが、生き生きと伝わってくるばかりでなく、「木こり」と「木挽き」の違いなど、林業関係のあれこれが学べる、楽しくて勉強になる読み物となっている。圧巻は神去山の大祭のために切り倒した千年杉に乗って、山の男たちが山を走り下る場面で、迫力満点に活写されている。もしかしたら作者も勇気のように山で研修を受けてきたのではないだろうか。(2011.5.22読了)
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by nishinayuu | 2011-08-21 10:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『明洞ブルース』(金南一著)。

c0077412_2381715.jpg『명동 블루스』(김남일著)
1980年代に韓国のあちこちで繰り広げられた民主化闘争は1987年6月、明洞聖堂籠城抗争へと発展した。ソウルの明洞にあるカトリックの聖堂に、学生を中心に会社員、商人らが立て籠もって機動隊と戦ったのだ。全斗煥大統領を戴いた軍部の独裁を打倒し、大統領直選と改憲を要求する闘争だった。
この闘争に女子学生として参加した語り手は、闘争の現場でキム・ギョンテを見かけて驚く。かつては学生運動の旗手で、後輩たちの憧れの的だったキム・ギョンテは、ある事件をきっかけに学生運動から離脱した人物だった。彼にかけられた、仲間を警察に売ったのではないか、という疑いは、あとになって誤解だったとわかるが、語り手は何も語らずに去っていったキム・ギョンテに失望し、記憶から消し去った。そのキム・ギョンテが勤め人の服装で闘争の現場に姿を現し、かつての学生運動の闘士そのままに機動隊に向かって石を投げ始めたのだ。それを見て勇気を得た学生たちや市民たちに混じって、彼は最後まで最前線で戦っていた。
6月の民主化大抗争がいちおうの成果を収めたあと、語り手は工場に女工として潜りこんで闘いを続ける。その工場にある日、キム・ギョンテが現れる。本社から派遣された労務管理担当の「お偉いさん」として。さらに時が経って語り手は酒場でキム・ギョンテを見かける。そのとき彼は、忠誠を尽くした会社から地方に左遷されることになった我が身を嘆き、会社を罵っていた。語り手は涙を流す。憐憫の涙ではなく怒りの涙だった。6月の喚声と熱気が目の前によみがえる。悪酔いして友人に介抱されているみじめったらしい男に背を向けて、語り手はその場を立ち去る。
著者は1957年生まれの小説家。作品には『国境』、『天才ウサギ』、道述家の伝記『田禹(右?)治伝』などがある。(2011.5.20読了)

☆文中に聖書のヨハネ伝1-5が出てきます。意味がよくつかめないので、日本語の聖書や英語の聖書、さらにはエスペラントの聖書も調べてみたら、以下のようになっていました。訳が「打ち勝たなかった」と「理解しなかった」の二通りあり、また、つなぎの言葉も「しかし」と「そして」の二通りあることが判明しただけで、全体の意味は依然としてはっきりしません。
※그 빛이 어둠 속에서 비치고 있다. 그러나 어둠이 빛을 이겨 본 적이 없다.(명동 블루스)
※빛이 어두움에 비취되 어두움이 깨닫지 못하더라.(대한 성서 공회 1992年版)
※光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(日本聖書協会-1955年版、日本聖書刊行会-1986年版)
※光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(日本聖書協会-1988年版)
※The light shines in the darkness,but the darkness has not understood it. (聖書刊行会-1986年版)
※Kaj la lumo brilas en la mallumo, kaj la mallumo ĝin ne venkis. (ザメンホフによる訳)
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by nishinayuu | 2011-08-18 23:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

映画鑑賞ノート12 (2011.8.1作成)

c0077412_15482557.jpg☆2011年の上半期に見た映画です。
1行目:タイトル(原題)制作年・制作国 監督(鑑賞日)2行目:キャスト 3行目:一言メモ

パリ、恋人たちの2日間(2Days in Paris)2007仏・独 ジュリー・デルビー
    (2011.1.8)
    ジュリー・テルビー、アダム・ゴールドバーグ、ダニエル・ブリュール
    女の奔放すぎる行動にあっけにとられる常識人の男。とにかく笑える。
そして、私たちは愛に帰る 2007ドイツ・トルコ ファティ・アキン
    (2011.1.17)
    バーキ・ダヴラク、ハンナ・シグラ、ヌルギュル・イェシルチャイ
    偶然か必然か、深く関わり合うことになった3組の親子を描いた秀作。
いとしのサガジ(내 사랑 싸가지)2004韓国 シン・ドンヨプ(2011.1.20)
    ハ・ジウォン、キム・ジェウォン
    鼻糞やら唾やら、汚くて参った。お金を出して見る映画ではない。
シンソッキ・ブルース(신석기 불루스) 2004韓国 キム・ドヒョク
    (2011.2.10)
    イ・ソンジェ、キム・ヒョンジュ、キム・チャンワン
    醜男を主役にしたコメディー。はじめは何これ?終わりはまあ納得。
巴里のアメリカ人 1951アメリカ ヴィンセント・ミネリ(2011.2.15)
    ジーン・ケリー、レスリー・キャロン
    舞台劇風ミュージカル映画。見る度に秀逸な色彩と様式美に感動する。
スウェプト・アウェイ 2002米・伊 ガイ・リッチー(2011.3.3)
    アドリアーノ・ジャンニーニ、マドンナ
    純情な海の男のジュゼッペよ、あんな女は早く忘れてしまいなさい!
ミリオンダラー・ベイビー 2004米 C・イーストウッド(2011.3.10)
    C・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン
    イーストウッドもボクシングも嫌いなのに、見始めたら捕まった。
ユゴ-大統領有故(유고)2007韓国 イム・サンス(2011.3.12)
    ハン・ソッキュ、ペク・ユンシク、ソン・ジェホ、キム・ウンス
    朴正煕暗殺事件を描いたもの。日本語の台詞が聞き取れない!
Out of Sight 1998アメリカ スティーブン・ソダーバーグ(2011.3.20)
    G・クルーニー、ジェニファー・ロペス、ヴィング・レイムス
    「スタイリッシュな」という評があるが、「お気楽な」犯罪映画。
マリア・カラス最後の恋 2005イタリア G・カピターニ(2011.3.26)
    ルイーザ・ラニエリ、ジェラール・ダルモン、アンナ・ヴァッレ
    カラスとオナシスの人間像を描く。音楽を期待すると裏切られる。
凱旋門(Arch of Triumph)1948米 ルイス・マイルストン(2011.4.3)
    C・ボワイエ、チャールズ・ロートン、イングリッド・バーグマン
    白黒で原作の雰囲気はよく出ているが主役二人のイメージが違う。
頑張れ!グムスン(굳세어라 금순아)2002韓国 ヒョン・ナムソプ
    (2011.4.7)
    ペ・ドゥナ、キム・テウ、イ・チャンミン(丈夫そうな赤ちゃん)
    ドゥナの魅力全開。全く別のドラマと題名が同じなのはなぜ?
ウォンタクの天使(원탁의 천사)2006韓国 K・ソングク(2011.4.9)
    イ・ミヌ、ハ・ドンフン、キム・ボヨン、イム・ハリョン
    妻子に生きる力を与えるために死を猶予してもらう父親。☆三つ。
トロイ(Troy)2004米 ウォルフガング・ペーターゼン(2011.4.11)
    B・ピット、E・バナ、オーランド・ブルーム、P・オトゥール
    野卑なギリシア人と気高いトロイ人という構図で、神々は不在。
パリで一緒に(Paris When It Sizzles)1963米 リチャード・クワイン
    (2011.5.17)
    オードリー・ヘプバーン、ウイリアム・ホールデン
    ファッションを見せるための作品で、内容は極めてばかばかしい。
ウォルター少年と夏の休日(Secondhand Lions)2003米 
    T・マッキャンリーズ(5.24)
    ハーレイ・オスメント、R・デュヴァル、マイケル・ケイン
    主役は不良老人達。オスメントは健気なA.I.姿だけ覚えておこう。
シュリ(쉬리)1999韓国 カン・ジェギュ(2011.5.29)
    ハン・ソッキュ、ソ・ガンホ、キム・ユジン・チェ・ミンシク
    最後に流れるCarol KiddのWhen I Dreamが胸に浸みる。
懐かしの庭(오래된 정원)2007韓国 イム・サンス(2011.6.5)
    チ・ジニ、ヨム・ジョンア、ユン・ヒソク
    2巻の原作を2時間でというのはどだい無理。その割には上出来。
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by nishinayuu | 2011-08-15 15:38 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

『まほろ駅前 多田便利軒』(三浦しをん著、文藝春秋)


c0077412_933895.jpg著者は『月魚』で、古書の売買という一風変わった世界に生きる二人組の青年たちを描いている。さて、この作品に登場するのも二人組の男たちであるが、こちらの二人は青年でもなければ壮年とも言えない、中途半端な年齢の男たちで、その生業は古書売買よりいっそう風変わりな「便利屋」である。「便利屋」というのは掃除や修理、身代わりのお見舞い、猫の死骸の片づけ、庭の草むしり、塾通いの子どもの送迎、バスの間引き運転調査などなど、依頼があればたいていのことは引き受けるという、自由といえば自由だが、収入は不安定で、ストレスもたまる仕事である。そんな便利屋の事務所兼住居が「多田便利軒」である。
「多田便利軒」があるのは「まほろ駅前」であるが、新宿から出て箱根方面に向かう私鉄とJR横浜線の乗換駅であること、東京南部にある広い市であること、都内の人たちはここも東京だと聞くと驚くこと、市内を隣県の名前のついたバスが走っていることなどから、町田市をモデルにしていることがわかる。
ある日、便利屋の多田のところに行天(ぎょうてん)が転がり込んで居着いてしまう。多田にしてみれば迷惑千万な話で、もちろんコンビを組むつもりなどはない。一方、行天のほうも、行き場がないから多田のところにいるだけ、することがないから多田について回っているだけであって、やはりコンビを組むつもりはないのだ。そのように最初はただの「二人の男」だったこの二人が、なりゆきでいっしょに動き回っているうちに、いつのまにか「二人組」になっていくようすが、便利屋の遭遇するさまざまな出来事とともに綴られていく。かつての同級生だった行天に対する多田の鬱屈した思い、多田と行天それぞれの子供にまつわる思い出など、興味深いエピソードも盛り込まれていて、読みでのあるエンターテインメント作品となっている。劇画調のイラスト入りというところが今時の作家らしい。(2011.5.16読了)

☆便利屋の依頼者のひとりが間引き運転を疑っているバス会社は横中(横浜中央交通)となっていますが、このモデルは神奈中ではないかと思います。ただしこれは名称からの推測であって、間引き運転云々からの推測ではありません。
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by nishinayuu | 2011-08-12 09:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『母のない子と子のない母と』(壺井栄著、ポプラ社)


c0077412_9544638.jpg壺井栄といえばまず思い浮かぶのが1952(昭和27)年刊行の『二十四の瞳』であるが、これはその前年の1951(昭和26)年に刊行された作品。舞台はやはり小豆島である。
「母のない子」として登場するのは数え年11の一郎。埼玉県の熊谷にある農学校で英語教師をしていたおとうさんは、終戦の年に招集されたまままだ帰ってこない。たぶんソ連地区にいるのだろうと思われている。熊谷の女学校で国語の先生をしていたおかあさんは、おとうさんが帰るまでは熊谷で待とうとがんばっていたが、病気になってしまった。それでおかあさんは、おとうさんのいとこを頼って、おとうさんの生まれ故郷である小豆島に、一郎と3歳の弟・四郎を連れてやってきたのだった。
「子のない母」として登場するのは、おとうさんのいとこである「おとらおばさん」。二階屋の土蔵の一階を借りて住んでいるおとらおばさんは、いつも窓のそばに座っていて、ミシン仕事をしたりくすりを売ったりして暮らしを立てている。一人息子が戦死してひとりぼっちになったおとらおばさんは、それでも明るい笑顔を絶やさず、親切で世話好きなので、史郎をはじめとする村の子どもたちに慕われている。狭い土蔵に三人を引き取るわけにはいかなかったおとらおばさんは、三人が隣村にあるおとうさんの家に住めるように奔走し、三人が住み始めてからは、峠を越えてその家に通うのだった。
ところが、とうとうおかあさんまで亡くなってしまって、おとらおばさんは一郎兄弟を狭い土蔵の家に引き取ることになる。そこから、史郎や達夫、茂、トミオ、クンちゃん、ミヨ子ら、村の子どもたちと一郎兄弟の新しい交流が始まる。いたずらやけんかもすれば、互いに思いやったりもする子どもたちと、戦争直後の厳しさの中でもゆったりとしておおらかな田舎の暮らしが、やがて「母のない子」と「子のない母」を温かく包んでいく。
この作品を読むと、あの戦争を経験した世代の人も、戦争を知らない世代の人も改めて戦争の非道さを思い起すのではないだろうか。また、小豆島でなくても、とにかく田舎の暮らしを知る人たちはだれしも郷愁をかき立てられるのではないだろうか。そんな力を持った作品である。
『母のない子と子のない母と』は思いきって整理した結果すっきりした我が家の本棚に依然として残っている、我が家の厳選された児童書の中の一冊である。(2011.5.15読了)
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by nishinayuu | 2011-08-09 09:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『続 羊の歌』(加藤周一著、岩波書店)


c0077412_10591093.jpg終戦で終わった『羊の歌』に続く本書には、戦後から60年安保までの著者の歩みが綴られている。まず著者は「戦後の虚脱状態」という文句に異議を唱える。「東京の市民は虚脱状態どころかむしろ不屈の生活力にあふれていた」というのだ。そして電車の中の人の好さそうな沢山の顔、子煩悩な父親の顔を眺めながら思う。「昨日悪魔であったかもしれないその男が、今日は善良な人間であり、明日また悪魔にもなり得るだろう」と。性は善なりや悪なりやと考えた末に著者は「そもそも一人の男について、その性の善悪を問うよりは、多くの人間を悪魔にもし、善良にもする社会の全体、その歴史と構造について考えたほうがよかろう」という考えに到達する。さらに「このときの考えは、その後の私のものの考え方の方向を決定した――どんな人間でも悪魔ではないのだから、私は死刑に反対し、戦争はどんな人間でも悪魔にするのだから、私は戦争に反対する」と続く。
この続編では、医者として働きながら文学者の道も歩み始めた著者の、さまざまな人たちとの関わりが語られる。「原子力爆弾影響合同調査団」に参加したときにであったアメリカの軍医たち、血液学の中尾喜久と三好和夫、福永武彦と中村真一郎、フランス文学の渡辺一夫、同じく森有正、パリでであったアメリカ黒人の女性画家、詩人のルネ・アルコス、その息子の嫁・ミシェール、朝吹登美子、ニースでであった画家のマズレール、梅原龍三郎、志賀直哉、小倉朗、吉田秀和、社会学者のドーア、高見順などなど、学界や文壇関係の人びとが次々に登場して壮観である。それだけでなく、京都の女性、シュヴァイツァーに憧れてパリを去ったデンマーク人の看護婦、ルーマニア系ユダヤ人の女性、画廊経営者の女性、フィレンツェでであったヴィーンの女性など、著者が愛した女性や愛したかもしれない女性たちも登場して、著者の全体像を浮かび上がらせる。日本の伝統文化、フランスに息づく中世美術、ウイーンに息づくリヒャルト・シュトラウスやワグナーの音楽、そして医学や政治、社会……と、専門を取り払った著者の論述は多岐にわたる。どの章も感銘深いが、夭折した友人のことを綴った「死別」の章は、著者の痛みの深さに胸が詰まる。(2011.5.11読了)
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by nishinayuu | 2011-08-06 10:59 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『羊の歌』(加藤周一著、岩波書店)


c0077412_10331121.jpg朝日新聞に連載されていた随想『夕陽妄語』(1984-2007)の著者による回想録で、発表されたのは1968年。『夕陽妄語』を読みながら、「智の巨人」とはこういう人のことかと思ったものだったが、その「智の巨人」がどのようにして形成されたかを窺い知ることができる非常に興味深い読み物である。
「祖父の家」のことから書き起こされ、「八月十五日」に至るまでの著者の前半生が語られているが、いつどういうことがあったかということとともに、著者がそれをどう感じたかにも重点が置かれており、その表現が非常に文学的なのが印象的だ。例えばこんな具合である。
「目の前ではまぶしい夏の午後の光のなかで、尾崎氏の娘の洋服の裾がひるがえり、私の妹の笑声が高くひびき、打球の音が続いていた。私には尾崎家の人びとがただそののどかな午後のために生きていたようにさえ思われる。あの妖精のような娘、浮世離れのした父、球を追うことに生真面目に集中していた息子たち……おそらく彼ら自身にとっても最上のときに、そしてそのときにだけ、私は彼らに出合ったのである。」(「高原牧歌」の章)
また、本郷の医学部構内で太平洋戦争突入の報に接したときのことは次のように述べられている。
「私は周囲の世界が、にわかに、見たこともない風景に変わるのを感じた。基礎医学の建物も、樹立も、同級生の学生服も、一年以上毎日見慣れてきたものであり、それはそのまま、初冬の小春日和のしずかな午前の光のなかにありながら、同時に初めて見る風景の異様に鮮やかな印象をよびさました。(中略)その感覚的な印象は、たとえばものの味のように、言葉ではいいあらわし難いが、実に鮮明なもので、再び同じ経験をしたときには、ただちにそれとわかるにちがいないほどはっきりしていた。」(「ある晴れた日に」の章)

ある一瞬をこれほど鮮やかに目や心に焼き付ける感受性と、それを的確な言葉に置き換える表現力を併せ持っているとは、なんとすばらしいことだろう。このように印象的な場面が随所に散りばめられたこの作品は、画集のように楽しむこともできるし、偉大な先輩の考え方、生き方を学ぶテキストとしても読める。ただし著者自身は「あとがき」で、「現代日本人の平均にちかい、こういう日本人が成り立ったのは、どういう条件の下においてであったかを語ろうとした」のだと述べている(!)(2011.5.9読了)
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by nishinayuu | 2011-08-03 10:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)