カテゴリ:読書ノート( 1093 )

『마상에서』(박완서)

『馬上にて』(朴婉緒)
韓国語講座テキスト。短編集『黄色い家』に収録されている作品。
韓国では旧暦で正月を祝う。正月休みを利用して故郷に帰省する人も多い。最近は海外に出かける人も増えたという話を他人事のように聞いていた著者だったが、ある年、旧暦の正月にネパール旅行をすることになった。旅行団は70代から10代までの老若男女によって構成されていたが、トレッキングのコースは20代の若者向けになっていて、日程表を見ただけでも相当きつい旅行になりそうだった。その旅行に著者は大学に入ったばかりの孫を連れて行くことにした。勉強さえできればいい、という感じで甘やかしてきた孫に、少しは肉体的にきついこともさせてみようと考えたのだった。
c0077412_1061852.jpgさて旅行先では、トレッキングで最初に音を上げたのは最年長者の著者だったが、年長者のために数頭の馬が用意されていたので、きつい上りにさしかかるたびに馬に乗せてもらった。著者は馬に乗るのが初めてなので怖くてたまらなかったのだが、孫が手綱を取ってくれたので、安心して乗っていられた。そしてその日が正月だったからか、ふと、祖父と過ごした正月のことが思い浮かんだのだった。
著者は祖父に特別にかわいがられて育ったが、教育熱心な母の計らいでソウルの学校に入れられたため、8歳で祖父の許を離れた。そんな孫娘のために、祖父は正月を新暦で祝うことにした。新暦の正月には学校が長い間休みになるからだ。時は日帝強占期。正月を新暦で祝うことが強制され、旧暦の正月の時は学校も役所も休みにはならなかった。けれども人々はこっそりと旧暦の正月を祝い、旧暦の正月を守ることをまるで独立運動のように感じていた。そんな中で村の精神的な支えでもある祖父が孫娘のために新暦の正月に、つまり「日本式に転向」してしまったのだ。正月は子どものための行事だという信念を持って祖父は、人々の陰口をものともせず、孫娘のために正月気分を盛り上げることに力を注いだ。こんな祖父のおかげで著者は、小学校時代の冬休みは半月の間ずっとゆったりとした豊かな祝祭の期間だった、と記憶することになる。
祖父にかわいがられ、大事にされた記憶がその後の人生でも自分を支えてくれた、と著者はしみじみ思う。そして今回のきつい旅は孫にどんな記憶として残るのだろうか、と想像してみる。かわいがられ、大事にされた記憶として残ることを祈りつつ。

大学受験生の事情、海外旅行事情、トレッキングと馬の関係、著者の祖父の人柄、日帝強占期のあれこれ、正月行事のあれこれなどなど、盛りだくさんな内容で読みでがありました。(2017.1.23読了)
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by nishinayuu | 2017-04-02 22:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『美しい子ども』(編=松家仁之、新潮クレストブックス)

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「新潮クレストブックス創刊15周年企画」と銘打ち、11の短編集から選んだ12作品を収録したアンソロジー。


収録作品は以下の通り。
『非武装地帯』(アンソニー・ドーア『メモリー・ウォール』より、訳=岩本正恵)
『天国/地獄』(ジュンパ・ラヒリ『見知らぬ場所』より、訳=小川高義)
『エリーゼに会う』(ナム・リー『ボート』より、訳=小川高義)
『自然現象』(リュドミラ・ウリツカヤ『女が嘘をつくとき』より、訳=沼野恭子)
『水泳チーム』『階段の男』(ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』より、訳=岸本佐知子)
『老人が動物たちを葬る』(クレメンス・マイヤー『夜と灯りと』より、訳=杵渕博樹)
『美しい子ども』(ディミトリ・フェルフルスト『残念な日々』より、訳=長山さき)
『ヒョウ』(ウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』より、訳=藤井光)
『若い寡婦たちには果物をただで』(ネイサン・イングランダー『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』より、訳=小竹由美子)
『リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ』(ベルンハルト・シュリンク『夏の嘘』より、訳=松永美穂)
『女たち』(アリス・マンロー『小説のように』より、訳=小竹由美子)

まるで長編小説のような重い内容の作品(『エリーゼに会う』『若い寡婦たちには果物をただで』)もあれば、短編小説ならではの余韻が魅力の作品(『ヒョウ』『リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ』)などもあり、それぞれ雰囲気の全く異なる作品が一度に楽しめる1冊である。(2017.1.26読了)
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by nishinayuu | 2017-03-29 09:44 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『宿題』(足立喜美子、現代俳句協会)

c0077412_1020127.jpg読書会「かんあおい」2017年3月の課題図書。
著者は地元で句会の指導もしている現役の俳人。読書会のメンバーの一人でもあるので、3月の読書会では本書を取り上げ、著者の解説つきで俳句を鑑賞した。


まず、著者の自選十句を紹介する。
*栗剝くや丹波に生まれ離れても
*雲の峰かの世この世の鬼の貌
*われからの声か土偶のこゑか暑し
*紫式部へ手鞠ころげてゆきさうな
*狐火や母の死風化するばかり
*花野まで来て宿題があるといふ
*空蝉をのせて新聞さざなみす
*ドーバー海峡夢見て水着試着かな
*ぽっぺんを吹いて他人のやうな音
*風来て風がはづかしげなり冬桜

次にnishinaが気に入った十句を記しておく。
*片眼より鱗の落ちし去年今年
*大空のあるを頼みの辛夷咲く
*雪女ときどき梁のきしみをり
*きつね雨トトロの森の月夜茸
*泉川術後の兄に会ひに行く
*旱星鄙に形見のチェロを弾く
*笙の音や青葉の闇を押しひらき
*揚雲雀つばさの軽き日もありて
*冬紅葉恋する人にどっと降る
*石鹼玉たましひに触れ爆ぜにけり

(2017.1.22読了)
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by nishinayuu | 2017-03-25 10:20 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『植物たちの私生活』(李承雨、訳=金順姫、藤原書店)

c0077412_9444041.jpg『식물들의 사생활』(이승우、1999)/『Private life of plants』(lee Seung-U)
語り手のキヒョンが車で移動しながら街の女を物色する場面から物語は始まる。母が兄のウヒョンを背負って娼婦のところに連れて行くのを見かねて、語り手が自分でやることにしたのだった。というのも語り手には、兄が足を失い、生きがいであった写真を失い、恋人のスンミまで失う、というすべての不幸の原因を作ったのは自分だという思いがあったからだ。語り手は自分の残りの人生が兄に対して負っている借りを返すためにあるように感じていた。
物語ははじめのうち、まるで暴力的韓国映画のように展開していく。この本に出会ったとき、渋い緑色の地にアンリ・ルソーの「エデンの園のエヴァ」が嵌め込まれた表紙、学術研究書のようなタイトル、さらには著者名に入っている「雨」という文字、それらすべてから何か深くて静かな世界との出会いを期待したのだが。しかし、とんでもない本を選んでしまったかも知れない、と思い始めたころに、物語の雰囲気は大きく変わり始める。
語り手は兄がもう一度カメラを手に取ることを願い、その手助けをしてもらうためにスンミを探す。兄のために自作の歌「溶けてしまう前に私の心を写して、写真屋さん……」と歌っていたスンミを。そんなある日、母がいきなり南川に旅立ち、あとをつけた語り手は遠くから、丘の上の椰子の木陰で母が衰弱した一人の男と一本の木になるのを見た。呆然としている語り手に母が電話をかけてきて「兄さんを連れてすぐ南川に来なさい」と言うので、語り手は急いでソウルに戻る。南川行きを渋る兄に、それまで存在感の薄かった父が「行ってきなさい。待っているだろうに……」と言う。語り手は父の断固とした積極的な態度に驚くと同時に推察する。父は母が南川に兄を呼んだ理由も、母が南川に行った理由も知っているのだと、そして南川の人物が何者で、母とどういう関係なのかも知っているのだと。物語はこのあと、「植物の私生活」を解き明かしながら進行し、最後には表紙やタイトル、著者名の印象のままの、心を洗われるような清々しい物語として幕を閉じる。

=蛇足=
その1:語り手の兄はノートに「すべての木は挫折した愛の化身だ……」と書き、自分を松の木に、スンミをエゴノキに変身させる物語を書いていた、というくだりがある。これはギリシア神話などに多く見られる片思いや誤解から植物に変身する(あるいはさせられる)話とは異なり、愛を遂げるために自ら植物に変身する話という点で、式子内親王の墓にテイカカズラ(定家の化身)が巻き付いたという話と同様の発想で興味深い。
その2:南川の丘の上の椰子の木に関して「ブラジルかインドネシアのようなところから太平洋を越えてきた」云々(デンデンではありません)というくだりがある。藤村の「椰子の実」やそのもととなった柳田国男の言のように「南の島」から流れ着くのならわかるが、ブラジルからというのはどうだろうか、とふと疑問に思った。(2017.1.19読了)
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by nishinayuu | 2017-03-21 09:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『The Seven Cream Jugs』(H. H. Munro)

[The Complete Works of SAKI ]Part1 ‘The Toys of Peace’の1編。

c0077412_9432057.jpgピーター・ピジンコウト夫妻が親戚のウィルフリッド・ピジンコウトについて、先だって准男爵の地位と莫大な財産を得たけれど、この家に来ることはないだろう、とうわさしている。というのも夫妻はこのウィルフリッドは将来の見込みはないと思ってとうの昔に見放してしまったからだ。一族には、名誉ある事績をあげた先祖に因んだウィルフリッドという名の者が多く、それぞれの領地や職業の名称で区別されていたが、今話題にしているウィルフリッドはなんと「ひったくりのウィルフリッド」と呼ばれていた。なぜなら彼には盗癖があって、サイドボードより小さくて運びやすく、9ペンスより値のはる「他人の持ちもの」は盗まずにはいられない子どもだったからだ。地位と財産を得た今は盗癖も治ったかも知れない、と彼との交際を期待する夫人に対して、夫のほうは今でも盗癖はもとのままだろう、とつきはなす。
そんな話をした30分ほど後に電報が来る。ウィルフリッドからで、車で近くを通るので表敬訪問したい、できれば一晩泊まりたいのでよろしく、という内容である。さて、二人は大慌てに慌てる。折しも応接間には、二人の銀婚を祝ってあちこちから贈られた品物がたくさん飾ってあったからだ。
ウィルフリッドが到着。夫妻は礼儀として、飾ってある贈り物を見せる。そして「クリームのジャグが7つも重なっちゃって」とか言いながらも、ウィルフリッドが何かに手を触れるたびにすぐにもとの位置に戻させる。それでも彼がゲスト・ルームに引き上げたあとで調べてみると、何かがなくなっているような気がしてくる。それで夫妻は翌朝、前もって相談していたことを実行する。ウィルフリッドがバスルームに入った隙に夫がゲスト・ルームに侵入し、ウィルフリッドの旅行鞄の中を探ったのだ。すると案の定、旅行鞄には銀製のクリーム・ジャグが入っているではないか。夫は急いでそれを手にしてゲスト・ルームを出る。
ところが、朝食に遅れてやって来たウィルフリッドが、この家には盗人がいるのでは?実はカイロに滞在中の母と相談して二人に贈り物を持ってきたのだが、それが旅行鞄から消えてしまった、と言い出す。「ひったくりのウィルフリッド」は母なし子のはず、と慌てた夫妻が聞きただすと、目の前の相手は「大使館のウィルフリッド」だと判明する。彼が夫妻のために持ってきた贈り物は銀製のクリーム・ジャグだったが、応接間にクリーム・ジャグがすでに7つもあったので、夕べはとり出し損ねた、と言うではないか。夫妻は真っ青になる。しかし夫人は立ち直りが早かった。そして手際よく問題を処理してのけたのである。

夫人はとんでもなく機転が利く女性で、夫の方は妻の機転のおかげで救われたと思ってほっとしている人のよい男性、という図である。サキの作品にはこの手の女性がよく出てきて、話としては愉快だが、身近にはいて欲しくない女性ではある。(2017.1.9読了)
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by nishinayuu | 2017-03-17 09:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『イザベルに ある曼荼羅』(アントニオ・タブッキ、訳=和田忠彦、河出書房新社)

c0077412_10163088.jpg『Per Isabel Un Mandala』(Antonio Tabucchi, 2014)
物語は語り手が時間つぶしのためにカフェに立ち寄ったところから始まる。ビリヤードに興じていた老人が、居合わせたみんなから有り金を巻き上げたあと、語り手に話しかけてくる。ゲームをやるか? 妙ななまりがあるがどこの生まれだ? 名前は? こんな所で何をしている?と。語り手は答える。おおいぬ座のシリウスから来た、名前はヴァクラフだが友だちのあいだではタデウシュで通っている、これからある女の情報をくれるという人に会いにリスボン一の高級レストランのタヴァーレスに行くところだと。ここで舞台がポルトガルであることと、タデウシュという名前から語り手がポーランド人らしいということがわかる。が、「シリウスの生まれ」というのは冗談なのか、ただのはぐらかしなのか、よくわからない。(『レクイエム』を読んでいれば自明のことなのだと「あとがき」を読んでからわかりました。)とにかく語り手への興味と語り手の探している女性への興味をかき立てる滑らかな導入部である。
こうして語り手はまずリスボンの高級レストランでモニカという女性に会って、イザベルの少女時代から大学時代の話を聞く。イザベルがスペイン人の学生とつきあっていて、彼の友人のポーランド人ともつきあうようになったこと、イザベルが妊娠したとき、どちらの男の子どもかわからないといっていたこと、などの話も出てくる。この第1章のタイトルは「第一円――モニカ リスボン 想起」となっている。そして第2章「第二円――ビー リスボン 誘導」で語り手は、モニカが「イザベルについてもっとよく話せるかも知れない」と言ったイザベルのばあや、通称ビーを訪ねて話を聞く。
こうして語り手はサラザール体制下で抵抗運動に加わって投獄され、脱獄したあと消息が途絶えたイザベルを求めて、外側の円からしだいに中心の円に向かうように探索の旅を続けていく。セボレイラに住むトムおじさん(看守)、リスボンのティアゴ(イザベルの脱獄に手を貸した同志)、マカオのカモンイス洞窟のコウモリの姿を借りたマグダ(イザベルをマカオに逃した友人)、マカオの老詩人(イザベルと関わりのある司祭を知る人物)、スイスアルプス山中の城にいるザビエル(イザベルとナポリの関わりを示唆する霊界の人物)、ナポリの「赤い月」の老秘書、と辿ってきた語り手は、リヴィエラ海岸駅にやって来る。老秘書にオーベルダン通りにある「社会印刷」がイザベルの消息のあった最後の場所だと教えられたからだ。駅前の公園で語り手は奇妙なヴァイオリン弾きに出会い、「あなたの同心円を指揮しているのは私です」と告げられる。そしてそこにイザベルも現れて「安心していいわ。あなたの曼荼羅は完成よ」と告げるのだった。

ルポルタージュ風に綴られていくうちに、マカオのカモンイス洞窟の場面でいきなり(よく考えれば決していきなりではないのだが)コウモリを通して遠くにいるマグダと交流するというシュールな場面が現れる。このときやっと「シリウスから来た」という語り手の言葉が冗談でもはぐらかしでもないと確信できる(遅い!) 新しい年の始めに『聖ペテロの雪』と本書という感動的な作品にたて続けに出会えたのはなんとも幸せなことである。(2017.1.8読了)
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by nishinayuu | 2017-03-09 10:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『聖ペテロの雪』(レオ・ペルッツ、訳=垂野創一郎、国書刊行会)

c0077412_1028263.jpg『ST. PETRI-SCHNEE』(Leo Perutz, 1933)
物語の語り手の名はアムベルク。1932年1月25日にヴェストファーレンの小さな村モルヴェーデに村医として赴任した。語り手を出迎えた元ロシア侯爵で今は領地管理人のアルカジイ・プラクサティンは、語り手をまず林務官の家に案内する。そこには語り手を村医として採用したフォン・マルヒン男爵の娘エルジーが預けられていて、少し前から病に伏せっていた。語り手が病室に入る直前まで、病室からはタルティーニの「悪魔のトリル」が聞こえていた。演奏していたのは男爵がシュタウフェン家再興の夢を託して手元に置いている少年フェデリコだった。そのフェデリコに語り手は、エルジーは猩紅熱なのでしばらく会いに来てはいけない、と申し渡す。
それから語り手は部屋をあてがわれた仕立屋で家主の夫婦、学校教師と顔を合わせたあと、男爵に会いに行く。語り手の父と交流があったという男爵は、語り手の父を高く評価していて、亡くなったことを残念がったが、男爵の目下の関心事は細菌学だった。男爵は研究の助手を務める若い女性科学者を昨日ベルリンへ遣ったという。彼女が男爵の所有するキャデラックに乗っていったと聞くや語り手は、それはビビッシェかも知れないという思いに襲われて、気を失いかける。語り手はベルリンからモルヴェーデに来る途上、乗り継ぎ駅オスナブリュックの駅前広場でキャデラックに乗ったビビッシェを見かけたのだった。バクテリア研究所の同僚でみんなの憧れの的だったビビッシェ、1年のあいだベルリン中を探し回ったビビッシェを。
1週間後、ベルリンから戻ってきた女性科学者はやはりビビッシェだった。バクテリア研究所時代、語り手はまる半年のあいだ朝から午後遅くまで彼女と同じ部屋で仕事をしていながら、朝晩の挨拶を除けば十語と言葉をかわさなかった。そんな彼女がなぜか急激に語り手に心を許すようになり、二人は恋人として一夜を過ごす。その間に男爵とビビッシェの研究は着々と進み、男爵は自分の洗礼名の日を祝って村中の人々を館に招待し、研究の成果を村人たちで実験しようとする。ところが男爵のもくろみは思わぬ方向に逸れていく。
オスナブリュックの病院で昏睡から覚めた語り手は、すでに5週間、意識を失っていたと告げられる。語り手の記憶では事件に巻き込まれて大怪我をした日から5日しか経っていないはずなのに。看護人に日にちを聞くと3月2日だというから、確かに事件から5日しか経っていない。しかし医者によると語り手は5週間前にオスナブリュックの駅前広場で車にひかれて担ぎ込まれたのだという。それでは、モルヴェーデで過ごした5週間の出来事もビビッシェとの出会いも、すべて語り手の妄想だったのだろうか。あるいは何かの大きな力がモルヴェーデの出来事をなかったことにしようとしているのだろうか。

「多人数によるもみ消し」の物語なのか、語り手の妄想の物語なのか、読み終わってもはっきりしないが、それこそがこの作品の魅力であり、読みどころだと言えよう。なお、作品に盛り込まれている歴史的事項や「聖ペテロの雪」の意味などは巻末の「解説」に詳しい。(2017.1.5読了)
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by nishinayuu | 2017-03-05 10:29 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『The Occasional Garden』(H.H.Munro)

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[The Complete Works of SAKI ]Part1 ‘The Toys of Peace’の1編。
タイトルは「臨時のガーデン」というような意味。



エリノア・ラプスリーが「とにかく一時間ほどは黙って私の話を聞いて」と言って話し始める。その内容は――エリノアの庭は大型の草食動物を飼えるほどの広さはないので、何か植えないと格好がつかないのだが、近所の猫たちの会議場になっているので何を植えてもだめになってしまう。しかも集会に集まるのはどうやら菜食主義の猫たちで雀には見向きもしないものだから、雀も植物を荒らし回る。そういうわけでエリノアの庭はなにも育たなくて酷い状態になっているのだが、幸い庭が客間からは見えない位置にあるので他人の目には触れないですむ。ところが、次の水曜に気の置けない知人を昼食に招いたところ、それを耳にしたグエンダ・ポディントンがぜひいっしょにお邪魔したい、といってきた。グエンダは自分の庭が自慢の女性で、エリノアの庭を見てほくそ笑み、自分の庭がいかに世間の羨望の的になっているかをしゃべりたくてやってくるのだ。
ここまで黙ってエリノアの話を聞いていた男爵夫人(女男爵かも)がエリノアにO.O.S.A.(Occasional-oasis Supply Association)の会員になることを勧める。O.O.S.Aはランチやパーティーの間だけそれに相応しい庭を設えるというサーヴィス提供会社で、たとえば1:30のパーティーなら10:00に電話すればすぐに素晴らしい庭を作り上げ、パーティーが終わったら片付けてくれるという。そこでエリノアはすぐに会員契約をして水曜のランチに備える。当日、最高級の庭造りを依頼したおかげでグエンダをやり込めることに成功し、エリノアは大満足したのだったが……。

有閑階級の軽妙で洒落た会話と、サキにつきものの冷笑的なオチが楽しめる短編作品である。また
動植物の名前がたくさん出てくるので勉強にもなる。(Japanese sand-badgersがムジナの類だということはわかりますが、正確な和名は?)(2016.12.29読了)
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by nishinayuu | 2017-03-01 17:21 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』(ビアンカ・ランブラン)


c0077412_10301954.jpg『MÉMOIRES D’UNE JEUNE FILLE DÉRANGÉE』(Bianca Lamblin,1993)
訳=阪田由美子、出版社=草思社
☆画像はサルトルとボーヴォワールゆかりのカフェ・ドウ・マゴ

著者は1921年にポーランドでユダヤ人医師の長女として生まれている。翌年一家は反ユダヤ主義が高まるポーランドを離れてパリで暮らし始めたため、著者は自分をポーランド人ではなくフランス人だと思っているという。1937年、女子高等中学校に在学していたとき、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが哲学教師として赴任してくる。著者はボーヴォワールの美貌と鋭く光り輝くような知性と大胆な発想に魅了され、ボーヴォワールもまた利発でかわいい著者に眼をとめて、二人は急速に接近する。翌1938年、ソルボンヌに入学した著者にボーヴォワールは自分のパートナーであるサルトルを紹介する。こうして三人の「トリオ」の関係が始まる。著者17歳、ボーヴォワール30歳、サルトルが34歳の時だった。
著者は三人の関係を対等なものと思っていたが、独自の契約と他人には計り知れない特殊な愛情で固く結ばれていた相手の二人は、次第に著者を疎ましく思うようになる。これを著者は二人の、特に敬愛して心を許していたボーヴォワールの裏切りと感じて苦しむ。その間にもナチスの脅威が迫って、ユダヤ人である著者は大きな苦難を経験することになるが、ボーヴォワールとサルトルにとっては戦争によって二人の繋がりが脅かされそうなことのほうが重大な関心事だった。これに関して後に著者は、二人のユダヤ人に対する無理解と染みついた偏見に気づかされることになる。

すなわち本書は、哲学者としても作家としても世界が認める二人の巨人に「愛された」と思っていたのに、「利用されたうえに手ひどく裏切られた」と感じた一人の女性による「文学的暴露本」である。特にサルトルはずたずたにされていてなんとも哀れであるが、ボーヴォワールに関しては敬愛の情の名残がそうさせたのか、恨みながらも徹底的に打ちのめすところまではいっていない。「暴露」の部分だけであれば後味の悪い書物になったと思われるが、著者がレジスタンス史上名高いヴェルコールの「マキ」に参加して戦った当時のエピソードにかなりの紙幅が割かれているため、「文学的」読み物としても読めるのが救いである。
なお本書の原題は、ボーヴォワールの『MÉMOIRES D’UNE JEUNE FILLE RANGÉE』(あるまじめな少女の物語---邦訳書名『娘時代』)をもじったもの。(2016.12.29読了)
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by nishinayuu | 2017-02-25 10:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『The Lady in the Van』(Alan Bennett)


c0077412_15474535.jpg『ヴァンのレディ』(アラン・ベネット、2015)
著者は1934年生まれのイギリスの劇作家、小説家、シナリオライター。エリザベス女王が移動図書館の熱心な利用者になるという楽しい小説『The Uncommon Reader』(『やんごとなき読者』というタイトルの邦訳あり)で知られる。


本書は著者自身が語り手となって展開するドキュメンタリー作品で、エキセントリックなホームレス女性との関わりが事細かく記されている。著者は女子修道院の前で初めてこの女性を見かけたが、そのとき彼女は60歳くらいだった。次に見かけたのはパンダ・カー(パトカー)が著者の車を追い越して彼女のヴァンに近づいていったときで、著者がヴァンを追い越すと彼女はヴァンの外に出て著者に向かって怒鳴った。道行く人は著者が彼女に何か悪いことをしたと思ったに違いない。そして1年ほどあとの60年代末頃に、彼女のヴァンが著者の住むグロスター・クレセント(ロンドン北部のカムデン地区)に現れる。ただしこのとき著者はまだ、その後この女性と同じ敷地内で毎日顔を合わせる関係が15年も続くことになろうとは思ってもみなかった。
本書で仮にミス・シェパードと呼ばれているこの女性は、大柄で偉そうな雰囲気の女性だった。はじめのうち少し離れたところに路上駐車していたヴァンはいつの間にか著者の家の外に置かれるようになる。すると誰かがヴァンを叩いたり、揺らしたり、明かりで照らしたり、といったいたずらをする度に著者が出ていって注意して追い払ったりすることになった。そのうちついにヴァンの窓が割られて彼女が顔にけがをするという事件が起きたため、著者はついにヴァンを自分の敷地内に駐車させることした。すると彼女は渋々と云った感じで著者の提案を受け入れる。その後著者は彼女に安全な場所を提供し続けたが、自分ではチャリティという意識はなかったし、むしろ、そんなはめになったことに腹を立てていたという。著者は言う。「ただ私は静かに暮らしたかったし、彼女もたぶんそうだったのだ」。
しかし、静かに暮らすということからはほど遠い15年だった。家の前の路上には彼女がヴァンを黄色に塗り替えたときのペンキのしみがくっきりと残っているし、ヴァンのボンネットが玄関の石段にぴったりくっついているので出入りしにくいことこの上ないし、ヴァンの後ろ扉が開いていればヴァンの中のごたごたしたものを見るはめになるし、横をすり抜けて玄関にたどり着くまでに彼女からじろじろと検分される。さらに彼女はときどき突飛なこと――様々なパフォーマンスの構想、選挙への立候補などなど――を思いついて著者を煩わせる。身体は頑丈で態度は横柄、言動は常軌を逸していて、とにかく不潔。こんな恐るべき人物と15年もつきあった著者の忍耐力は驚異的というしかない。が、こうして一冊の本が仕上がり、しかもそれが映画化されたり舞台で上演されたり、なると著者の長年の忍耐は充分報われたと考えることもできる。
さて、その映画は『ミス・シェパードをお手本に』というタイトルで2016年12月に公開されている。監督はニコラス・ハイトナー、主演男優はアレックス・ジェニングス、主演女優はマギー・スミス(ハリーポッターのマクゴナガル先生、ダウントン・アビーのバイオレット)である。なお、舞台作品のタイトルは『ポンコツ車のレディ』だそうだ。(2016.12.14読了)
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by nishinayuu | 2017-02-17 15:48 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)