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『鶴』(黄順元著)

c0077412_9235434.jpg『학』(황순원著)
日本語タイトルは『鶴』で、副題は「38度線に近いこの北の村」。韓国の作家・黄順元(ファンスヌオン)が1953年に発表した短編である。
時は韓国戦争(朝鮮戦争)のまっただ中。北と南の勢力圏が北緯38度線付近でせめぎ合っていて、現在は北の勢力圏に入っている天台、青丹などが、この小説では南側の勢力圏に入っている。
ソンサムが子ども時代を過ごした38度線に近い村には、南側の臨時治安隊事務所が置かれている。治安隊員のソンサムはこの事務所で、縄をかけられて護送されるのを待っている青年を見て驚く。幼なじみのトクチェだった。農民同盟の副委員長だったトクチェは、北に逃げずに家に潜んでいて捕まったのだ。ソンサムはトクチェを青丹まで護送する役を買って出る。
二人で歩き始めた時には憎い敵にしか見えなかったトクチェ。しかしソンサムの胸に、トクチェと過ごした子ども時代のあれこれが蘇ってくる。そして、その後の暮らしについて尋ねたりするうち、トクチェが政治思想とは無縁の純朴な農民でしかないことがわかってくる。やがて二人は38度線の緩衝地帯近くまでやって来て、そこに以前と変わらずに棲み着いている鶴の群を発見する。二人は昔ここで鶴を捕らえたことがあった。ソンサムが出し抜けに、「おれがこれで罠を作っておくから、おまえは鶴を追ってこい」と言うと、トクチェの縄を解いて、草原に入っていく。(2009.7.18記)
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by nishinayuu | 2009-08-31 09:18 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

倭建命 その11   白鳥の陵


☆『古事記』の再話と韓国語訳です。

倭建命が崩御すると人びとはすぐに朝廷に使いを送った。やまとのおいでになった后たちをはじめ、御子たちまでがやまとから下ってきて御陵を造った。そして近くのなづき田を這いまわって嘆き悲しんで歌を詠んだ。

なづきたの 稲幹(イナガラ)に はひもとほろふ ところづら
(慣れ親しんだ田の稲の茎に絡みつくヤマノイモの蔓)

そのとき倭建命は大きな白千鳥になって、空に上り浜に向かって飛んでいった。それで后と御子たちが、笹の切り株で足が傷だらけになっても痛いのを忘れて、泣きながら追いかけたんだよ。その時の歌は

あさしのはら こしなづむ そらはゆかず あしよゆくな
(丈の低い淺篠原なのに足腰の動きがままならず、空を飛べずに歩いて行かねばならないよ)

それから海に入って難渋しながら進むときに歌ったのは

うみがゆけば こしなづむ おほかわらのうゑぐさ うみがはいさよふ
(海を行くと腰がはかばかしく動かない、大河の水面に浮かぶ水草のように海を漂うばかり)

また、白千鳥が飛んで、磯を行くときの歌

はまつちとり はまよはゆかず いそづたふ
(浜千鳥よ、追いかけやすい浜を通らずに私たちが歩きにくい磯のほうを通るのだね)

この4つの歌は皆、倭建命の葬礼の時に歌ったのだよ。だから今でもその歌は天皇の葬礼の時に歌うのだそうだ。


야마토타케루-미코토가 돌아가시자마자 사람들은 조정으로 사자를 보냈다. 야마토에 계시던 미코토의 배우자들을 비롯하여 왕자,왕녀들이 모두 내려와 무덤을 쌓았다. 그리고 그 왕릉에 가까운 나즈키-논에서 기어 돌아다니면서 통곡하며 노래했다.

나즈키-논의 볏대에 매달리며 기어 돌아다니는 참마 덩굴들

그때 야마토타케루-미코토는 커다란 흰 물떼새가 되어, 하늘 높이 비상하여 바닷가로 날아갔어. 그러자 왕비,공자,공주들이 조릿대의 그루터기로 인해 발이 많이 다쳤는데도 아픔을 잊어버리고 통곡하면서 뒤쫓아갔단다. 그때의 노래에 말하기를,

이 대 들판은 얕은 들판이지만, 허리가 붙잡혀서 비상하지 못하니 걸어서 가야하네

그리고 바닷물에 들어가 고생하며 나아갈 때 노래하기를,

바다를 가면 허리가 붙잡히네, 큰 강 수면에 뜨는 물풀들처럼 바다를 떠다니네

또 흰 물떼새가 바위가 있는 물가에 나라갈 때에 노래하기를,

흰 물떼새여, 바닷가를 가지않고 물가를 타고 가는구나

이 네개의 와카는 모두 야마토타케루-미코토의 장례식에서 불려졌단다. 그래서 오늘날까지 그들 노래는 천황의 장례식 때 사용되고 있단다.
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by nishinayuu | 2009-08-29 17:04 | 再話 | Trackback | Comments(0)

『次郎物語 第2部』(下村湖人著、池田書店)

c0077412_9433860.jpg第1部で亡くなった次郎の母は、今では観音様のような俤を次郎の心に残している。お祖母さんが意地悪なのは相変わらずだが、兄の恭一や弟の俊三とはごく普通の兄弟らしい交わりができるようになっている。特に恭一は、中学受験を控えた次郎を何くれとなく世話し、次郎も恭一を兄として、また先輩として頼りにするようになる。新しい出会いもある。父が「次郎のために」再婚したお芳、お芳の家族である大巻の豪快な老夫婦とお芳の弟・徹太郎、担任の権田原先生などである。こうして次郎の世界は少しずつ広がっていく。
次郎は、一度は受験に失敗するが、一年後には無事に中学生になる。しかし入学早々、在校生との対面式をきっかけに、上級生と対決する羽目に陥る。ここでいよいよ、後に次郎の精神的な成長に大きな影響を与えることになる朝倉先生の登場となる。
参考までに作者の「あとがき」の一部を引用しておく。
「第一部において、彼の幸不幸を決定したものは、主としてその環境であった。そして、彼はその環境に対して、いつも、自然児的、本能的、主我的な闘いを闘って来たのである。だが、第二部においては、彼は徐々に彼自身の内部に眼を向けはじめ、そこに、周囲から与えられる幸福以上の何ものかを、探し求めようとしている。かくて彼の闘いは、次第に、理性的、意志的、道義的になって行くのである。」(2009.7.11記)

☆この作品は「青空文庫」で読みました。画像は偕成社文庫のものです。
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by nishinayuu | 2009-08-27 09:44 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『The Water-Babies』(Charles Kingsley著、 Project Gutenberg)

c0077412_939443.jpgイギリスの作家・イギリス国教会の聖職者であるキングズリー(1819~1875)作の童話。日本語訳は岩波書店(『水の子』)、偕成社(『水の子どもたち』)などがある。
作家が子どもに語りかける形で綴られているが、言葉づかいや語り口は大人向けのもので、言葉遊びやら百科全書的知識の披瀝に走っている箇所も多い。大人も楽しめる童話、というより大人でないと楽しめない童話であろう。
煙突掃除の親方のもとでこき使われている少年・トムが、お屋敷の煙突掃除の最中にお嬢さんの部屋に姿を現してしまい、無我夢中で逃げだす。お屋敷の人たち、煙突掃除の親方など大勢に追いかけられて力尽きたトムは、川に落ちてそのまま「水の子」になってしまう。ここで作者の、「水の子」というものが存在することを納得させるための説明、が長々と展開される。曰く「陸亀がいれば海亀もいるし、陸の草があれば海の草もあり……」云々。とにかくトムは水の子になってさまざまな生き物や妖精たちと出会い、やがて一人前になるための旅に出る。(2009.7.5記)

☆作中に、オランダ人を母にポーランド人を父にもつある教授の専攻学問の名称として
Necrobioneopalaeonthydrochthonanthropopithekology
ということばが出てきます。もちろん作者の作ったことばでしょうが、「英語でいちばん長い単語は?」という質問にうんざりした人が作りだしたということばで、Mary Poppinsにも出てくる
Supercalifragilisticexpialidocious
は辞書に載っているのに、なぜこちらは辞書に載っていないのでしょう。

☆画像はCollins社のものです。
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by nishinayuu | 2009-08-24 09:39 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ゼバスチアンからの電話』(イリーナ・コルシュノフ著、石川素子・吉原高志共訳、福武書店)

c0077412_9394125.jpg読書会「かんあおい」2009年8月の課題図書。原書は1981年の出版。ギムナジウム10年生(16~17歳)のザビーネを語り手にして、ある年の春からクリスまでの日々を描いた青少年向けの作品。

ザビーネは両親、弟と一緒にミュンヘンに住んでいた。ところがある日、父が農村地帯にあるエッラーリンクへの転居を一人で決めてしまう。ローンのために切り詰めた生活を余儀なくされること、買い物にも通学にも非常な不便を強いられること、友人たちと別れねばならないことなど、家族のものにはなんのメリットもない転居だが、庭仕事ができるという期待で父は上機嫌である。そんな身勝手な父に逆らうことなく、祖母から譲り受けたビーダマイアーの家具を手放してまで協力する母に、ザビーネは反発を覚える。
その反発はザビーネ自身に向けられたものでもあった。実はいつの間にかザビーネも母と同じく、自分の夢や希望を犠牲にしてでも夫や恋人のために尽くしたいと思うようになっていたのだった。
ザビーネはもともと、将来大学で化学を勉強したいと考えていた。ところが彼女のその目標は、10ヶ月前に3年上のゼバスチアンと知りあってから、ヴァイオリニストをめざしている彼のために身の回りの世話をし、演奏旅行について回りたい、という夢に席を譲ってしまっていた。ヴァイオリンを第一に考えていて、ザビーネを重たく感じだしたゼバスチアンから、きみも何か大事なものを見つけたほうがいい、と言われたザビーネは、ゼバスチアンとの連絡を絶ったまま引っ越してしまう。

昔ながらの女性の役割に縛られている母。そんな母を疎ましく思いながら同じ道に入り込みそうになっている娘。そんな二人がそうした女性の生き方に疑問を抱くようになり、自己実現をめざす一個の人間として生き始める物語。(2009.7.4記)
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by nishinayuu | 2009-08-20 09:36 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ハート・ビート』(シャロン・クリーチ著、もきかずこ訳、偕成社)

c0077412_1023488.jpg読書会「かんあおい」2009年7月の課題図書。
12歳の少女・アニーの日常と心の動きを詩の形式で綴った作品。
アニーが好きなのは――走ること、絵をかくこと、笑うこと。恐れるのは――戦争、自分という存在がなくなること、愛してくれる人のないまま取り残されること。アニーは13歳の男の子・マックスと毎日いっしょに走る。競争ではなく、ただ走りたいから走るのだ。ある日、アニーのお母さんに赤ちゃんが生まれることがわかる。おじいちゃんは「はりにロープをかけて」赤ちゃんに部屋を譲ろうとするし、アニーは得体の知れない赤ちゃんに「かぼちゃ」とか「エイリアン」と呼び名をつける。みんな期待で一杯なのだ。こういう温かい家族の情景と並行して、絵の授業で「一日にひとつのりんご」を描くという課題がでる話やら、いつも裸足で走るマックスに靴を送る話やら、陸上部からの執拗な誘いを蹴る話やらが、リズム感のある文で語られていく。愉快なのは「脚注」という章の後、アニーがさまざまな言葉に脚注をつけていくところ。
すっきりと短い文が並んでいるだけの簡単な読み物ながら、内容は濃い。(2009.7.1記)
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by nishinayuu | 2009-08-17 09:53 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

詩「地球の円環」

☆詩「地球の円環」(工藤直子)を韓国語にしました。

지구의 순환

수풀 저 쪽에서 속삭이는 소리가 들린다
다가가 보았더니, 작은 연못이 힘껏 하늘을 올려다보고 있었다
---기다리고 있었습니다. 옛날 저는
당신에서 떨어진 하나의 빗방을이었습니다
---아아, 자네는 거기에 있었구나
기억하구 말구. 옛날 자네는 나였지
하늘에서 소리가 쏟아진다. 부드러운 잿빛 비구름이다
---당신이 계시는 곳으로 돌아가고 싶습니다
네, 저를 끌어 올려주세요!
---그것은------해님의 역할인 게지
우리는 커다란 동그라미로 연결되어 있으니
언젠가 어디선가에서 다시 만나자꾸나
---예, 꼭 뒤따라붙겠습니다. 기다려주어요
비구름은 서서히 떠나가고, 연못은 잔잔한 미소를 띄우며 하늘의 뒷 모습을 바라본다
그 것은 천년 만년 되풀이되는
만남과 헤어짐의 [찰나의 풍경] 이었다


地球の円環     工藤直子

林のむこうから ささやく声がきこえる
近づくとちいさな池が いっしんに空をみあげていた
――まっていました むかしわたしは
   あなたからこぼれた雨の一粒でした
――ああ きみはそこにいたのか
   おぼえているよ むかしきみは ぼくだったね
空から声がふってくる 柔らかい灰色の雨雲だ
――あなたのところに帰りたい
   ねえ わたしを釣りあげて!
――それは……おひさまの役目なんだよ
   ぼくたちは おおきなで結ばれているから
   いつかどこかで また会おうね
――ええ きっと追いつきます 待っててね
雨雲はゆっくり去り 池は波紋の微笑をうかべて見送る
それは 千年万年くりかえす
出会いと別れの「一瞬の風景」だった
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by nishinayuu | 2009-08-15 09:56 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『狂った旋律』(パオロ・マウレンシグ著、大久保昭男訳、草思社)

c0077412_9284278.jpg一挺のヴァイオリンをめぐって繰り広げられる数奇な物語。作者は1943年にイタリア東北端のゴリツィアに生まれ、雑多な仕事を経たあと50歳で作家デビューしたという。第二作目であるこの作品は、初めの語り手が次の語り手へ、それがまた第三の語り手へ、とバトンタッチして行く形式で展開して行き、最後の語り手のところにきてやっと物語の全体像が見えてくる、というミステリー的な仕立てになっている。

最初の語り手である「私」はロンドンのオークションで17世紀チロル産のヴァイオリンを手に入れる。添付の説明書には、この楽器の最後の所有者として、「私」のよく知っている精神病院の名が記されていた。「私」がこの楽器との出会いを存分に楽しもうとしていたとき、突然ひとりの男が尋ねてくる。
第二の語り手である来訪者は、この楽器への執着心のために尋ねてきたのだった。この第二の「私」は、この楽器はある物語に関係があるもので、それを話してくれた人物が生身の人間として生きていたことの証でもある、と言ってその人物について語り始める。バッハ生誕300年のウィーンで「私」が出合ったその人物は、安酒場をまわって歩く流しの芸人で、完璧とも言えるほど見事にヴァイオリンを操っていた。年齢不詳だが、50はとっくに過ぎていると思われた。
第三の語り手の「私」は当の流しの芸人で、名はイエネー・ヴァルガ。ハンガリーの小村で父親を知らずに育つ。ヴァイオリンは戦場で行方不明になったという父親の形見の品だった。ヴァイオリンに見せられた「私」は子供用のヴァイオリンを与えられて以来めきめき腕を上げ、ついには名門音楽学校で学ぶ身となる。寄宿制の抑圧的なこの学校で得た唯一の友人、クーノ・ブラウの招待で、「私」はブラウ家に滞在することになる。城館のような邸宅と貴族的人びと……夢のように始まったこの滞在が、「私」の運命を変える。
そして第四(?)の語り手の登場となって物語は終わる。

話のおもしろさと翻訳文のすばらしさで一気に読ませる小説である。が、弘法も筆の誤りのようなおかしな文が見つかって、とても気になったので記録しておく。
第三の語り手が語っている部分に出てくる文。「とりわけ、調理場で働いていて、食事の時間になると、大鍋を載せた台車を押しながら私たちのアルミの皿にスープを注いでまわる女たちは、憐憫の思いのあらわな目で私たちを見やることがときどきでした。」(2009.6.28記)
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by nishinayuu | 2009-08-13 09:28 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『次郎物語 第1部』(下村湖人著、池田書店)

c0077412_937298.jpg小学生時代に夢中になって何度も読んだ(それを母がなぜかちょっと不愉快そうにしていた)懐かしい作品を「青空文庫」で発見。またまた夢中で読んでしまった。
生まれた直後からばあやに預けられた次郎は、ばあやとの生活にすっかりなじんでしまい、実家に連れ戻されることになるとめちゃくちゃに抵抗する。それがもとで母親としっくりいかなくなり、兄や弟、祖母からも疎まれて、家族の中でのけものになってしまう。父だけが見方をしてくれるようだったが、その父は仕事の都合で土日にしか家に帰ってこない。愛情に飢えて意固地になっていた次郎の小学生時代を描いた作品である。
書き出しの――「しゃくにさわるったら、ありゃしない。」と、うばのお浜が、台所のあがりがまちに腰をかけながらいう。――という文をはじめとして、父からカステラを箱ごと渡される話、正木のおじいさんと星を見る話、家の競売の話――などなどの懐かしいエピソードにまたまた引き込まれ、感動しながら読んだ。(2009.6.26記)

☆画像は偕成社文庫のものです。
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by nishinayuu | 2009-08-10 09:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『私の美しい庭園』(シムユンギョン著、ハンギョレ新聞社)

c0077412_14553872.jpg『나의 아름다운 정원』(심윤경著、 한겨레신문사)
1972年生まれの作家が2002年7月に発表し、第7回ハンギョレ文学賞を受賞した長編小説。
ソウル市の北西部にある仁旺山は、鍾路区・清雲洞と西大門区・弘済洞にまたがる標高338mの小さな山で、家々が山肌に貼りつくように立ち並び、いわゆるサンドンネ(比較的貧しい住宅街)を形成している。麓から上に行くほど家は小さくなり、表門のない家が増える。そんななかに一軒だけ、立派な庭園のある三階建ての家がある。夏になると朱色の凌霄花が風に揺れ、山雀がツツピー、ツツピーと囀りながら飛び回るこの庭園が「私の美しい庭園」であり、主人公トングの少年時代の憧れを象徴する場所である。
トングの家はいちおう表門もある、別に貧しくはない家だったが、祖母と嫁である母の仲が険悪な上に父はやみくもに妻を押さえるだけという、子どもにとっては不幸な環境だった。しかもトングは三年生になってもハングルの読み書きができない「難読症」だった。それでも、歳の離れた妹のヨンジュの愛らしさと利発さが家族の救いとなり、担任教師・パクヨンウン先生の愛情と誠意がトングの将来を明るいものにしていた。しかし、1980年の春、「光州に住む祖母の誕生日祝いのため」という名目で休暇を取ったパク先生は、それきり戻ってこなかった。
学校では劣等生でも、妹をこよなく愛し家族の仲の悪さに心を痛める健気な少年トングに、次々に試練が襲いかかる。嫁と姑の徹底的な反目、威張っているだけで家族をまとめる術を知らない父親、そして1980年の光州などなど、韓国特有のテーマがびっしり詰まった、重苦しいけれども後味は悪くない小説である。(2009.6.25記)
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by nishinayuu | 2009-08-05 14:55 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)