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『The Book of Tea』(Okakura Kakuzo, C.E.Tuttle Company1906)


c0077412_9323152.jpg『茶の本』の原書。予想した通り1、2,3章はアルファベット表記されている中国語の固有名詞に難儀したが、英文そのものは読みやすかった。4、5,6,7章も予想した通り、漢字表記のある日本語訳のほうが断然優れていると思うが、「数寄屋」「露地」などの専門用語をはじめとして、日本文化のあれこれを的確かつ滑らかな英文で表現してあることに驚嘆した。『茶の本』が名著とされる所以が理解できたと同時に、岡倉天心という人物の偉大さをあらためて思ったのだった。
さて、今後何かの折に役に立つかも知れないので、中国固有名詞のアルファベット表記と、引用されている歌、俳句の(岡倉天心による?)英訳をメモしておくことにする。
①中国の固有名詞
Tang唐  Sung宋  Ming明  Yuen Emperors元朝  Chow Dynasty周朝 Yangtse-Kiang揚子江  Hoang-Ho黄河  Han Pass函谷関  Taoism道教  Confucianism儒教  Book of Changes易経  Chaking茶経
Luwuh陸羽  Lotung盧同  Taisung 代宗 Kiasung 徽宗 Wanguncheng 王元之
Sotumpa蘇東坡  Laotse老子  Liehtse列子  Peiwoh 白牙 Emperor Huensung 玄宗皇帝 Taoyuenming陶淵明
②見渡せば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ(藤原定家)
I looked beyond; /Flowers are not, /Nor tinted leaves. /On the sea beach /
A solitary cottage stands /In the waning light /Of an autumn eve.

夕月夜海すこしある木の間かな(宗碩)
A cluster of summer trees, /A bit of the sea, /A pale evening moon.

折りつればたぶさにけがる立てながら三世の仏に花たてまつる(光明皇后/後撰集123遍昭)
If I pluck thee, my hand will defile thee, O Flower! Standing in the meadows as thou art, I offer thee to the Buddhas of the past, of the present, of the future.

花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)
To those who long only for flowers, fain would I show the full-blown spring which abides in the toiling buds of snow-covered hills.

(2016.7.25読了)
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by nishinayuu | 2016-09-06 09:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『茶の本』(岡倉覚三、訳=村岡博、岩波文庫)


c0077412_9544990.jpg本書は1906年にニューヨークで出版された『The Book or Tea』の翻訳本で、昭和4年に第1刷が出ている。著者の弟で英文学者の岡倉由三郎が「はしがき」を記しており、昭和36年の版から巻末につけられた「解説」は英文学者の福原麟太郎が記している。岡倉由三郎は生涯のほとんどを東京高等師範学校の教授として過ごした人物で、訳者の村岡博と福原麟太郎は東京高等師範学校における由三郎の弟子である。

本書は7章からなり、各章のタイトルと概要は以下の通り。
*第1章「人情の碗」――茶は日常生活の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達す
*第2章「茶の諸流」――茶道の鼻祖・陸羽、日本において茶は生の術に関する宗教である
*第3章「道教と禅堂」――道教は茶道に審美的理想の基礎を与え、禅道はこれを実際的なものとした、人生の些事の中にも偉大を考える禅の考え方が茶道の理想
*第4章「茶室」――茶室の構造における象徴主義、外界の煩わしさを遠ざかった聖堂
*第5章「芸術鑑賞」――美術鑑賞に必要な同情ある心の交通、現今の美術に対する表面的熱狂は真の感じに根拠をおいていない
*第6章「花」――茶の宗匠と生花の法則、生花の流派
*第7章「茶の宗匠」――茶の宗匠の芸術に対する貢献と処世術上に及ぼした影響、利休の最後の茶の湯

『The Book of Tea』はボストン美術博物館の日本およびシナ部の首脳として毎年の半ばを過ごすようになった著者が、その地に多くの知己を得ながらも故郷への感傷につき動かされて著したもので、親友のジョン・ラファージ画伯に奉献したものだという。すなわち西欧人相手に英文で「文学的に」書いたものなので、当時一般の日本人には馴染みがなかったと思われる西欧人の名前がたくさん出てくる。たとえば数寄屋の狭さを表すのに「5人しか入れない」といえばすむのに「グレイスの神よりは多く、ミューズの神よりは少ない数」となっていたり、「能の『鉢の木』の旅の僧とは実はわが物語のハルンアルラシッドともいうべき北条時頼に他ならなかった」となっていたりする。おもしろいけれどもちょっとやり過ぎではないだろうか。一方、漢文の引用(訳文では書き下し文になっている)や和歌、俳句などの引用もある。たとえば第4章には露地を作る奥義として藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ」が出てくる。漢文は意味をとって英訳すればすむかも知れないが、和歌は原書ではどのように扱われているのだろうか。とにかく英文で読むにしても日本訳で読むにしても、簡単に読める作品ではないことは確かだ。
先頃読み終えた「京都踏査記」で著者の兪弘濬氏が本書を引用しながら茶室や茶道について解説していた。兪弘濬氏が読んだ『茶の本』を読んでいないのは日本人としてまずいと思い、我が家の書棚に長い間眠っていた『茶の本』を引っ張り出した。まず英文の原書を読んでから日本語訳を読もう、と思っているうちに時が経ってしまっていたのだが、今回読んでみて、原文で読むのはムリ、と思った。それに日本人が日本文化についてのあれこれをわざわざ漢字表記のない言語で読む必要もない、とも思ったのだった。(2016.7.9読了)
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by nishinayuu | 2016-09-02 09:55 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『クリロフ事件』(イレーヌ・ネミロフスキー、訳=芝盛行、未知谷)

c0077412_100864.jpg『L’affaire Courilof』(Irène Némirovsky, 1932)
著者はロシア帝国キエフに生まれ、革命時にパリに亡命し、1929年に『ダヴィッド・ゴルデル』で文壇にデビューした。ナチスドイツによるユダヤ人迫害の中でも次々に長編小説を発表したが、1942年にアウシュヴィッツ収容所で死去した(以上、本書の作者紹介より)。

「二人の男」というタイトルで構想されたという本作は、テロリストのレオンMと、そのターゲットであるクリロフ、という二人の男の物語である。冒頭にレオン・Mと昔の彼を知る男がニースで遭遇する場面があり、この場面の後にレオン・Mが1932年にニースの家で死去したこと、遺品の中に数十ページのタイプ打ち原稿が見つかったこと、原稿の最初のページに「クリロフ事件」と書かれていたことが記されている。すなわちこれに続く1~27の断章は、レオン・Mが自伝として綴った「二人の男の物語」という形になっている。
レオン・Mは1881年、シベリアの寒村で政治犯の両親のもとに生まれ、父の死後に母に連れられてスイスに移住、10歳で母も亡くした後はスイスの「革命委員会」によって育てられた。「革命委員会」所有のサナトリウムで母から受け継いだ結核の療養をし、「党」のリーダーのひとりだったシュワン博士のもとで外国語と医学を学んだ。そして病が癒えるやいなや、「革命委員会」から下される任務をこなすようになった。すなわち被追放者の息子レオン・Mは、革命的な言説、教え、模範で特別に養育された、生まれついての党員だった。そんなレオン・Mが1903年、教育大臣の殺害のためにロシアのサンクトペテルブルクに送り込まれたのである。
1903年、ロシア帝国の教育大臣は残忍に冷血に権力を振るうことで知られるヴァレリアン・アレクサンドロヴィッチ・クリロフだった。皇帝アレクサンドル三世とネルロード皇子の庇護を受けるクリロフは、この国の支配階級にふさわしく革命を憎悪し、大衆を侮蔑していた。大柄で話も動作も遅かったクリロフを、学生たちは「シャチ」と呼んでいた。頭が切れ、残忍で貪欲だったからだ。そんなクリロフの家にレオン・Mはジュネーブ生まれの医師ルグランとして入り込んで暗殺の機会を探った。困惑と混乱を潜めた青い目で凝視するクリロフ、病んだ肝臓の激痛に果敢に耐えるクリロフ、居酒屋の歌い手だった妻を皇帝夫妻の嫌悪と侮蔑にもめげずに愛し続けるクリロフ、敬虔で生真面目で臆病で、用心深いクリロフに日々接しているうちに、レオン・Mはクリロフを理解し、シンパシーさえ感じるようになる。子どもの頃から抽象的な世界「ガラスの檻」で生きてきたレオン・Mは「初めて人間というものを見た」のだった。夏になり、クリロフが権力の座を追われるという事態になる。それにもかかわらず10月に彼を暗殺するという計画には何の変更もないとわかったとき、レオン・Mは指令を伝えに来た男に計画を止めるように必死で訴える。まるで兄の命を賭けて戦っているように感じながら。

本作の背景となっているロシア革命の時代はすでに遠い過去になってしまったが、人間の内面、人間の本質を浮き彫りにした本作の内容そのものは少しも古さを感じさせない。(2016.6.19読了)
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by nishinayuu | 2016-08-29 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『優雅なハリネズミ』(ミュリエル・バルベリ、訳=河村真紀子、早川書房)


c0077412_9584623.jpg『L’élégance du Hérisson』(Muriel Barbery,2006)
本書は『至福の味』(早川書房、2000年)の作者による二作目の作品である。
作品の舞台は前作と同じくパリ15区にある高級住宅街グルネル通り7番地のアパルトマン。調べてみたところ現在ここにあるアパルトマンは5階のようだが、本作では7階まであって、3階と4階はそれぞれ2家族が住み、他の階は1家族でワン・フロアーを占めている。1階の住人は前作と同じく管理人のルネ・ミシェル。ほかにも前作の主人公だった料理批評家のピエール・アルサンをはじめとして、アパルトマンの複数の住人たちが本作にも顔を出している。
一方、新しい住人も登場する。それがなんと日本人で、名前はオヅ・カクロウ。小津安二郎の遠い親戚という設定のこの人物、渋くて素敵な初老の男性である。そしてこのオヅ氏はルネを一目見るなり、ルネが住民たちにはひた隠しにしてきた知性と感性を見抜く。27年の間グルネル通り7番地の管理人をしているルネは、貧しい農家の出で学歴もない54歳の未亡人。背が低くて醜く、地味で凡庸で、無精で無愛想で気難しく、のらりくらりとした巨大な猫を飼っている。すなわち管理人たる者はどうあるべきかという人々の思い込みに順応しているのだが、実は内に秘めた知性と感性を見破られないように棘の砦で身を守る「優雅なハリネズミ」だったのだ。
もう一人の主要人物は6階に住むジョセ家の次女で12歳のパロマ。家は裕福で父も母も高学歴、高等師範学校で哲学を学んでいる姉のコロンブも一般的に見れば秀才であるが、パロマから見ればみんな凡庸な人物である。ずば抜けた秀才であると自認するパロマは、自分が人生で成功することはもう決められているわけで、そんな人生を生きていくことに絶えられないから13歳になる日に自殺する、と決めている。
物語はルネの語りを基調に、パロマの2種類の日記「私は想う」と「世界は回る」が差し込まれる形で進行していく。オヅ氏の登場によって、それまで自分を隠して生きてきたルネは初めて本来の自分らしい生き方に目覚め、人生に絶望していたパロマもまた生きる意味を見いだしていく。

作者の専攻(哲学)と日本びいきのせいで、ときどきかなりの蘊蓄が入るが、全体としては適度に知的で楽しい読み物になっている。ルネとオヅ氏が互いの好みの一致に気づいたきっかけがトルストイの「アンナ・カレーニナ」だったり、ルネのハリネズミぶりがばれたきっかけがオヅ家のトイレに流れる曲がモーツアルトの「レクイエム」だったり、さらにフェルメールをはじめとするオランダ絵画が好きという共通点もある。というわけで、作中に言及されている文学や音楽、そして絵画作品は挙げれば際限が無いので、映画にしぼってメモしておくことにする。
「お茶漬けの味」「風と共に去りぬ」「ブレードランナー」「レッド・オクトーバー」「ターミネーター」「ノッティングヒルの恋人」「東京画」「宗方姉妹」「スタートレック」「ブラック・レイン」
(2016.6.16読了)
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by nishinayuu | 2016-08-21 09:59 | 読書ノート | Trackback(1) | Comments(1)

『あなたの本当の人生は』(大島真寿美、文藝春秋)


c0077412_9593287.jpg本書は2014年に刊行されたもので、初出は別冊文藝春秋303号~311号。
まず登場するのは新人作家の国崎真美。新人賞をもらったあとはぱっとせず、またまた300枚分の原稿を没にされたところだ。
国崎真美の原稿を没にしたのは担当編集者の鏡味(かがみ)。「おまえ森和木(もりわき)ホリーの弟子にならねえか」と言うなり、国崎真美を連れて森和木ホリーの屋敷へ。
鏡味の鳴らしたチャイムに応えて玄関に出てきたのは宇城(うしろ)圭子。20年ほど前、市民会館の事務員をしていたときに、講演に来た森和木ホリーにお茶を出したり挨拶に来た人をさばいたりしたのが縁で、森脇ホリーの秘書になった。森脇ホリーに「あなたの本当の人生はここにはない」と言われたのが決め手だった。森脇ホリーは何年かに一度、この台詞を口走るのだが、国崎真美もこの台詞を言われるかも知れない。もし言われたら、彼女がどうなるか追跡調査をしてみよう――そんなことを考えながら宇城はさりげない顔で国崎真美を森脇ホリーの待つ部屋に案内する。
二階の大きな部屋で国崎真美を待っていたのは「錦船シリーズ」という超ヒット作を持つ森脇ホリー。二度目の脳梗塞を起こしてから足の動きがおかしくなり、そのせいもあってか最近は創作意欲も起きない。仕事関係のことはもちろん、家の中の雑事も宇城にまかせていて、20年あまり前に宇城に声を掛けたのは実に正しいスカウトだった、と思っている。

森脇ホリーは国崎真美を見るなり「あなた、チャーチル(錦船シリーズに登場する黒猫)に似てるわね」と言う。鏡味がぐふっと吹きだし、宇城もうっすらと笑う。こうしてチャーチルこと国崎真美は森脇ホリーの広大な屋敷で暮らし始めるのだが、さて、国崎真美の本当の人生は?

時たま無性に大島真寿美が読みたくなるときがある。それはちょっと疲れているときやストレスがたまっているときだ。今回もそんな状態のなかでこの本を手に取った。期待通り、ふんわりと温かく、とても気持ちが安らぐ読み物だった。ここで、大島真寿美の作品を既読と未読に分けてメモしておく。
これまでに読んだ作品――『香港の甘い豆腐』『ほどけるとける』『かなしみの場所』『水の繭』『チョコリエッタ』『虹色天気雨』『宙の家』『羽の音』
これから読む予定の作品――『ビターシュガー』『戦友の恋』『それでも彼女は歩き続ける』『ゼラニウムの庭』『三月』『ワンナイト』『ピエタ』
(2016.6.13読了)
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by nishinayuu | 2016-08-17 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『文学会議』(セサル・アイラ、訳=柳原孝敦、新潮クレストブックス)

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『El congreso de literatura』(César Aira)
本書には『文学会議』と『試練』という二つの作品が収められている。


『文学会議』――語り手(貧しい作家)はベネズエラの海辺で〈マクートの糸〉の謎の解明に成功し、400年前に海賊が残した莫大な財宝を手に入れる。にわかに大金持ちになった語り手(実はマッド・サイエンティスト)は招待されていた「文学会議」にある目的を持って出向く。すでにクローンの製造に成功していた彼は、世界征服のために天才のクローンを作ろうと考えたのだ。「文学会議」に出席していた天才作家カルロス・フェンテスの細胞を、クローンスズメバチを使って採取。それをクローン培養器に入れて街から離れた山の上にこっそり埋める。天才のクローンがたくさん生まれるのを待ちながら彼がプールで楽しんでいるとき、異変が起こる。
『試練』――16歳の少女マルシアはぽっちゃり型。運動のためにフローレス広場の近くを歩いていたとき、マオとレーニンという二人の少女が声を掛けてくる。生真面目なマルシアとは何の共通点もないパンク少女だった。しつこくつきまとう二人をなんとか振り払おうとして、短いことばを交わすうちに、マルシアは少しずつ二人にうちとけてくる。そして三人はまるで友達のようにスーパーに入っていき、やがて少女たちのスーパー襲撃が始まる。

『文学会議』は冒頭から人を食ったようなエピソードで始まり、それがさらにエスカレートしていって、まるでB級SFパニック映画のような状況になっていく。『試練』のほうはごく自然で日常的な世界を描いているように始まり、ある時点でとつぜん非日常的な世界に突入していって怒濤の結末へとなだれ込んでいく。どちらも目のくらむような動きと色彩に溢れていて、とても疲れる。表紙の絵(Artwork by Isamu Gakiya)が中身にぴったりで、読後何日たってもこの絵を見ただけでどっと疲れる。(2016.6.11読了)
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by nishinayuu | 2016-08-13 10:06 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『逆さまゲーム』(アントニオ・タブッキ、訳=須賀敦子、白水社)


c0077412_9344542.png『Il gioco del rovescio』(Antonio Tabucchi,1988)
11編の短編からなる本書はタブッキの第三作で、「反対側からものを見ようとして、そのために現実から脱落してしまう人たちや出来事が描かれた作品集(訳者あとがきによる)」である。どの作品も、いつかどこかで見たことがあるような、体験したわけではないのに胸が締め付けられるほど懐かしい、そんな会話や情景から成り立っている。たとえば

「土曜日の午後」――母、息子、幼い娘の三人で暮らす一家。父親は訳あってどこかに身を隠している。ある土曜日の午後、自転車に乗って通り過ぎる父親を娘が目撃して……。
名作映画の一場面、最初と最後を見損なったためこの場面に至ったいきさつも、その後の展開もわからないけれどもなぜか忘れられない、そんな場面を見ているような作品。
「小さなギャッツビイ」――語り手は少年の頃、名作の出だしの暗誦が得意だったから、将来は小説家になろうと思っていた。つまり「小さなギャッツビイ」だったのだ。『グレート・ギャッツビイ』の細部、言及されているミュージシャンや曲はくっきりとは思い出せないけれども、懐かしさがこみ上げてくる。(「あしたお天気がよければね、ラムゼイ夫人は言った。でも、おまえ、ニワトリが鳴くころに起きるのよ」という部分だけはヴァージニア・ウルフの『燈台へ』からとったものだとすぐにわかりました。ただし原文はニワトリではなくlark,すなわち雲雀。)
「ドローレス・イバルーリは苦い涙を流して」――レジスタンスにも参加し、スペイン戦争でも闘ったロドルフォは、同志だったドローレスが「ロシアに身を売った」ため大喧嘩してしまった。彼女がロドルフォを罵ったので、ロドルフォは「きみだってやがて、自分の犯した過ちのためにいつか苦い涙を流すだろう」と答えた。数年後、ロドルフォのもとにモスクワから一通の手紙が来た。差出人はドローレスで、「ドローレスは苦い涙を流しています」とあった。ロドルフォは世界情勢、特にロシアの動向に心を痛めながら61年12月に世を去った。その頃まだ15歳だった息子が「残虐行為をしたという理由で虐殺された」という報道があったが、母親は信じられない。ロドルフォは穏健な社会主義者だったし、父親が死んだとき息子はまだ15歳だったのだから。
この作品も、最初と最後を見損なった映画のような印象が残る。
「チェシャ猫」――長い歳月の後でいきなりアリスから会いたいという連絡がくる。アリスから「チェシャ猫」と呼ばれていた男は列車に乗って出かけていく。列車は彼女が待っているはずのグローセットの駅に着いたが……。
続きがとても気になる作品。
「行き先のない旅」――アルティスタ・ディーノ(芸術家のディーノ)と名のる21歳の若者。列車で乗り合わせた仲買人とモデナへ。糸売りのレゴロの荷馬車でレッジョヘ、カソーラヘ、そしてカノッサへ。そこからはひとりで、ポー河の平野を走るエミリア街道を北に向かって。
訳者によるとこの作品は、ランボーを思わせる特異な詩を書いたにもかかわらず、人生の大半を精神病院に幽閉されて過ごした詩人、ディーノ・カンパーナ(1885~1932)の生涯をタブッキ風にアレンジしたものだという。

全作品を通じて印象に残るのは作者の並外れた描写力だ。もちろんこれは達人翻訳家のおかげでもあるが、文章表現なのに一つ一つの場面が音と色彩と動きをもって鮮やかに浮かび上がってくる。非常に充実した読書体験だった。(2016.6.6読了)
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by nishinayuu | 2016-08-09 09:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『나의 문화유산답사기-일본편4 교토의 명소』(유홍준, 창비)

c0077412_1611222.jpg『私の文化遺産踏査記-日本編4 京都の名所』(兪弘濬、創作と批評社、2014)
著者は美術史を専攻する学者として、これまで韓国の文化遺産をはじめとして北朝鮮の文化遺産、日本の文化遺産についての踏査記10巻を発表している。内訳は韓国編5巻、北朝鮮編2巻、日本編3巻である。日本編3巻では九州、飛鳥にそれぞれ1巻を当てているのに対して京都には「京都の歴史」と「京都の名所」の2巻を当てている。以上の巻数を見ても著者の京都への思い入れのほどがわかる。

本書は5部構成になっており、第1部~第4部に取り上げられている「京都の名所」は以下の通り。
第1部「鎌倉時代の名刹」――知恩院、建仁寺、大覚寺、天龍寺
第2部「室町時代の禅寺」――相国寺、金閣寺、龍安寺、銀閣寺、哲学の道と南禅寺
第3部「戦国時代の茶道の本家」――裏千家と大徳寺
第4部「江戸時代の別宮」――桂離宮、修学院離宮

いずれの名所に関しても入念な下調べと実地の踏査に基づいた実に詳細な解説が繰り広げられているので、資料集として大いに役立つ。また、所々にごく普通の観光客レベルの言動記録も織り込んであり、読者を飽きさせない。ただし、長蛇の列にうんざりして「割り込み」をやってのけるという、著者の「お茶目な」一面の表れかもしれないが日本人としては(あるいは東京人としては)ちょっと理解しがたいエピソードなどもある。

第5部は京都の街歩きの記録「京都漫歩」と、京都で見つかる韓国に関わる事物の記録「京都の中の韓国」からなる。ここで特に印象に残るのは最後に掲げられている尹東柱と鄭芝溶に関する部分だ。日本ではほとんど忘れ去られてしまった二人の韓国詩人の冥福をあらためて祈らずにはいられない。同志社大今出川キャンパスにある二人の詩碑については、後日、別の記事にして紹介したい。(2016.6.5読了)
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by nishinayuu | 2016-08-01 16:11 | 読書ノート | Trackback | Comments(3)

『フランス紀行』(ブノワ・デュトゥルトル、訳=西永良成、早川書房)

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『Le Voyage en France』(Benoît Duteurtre, 2003)
モネの『サン・タドレスのテラス』による色鮮やかな装丁が目を引く本書は、ル・アーヴルのサン・タドレス生まれの作者による第七作目の長編小説である。

主要登場人物は二人。一人はル・アーヴルで生まれ育ち、今はパリで暮らす中年のジャーナリスト。今はタクシーの中で無料配布される月刊誌『タクシー・スター』の副編集長という冴えない肩書きしかないが、もっと自分の能力にふさわしい仕事があるはずだと思っている。アパルトマンの部屋には20歳だった頃の彼を夢見心地にさせていたニューヨークの写真の横に、ル・アーヴルの海岸を描いたモネの複製画が掛かっている。
もう一人はニューヨークに住む22歳の青年。彼は19世紀にル・アーヴルに集まった芸術家たちに憧れ、モネの「サン・タドレスのテラス」の複製画を自室に掲げていて、この絵画についても、サン・タドレスの日常生活についても講演できるほど詳しい。
物語は二人が交互に登場して、一人はほとんど意味のない職業生活の中に閉じ込められている日々を語り、もう一人はあこがれのフランスにやって来たのはいいけれど、見るもの出会うもののことごとくに失望させられる日々を語る。この二人がある日、「クール・デ・ミラクル」という酒場で顔を合わせたのがきっかけで、ディエップにあるソランジュという女性の別荘に一緒に出かけることになる。その別荘のベランダから海辺を見下ろした青年は、まるでモネの絵の光景みたいだ、と歓声を上げる。それもそのはず、モネの風景画はこの別荘で描かれたものだったのだから。

アメリカ人の青年は父親を知らない。母親が若い頃に一夜のアヴァンチュールでもうけた子だったから。青年は別に父親を知りたいとは思っていないのだが、物語のそこここにフランス人のジャーナリストが彼の父親かもしれないという仄めかしがある。このミステリー的要素と、変貌しつつあるフランスの中で失われた古いフランスを求めて彷徨う「フランス紀行」の魅力で読ませる作品である。(2016.5.24読了)
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by nishinayuu | 2016-07-28 10:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『直筆商の哀しみ』(ゼイディー・スミス、訳=小竹由美子、新潮クレストブックス)


c0077412_10201813.png『The Autograph Man』(Zadie Smith, 2002)
本書の主人公アレックスは直筆商、すなわち「有名人のサインや直筆文書を売り買いする商売人」である。本書ではまずアレックスの12歳のある日の出来事が語られる。ロンドン郊外のマウントジョイに住む中国人医師リ・ジンと息子のアレックスは、ロイヤル・アルバート・ホールにレスリングの試合を見に行った。知り合いのルービンファイン(15歳)、アダム・ジェイコブス(13歳)も一緒だった。リ・ジンは試合の結果について子どもたちと賭をした。リ・ジンが負けたら一ポンドずつ上げる、といって三人の名前を三枚のお札に書いた。
試合会場では、ジョーゼフ・クラインという少年(13歳)と隣り合った。ジョーゼフは「サイン、直筆、その他諸々の蒐集家」だが、父親からは「ただの役立たず」と見做されている。アレックスがジョーゼフのコレクションに興味を示すのを見たリ・ジンは、自分がいなくなった後アレックスの気を紛らわしてくれるのはこの子かも知れない、と思う。試合は少年たちの予想が当たってリ・ジンの負けに終わり、少年たちはそれぞれ自分の名前が書かれた1ポンド札を手に入れる。リ・ジンはジョーゼフにも1ポンド札を与える。その直後にリ・ジンが倒れて急死したため、少年たちにはリ・ジンの1ポンド札が特別の意味を持つものになったのだった。
それから15年後、アレックスはいっぱしの直筆商になっていた。リ・ジンの1ポンド札が結んだ四人の友情も続いていた。

主人公は母親がユダヤ人で、他の三人もユダヤ人(アダムは界隈では珍しい黒いユダヤ人)ということで、本書にはヘブライ文字やらカバラやら、ユダヤ教の儀式やらが溢れている。それはまあいいとして、後半部の章にはなぜか禅門修行者のための「十牛図」の標題が使われている。また、直筆の収集・取引の話なので、様々な分野の有名人についての情報も満載されていれば、全編に「国際的に通用するジェスチャー」というものもちりばめられている。ストーリーは単純明快なのに、とにかく情報過多で疲れました。「細部がひどくおもしろく、あちこちに笑いがはじけているのもこの作者の特徴だ。おかげで、一行一行翻訳を進めていく作業がとても楽しかった」という訳者のことばに、またどっと疲れました。(2016.5.21読了)
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by nishinayuu | 2016-07-24 10:21 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)