<   2007年 03月 ( 19 )   > この月の画像一覧

年度---ことばの交差点 その2

☆新聞のコラム(朝日新聞、発行年月日は不明)の原文です。韓国語訳はこちら

ことばの交差点 年度 事情で開始月の変更も

新年度が始まり、新しい教室や職場で心機一転の人も多いと思います。日本では、国の会計や学校の年度は4月にスタートし3月で終わります。「年度」とは何でしょう。温度、速度などのように「度」は物差しや目盛りのことで、「年度」とは、自然の暦と別の物差しで人為的に区切った1年です。
江戸時代の藩校では年頭の「稽古始め」、年末の「稽古納め」が一般的で、何年で卒業するという決まりはありませんでした。近代に入り学習能力は年齢に対応するという考え方が広まり、1875年制定の東京開成学校規則で、9月から7月までを「学歳」としました。翌年「学年」と会商され、他にも普及しました。4月開始になったのは1887年の高等師範学校が最初です。同年、徴兵検査が9月から4月に変更されたことや、前年に国の会計年度が4月からとなり、これに合わせた方が便利と思われたためです。
現在でも、開始月が4月以外の年度があります。米穀年度(11月)、麦年度(7月)、生糸年度(6月)などは収穫時期に合わせています。日本冷凍空調工業界は10月開始だった「冷凍年度」を、今秋廃止し4月開始の年度に改めるそうです。夏によく売れたクーラー主体の冷凍年度でしたが、冷暖房機能のあるエアコンが主流となり夏限定の季節商品ではなくなったからです。年度のあり方も、世につれて移り変わっていくものですね。(校閲部・塚本真理)
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-31 10:26 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

年度---ことばの交差点 その1

☆新聞のコラム(朝日新聞、発行年月日は不明)を韓国語にしました。原文はこちら

말의 교차점  연도 사정에 따라 시작달이 변경되는 경우도

새로운 연도가 시작돼서 새로운 교실이나 직장에서 심기일전하는 사람도 많을 것입니다. 일본에서는 국가회계나 학교의 연도는 4월에 시작되고 3월에 끝납니다. [연도]라는 것이 무엇일까? 온도,속도가 그러하듯이 [도]는 자나 눈금을 의미하고, [연도]는 자연의 달력과는 다른 척도로서 인위적으로 구분된 일년입니다.
에도시대 大名영지에 설치되어 있던 학교에서는 연초의[공부 시작], 연말의[공부 끝냄]이 일반적인 일년이고, 몇 몇 년 후에 꼭 졸업한다는 규정은 없었습니다. 근대에 들어 학습능력은 나이에 대응한다는 생각이 널리 퍼지는 바람에 1875년에 제정된 동경개성학교의 규칙은 9월부터 7월까지를 [학세]로 정했습니다. 다음 해에 [학년]으로 개칭되고, 다른 학교로도 보급됐습니다. 4월에 시작하게 된 것은 1887년, 고등사범학교가 최초였습니다. 그 해에 징병검사가 9월이 아니라 4월으로 변경된 것과 전년에 국가회계연도가 4월부터가 된 것으로 인하여 그것에 일치시키는 것이 더 편리하다는 판단이 있었기 때문입니다.
지금도 시작월이 4월이 아닌 연도가 있습니다. 쌀연도(11월), 보리연도(7월), 명주실연도(6월)같은 연도는 수확시기에 맞추고 있습니다. 일본냉동공조공업회는 10시작이었던 [냉동연도]를 올 가을에 폐지하고 4월시작으로 변경한다고 합니다. 냉동연도는 여름에 잘 팔리던 냉방장치가 주체였는데, 냉난방기능을 가지는 에어컨이 주류가 돼서 여름한정의 계절상품이 아니게 됐기 때문입니다. 연도의 양태도 세상에 따라서 변하여 가는 거지요.
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-31 10:08 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『イチレツランパン破裂して』(高島俊男著、文藝春秋社)

c0077412_15113425.jpg『週刊文春』の連載コラム「お言葉ですが…」を単行本にしたシリーズの第6弾で、2000年7月27日号~2001年9月20日号の記事をまとめたもの。
堅苦しい内容のものを、柔らかい語り口で易しく解説し、読者の意見にもよく耳を傾けている、自説に固執しないおおらかな著者……と思いきや、間違いやいいかげんなもの(物・者)には容赦がなく、時には実名をあげて痛烈な皮肉を浴びせている。どうやら著者は、低姿勢のようでいて、実は恐い人のようである。
特に興味深かった項目は――杏仁豆腐、はかってくれた背のたけ、木くずと木屑(ぼくせつ)、白髪三千丈、お送りいただきますよう、表外字の字体、手書きと印刷文字、天が落ちて来やしないか、植うる剣。
たとえば「白髪三千丈」の項を見ると、五や八ではなく三、百や万ではなく千、寸や尺ではなく丈でなければならない理由が、この詩句を書いた李白の時代の中古漢語における声調に始まり詩の技巧にいたるまで、懇切丁寧に説明されている。(2007.3.12記)

☆「白髪三千丈」の項の末尾にある「あとからひとこと」の部分に――これはちょっとむずかしかったかな?と心配していたら、「わたしはバカです」と自称してはばからない大和書房小宮編集者が「よくわかった」と言ってくれたのでホッとした。――とあります。私(nishina)もバカですがよくわかりました。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-28 12:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『くもの巣の小道』(イタロ・カルヴィーノ著、米川良夫訳、ちくま文庫)

c0077412_15103430.jpgサブタイトルは「パルチザン あるいは落伍者たちをめぐる寓話」。
第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍によって中・北イタリアが占領されたり、ムッソリーニによって「イタリア社会共和国」が樹立されたりした時代にパルチザンとして山にこもった男たちの話。といっても、登場するのは使命感に燃えた勇敢なパルチザン集団ではなく、落ちこぼればかりが集められた小部隊。何のために戦うのかもわからないまま、ただ怒りによって戦っている男たちである。物語は、そんなどうしようもない男たちの間に紛れ込んだ少年ピンの目を通して語られていく。売春婦の姉の元で育ち、耳と口がやたらに達者になってしまったピンには子どもの友達というものがなく、一人前の口をきいて大人をからかい、笑わせ、時には怒らせながら、懸命に大人たちの仲間になろうとするが、結局ピンには大人というものがよくわからないのである。(2007.3.8記)

☆ピンに大人というものがよくわからないように、私には最後まで、ピンがよくわからなかったのでした(!?) 
本書は作者の小説第一作。実際にパルチザンとして戦い、何度も死の一歩手前まで行ったという作者が、パルチザンを寓話として語ったのは、正面から語るにはあまりに過酷な体験だったから、ということでしょう。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-27 13:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

日本の孝行息子 その2

☆韓国語で書いた文を、あとで日本語に訳したものです。韓国語の原文はこちら

最近韓国では、親を扶養する義務が果たせない親不孝者が増えてきたのに伴って、息子や娘を相手に親が訴訟を起こす事例が多く見られるという。韓国社会の伝統的な美徳である親孝行が、社会経済的な条件の変化のせいで崩れてきているらしい。
日本では、息子や娘が小遣いをくれなくても、親はそれを困ったことだとは考えないようだし、ましてや子どもを訴えるなどということはありそうもない。むしろ私の周りには、いい大人の娘や息子に老いた親が小遣いを与える、という話が多い。たとえば、次のような親子がいる。
ある文学講座の講師(大学教授)に関する話だ。その先生の息子は大学院卒業後も就職をしないまま、学生生活だか研究生活だかよく知らないが、いわゆるモラトリアム生活をしているという。そして、もういい歳(30代後半)なので結婚はしていて、生活費に加えて夫婦ふたりの年金掛け金やら保険の費用やらが必要なのだが、その費用を父親である先生が出しているという。これだけならとやかく言う必要はないかもしれないが、さらにあきれてしまうことがある。先生のファンである会員の一人が先生に同情するあまり、毎月の謝礼金をもっとたくさん、お中元・お歳暮ももっと高価な物を差し上げましょうよ、と強硬な意見を出し始めた。どうして会員たちが先生の家庭の事情を心配しなくてはならないのか。全く納得できない話ではないか。
ところで、この先生の息子が親不孝者か否かを考えてみると、もしかしたら大変な孝行息子かもしれないと思うのだ。なぜかというと、息子に小遣いをやろうと思うからこそ先生は、働く意欲が減えることもなく活気のある生活が維持できているのかもしれないからだ。実は先生はご子息のことがご自慢のようであり、ご子息の将来を期待しているようでもある。老いた父親の働きがいである息子。そんな息子が親不孝者であるわけはないだろう。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-25 15:04 | 随想 | Trackback | Comments(0)

日本の孝行息子 その1

☆昔ながらの「孝行息子」ではなく、新しい「孝行息子」について書いてみました。原文は韓国語で、あとでそれを日本語に訳しました。日本語はこちら

요즘 한극에는 부모 부양의 의무를 다하지 못하는 불효자가 늘어나면서 자식을 상대로 부모가 소송하는 사례도 많다고 한다. 한국사회의 전통적 미덕인 부모 공양이 사회경제적 여건의 변화로 인하여 무너지고 있는 모양이다.
일본에서는 자식이 부모에게 용돈을 안 보내더라도 부모는 그것을 문제로 생각하지 않는 것 같은데, 하물며 소송하는 일은 좀처럼 없을 것이다. 오히려 나 주변에는 다 성인이 된 자식에게 늙은 부모가 용돈을 주는 이야기가 많다. 에를 들면 다음과 같은 어버이와 자식이 있다.
어떤 문학강좌의 강사인 교수에 관한 이야기다. 그 교수의 아들은 대학원을 졸업한 후에도 취직하지 않는 채 학생생활인지 연구생활인지 잘 모르지만 이른바 모라토리엄 생활을 하고 있단다. 그리고 나이도 나이니까(30대 후반) 결혼을 했기 때문에 생활비에 더하여 부부의 연금부금이나 보험비용도 필요한데 그 비용을 아버지인 교수가 내고 있다고 한다. 이것만이면 아무 말도 할 필요는 없겠지만, 더 기막힌 일이 있다. 교수의 팬인 회원 하나가 교수에게 동정한 나머지 매달의 사례나 계절마다의 선물을 더 많이, 더 비싼 것을 드립시다, 그런 말을 강하게 주장하기 시작했다. 왜 우리 회원들이 교수의 가정사정을 걱정해야 하는가? 전혀 납득이 안 가는 아야기가 아닌가 싶다.
그런데 이 교수의 아들이 불효자인지 아닌지 생각해 보니, 어쩌면 대단한 효자일 지도 모른다는 생각이 든다. 왜냐하면 아들에게 용돈을 주느라고 교수는 일하는 의욕이 주는 일도 없고 활기 찬 생활을 유지할 수 있는 지도 모르기 때문이다. 실은 교수는 아들을 자랑하고 있는 모양이며 아들의 장래를 기대하고 있는 모양이다. 늙은 아버지의 일하는 보람인 아들. 그런 아들이 불효자일 리가 없을 것이다.
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-25 14:59 | 随想 | Trackback | Comments(0)

『サフラン・キッチン』(ヤスミン・クラウザー著、小竹由美子訳、新潮クレストブックス)

c0077412_1513374.jpgイランで生まれ育った母マリアムと、イギリスで生まれ育った娘サラの物語。
アリアムはイランの大都市マシャドで裕福な家庭の次女として生まれ、有力者である父、優しい乳母、新しい知の世界へ導いてくれる若き使用人アリに囲まれてのびのびとした少女時代を送った。しかし、伝統と慣習に従わせようとする父親と、自立心の旺盛な娘は、次第に心が離れていく。動乱の一夜をアリに守られて過ごしたことが周囲の誤解を生み、名誉を守るためと称して父親がふるった狂暴な強権によって、父娘の距離は決定的なものとなる。心身ともに深く傷ついたマリアムは故郷とアリに心を残しつつ遠くイギリスへ渡ったのだった。
それから40年。この上なく優しい夫と、賢い娘に恵まれて平穏に生きてきたように見えたマリアムだったが、無惨に引き裂かれた故郷とアリへの思いのために、心の平安は得られないままだった。マリアムの心の乱れによって引き起こされた事態がもとで、大きな痛手を被ったサラ。許してはくれないだろうサラから逃れるように、そして封印してきたアリへの思いに駆り立てられるように故郷に向かったマリアム。40年という歳月の後に、マリアムはやっと心の平安を見いだしていき、マリアムを追ってアリの村を訪れたサラは、初めて母を心から理解し、受け入れていく。(2007.3.7記)

☆マリアムにすっかり感情移入して読んだので、ところどころページがよれよれになりました。(図書館の本なのに!) 夫のエドワード、ドクター・アーラヴィ、アリなどマリアムを囲む人々がいずれも人間的に優れたすばらしい人ばかりなのにも感動しました。
ところで、サラが気分転換のためにキッチンをサフラン色に塗り替える場面で、「サフラン色」がイランの赤土の色、傷口の血の色と表現されていて、ちょっと面食らいました。サフラン・ライスの温かみのある黄色を想像していたものですから。「サフラン色」というのは、雌しべの深い赤色のことだったのです。私が塗り替えるとしたら、「サフラン・キッチン」ではなく、断然「サフラン・ライス・キッチン」ですね。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-23 16:58 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『Promise Song』 (Linda Holeman 著、Tundra Books)

c0077412_150478.jpg著者の前書きによると、1868年から1925年にかけて、8万人あまりの子どもがイギリスからカナダへ送られたが、その多くはHomeと呼ばれる児童保護施設の子どもたちだったという。この物語の主人公は、こうした子どもたちの1人として著者が想定した14歳の少女・ロゼッタ。新しい家族の一員になれるという希望を抱いて、6歳の妹・フローラともにカナダに渡ったロゼッタを待ち受けていたのは、養女として引き取られることになったフローラとのとつぜんの別れだった。家族の一員としてではなく働き手としてロゼッタを引き取ったのは、小さな農場を営むミスター・トーマス。ぶっきらぼうなアルバート・トーマスと、夫を恐れている年若くてひ弱そうなルーナ・トーマスのもとで、ロゼッタの家事労働と慣れない農作業に明け暮れる厳しい毎日が始まる。
しかしロゼッタは、「いつもいっしょにいるからね」というフローラへの約束を果たすために、年季が明けて汽車の切符が買えるお金がもらえるまでは、と全力を尽くして働く。教師になるという夢を果たすために、様々な困難を乗り越えて学校にも通う。その間に、ルーナとの間に友情のようなものが育っていき、学校友達の少年との淡い恋も経験する。こうして状況は徐々に好転していくが、いよいよフローラを捜しに出かけようというときに、また大きな災難がロゼッタを襲う。この終盤の部分はまさに「手に汗を握る」展開。そしてもちろん最後の最後にはフローラとの感動の再会が待っている。(2007.2.27記)

☆同じ孤児でも、『赤毛のアン』のアンに比べるとロゼッタの苦労、困難はあまりにも過酷です。それでもこの物語には、本当に悪い人間は1人しか登場しません。冷たいように見える人物にもそれなりの事情があることが理解できます。むしろミス・ジャスパーやミセスファーガスンのように、全身全霊を傾けて愛し、保護してくれる人物のいることが、ロゼッタにも、そして読者にも救いです。もう一つ付け加えれば、最後に幸せをつかむ孤児に共通するのは「勉強がよくできる」ということでしょうか。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-21 12:00 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

時は春、日は朝(あした)


c0077412_235576.png
☆ロバート・ブラウニングの詩を韓国語に訳してみました。原詩、上田敏の訳詞、韓国語訳の順になっています。


The Year’s at the Spring   Robert Browning

The year’s at the spring;
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;
The hillside’s dew-pearled;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His Heaven―
All’s right with the world!

春の朝   訳:上田敏

時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

☆原詩の各行が5音節になっていますので、韓国語訳では各行の母音の数を9で揃えてみました。また、原詩のような整然とした押韻にはほど遠いものですが、いちおう1行目と2行目をm音で、3行目と7行目をi音で、4、5,6行目をo音で終わるようにしてあります。もっと格調の高い語句を使いたいのですが、とりあえず今できているものを発表します。

계절은 지금 따뜻한 봄

지금 계절은 따뜻한 봄;
그리고 날은 바로 아침;
아침은 상쾌한 일곱시;
언덕은 이슬에 빛나고;
종달새는 날개를 치고;
달팽이는 가지를 기고;
신은 그 자리에 계시니
세상은 정말 훌륭하군!
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-18 13:15 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)

『中央公論 文芸欄の明治』(中公文庫編集部)

c0077412_14595416.jpg明治38年9月号から明治44年11月号までの期間に、雑誌『中央公論』に掲載された作品を、現代仮名遣いに改めて収録したもの。収録作品は以下の通り。
一夜(夏目漱石)、女客(泉鏡花)、ウッチャリ拾い(幸田露伴)、鼠坂(森鴎外)、家畜(島崎藤村)、竹の木戸(国木田独歩)、微光(正宗白鳥)、出産(徳田秋声)、帰朝者の日記(永井荷風)、秘密(谷崎潤一郎)
久しぶりに読んだ漱石の文体の古さにびっくり。英国に留学までした英文学者なのに、外国かぶれせずに戯作者風の文体で書いたのは偉い、とは思うけれど、とにかく読みにくくて閉口した。中学生の時に『吾輩は猫である』を読んだときは別に古いとも思わずに楽しめたし、その後も人並みにいろいろ読んできたつもりだが。それでも冒頭の漱石をクリアすれば、あとはすらすらと読み進められるし、どの作品もそれなりに面白い。(2007.2.21記)

☆興味深かったのが外国語の表記で、現在はカタカナ語で表記されていることばが、アルファベットのまま表記されていたりします。特に永井荷風の作品でそれが目立ち、たとえば「伊太利近代の歌劇作家Mascagni のCavalleria Rusticanaにならって……」「呼び鈴の音とともに現れる日本人のValetに案内されてすぐさま広い客間にはいると……」「巴里は……Sacré Cœurのような大寺院をも作り上げようとしている」といった具合。今出回っている小説とはちがって、限られた読者を想定して書かれていたことがわかります。
[PR]
by nishinayuu | 2007-03-17 10:38 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)