<   2011年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

『冷たい肌』(アルベール・サンチェス・ピニョル著、田澤耕訳、中央公論新社)


c0077412_1142628.jpg南半球の高緯度の海に浮かぶ孤島に気象観測官として赴任した[私]の1年数ヶ月の物語。
島は端から端までがせいぜい1キロ半ほどで、L字型をしており、南端、すなわちL字の角の高台に気象観測官の住居、北端の小高い丘の上に灯台が建っている。[私]は通常の航路を大きく外れたこの島で、風向きと風の強さを記録するという単調な日々を過ごし、1年後に交代要員を乗せてくる船で帰ることになっている。すなわち、[私]を乗せてきた船は前任者を連れ帰る船でもあるのだが、肝腎の前任者の姿は島のどこにも見あたらない。灯台に行ってみると、そこには全身毛むくじゃらの大男、バティス・カフォーがいたが、前任者のことを尋ねると[その質問には答えられない]と言うばかり。このまま船に戻ろう、と勧める船長に逆らって、[私]がこの島に残ることを選択したのは、地球を半周してやっと目的地に着いたとたんに引き返すなんてばかばかしい、と思えたからだった。船が[私]を島に残して去っていったその晩、[私]がとんでもない選択をしたことが判明する。気象観測官の宿舎が海から押し寄せる怪獣の大群に襲撃されたのだ。
グロテスクな怪獣との格闘、[私]と灯台に住む男がやむを得ず張ることになった共同戦線、怪獣の子どもたちとの出会いがもたらした[私]の気持ちの変化、それに伴う怪獣側の微妙な変化――。蛙のような外観の不気味な怪獣が登場したときは、生理的な嫌悪感を覚えて読むのをやめたくなったが、それでもどうしても先を読まずにはいられない、ミステリーを読むような魅力で迫ってくる作品である。結末は予想できるが、だからといって衝撃の度合いが減じることのない戦慄的な結末である。「冷たい肌」は「黒い肌」とか「黄色い肌」に置き換えることもできる、強いメッセージを内包した作品である。
訳者のあとがきによると――著者は1965年生まれの文化人類学者で、この作品が初めての長編小説。フランコの独裁政権の下で約40年にわたって使用を禁止されていたカタルーニャ語を生き返らせるためにカタルーニャ語で創作活動をする作家の一人として、今後の活躍が期待されている。(2011.2.28読了)
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-29 11:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『No Greater Love』(Danielle Steel著、Dell)


c0077412_1017041.jpg物語は1912年4月10日に始まる。ウインフィールド一家の8人――父のバートラムと母のケイト、長女のエドウィナ、長男のフィリップ、次男のジョージ、次女のアレックス、三女のファニー、赤ん坊のテディ――は、エドウィナの婚約者・チャールズの両親を訪問した後、ケイトの姉・リズとルパート夫妻の豪壮な邸宅に滞在している。邸宅は極地のように寒く、主のルパートは子ども嫌い(著者はイギリス嫌い?)なので、一家のイギリス滞在の終わりは、主にとっても客にとっても喜ばしいことである。こうして一家はアメリカに向かう船に乗る。船の名はタイタニック。処女航海で氷の海に沈んだあの豪華客船である。
物語の3分の1はタイタニックに乗船していた家族8人とエドウィナの婚約者・チャールズの運命に当てられている。1912年4月15日の午前2時過ぎ、父と母、そしてチャールズは船とともに氷の海に消え、6人の子どもたちだけが残される。結婚をひかえた幸せいっぱいの娘だったエドウィナは、一瞬にして5人の弟妹の母親役という過酷な立場に立たされる。女と子ども優先の救命ボートに乗れずに、海に飛び込んだ後で救い上げられた16歳のフィリップ、12歳なのに父が11歳だと偽ったためボートに乗れたジョージ、海が怖くて船室に隠れていたのを見つけられて最後の最後にボートに投げ込まれた6歳のアレックス――みんな恐ろしい体験からなかなか立ち直れない。そんな弟妹をきちんと育て上げることにエドウィナは自分の青春の日々を捧げる。そうして12年後に、エドウィナにやっと明るい日差しが注ぎ始める。
タイタニックの遭難の場面は、ウインフィールド一家という特定の人物集団の行動を追っているので臨場感満点の展開になっている。また、両親と婚約者の喪失そのものと同じくらいエドウィナを苦しめたのが、母が自分たちとともにボートに乗ることを拒んで、夫とともに死ぬことを選んだことだったのだが、それがどうしてそれほどにエドウィナを苦しめたのかが後のほうできちんと説明されている。『Bugalow2』はむだな繰り返しの分が多くてあきれたが、その点この作品には冗長なところがなく、しかも必要なことは充分に書き込まれていて、読み応えのある作品となっている。(2011.2.28読了)
☆タイタニックの遭難場面には、調査記録や研究書に基づいて書かれており、救命ボートが人数分用意されていなかった、2等航海士のライトラーは頑として救命ボートに男性を乗せなかった、すぐ近くの海にいた船は無線を切っていたためタイタニックのSOSは届かなかった、などなど多くの事実がうまく物語に組み込まれています。ただ、タイタニックのバンドが最後にhymnのAutumn(こんな賛美歌あった?)を演奏した、というところがちょっと引っかかったので調べてみました。最近の研究によると、バンドが最後に演奏したのは当時流行していたSonge d’automne(秋の夢)という悲しいワルツだったということです。賛美歌が演奏されたという説もあるので、ごっちゃになったのかもしれませんね。
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-26 10:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『昏き目の暗殺者』(マーガレット・アトウッド著、鴻巣友希子訳、早川書房)


c0077412_10203872.jpg2000年にブッカー賞、2001年にダシール・ハメット賞を受賞した作品で、原題はThe Blind Assassin。作者は現在カナダで最も注目されている作家の一人、翻訳者は現在日本で最も活躍している翻訳家の一人、とくれば、読まずにすますわけにはいかない。
15部からなる物語の冒頭は「橋」というタイトルの短い章で、「戦争が終結して十日後のこと、妹のローラの運転する車が橋から墜落した」という文で始まる。続いて「わたし」(すなわちローラの姉で、後の章でアイリスという名だとわかる)、リチャード、アレックス、リーニー(姉妹の母親代わりだった家政婦)などの名があげられ、不義、父とその悲しい末路、ひと束の学習帳などへの言及がある。次のやはりごく短い章は1945年5月26日付の「トロント・スター」新聞の記事。ここでミス・チェイスすなわちローラ(25歳)が即死したこと、「わたし」がミセス・リチャード・グリフェンであること、リチャードが大工場主であることなどが明かされる。3番目の章は「昏き目の暗殺者」というタイトルの物語のプロローグの形をとっており、作者はローラ・チェイス、発表は1947年ということになっている。ここでは一枚の写真のことが語られているが、語り手がだれなのか、写真の中の人物がだれなのかはまだ明らかにされていない。この章はほぼそっくりそのまま、第15部で「昏き目の暗殺者」のエピローグとして使われている。
第2部からは「昏き目の暗殺者」というローラの死後に発表されてローラを一躍スターに押し上げた作品と、「わたし」が語るチェイス一族の年代記およびグリフェン一族の一代記、そしてところどころに差し込まれる新聞記事、という形で物語は展開していく。さらに「昏き目の暗殺者」の部分では、世間に隠れて逢い引きする男と女が紡ぐ物語と、男が女に語って聞かせるザイクロン星という異世界の物語が展開していく、という複雑な構造になっている。
「昏き目の暗殺者」の逢い引きする男女は何者なのか、異世界の物語に登場する[昏き目の暗殺者]である男と、声を奪われた女とは何を意味するのか、そもそも「昏き目の暗殺者」の作者はほんとうにローラなのか、「わたし」が語りかけている「あなた」とはだれなのか――読む者にさまざまな謎を突きつけながら怒濤のように迫ってくる、圧倒的な迫力と魅力を持った作品である。(2011.2.15読了)
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-23 10:20 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『輝く日の宮』(丸谷才一著、講談社)


c0077412_10361539.jpg若く美しい国文学者・杉安佐子を主人公に据え、日本文学を中心に、日本語文法、古今東西の文学や思想、社会史・世俗史、学界人士の生態、学者一族の生活、などなど広範囲の話題を取り上げた、上下2部からなる大作。もちろんタイトルの「輝く日の宮」論が大きな比重を占めているが、その論に入る前にまず、杉安佐子の学会での発表という形で『芭蕉はなぜ東北へ行ったのか』という「奥の細道論」が展開される。西行の五百年忌やら御霊信仰に絡めた興味深い内容だが、この調子で「輝く日の宮」にたどり着けるのか、とハラハラさせられる。が、そんな心配は無用である。中盤から本格的に源氏物語論に入り、各巻の成立順序、物語の本流と傍流の関係、「輝く日の宮」の巻にまつわるさまざまな学説とそれらの考証など、息をつかせぬ展開となる。そうして出された結論は、「輝く日の宮」の巻は確かに存在していた、というもの。そこには六条御息所と光源氏のなれそめや藤壷と光源氏の最初の逢瀬などが描かれていたが、紫式部の筆が未熟だったため、パトロンであった藤原道長が手許に押さえておいて流布を防ぎ、後に紫式部の同意を得て廃棄した、ということになっている。
というわけでこの作品は、博覧強記の作者による蘊蓄小説なのである。そして同時に、今昔の恋愛模様に通じているらしい作者による恋愛小説でもある。光源氏と女性たち、紫式部と藤原道長という平安時代の恋愛だけでなく、杉安佐子と長良豊、という現代の恋愛にもかなりの紙幅が割かれているのだが、これが実に自由奔放で、しかもやはり奔放に徹しきれなかったりして、なんだか笑える。
最初の章(ナンバーは0!)に杉安佐子が中学3年の時に書いたという恋愛小説を配し、最終章(ナンバーは7)に同じく杉安佐子による「輝く日の宮」を配した構成も見事。若く、美しく、賢い女性の成長の跡が読み取れる。(2011.2.8読了)
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-20 10:36 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

「牡丹の花」


c0077412_9545350.jpg☆新聞のコラム(2010.5.10朝日・天声人語)を韓国語に訳してみました。原文は韓国語の下にある「牡丹の花」をクリックしてご覧下さい。

입하가 지나가고, 바람은 [빛나다]에서 [향기가 나다]로 바뀌었다. 바람을 말하는 이름이 많은데, 혹시 [24번 꽃신풍]을 아시나요? 그것은 연초부터 만춘에 걸쳐서, 계절에 따라 피는 24가지 꽃의 소식을 실어오는 바람을 말한다. 중국 전래의 풍취있는 이름이다.
바람은 먼저 매화의 향기를 가져온다. 다음에는 동백꽃과 수선화, 그리고 서향화. 입춘 무렵에는 목련, 그리고 배꽃으로 이어진다. 더욱이 봄이 끝날 무렵에는 모란꽃의 소식을 가져온다. 모란꽃전선은 벚꽃전선을 따라, 지금은 동북지방 부근에 들어간 모양이다. [올해는 모란꽃전선의 북상이 예년보다 늦어지는 것 같습니다] 라는 소식을, 바람에게서가 아니라 어떤 여성 독자에게 받았다.
동경의 모란꽃은 얼마 전에 만개기를 맞이해서, 필자도 그 꽃으로 유명한 절에서 안복을 누렸다. 벌어지기 시작한 봉오리도, 한창때를 지나 흔들리며 허물어가는 큰 꽃송이도, 둘 다 풍취가 있다. 하지만, 무엇보다도 꽃이 다 폈을 때의 화려한 모습은 황홀하기 짝이 없다. 기품과 부귀를 지닌 그 모습은 [꽃의 왕자]라는 이름에 걸맞다.
[모란꽃은 끝까지 피워나서 조용해지네, 그 꽃이 차지하는 그 위치의 확실함]
키노시타 리겐이 지은 위의 와가는 절정에서 딱 멈추어 있는 아름다움을 뛰어난 솜씨로 묘사하고 있다. 모란꽃은 흰 꽃이나 붉은 꽃도 좋지만, 자흑색 꽃에서는 신비한 향기가 풍긴다. 알 수 없는 깊은 멋을 띠며 햇빛을 반사하고 있었다.
꽃이라고하면 모란꽃을 가리켰던 중국에서는 당나라의 수도 장안에서 크게 유행했다고 한다. 모란꽃 명소라면 어디나 모두 많은 사람들이 몰려나갔다. 구경객으로 흥청거리는 광경을 대시인 백거이(白居易)는 이렇게 읊었다.
[꽃이 피고 꽃이 지기를 20일, 온 성안의 사람들 모두 모란꽃에 미쳤네]
당나라 황제 현종(玄宗)은 모란꽃이 피는 모습을 자신이 총애하는 양귀비에 비유했다고 전해지고 있다. 경국의 꽃이라고 해야 하는가.
[떨어진 후에도 기억속에 떠오르는 모란의 모습] 부손(蕪村)
위의 [모란]은 꽃일까? 아니면 사람일까?

牡丹の花
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-17 09:10 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『真実は銘々に』(ウイジ・ピランデルロ著、能美武功訳、青空文庫)

c0077412_1122518.jpgイタリアの劇作家で詩人のピランデルロ(1867~1936)が1917に発表した戯曲。
ある町がボンザという男とその家族についての噂でもちきりになっている。噂とは、県庁の役人であるボンザが町外れの高い建物に妻を、妻の母親であるフローラ夫人を町中のアパートに住まわせて、二人を会わせないようにしている、というもの。県庁の総務部長・アガジの妻であるアマリアと友人たちが興味津々で待ちかまえるところにフローラ夫人とボンザ氏が交互に現れて語る。
夫人の言い分は――婿が妻(フローラ夫人の娘)の愛情を独り占めしたがっているので、自分はそれを尊重して堪えている。婿は病気なのだ。
一方、婿であるボンザの言い分は――妻は4年前に死んでいて、高い建物にいるのは二度目の妻なのだが、娘の死を受け入れられないフローラ夫人は、病気の婿のために娘に会うのをがまんしているつもりになっている。気が変な夫人のために妻も協力して娘を演じてくれている。
再びフローラ夫人が現れて語る――婿が異常なほど強く娘を愛していたため、娘が身体をこわして1年近く療養した。その間に婿は娘が死んだものと思いこみ、娘が戻ってきても見分けられなかったため、友人たちが狂言を仕組んで「再婚」させたことにした。今ではもとの妻だとわかっているが、また妻を失うのが怖くて再婚のふりをしている。自分は娘が生きていると信じている気の変な女を演じている。
というわけで、二人の話を聞けば聞くほど人びとは混乱する。そして真実はどちらなのか突き止めずにはいられない人びとは、二人の話を裏付ける証拠探しや、二人の直接対決などを画策し、ついには高い建物にいる「妻」を呼びだすに至る。しかしその妻のことばは人びとの意表を突くものだった。
中心になる人物はアマリアの弟であるロージシ。彼は「他人の話を尊重すべきだ、たとえそれが自分の考えとはまるで逆の時でも」という考えの持ち主で、最初から最後まで人びとの真実探しに同調しなかった。どちらも信じよ、さもなければどちらも信じるな、という信念を貫いた彼の「皆さん、真実が見つかりました、ご同慶の至りです」というからかいのことばと、それに続く哄笑で劇は幕となる。(2011.2.3読了)

☆画像は『ピランデルロ戯曲集』のものですが、この作品が収録されているかは不明。
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-14 11:06 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『村の学校』(アルフォンス・ドーデー著、鈴木三重吉訳、赤い鳥社)


c0077412_10345627.jpg『月曜物語』に収録されている「最後の授業」の続編にあたる作品である。
アメル先生が感動的な「最後の授業」をして去ったあと、アルザスの村の小学校には新しくドイツ人のクロック先生が赴任してきた。クロック先生は厳格というより残酷なまでに厳しい教師で、子どもたちにドイツ語を教え込むのにやっきになり、覚えの悪い子どもには容赦なく体罰を与えた。遅刻も理由の如何を問わず厳しく罰せられるので、語り手は、息子が遅刻して罰せられるのを心配した父親によって寄宿舎に入れられた。寄宿舎はクロック先生に輪をかけて意地の悪いクロック夫人が取りしきっていて、子どもたちは脅えながら暮らしていた。中でも語り手が忘れられないのがガスパールという少年。両親を亡くして叔父に育てられていたガスパールは10歳になるまで学校とは縁がなく、野山を駆け回っていたのだが、叔父がやっかい払いのためにクロック夫人の寄宿舎に入れたのだった。ドイツ語が覚えられないガスパールは学校ではクロック先生にいじめられ、寄宿舎に馴染めないためクロック夫人にもいじめ抜かれる。ついにガスパールは逃げ出したが、すぐに連れ戻される。荷車に閉じこめられ、病気の羊のようにうめきながら。
感動的な『最後の授業』と悲惨きわまりない『村の学校』の背景を探ってみると――そもそもこれらの作品の舞台であるアルザス・ロレーヌ地方は長い間神聖ローマ帝国に属していたが、1736年に帝国が政治的理由でフランスに割譲した。このときフランス語が公用語とされたため、ドイツ語に近いアルザス語を話していた住民は新たにフランス語を学習しなければならなくなった。村の学校でフランス語の授業が行われていたのはそのためなのだ。そして1871年、普仏戦争でフランスが敗れた結果、この地方の東半分がプロイセン王国(ドイツ帝国)に割譲された。勝者のプロイセンは比較的穏やかな同化政策をとったが、敗者のフランスでは反ドイツ感情が湧き起こった。まさにこうした時期にフランス人の愛国心を鼓舞するために書かれたのが『最後の授業』であり『村の学校』なのである。それでフランス人のアメル先生は温情あふれる人格者として、ドイツ人のクロック夫妻は人情のかけらもない極悪非道な人間として描かれているのだ。
救いのないこの作品が、鈴木三重吉訳で「赤い鳥」から出されたことに、つまり児童文学扱いをされたことに、違和感を覚えずにはいられない。(2011.2.1読了)

☆この作品は「青空文庫」で読みました。画像はポプラ社の『最後の授業』です。
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-11 10:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ひとりだけのコンサート』(ペーター・ヘルトリング著、上田真而子訳、偕成社)


c0077412_1194720.jpg読書会「かんあおい」2011年2月の課題図書。
フレンツェは3ヶ月後には13歳になる少女。(ただし、ペーター・クノルの絵ではどう見ても男の子にしか見えない。)本屋さんで働いている母親(フレンツェはマムスと呼んでいる)は、夫(ヨハネス)が最近元気がないことを心配している。フレンツェはヨハネスとマムスが言い争ったり、ヨハネスが夜中に帰宅して怒鳴り散らしたりするで、心を痛めている。ある日、昼間にキオスクでビールを飲んでいるヨハネスを見かけたフレンツェは、ボーイフレンドのホルガーといっしょにヨハネスの会社に行ってみる。そして、ヨハネスの会社が他の会社に吸収されてしまったこと、ヨハネスが200万を超す失業者のひとりになっていたことを知る。マムスはヨハネスを理解しようとつとめるが、ヨハネスは心を閉ざし、家を出てしまう。
両親のことが心配で勉強も手につかないフレンツェは、ヴァイオリンを弾くことで心を慰める。ある日、地下街でフルートを吹く少年を見かけたフレンツェは、失業者救済を訴えるためのコンサートを開くことを思い立つ。ホルガーの協力のもとに開いたフレンツェの「ひとりだけのコンサート」はしかし、ヨハネスの気持ちを傷つけてしまい、ヨハネスをいっそう家族から遠ざける結果に終わる。

ペーター・ヘルトリングはドイツの社会派児童文学の書き手で、ドイツでは最も人気のある作家のひとりだという。『ヒルベルという子がいた』(1974)をはじめとして『おばあちゃん』『ベンはアンナが好き』『ヨーンじいちゃん』『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などの作品は、いずれも上田真而子の訳で日本にも紹介されている。(2011.1.27読了)
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-08 11:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『フィオナの海』(ロザリー・K・フライ著、矢川澄子訳、集英社)


c0077412_10113923.jpg1911年にカナダで生まれたイギリス人作家である著者が1957年に発表した作品で、原題はChild of the Western Isles。 
スコットランドの北西部にある群島に小さな蒸気船が向かうところから物語は始まる。舳先には、10歳という年の割には小さな少女、フィオナ・マッコンヴィルが身じろぎもせずに前を見つめて立っている。少女は群島の一つに住む祖父母を訪問するところなのだが、彼女は今、ある決意を持って島に向かっているのだった。それは4年前に家族が街に移り住むまで暮らしていたロン・モル島に行ってみること、そして弟のジェイミーを見つけることだった。フィオナも他の家族も赤毛なのに、ただ一人真っ黒な髪をしたジェイミーは、フィオナの専属の遊び友だちだった。木のゆりかごの中に坐ったジェイミーに、フィオナは知る限りの遊びを教え、新しい遊びを考えてやった。台所の床に貝殻のままごと道具を広げてパーティーもした。そんな弟が、みんなで街へ移る日に、ゆりかごに乗ったまま沖に流されて消えてしまったのだ。それ以来、みんなジェイミーの話をしなくなったがフィオナだけは、ジェイミーはきっと生きている、と信じていたのだった。
この作品はケルトの民間伝承を採り入れた幻想的な物語であるが、幻想的な部分と現実的な部分がうまく融合していて、違和感なく読める。少女が弟に寄せる一途な思いに胸が詰まり、また、赤ん坊だったジェイミーがセルキー(アザラシ族)に見守られながら幼児になっている姿には素直に感動させられる。はらだ たけひで による挿絵と、訳者・矢川澄子による「薄命のなかの少女」という随想のような解説文が作品をいっそう魅力的にしており、本文の文字も全体の作りも美しくできあがっている。(2011.1.30読了)
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-05 10:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『骨狩りのとき』(エドウィージ・ダンティカ著、佐川愛子訳、作品社)


c0077412_10351650.jpg愛するものたちへ、別れのとき』で、実の父と育ての父という二人の父を持つハイチ出身の女性を主人公に、自伝的な家族の物語を書いた著者が、ここでは1937年に起こったドミニカ共和国における「ハイチ人移民大虐殺」を生き延びた女性を主人公に、祖国ハイチの現代史というテーマに取り組んでいる。
アマベルの両親はハイチからドミニカに渡ろうとして、国境の川で溺れ死んだ。ドミニカの富裕層の家に拾われたアマベルは、その家の同年配の少女バレンシアをお嬢様と呼びながら育ち、彼女が軍人のピコと結婚してからはセニョーラ(奥様)と呼んでいる。ある日アマベルはバレンシアが男女の双子を出産するのを手伝った。医者のハビエル先生が間に合わなかったからだ。家からの知らせを聞いたピコが急がせたせいで、ピコと父親のパピが乗った車が、途中でハイチ人の若者を跳ねとばし、若者は谷に落ちて死んでしまう。人を跳ねたと気付いたときにパピは一瞬ためらったが、ピコのはやる気持ちにあおられてそのまま通り過ぎてしまう。こうして人一人を見殺しにして駆けつけた家で、ピコはスペイン系の顔立ちをした男児に大喜びしたのだったが、男児は間もなく急死してしまう。
彼と並んで歩いていて危うく難を免れたセバスチアンはアマベルの恋人だ。死んだ若者ジョエルも、その父親のコンゴも、セバスチアンも、事故のときいっしょにいたもう一人の若者のイーヴスも、みんなアマベルと同じハイチ人で、貧しいハイチから豊かなドミニカに流れてきたサトウキビ労働者たちである。ドミニカとハイチの歴史的、経済的な事情から、ハイチ移民はドミニカで反感と蔑視の対象となっていたが、その反ハイチ人の気運が急速に高まっていることを察知したハイチ人たちは国外脱出を図る。アマベルも、バレンシアに別れも告げずに邸をあとにして、セバスチアンと落ち合うためにハビエル先生の待つ教会へ急ぐ。しかしアマベルはセバスチアンに会うことはできなかった。教会が軍に急襲され、集まっていた人びとはみんなどこかに連れ去られてしまっていた。それは時の権力者、トルヒーヨの主導する民族浄化のための大虐殺の始まりだった。(2011.1.24読了)

☆『大虐殺』の記憶を持ち、西半球の最貧国として苦しんできたハイチが、2010年1月12日の大地震によってまた新たな困難を抱えることになるとは。大勢のアマベルたちに一日も早く平穏な日々が訪れることを願わずにはいられません。
[PR]
by nishinayuu | 2011-05-02 10:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)