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『紙魚家崩壊』(北村薫著、講談社)

c0077412_1710347.jpg1990~2004にかけて雑誌などに掲載された作品9点を集めた短編集である。いろいろな種類の話が寄せ集められており、ちらし寿司を味わう感じ、というところ。この作者独特の蘊蓄がほとんど見られないので、残念ながら会席料理とは言えない。
一番気に入ったのは『おにぎり、ぎりぎり』。このタイトルはすぐ前の作品「サイコロ、コロコロ」に合わせて軽い乗りで付けたものか。それはともかくとして内容はといえば――園芸関係の出版社に勤める千春さんが植物学者の稲村先生のフィールドワークについて行ったときのこと。稲村先生の知り合いの大滝先生の家に泊まった翌朝、千春さんと水町先輩に大滝先生の奥さんを加えた女性陣三人がおにぎりを握る。千春さんは近くのコンビニに牛乳を買いに行く。さて、朝食の準備が整ったところで、のんきにおしゃべりをしていた男性陣もテーブルに着く。おにぎりをじっと見ていた稲村先生が「さっきドアを開けて外に出て行ったのは千春さんでしょう」、と言い出す。論理的に考えればわかる、と得々と説明を始める。大きな丸いおにぎりは体の大きい水町さんが握ったもので、かわいい俵型のは大滝先生の奥さんの作品。すると残りの三角おにぎりが千春さんの作品で、それが一つだけだから外に出たのが千春さんだ、というのだ。ところが女性たちの説明によって、この推理がことごとく見当外れであることが判明する。ここで稲村先生が悔し紛れに一言。「女というのは突然非論理的なことをするから、通常の論理では捕まえられないよ。」
歴史上の名探偵たちの鮮やかな推理というものの危うさを風刺した傑作!である。この他の作品はタイトルだけあげておく。『溶けていく』『紙魚家崩壊』『死と密室』『白い朝』『サイコロ、コロコロ』『蝶』『俺の席』『新釈おとぎ話』。(2010.6.14読了)
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by nishinayuu | 2010-09-28 17:10 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『リリアン』(エイミー・ブルーム著、小竹由美子訳、新潮クレストブックス)

c0077412_1011241.jpgニューヨークで生まれ、心理療法士として働く傍ら小説家、脚本家としても活躍、現在はイエール大学の創作科で教鞭を執っているという著者による2冊目の長編小説で、原題は『Away』。1920年代にロシアの小村からアメリカに移住した一人の女性が敢行した波瀾万丈の旅の日々を綴った物語である。
ポグロムで両親と夫を無惨に殺され、3歳の娘も失ったリリアンは、従姉妹を頼ってアメリカに渡ると、敬虔なユダヤ教徒という過去に決別して新しく生きる覚悟を決める。機転と才覚をフルに使って富豪の劇場主ルーベンに認められ、彼とその息子マイヤー二人を相手に「愛人生活」を始めたのだ。ルーベンの親友ヤーコヴがそんなリリアンを、英語教師・人生の教師として支える。こうして何とか新しい人生に踏み出したリリアンのもとに、やはりアメリカに移住してきた別の従姉妹から衝撃的な情報がもたらされる。死んだと思っていた娘のソフィーが、近所の夫婦に拾われてシベリアに行った、というのだ。ここでリリアンの心は一気に娘の方へ、シベリアへと向かうこととなり、リリアンの「ソフィーを求めて三千里」の旅が始まるのである。
リリアンが住んでいたニューヨークからシベリアに行くには大西洋を船で渡り、ヨーロッパ大陸を横断しなければならない。しかし、ルーベンやマイヤーから金銭的な援助を拒否されたリリアンは、ヤーコヴの助言で、アメリカ大陸を横断して太平洋側に行き、さらに北上してアラスカからベーリング海峡を渡るコースをとることにする。ヤーコヴから渡された地図だけが頼りの、いつのたれ死にしてもおかしくない無謀な旅である。 汚れ、傷つきながらもひたすら歩き続ける健気なリリアン、彼女に手をさしのべる逞しい女たち、人間味のあるゆきずりの男たち――という登場人物の魅力と、アメリカならこんなこともあったかもしれないと思わせる説得力のあるストーリー展開で一気に読ませる傑作ノンフィクションである。
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by nishinayuu | 2010-09-25 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『どちらでもいい』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、早川書房)

c0077412_1013625.jpg5冊目のアゴタ・クリストフ。訳者のあとがきによるとこの短編集は、1970年代~1990年代前半ごろまでのノートや書き付けの中に埋もれていた習作の類を一冊にまとめたものだという。
なにこれ、と思いながら読んでいたので、最後にあとがきを読んで納得したが、それでも短編としてまとまっていて「ちょっと好きかもしれない」と思える作品がないわけではない。それで、収録作品を「読んでいて心地よい」「読んでいて心地悪い」「なにこれ?」の三つに分けて以下に記しておく。
【心地よい】――『北部行きの列車』『我が家』『ある労働者の死』『家』『郵便受け』『間違い電話』『田園』『街路』『ある町のこと』『私の父』
【心地悪い】――『斧』『子ども』『我が妹リーヌ、我が兄ラノエ』『母親』『ホームディナー』『製品の売れ行き』『私は思う』
【なにこれ】――『運河』『もう食べたいと思わない』『先生方』『作家』『どちらでもいい』『運命の輪』『夜盗』『復讐』

『私の父』のみは「わたしがまだ父の娘であった頃」という文から語り手を女性と特定できるが、意識せずに読んでいるとどの作品も主人公や語り手が男性もしくは性別なしであるように読める。それほどに作者が女性であることを意識させない乾いた文体で綴られていて、この点は上に挙げた長編4冊と共通する。

ところで著者は1935年生まれであり、病気も抱えていることから、この先長編の新作が発表される可能性は極めて少ないらしい。残念なことである。(2010.6.9記)
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by nishinayuu | 2010-09-22 10:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『失われた時を求めて 3』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社)

c0077412_10242644.jpgこの巻には原作の第二編『花咲く乙女たちのかげに』の第1部「スワン夫人を巡って」と第2部「土地の名・土地」が収録されている。
青年期にさしかかった語り手はジルベルトの男友達としてスワン家に出入りするようになっている。そこで語り手が目にするのは優雅なサロンの女主人に納まったスワン夫人・オデットと、昔とは別人のようなスワンの姿である。一流の人士だったスワンが、オデットのサロンに集まる格の落ちる人たちを、あたかも一流の人たちのように大切に扱い、彼らとの交流に満足しているようなのだ。そんなスワン夫人のサロンであるが、語り手はそこで作家のベルゴットに出会い、その意外な容貌にはがっかりするが、ベルゴットの話には興味深く耳を傾ける。ベルゴットが語り手を「すばらしく頭がいい」と褒めたと聞いて、両親は語り手がスワン家に出入りすることに反対しなくなる。
語り手はスワン家に足繁く出入りし、オデットやジルベルトと共に過ごす時を楽しむが、やがてジルベルトの心が語り手から離れて行き、手紙のやりとりもうまくいかなくなる。語り手はあれこれ策を弄してジルベルトの気持ちを取り戻そうとするがうまくいかずに苦しむ。
第2部は第1部の二年後の話で、語り手は祖母と一緒にバルベックに保養に行くが、この頃にはジルベルトとの交流は完全に切れており、語り手の心も彼女から離れて落ち着いている。母親との一時的な別れの方が語り手にとってはより大きな苦しみであり、悲しみなのだ。それでも語り手は汽車の旅を楽しむ。窓外を流れる風景の中に現れる田舎の家から姿を現して駅に向かってくる牛乳売りの少女を見ながら、あれこれ想像を巡らすときの幸福感、憧れていたバルベック教会を実際に目にしたときの失望感、バルベックのホテルに到着したときの複雑な緊張感などが、作者独特の綿密な筆致で語られる。(2010.6.9記)
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by nishinayuu | 2010-09-19 10:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『台所の音』(幸田文著、講談社)

c0077412_9534643.jpg読書会「かんあおい」2010年6月の課題図書。読書会で幸田文を取り上げるのは、2010年2月の『木』に続いて2回目である。
10編の作品が収められた短編集である。病気や病人、老いを扱ったものが多いこと、著者の体験が反映されているとおぼしきものが多いことが特徴といえる。主な作品をあげると……
『台所の音』――ちいさな料理屋を営む夫婦の話。病に倒れた夫は寝床の中で、台所で働く妻が立てる物音から妻の心理状態や疲れ具合を察し、あれこれとアドヴァイスをする。夫の病が不治のものであることを隠している妻は、自分の立てる音からそれを悟られないように身を引き締める。父・幸田露伴と娘・文の関係を夫婦に置き換えたのではないかと思わされる作品。
『雪もち』――清酒問屋の妻だった頃の体験記か。「酒粕」を届けるために友人を訪ねると先客があった。ずっと後に、その客というのは結婚前に夫が付き合っていた女性だったとわかる。
『食欲』――経済的に立ちゆかなくなっても昔のままの暮らし方を通す坊ちゃん育ちの夫と、そんな夫に愛想を尽かして離婚を考えている妻。ところが夫が病を得て入院、という事態になり、夫は当然のように妻に全面的にもたれかかり、わがままいっぱいの病院生活を送る。そんな夫にあきれながらも、やむを得ず奮闘する妻の心の動きが、こと細かく分析されて綴られている。
『祝辞』――結婚披露宴にふさわしくない不吉な祝辞を受け取った夫婦の、波瀾万丈のその後。
『呼ばれる』――脳腫瘍で視神経をやられて失明してしまった35歳の息子と、それを見守る老夫婦の日々。nishinaはこの作品がいちばん心に残った。
巻末の解説(高橋英夫)にある幸田文評に次のようなことばがあって、なるほどと思った。
「幸田文は稀有の人であった。露伴の娘という出生を、単に与えられた条件として身を託すのではなく、自ら孜々として生き、きりりと言葉を引きしめて、稀有なるものをおのれのものとした人であった。」(2010.6.7記)
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by nishinayuu | 2010-09-16 09:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『Through the Looking Glass』(Lewis Carroll著、 Puffin Books)

c0077412_8561229.jpgルイス・キャロルによる児童書の古典。『不思議の国のアリス』と同じくジョン・テニエルの挿し絵がふんだんに入っている。
『不思議の国』の時より少し大きくなって幼児期を脱したアリスが、鏡の向こうに見える部屋に入ってみたい、と思いながらその部屋を見つめていると、鏡が霧のようにぼやけていって、気がつくと鏡を通り抜けていた。その部屋の中には王様や女王様、兵士(ポーン)や馬(ナイト)や「お城」(ルーク)が歩き回っているチェスの世界が広がっていて、アリスは奇妙なものたちに出会い、奇妙な冒険をしながら、広大なチェス盤の上をひと枡ずつ進んでいく。アリスは最初、ポーンとして2列目にいて、いくつもの川(枡と枡の境目)を越えて8列目に達すると、女王に昇格するのである。
この鏡の中の世界はまた、奇妙な詩のあふれている世界でもある。たとえば「ジャバウォッキー」という詩は一定の韻律を持ち、脚韻も踏んでいるれっきとした定型詩なのだが、意味不明・発音不明のことばの連なりで、アリスは「rather difficult」と言っているが、ratherではなくものすごく難解な詩である。この他にも「セイウチと大工」という長大な詩や、マザー・グースからそのままとったもの、変型したもの、などが入っていて、楽しくもあり、面倒でもある。
さて、上記の難解な詩を翻訳者はどう訳しているのが知りたくて、web検索をしてみた。「ジャバウォッキー」の訳は下記のサイトの訳が最高(と訳者本人も言っている!)で、他の部分の訳もすばらしかった。
http://www.genpaku.org/alice02/alice02j.html
(2010.5.31記)
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by nishinayuu | 2010-09-13 08:56 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『アブサン・聖なる酒の幻』(クリストフ・バタイユ著、辻邦生・堀内ゆかり訳、集英社)

c0077412_8112123.jpg19世紀の世紀末にヨーロッパで大流行し、フランスでは1915年に全面的に禁止されたという神秘的なアルコール飲料・アブサンにまつわる幻想的な物語。
序章で語られるのは、普仏戦争の折に前線でアブサンと出合ったジャン・マルデという男の物語である。ジャンが前線から故郷に戻ってみると、村は葡萄の病害のせいで酒作りによる暮らしが立ちゆかなくなっていた。ジャンは妻子を村に残してアルゼンチンに渡り、働きながら故郷に仕送りを続けるが、そこで再びアブサンに出合って製造法をきわめると、再婚してその地に居着いてしまう。続く「ジョゼの道」と「アブサン」の章には私という語り手が登場し、語り手の少年時代に南フランスの片田舎の村でアブサン作りをしていたジョゼについて語る。語り手は、ジョゼが味わい深いフランス語で語るいろいろな物語を聞いたり、ジョゼが魔術師のように蒸留酒を造るのを眺めたりする。
そのあとの章、「大捜査」「感応」「禁止令」では、アブサンに魅せられていた語り手の両親のこと、アブサン禁止に到る流れのこと、そして1915年にジョゼが姿を消したことなどが語られる。
ところで、ジャンがアブサンと出合ったきっかけはリンドウで、アルゼンチンでもリンドウを見てアブサン製造にとりかかっている。しかしほとんどの場面でアブサンの主原料はニガヨモギ、と記述されている。ネットで調べたところ、ニガヨモギ(Artemisia absinthium)で作られた緑色のものが一般的で、南フランスではリンドウ(Gentiana scabra var.buergeri)で作られた黄金色のものもあったという。ところが、「アブサン」の章の3でジョゼは「金色の方は、ジャンティアナ・リュテアというアブサンなんだ。(中略)これは危険なアブサンだから飲んではいけない」と語り手に言って、そのアブサンの入った瓶を丘の上から投げ棄てている。そして「ジョゼが作っていたのはアルテミジア・アプシンティウムを使った純正アブサンで」という文が続くのであるが、同じ章の4になると「ジョゼの地下室の天井では、リンドウの詰まった大袋が乾かされていた(中略)この草はジョゼが摘んできたものだった」という記述が現れる。ジョゼが作っていたのはいったいどちらのアブサンなのだろうか。(2010.5.28記)
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by nishinayuu | 2010-09-10 08:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『抱擁』(辻原登著、新潮社)

c0077412_10141492.jpg物語の舞台は現在の目黒区立駒場公園、物語の当時は加賀・前田侯爵の邸宅と庭園で、時は2・26事件の翌年である。語り手は前田家の次女緑子(5歳)つきの小間使いとしてこの屋敷にやってきた18歳の娘。登場の段階から最後の最後まで、「あなた」と呼ばれるだけで名前は出てこない。緑子とも互いに「あなた」と呼び合うことにした、と始めのほうにその事情を説明する用意周到な文言がある。前田家のイギリス人家庭教師ミス・バーネットがyouを翻訳して使っている呼称で、とても新しい、親しさと節度を兼ね備えたことばだと語り手は考えている。「あなた」で呼び合う親しさと節度を兼ね備えた人々に囲まれ、豪華なお屋敷での日々が始まる。作者は語り手の目を借りて、この邸宅と庭園の姿を、駒場公園の観光案内よろしく丁寧に紹介している。
さてその語り手が、緑子の身近で生活し始めて間もなく、緑子が時々あらぬ方を眺め、目に見えない誰かにむかって話しかけるのを目撃する。やがて語り手は、「ゆきの」という前任者を緑子が非常に慕っていたこと、その「ゆきの」は2.26事件で処刑された青年将校のところに事件の少し前に嫁いでいて、夫が処刑されたあと、自殺していたことを知る。緑子の不可解な言動は「ゆきの」となにか関わりがあるのか。語り手が相談したミス・バーネットは、緑子はなにかにポゼスされているのかもしれない、あるいはポゼスされているのは語り手の方かもしれない、と言う。事態はしだいに抜き差しならない状態に転じてゆき、ついに事件が起こる。
最後に緑子は語り手に○○と呼びかけるのだが、ここで語り手に名前が与えられていなかったわけが解明される。作者はこの結末のために意図的に語り手に名前を与えなかったのだ。(2010.5.25記)
☆以上のようにnishinaは読んだのですが、実はあまり自身はありません。なにが(だれが)なにを(だれを)ポゼスしていたのかも最後の○○でわかったと思ったのですが……。
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by nishinayuu | 2010-09-07 10:14 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『叶えられた祈り』(トルーマン・カポーティ著、川本三郎訳、新潮社)

c0077412_103423100.jpg1984年に59歳で急逝したカポーティの遺作で、未完の作品である。
第1章「まだ汚れていない怪獣」、第2章「ケイト・マクロード」、第3章「ラ・コート・バスク」という三つの章からなり、前の二つの章はP・B・ジョーンズという主人公が語る物語になっている。南部で孤児として育った主人公は作家修業中のゲイで、マイアミ、ニューヨークでの生活を経てパリ、ベニス、タンジールなどを放浪し、セレブリティーの世界に寄生するようにしてのし上がってきた人物で、今はマンハッタンのYMCAに寝泊まりして『叶えられた祈り』という傑作を執筆中である。すなわちこの主人公の経歴はカポーティ自身のそれとほぼ重なっており、執筆の経緯がそのまま作品になる点やセレブリティーの世界を描いているという点で、この作品はうまくいけばアメリカ版の『失われた時を求めて』になったかもしれないのだ。
しかし結局、カポーティはプルーストにはなれなかった。セレブリティーたちを実名やすぐに誰とわかる形で登場させ、彼らの言動や彼らに関するゴシップを暴露したために、セレブリティー社会から総スカンを食ってしまったのだという。成り上がり者が身の程も弁えず、ということだろう。特に第3章は文学というより週刊誌のゴシップ欄の様相を呈していて、知らない社会を知る面白さはあるけれど、知る必要のない情報にもあふれていて、あまり愉快とは言えない。また、未完のため、第3章と前の二つの章との繋がりも判然とせず、文学作品という観点からも、『失われた時を求めて』には遠く及ばない。(2010.5.24記)

☆セレブリティーの社会、ゲイの社会、ユダヤ人かどうかを日常的に意識する社会――普段は縁のない世界を知るという点では得るところの多い作品ではありました。ところで、この文でゲイということばを2回も使ってしまったのが気になります。以前、メイ・サートンのある作品をアマゾンで検索したのですが、それ以来アマゾンから頻繁にレズビアン関係の本を勧めるメールが頻繁に送られて来るようになって参っています。検索履歴の利用を広く認める動きが進んでいるようですが、絶対反対!
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by nishinayuu | 2010-09-04 10:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『背徳のクラシックガイド』(鈴木敦史著、洋泉社)

c0077412_1014492.jpg「美術や文学などでは、奇想の○○、異端の××といった、アウトサイダーものが根強い人気を集めている。クラシック音楽の中にもそういった側面があるはずなのに……(中略)異端なるものの放つ妖しい光に吸い寄せられ、クラシックの長い道を歩むのも、また楽しからずや」という著者によるガイドブック。
第一部の演奏編に39枚、第二部の作品編に48枚、という膨大な数のディスクがとりあげられている。したがって一枚のディスクについての評は1ページないし2ページという短さである。その限られた長さの中で著者は、名・迷曲も名・迷指揮者も名・迷奏者も、片っ端から情け容赦なくやっつけていく。笑いや受けを狙ったような語り口が気にならなくもないが、いつの間にかその語りが快くなるほど、話の中身は充実している。「格闘する二人の怪物が開く異界の扉」(ホロビッツとジョージ・セルによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番)、「北欧を蹂躙するロシアン・パワー」(ロジェストヴェンスキーが指揮するシベリウスの交響曲5番)、「ブラームスすぎるショパン」(クレンペラーが指揮するショパンのピアノ協奏曲1番)など、各項目のタイトルもふるっていて、タイトルだけでも楽しめる。
ただ、すべて特定のディスクについての評なので、読者が当該のディスクを持っていないと話にならない、という感じもする。いくら文章表現が面白くても、話題になっている音楽が聞こえてこなければ、面白さも半減、場合によっては皆無となる。特に第2部で取り上げられている曲は一般的ではないものが多く、よほどの通でないとついて行けないのではないだろうか。というわけで、この本にふさわしい読者は、ここで取り上げられているディスクをすでにたくさん持っている人、あるいは小遣い銭が潤沢でこれらのディスクをすぐに買い集められる人、という2種類の人になりそうだ。(2010.5.19記)
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by nishinayuu | 2010-09-01 10:14 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)