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倭建命 その10  思国歌(続き)

☆『古事記』の再話と韓国語訳です。この前の部分はこちら

倭建命は能煩野で次々に歌を詠んだ。

いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ
(生命に恵まれるであろう人々よ、やまとの平群の山に行って、樫の葉を髪飾りにして生命を讃えよ)

これは国を偲ぶ歌だよ。それからまた歌った歌は

はしけやし わぎへのかたよ くもゐたちくも
(懐かしいことだ、私の家のほうから雲が立ち渡ってくるよ)

これは(5・7・7の音節からなる)片歌だ。このとき、病がさし迫った状態になった命がまた歌ったのは、

をとめの とこのべに わがおきし つるぎのたち そのたちはや
(あの娘の床の辺に私が置いた剣の太刀、その太刀よ)

歌い終わるとそのまま崩御なさったのだよ。


야마토타케루-미코토는 노보노(能煩野)에서 와카를 잇달아 지었단다.

너희들 무사히 돌아갈 수 있다면, 헤구리-산의 떡갈나무 잎으로 머리를 장식하라

이것은 고향을 그리워하는 와카였어. 또 노래하기를,

그리웁구나, 저 야마토쪽에서 구름이 솟아나네

이것은 (5-7-5의 음절을 가지는) 카타우타라는 노래다.
그때 병으로 생명이 위태로운 상태에 빠진 미코토가 다시 노래하기를,

저 처녀의 잠자리 언저리에 내가 놓았던 나의 저 양날검이여, 아아 저 양날검이여

노래하고나서 곧 숨을 거두셨단다.
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by nishinayuu | 2009-07-31 10:00 | 再話 | Trackback | Comments(0)

『森浦へ行く道』(黄皙暎著)

c0077412_9213948.jpg『삼포 가는 길』(황석영著)
日本語タイトルは『森浦へ行く道』。韓国の著名な作家・黄皙暎が1973年に発表したもの。
主要登場人物は三人。工事現場を渡り歩く20代のヨンダル、10年ぶりに故郷へ帰ろうとしている30代のチョン、あちこちの遊郭を経てきたけれどまだ22歳のペクファである。冬の道で偶然行き会った三人は、何となくいっしょに歩き始める。居酒屋を逃げ出してきたペクファには「懸賞金」がかかっているが、男二人はペクファを捕まえてお金をもらおうという気にはならず、むしろ足手まといなペクファをかばいながら歩き続ける。初めは互いにつっけんどんだった若い二人の間に、しだいに男女の情らしきものが芽生えるのを、チョンは黙って見守る。
国を挙げて開発授業に邁進していた時代に社会の底辺でもがいていた人びとを、思慮深く人情味のある、決して心まではすさんでいない存在として描き出した心温まる作品である。早朝の荒涼とした平原の描写に始まり、夕刻の荒涼とした平原の描写で終わっており、優れた短編映画を見終わったような印象が残る。(2009.6.12記)
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by nishinayuu | 2009-07-30 09:21 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『教授たちの殺人ゲーム』(バチヤ・グール著、堀たほ子訳、イースト・プレス)

c0077412_9251652.jpgイスラエルのヘブライ大学を舞台にしたミステリーで、捜査官マイケル・オヘイヨンを主人公とするシリーズの2作目だという。
冒頭の場面は文学部の学部ゼミナールで、講演者はシャウル・ティロシュ教授、トビア・シャイ上級講師、助手のイドー・ドゥダイの三人である。会場に報道関係者が詰めかけているのは、ティロシュがマスコミの寵児だからだ。詩人としても有名なティロシュは優れた学者として学内で大きな力を有し、また魅力的な男性として人びとを魅了する存在である。トビアはティロシュの信奉者であり、イドーはその二人から認められ、引き立てられている若手の学者である。最後に演壇に上がったこのイドーが、詩人として絶対的な権威をもつティロシュの最新作である詩を批判する。ティロシュもトビアもこのイドーの暴挙に驚愕する。
そして事件が起こる。まずイドーがダイビング中に変死する。そして次に、イドーの死に関わりがあるのではないかという疑いのかかっていたティロシュが、長時間放置された悪臭を放つ死体となって発見される。

いよいよマイケル・オヘイヨン捜査官の登場となるが、一癖もふた癖もある教授たち、ティロシュを巡る女性たち、そしてなによりもさまざまな詩にまつわる謎が捜査を複雑にする。原題が『Literary Murder』とあるだけあって、教授たちの詩の研究にじっくり付き合わされるのがちょっとしんどいが、ミステリーならではの緊迫感とすっきり感は充分味わえる。(2009.6.8記)
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by nishinayuu | 2009-07-28 09:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『光の中に』(金史良著、青空文庫)

c0077412_1635468.jpg著者は1914年、日帝時代の平壌に生まれ、後に日本に渡って東京帝国大学を卒業。1942年に朝鮮に帰国した後、1950年に勃発した朝鮮戦争の最中に行方不明となった。
この作品は青空文庫で読んだ。同文庫には金史良の作品が他に4編収録されているので、それらも合わせて読んだ。いずれも底本は講談社版である。

『光の中に』――S大学協会(セツルメント)で活動している「私」は本名の南(ナン)ではなく南(ミナミ)先生で通っていた。無邪気な子どもたちと遊ぶにはそのほうがいいと考えていた「私」に、山田春夫という少年が「朝鮮人!」と罵声を浴びせ、いやがらせをしかけてくる。

『玄界灘密航』――1931年、著者は抗日闘争に呼応する休学事件に関与して平壌の学校を退学になる。この作品は退学後の著者が日本への密航を計画したときの揺れ動く心情を綴っている。

『故郷を想う』――平壌にすむ老母や親族たちに寄せる深い思いと、朝鮮という国への熱い思いを綴った短編。特に、深い姉弟の情けで結ばれた姉・特実(トクシル)を描いた部分は胸を打つ。

『荷』――1936年に「佐賀高等学校卒業記念誌」に発表した処女作。後に加筆されて『尹参事』となり、さらに改題されて『尹主事』となった。青空文庫には『尹主事』も収録されている。土壇場まで追い詰められた裸一貫の労働者の、悲劇とも喜劇ともつかない言動と境遇を描いたごく短い作品である。(2009.6.7記)

☆上の画像は「講談社文芸文庫」のものです。
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by nishinayuu | 2009-07-25 16:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『山羊座の腕輪』(ローズマリ・サトクリフ著、山本史郎訳、原書房)

c0077412_8535612.jpg歴史小説家として名高いサトクリフの「ローマ・ブリテンもの」の一つで、ローマ帝国の勢力がブリテン島にまで及んでいた紀元1世紀から5世紀にかけての物語。
第1章の舞台は西暦61年のロンディニウム、現在のロンドンである。主人公・ルシウス少年は、ワイン商を営む父の跡を継ぐのではなく、鷲の軍旗に従うローマ軍の兵士になりたいと願っていた。その願いは、ブリテンの土着民であるイケニ族の反乱により、ロンディニウムが戦乱と大虐殺の地となって陥落した結果として実現する。
第2章はハドリアヌスの長城が築かれつつある123年。主人公はローマ軍の百人隊長・ルシウスで、第1章のルシウスの孫に当たる。この章で、祖父のルシウスがローマ軍の兵士になったあと、戦功によって「山羊座の腕輪」をもらったことが明らかになる。
6章からなるこの物語の各章の主人公は、いずれもルシウス(ルキアヌス、ルシアン)という名を持ち、父祖から伝えられた「山羊座の腕輪」を一族の絆として受け継いでいく。六人のルシアスを通して「ブリテンのローマ人」の姿が鮮やかに浮かび上がる優れた児童文学である。(2009.6.2(2009.6.記)

☆ずいぶん前に同じ作者の『ともしびをかかげて』『第九軍団のワシ』を読みました。内容はほとんど忘れましたが、児童文学としては驚くほど格調の高い翻訳(猪熊葉子)に魅了されたことを覚えています。それにくらべると『山羊座の腕輪』はごくふつうの訳で、読み始めはもの足りない気もしましたが、そのうちにこれはこれでいい、と思えてきました。
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by nishinayuu | 2009-07-23 08:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ウォーターランド』(グレアム・スウィフト著、真野泰訳、新潮クレストブックス)

c0077412_1095952.jpg語り手は南ロンドンの高校に勤務する52歳の歴史教師。「一身上の都合」という名目で学校を追われようとしている彼は、正規のカリキュラムを無視した独自の授業を展開する。
きっかけはプライスという生徒の「いったい歴史になんの意味があるんですか……歴史についてただ一つ重要なのは、それがもうじき終焉を迎える、おそらくそういう段階にさしかかっているということだけです」という発言だった。生徒たちの間に伝播しつつある恐怖の徴候を鎮めるためには、歴史より「おとぎ話」が必要だと考えたからだ。「おとぎ話」を語ることは、生徒たちと切り離されて、自分のため込んだ一生の物語の聞き手を失おうとしている自分の心を鎮めるためでもあった。
「実態を有しつつ非現実的でなければならないおとぎ話の舞台」として彼が選んだのはフェンズ――イングランド東部の低湿地帯、すなわちウォーターランドだった。 こうして彼は生徒たちに「子どもたちよ」と呼びかけながら、父祖の地であり、彼と妻が生まれ育った土地であるフェンズについて語り始める。 historyを放り出して語る彼のstoryは、いつの間にかstoryとhistoryが渾然一体となった壮大な「歴史の授業」となって生徒たちを魅了していく。
作者は1949年生まれ。英語教師を経て80年に作家デビュー、この作品でガーディアン小説賞、『ラストオーダー』でブッカー賞を受賞している。(2009.6.1記)

☆この翻訳本は519ページもあって、とても読みでがありました。ところで、p.208にフェンズゆかりの作家としてチャールズ・キングズリーの名前が出てきます。今、『The Water Babies』を読んでいるところなので、何となく嬉しくなりました。
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by nishinayuu | 2009-07-21 10:10 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

水泳選手に黒人があまりいないわけ

☆20数年前に書いた文ですが、状況は今もあまり変わっていないように思えます。

水泳選手に黒人があまりいないわけ

「はるかな昔から熱帯地方に居住していた黒人たちは低温に弱い。したがってその子孫である欧米の黒人たちも水泳には向かない」と書いたものを読んだことがある。温帯地方に住む人びとが数秒しか手を入れていることのできない氷点下の水に、北極圏に住むエスキモーは十数秒から数十秒も手を入れたままにしておける――という話を聞いたこともあって、上記の説の正しさをずっと確信していた。
ところがである。某新聞の「五輪の顔」に登場した黒人女性によると「黒人の子どもが泳げるプールは夏の2ヶ月しか開いていない。一年中、コーチ付きで鍛える選手に勝てるはずもなかった」というのだ。これは、この女性の出身地であるインディアナポリスだけの特殊事情だろうか。それともアメリカ全土、あるいはヨーロッパも含めた全白人社会に共通の現象だろうか。陸上競技で、特に短距離走で黒い肌の選手たちが大活躍をしている事実を目の当たりにして、これほどの力を持つ黒人が水泳競技に姿を見せないのは、彼らの肉体的条件による制約の姓というより、差別とおそらくは貧困という社会的制約によるところが大きいのかも知れないと思い始めている。



수영선수 중에 흑인이 많지 않은 사연

“아득한 옛날부터 열대지방에 거주해온 흑인들은 저온에 약하다. 그래서 그들의 후예인 서구의 흑인들도 수영과는 거리가 멀다” 라는 기술을 읽은 적이 있다. 온대지방에 사는 사람이 몇 초밖에 손을 담그지 못하는 빙점하의 물속에 북극권에 사는 에스키모는 십여 초 내지 수십 초나 손을 담근 채로 있을 수 있다……그런 이야기를 들은 적도 있어서, 상기의 설은 맞는 것이라고 오랫 동안 확신해 왔다.
그런데 말이다. 모 신문의 [오륜의 얼굴]에 등장한 흑인 여성이 말하기를 “흑인 아이들이 헤엄칠 수 있는 풀은 여름 두 달 정도밖에 열리지 않는다. 일년 내내 코치가 붙어 단련하는 선수를 이길 수 있을 리가 없었다” 라는 것이다. 이것은 이 여성의 출생지인 인디애나폴리스만의 특수사정인가? 아니면 미국 전토,또는 유럽을 포함한 전 백인사회에 공통하는 현상인가?
육상 경기에서, 특히 단거리에서 검은 피부의 선수들이 많이 활약하고 있는 사실을 눈앞에 보면서, 그러한 역량을 가진 흑인들을 수영경기에서 볼 수 없는 것은 그들의 육체조건에서 온 제약 때문이라기보다는 오히려 차별과 빈곤이라는 사회적 제약으로 인한 데가 클 지도 모른다는 생각이 들었다.

(이 글은 20여년 전에 쓴 것인데, 상황은 지금도 그다지 변하지 않았는가 봅니다.)
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by nishinayuu | 2009-07-18 09:59 | 随想 | Trackback | Comments(0)

『ピエールとクロエ』(アンナ・ガヴァルダ著、飛幡祐規訳、新潮社)

c0077412_14571740.jpg読書会「かんあおい」2009年6月の課題図書。
ある日、クロエの夫アドリアンは、クロエと幼い二人の娘を残して別の女性のもとに走った。クロエにとっては青天の霹靂である。アドリアンを愛しているし、アドリアンも自分や娘たちを愛していると信じ込んでいたから。混乱し、悲嘆に暮れるクロエを、舅のピエールは車で田舎の家に連れて行く。そしてクロエと子どもたちに気晴らしをさせ、クロエに「出て行かないで欲しい」と語りかける。しかしクロエは、アドリアンが出て行くのを知っていて止めなかったピエールに反発する。何をするにも怖じ気づいていたアドリアンのために三年間、彼を大学に送ってからルーヴルの地下三階で自分の時間をむだにしたのに、一人前になったアドリアンは古い皮膚から脱皮したのだ、意地悪なパパの同情に満ちた目の前で、とクロエは苦々しく思うのだった。そんなクロエにむかって、普段は口数が少なかったピエールが「不幸の原因を作った人間の悲しみ」について語り始める。それはピエールが42歳のときに経験したマチルドという女性との恋の物語だった。
あと少し勇気があれば、家庭を捨てて別の人生が歩めたかも知れない、というピエールの話が、アドリアンを勇気づけることはあってもクロエを勇気づけることにはならないはずで、そこのところが今ひとつ納得できない。が、ピエールとクロエの、打てば響くようなことばのやりとりが快く、またピエールのクロエに対する思いやりと優しさがクロエの気持ちをほぐしてゆく過程は充分納得できる。舅と嫁という、あまり会話が成立しそうもない関係の二人に、率直で真摯でユーモアのあるやりとりをさせた、おしゃれな物語である。
(2009.5.26記)
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by nishinayuu | 2009-07-16 14:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『オディール』(レーモン・クノー著、宮川明子訳、月曜社)

c0077412_93503.jpg1937年に発表された小説で、語り手のロランがパリの街を歩き回り、さまざまな人びとと出会い、語り合い、意気投合したり別れたりした末に一人の女性・オディールに辿り着く物語。
巻頭に【『オディール』のパリ】と題した地図が掲げられており、レピュブリック広場を中心とした地域―ボーマルシェ大通り、グラン・ブールヴァール、フォーブール・モンマルトル通り、デルタ通り―などをロランといっしょに歩いているつもりで読むといっそう興味深く読める。
物語の冒頭に現れる「詩人のように、哲学者のように曠野と空を見つめるひとりのアラブ人」は、モロッコの独立戦争を率いた族長であろう。侵略者側の兵士としてこの闘いに加わったロランは、それ以前の人生20年間の記憶を失うほどの不幸を経験する。兵士仲間だったコミュニストのGやSとパリで再会。そのつてで共産党シンパのサクセルと知り合い、さらに彼の紹介である有力なグループを率いるカリスマ的存在・アングラレスとの交流が始まる――という具合にロランの交友関係の広がりとその展開が描かれていく。人物や言葉、出来事が錯綜して時々迷子になりそうになるが、ある時代のパリの雰囲気は確実に伝わってくる。

巻末に非常に詳しい解説があり、登場人物や出来事のモデルがわかる。モデル小説を嫌った作者の唯一とも言えるモデル小説であり、自伝的要素の強い作品だという。(2009.5.24記)
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by nishinayuu | 2009-07-14 09:27 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦著、角川書店)

c0077412_1019556.jpg大学生の「私」と後輩の女子学生「彼女」が交互に語り手として登場し、偶然の出会いから始まった二人の度重なる出会いを描いた小説。2回目以降の出会いは彼女にとってはやはり偶然のものだったが、実は「私」が偶然を装って仕組んだもの。「彼女の天然ぶり」と「私のじたばたぶり」、二人を取り巻く世界にうごめく面妖な人びとの奇っ怪な言動を描いたユーモア小説である。
さて、この小説の特徴の一つはそのユニークな文体である。たとえば、
「偕老同穴の契りを交わした新郎新婦はまさに天衣無縫というべく、お姫様だっこで接吻を交わすところを写真に撮られてもなお恬然としている神をも恐れぬアツアツぶりは、たちまち参会者たちを黒こげにした。」というような、硬い漢字語と軽い乗りがごちゃ混ぜになった文。これが楽しめないようでは、登場人物たちにも、話の展開にも共感できないだろう。実は私はこの文体を楽しむことができなかった。したがって、いちおう最後まで読んだが、どの人物にも、どの場面にも共感できなかった。(2009.5.20記)
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by nishinayuu | 2009-07-11 10:20 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)