カテゴリ:読書ノート( 1050 )

『ある夜、クラブで』(クリスチャン・ガイイ、訳=野崎歓、集英社)

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『Un Soir au Club』(Christian Gailly,2001)



物語は次のように始まる。
ピアノはシモン・ナルディスにとって、画家アングルのヴァイオリンのような道楽ではなかった。アングルのヴァイオリンよりはるかに大事なものだった。彼にとってピアノは、アングルにとっての絵画だったのだ。その彼がピアノを弾くのをやめてしまった。アングルだって絵を描くのをやめたかもしれない。もしアングルがそうしたならば、残念なことだっただろう。シモン・ナルディスの場合、それは実際残念なことだった。

なんと滑らかで軽妙な書き出しだろう。物語がどう展開していくのか、大いに期待がかき立てられる。主人公のシモンはかつてジャズピアニストだったが、事情があってピアノから離れ、世間から忘れられ、姿を消し、抹消された。そのあとは業務用の暖房システムを機能させ、コントロールする、という仕事で暮らしてきた。その彼が三連休の前日、海岸沿いの工業地帯に出かけることになった。工場の技師の手には負えない故障を解決するためだった。
修理に手間取り、シモンは予定していた帰りの列車には乗れなくなる。帰りが遅れることを妻のシュザンヌに知らせなくてはならない。連休にはシュザンヌと出かける約束があったからだ。彼女の勤務先に電話し、彼女が席を外していたので伝言を残す。やっと修理を終えたところで、工場の技師がお礼にといってシモンをナイトクラブに誘う。列車の時間を気にかけながらも、シモンは技師の気持ちを汲んで誘いを受けいれる。
海に近いその土地は工業地帯であると同時にヴァカンス向きの場所でもあった。ナイトクラブでは若いアメリカ人のグループがジャズを演奏していた。その演奏に刺激され、シモンは二度と触れるつもりはなかったピアノの鍵盤に手を伸ばし、やがて夢中で演奏してしまう。そこへ一人の女性が現れ、彼のピアノに合わせて歌い出す。こうしてシモンは夜の列車にも乗り損ない、翌日の列車にも乗り損なうことになる。

語り手はシモンの親友の画家。彼は、不安にかき立てられて夫を迎えに行こうとするシュザンヌに「もしそうやって待っているのがどうしてもいやだというなら、迎えに行けよ。様子を見に行ってくればいい、少なくともあいつの顔は見られるだろうから」と言ったことを後悔することになる。(2016.10.23読了)
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by nishinayuu | 2016-12-15 09:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ホフマン物語』(E.T.A.ホフマン、訳=松居友、立風書房)


c0077412_10295099.jpg『Tales of Hoffmann』(Hoffmann, 1815)
原書はロンドンのGeorge G. Harrap & Co.Ltdから「Books Beautiful」の一冊として1932年に発行されたもの。マリオ・ラボチェッタ(Mario Laboccetta)による幻想的なイラストレーションが展開する美本だという。

本書もイラストレーションがメインで物語は添え物といった感じの「絵本」である。前半は「まえがきにかえて」と題され、1ページもしくは見開きの2ページをイラストレーションが占め、それらの隙間に物語が添えられている。ここに展開する物語には『世襲権』(1817)、『砂男』(コッペリアの原作、1817)、『荒びれた家』(1817)、『運命の糸』などのタイトルが付けられているが、ホフマン作品をそのまま翻訳したものではなく、全体で一つの、ホフマンの文学と生涯を紹介する物語になっている。
後半は『ジルベスターの夜の出来事』というまとまった一つの物で、主人公は鏡に映る自分の姿を悪魔に売ってしまうエラスムスという男。これは作者が友人であるシャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(自分の影を悪魔に売った男の話)に刺激を受けて書いたものだという。

『ホフマン物語』は子供の頃に映画(1952年制作)を見たことがある。オッフェンバック作曲のオペラをほぼ忠実に映画化した作品だそうで、美しい音楽と妖しい雰囲気の映像の断片が記憶に残っている。『赤い靴』と同じくモイラ・シェアラーが出演しているが、その辺のことは全く覚えていないので、いつか機会があったらまた見てみたい。(2016.10.21読了)
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by nishinayuu | 2016-12-11 10:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『わたしは灯台守』(エリック・ファーユ、訳=松田浩則、水声社)

c0077412_1017331.jpg『Je suis le gardien du plare 』(Éric Faye, 1997)
表題作は世間から切り離された場所で生きる灯台守を「愚かな世間と戦い、その世間が狡猾にも提示してくる順応主義という名の甘言や誘惑をややもすると受け入れてしまいがちな自分と戦う」人間として描き出している。著者はこの灯台守のような人々を「象牙の塔の間借り人」と名付け、表題作を含めて九つの短編で彼らの「たった一人の反乱」を描いている。
ただし、彼らはあくまでも「間借り人」であって、いつかは自分の意思で(あくまでも世間からの甘言や誘惑に屈することなく)「象牙の塔」を出て行く日が来ることを予期している。表題作の灯台守も、他の作品の主人公たちも、世間からのちょっとした合図、世間と繋がる一筋の糸に神経をとがらせながら、その時を待っている。すなわちそのときが来るまで、彼らのがむしゃらで、ときには滑稽で、なんとも奇想天外な孤独の戦いは続く。
収録作は以下の通り。
『列車が走っている間に』――並行して走り続ける二つの列車。互いに姿は見えるが、双方の乗客たちの人生は決して交わることはない。
『六時十八分の風』――ステップの中にあるタカ=マクラン(!)の町。急行列車は3年前から停車しなくなり、町の名は地図からも消える。その町のあたりを列車が通過するのが六時十八分だと知った男は、その時刻に列車を飛び降りる。
『国境』――高く聳える国境の向こうを眺めようと、頂上を目指して登り始めた男。時が経ち、季節は巡るが、頂上は依然として果てしなく遠い。
『地獄の入り口からの知らせ』――ある日わたしが拾い上げてポケットに入れた黒い表紙の手帳。1週間後に開いてみると、1週間前の日付のところに「今日、わたしは発見してもらった。見知らぬ男の人のポケットの中で一日目を過ごす」とあった…。アドレス欄にはたくさんの名前があったが、覚えのない名前ばかりだった。15年後にその欄を開いてみるとかなりの名前を知っていた。手帳はずっと引き出しの奥にあったのに。
『セイレーンの眠る浜辺』――わたしはサント・モンターニュの浜辺に漂着した女を見ている。修道院の第7バルコニーの333㍍の高みから。警察の巡視艇が来て倒れている女を引き取っていった。おそらくあれは、わたしが見て、近づくことのできたであろう最後の女だった。
『ノスタルジー売り』――ノスタルジー売りは第二日曜に広場や、旧市街の狭い道に店を構える。古本や玩具、古道具が売られている小道を歩いて行くと、木々の下にベンチが見える。時間の向こう側に置かれたベンチには愛し合っている二人の人間がいる。二人のうちの片方はあなただ。
『最後の』――寒さの厳しくなりつつある森の中をただひとりでさまよう彼は、その系統の最後の存在だった。
『越冬館』――パリから遠く離れたヘルシニア山塊の麓にある「越冬館」に引きこもって4日。わたしはひたすらアヌークが現れるのを待っている。サティのグノシエンヌの中のいちばん暗い曲を聞きながら。
『わたしは灯台守』――この灯台の周囲には船舶に注意を促す必要のある暗礁など一つもない。ここに着任して以来、わたしは一艘も船舶を見たことがない。この灯台の目的は、自分の存在を知らせること以外、他にない…。思索のための時間も思索のための言葉も有り余るほどある灯台守の独白が続く。

☆9編のうち一押しは『六時十八分』。全ページの二分の一を占める『わたしは灯台守』は、内容もその分だけ重くて、疲れました。(2016.10.15読了)
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by nishinayuu | 2016-12-07 10:18 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『奇跡の自転車』(ロン・マクラーティ、訳=森田義信、新潮社)


c0077412_10385020.png『The Memory of Running』(Ron McLarty, 2004)
「両親のフォード・ワゴンが、メイン州ビッドフォード郊外で、US95号線の中央分離帯のコンクリートに激突したのは、1990年8月のことだった」という文で物語は始まる。主人公のスミシー・アイドは43歳。ヴェトナムの戦場で危うく死にかけたがなんとか無事に帰還。今の仕事はゴダード・トーイズ社の製品検査係。アクション・フィギュアの腕がまともな向きに付いているかどうかをチェックするだけで、知識も技術もいらない仕事だ。夜はジャンクフードと酒とたばこに身を浸し、スポーツ中継を見て過ごした。飲み仲間はいたが友達はなく、もちろんガールフレンドなどはいなかった。体重が126キロもあり、髪は薄くなり始めている。要するに全く冴えない中年男――それがスミシーだった。
ロード・アイランドのイースト・プロビデンスにある実家のピアノの上には写真が並んでいて、その中には22歳の姉ベサニーの美しい顔もあった。ベサニーは世にもまれな美しい娘だったが、頭の中にいる誰かに命令されて服を脱いでポーズをとったり、自傷行為に走ったりしてたびたび「病院」のお世話になっていた。また突然姿を隠してしまうこともあって、その度に父は車で、スミシーは自転車で探し回ったものだった。両親もスミシーもそんなベサニーをとても大切に思い、愛していたのに、あるときついにベサニーは完全に行方不明になってしまった。両親の葬儀を終えて遺品を整理していたとき、スミシーは一通の手紙を見つける。それは20年以上も消息を絶っていたベサニーの死亡通知だった。スミシーは完全に独りぼっちになってしまったのだった。
スミシーは自転車に乗って旅に出る。ベサニーの亡骸を保管しているというカリフォルニアに向かって。もっさりした風貌と鈍くさい言動のせいで、路上生活者やごろつきに間違われたりもすれば、手持ちのお金が尽きそうになったりもする。が、葬儀で久しぶりにことばを交わした幼なじみのノーマと連絡を取ることを思いついてからは、スミシーの旅は少しずつ好転しはじめ、心温まる人たちとの出会いも経験する。節約のために始めたバナナを主食とする食生活が功を奏したのか、旅が終わる頃には劇的に体重が減っている、という愉快なおまけまで付く。実はダイエットはあくまでもおまけで、この自転車の旅はもっと大きなものをスミシーの人生にもたらしたのだった。(2016.10.12読了)
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by nishinayuu | 2016-11-29 10:39 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)

『今読むペロー「昔話」』(訳・解説=工藤庸子、羽鳥書店)


c0077412_9593629.jpg『Histoires ou Contes du temps passé avec des moralités』(過ぎし昔の物語ならびに教訓)
本書は1697年に出版された昔物語集の翻訳と、訳者による解説からなり、翻訳部分と解説部分にほぼ同じページ数が割かれている。冒頭には出版に先立つ1695年の手書き本に添えられた「マドモワゼルに捧ぐ」と題する献辞が掲げられており、この「マドモワゼル」がルイ14世の姪であるエリザベート=シャルロット・ドルレアン(19歳)であること、献辞の署名がペローの末息子であるピエール・ダルマンクールであることなどの情報が注として与えられたあと、後半の解説の中で、当時の文芸サロンと「昔話」の生成の関係や、「説話文学の作者」についての考察が繰り広げられる。すなわち、「説話文学の作者はフローベールが『ボヴァリー夫人』の「作者」であるというのと同じ意味合いで、創造の責任を引き受けてはいない」のであり、「ペローの昔話は複数の声が微妙に重なって聞こえる音楽のような性格を持ち、庶民の目線が反映されることもあれば、サロンの貴婦人や知識人の才知がひらめき、あるいはモラリストでもある作家の省察が滑り込むこともある。明らかに異なるトーンの声が介入し、ドラマの緊張が不意に途切れたりすることがある」のだという。

本書に収録されているのは次の八つの物語。
眠れる森の美女(La Belle au bois dormant)
赤頭巾(Le Petit Chaperon Rouge)
青ひげ(La Barbe Bleue)
猫の大将または長靴をはいた猫(Le Maître chat ou le chat botté)
仙女たち(Les Fées)
サンドリヨンまたは小さなガラスの靴(Cendrillon ou la Petite Pantoufle de verre)
巻き毛のリケ(Riquet à la houppe)
親指小僧(Le Petit Poucet)

ハッピーエンディングが原則の昔話のうち唯一の例外が『赤頭巾』で、赤頭巾ちゃんがオオカミに食べられたところで終わっている。1812年から1857年にかけて版を重ねたグリム版は、『赤頭巾』を悲劇で終わらせないために『七匹の子山羊』もしくはその類話の後半部をくっつけたようなのだ、と解説者は言う。ペローの『赤頭巾』は、悲劇的な結末が少なくないラ・フォンテーヌの寓話に近い構造を持った物語で、「狼に気をつけろ」という警告がテーマなのだとか。一方『青ひげ』のテーマは創世記のエバの物語や「パンドラの筺」にも見いだせる「女の好奇心」で、こちらは悲劇で終わってもよさそうなのに、二人の兄が登場して青ひげを殺し、青ひげの財産を手にした妻は立派な紳士と再婚して「青ひげと暮らした辛い時期のことを、すっかり忘れたということです」というなんとも現実的、散文的な結末となっている。
解説によれば全体的には、『眠れる森の美女』『赤頭巾』『青ひげ』の三編が不安や恐怖に満ちた異界の扉を開けるという「昔話」の原型を示しているのに対し、『仙女たち』『サンドリヨン』『巻き毛のリケ』は太陽王の時代の紳士淑女が理想とした人間的な価値――美しい話し言葉、優しい気立て、優れた才知――を讃える寓話として読み解くことができ、最期の『親指小僧』には「昔話」の主人公になりきった少年ペローの姿が透けて見えるという。因みにペローは『親指小僧』の主人公と同じく七人兄弟の末っ子だったそうだ。
最期に今回の「初めて知った今知った」を挙げておく。
『眠れる森の美女』の王子様の母君は「人食い鬼のお血筋」/一歩で七里を行く長靴は履いた人を疲労困憊させる/赤頭巾ちゃんの頭巾を「赤」にしたのはペローの独創で、先行する昔話には影も形もない/ガラスの靴はガラス(verre)ではなくリスの毛皮(vair)の誤記だろうという説がバルザックなどによって唱えられたことがあるが、民話にはガラスや水晶の靴が他にもあるところから、現在は研究者の見解は一致している(今までバルザック説を信じていました。)
(2016.9.30読了)
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by nishinayuu | 2016-11-25 10:00 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ジェニー・ブライス事件』(M.R.ラインハート、訳=鬼頭玲子、論創社)


c0077412_951932.jpg『The Case of Jennie Brice』(M.R.Rinehart、1913)
作者は1876年アメリカのピッツバーグ生まれで、アメリカ初の〈ミステリーの女王〉といわれているという。生まれたのも世を去ったのも、〈世界のミステリーの女王〉であるアガサ・クリスティより20年近く前だが、アメリカでは今も強い人気を誇っているという。

この作品はEverybody’s Magazineという雑誌に1912年10月号から1913年の1月号にかけて連載されたミステリー。アガサ・クリスティの多くの作品と同様に、殺人はあっても凄惨な殺しの描写はなく、むしろ叙情的な香りが漂う文学作品といった感じの作品である。
ピッツバーグを舞台とするこの作品は、印象的な洪水の場面から始まる。

また、洪水がきた。(中略)昨日地下室の泥をシャベルで掻き出していたところ、ピーター(スパニエル犬)の死体が見つかった。(中略)洪水、そして地下室の果物入れで半分泥に埋まって見つかったラドリー氏の犬。この二つが5年前の洪水の際に起きた、奇妙な事件の記憶を呼び覚ました。あのときは水が一階の部屋の半ばを越えた。

語り手はミセス・ピットマン(仮名)。ピッツバーグの由緒ある家の出身で、15歳まで市内の高級住宅街で過ごしたが、1878年に駆け落ちして以来、家族とは音信がない。20年の放浪の末ピッツバーグに戻ったのは、夫を亡くして郷愁に駆られたためで、家族との和解などは考えられなかった。アレゲーニー川の下流で賄い付きの下宿をやって暮らしているが、困ったことに毎年春には水害に遭う。冬の間に上流の谷が氷塊に埋め尽くされ、春になると氷が砕けて川を溢れさせる。5年前は特にひどい洪水に見舞われ、そのさなかに下宿人の女性が失踪。洪水を利用した夫による殺人が疑われ、下宿の人々や町の人々を巻き込んだ大事件に発展した。このときミセス・ピットマンは冷静沈着な推理でその事件を解決に導いただけでなく、妹には内緒でその娘であるリダ・ハーヴェイと親密な関係を築くことができたのだった。
その他の主要登場人物は以下の通り。
ジェニー・ブライス(下宿人。リバティ劇場の女優で洪水の日に行方不明になる)、フィリップ・ラドリー(下宿人。ジェニーの夫で失業中の俳優。ジェニーが失踪した夜、下宿のボートでこっそり出かけている)、ブロンソン(リバティ劇場の支配人)エリス・ハーウェル(新聞記者。リダ・ハーヴェイの恋人。ジェニーの失踪に関して不可解な言動を見せる)、ホルコム氏(エリス・ハーウェルの友人で、独自のやり方で事件を追う。引退した商人)、レイノルズ氏(下宿人。川向こうの店で絹製品を売っている商人)、アリス・マレー(速記タイピスト。洪水の日に失踪)、モリー・マグワイア(隣家の主婦。水から引き上げたジェニーの毛皮のコートを拾得)、アイザック(昔、屋敷の御者をしていた黒人。ベスお嬢様、と呼びかけて泣きながらミセス・ピットマンを抱きしめる)
(2016.9.24読了)
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by nishinayuu | 2016-11-21 09:52 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ゼラニウムの庭』(大島真寿美、2012 ポプラ社)


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ストレスがたまったのでゆったりしたくてまた大島真寿美を読んだ。本書の語り手は幼名「るるちゃん」という小説家。ただし、これは小説ではなく「記録」であると最初に断り書きがある。彼女はこの記録を書き残したいと思ったのがきっかけでまとまった文章を書くようになり、やがて小説家になったのだという。

さて、この記録に登場するのは
語り手の曾祖父母、祖母の豊世と婿養子の祖父、母の静子と婿養子の父・亮といった一族の人々と、女中のお駒とその後を継いだ深澤さん、かかりつけ医の桂先生と息子の冬馬先生(と孫の亮=語り手の父)という一族といってもいい人々。そして語り手の別れた恋人であり後に夫になった倉科さん、という面々。そしてもう一人、祖母の豊世と双子として生まれた嘉栄さん。
この一族には世にはばかる秘密があって、その中心人物が嘉栄だった。祖母の豊世が平成2年に80歳で世を去ったとき、双子の姉妹である嘉栄は豊世の娘である静子よりもかなり年下に見えた。すなわち嘉栄は他の人とは異なる時間を生きるように生まれついたため、他の人よりずっと長い幼児期と子ども時代を過ごし、豊世がおばさんになった頃にやっと少女となったのだった。その後も豊世は普通に年老いていき、嘉栄はいつまでも若さと美しさに輝いていた。
語り手は死を前にした祖母からこの一族の秘密を詳しく聞かされ、数奇な運命を生きなければならない嘉栄さんの庇護を託される。それで語り手は一族が守り通してきた秘密を「記録」として書き留めることになったのだが、話はここでは終わらない。なんと、というかやはり、というか、最後に「嘉栄附記」という章があって嘉栄さんが自分の言い分を記しているのだ。「るるちゃん」のお葬式で嘉栄さんに出くわした倉科が驚きのあまり声を失っていた、など「るるちゃん」が知ったら声を失うに違いない暴露話もあって、なかなかおもしろい。140歳を超えたという嘉栄さんはこんなことも言っている。「不自由な人生でしたが、おそらく皆、そんなものなのでしょう。自由な人生などありはしません。そんなものがあると思っているのなら、それは大きな勘違い。私はそう思います。孤独な人生でしたが、それもまた、皆、同じです。孤独でない人間など、どこにいますか。」
(2016.8.30読了)
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by nishinayuu | 2016-11-17 10:10 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『いちばんここに似合う人』(ミランダ・ジュライ、訳=岸本佐知子、新潮クレストブックス)


c0077412_9295541.jpg『No One Belongs Here More than You』(Miranda July, 2007)
著者は1974年にともに作家である両親のもとに生まれた。パフォーマンス・アーティストとして活躍する一方、映画制作でも注目を浴び、さらに2001年頃から小説を発表し始めたという多才なアーティストである。本書は著者の初めての小説集で、フランク・オコナー国際短編賞を受賞し、多くの作家・批評家から絶賛されたという(本書の著者紹介より抜粋)。この新潮社版にもサンフランシスコ・クロニクル紙、ジンク誌、角田光代らの評が紹介されているが、それらの中でいちばんぴったりきたシアトル・タイムズ紙の評を紹介しておく。
ミランダ・ジュライは、奇妙で抗しがたい、新しい声を持った作家だ。彼女の描く世界はリアルだがシュールで、絶望的に悲しく、それでいて「秘密の悦び」に満ちている。

収録されている全部で16の作品を、収録順ではなく「印象に残った順」に並べてみた。
「その人」――みんなは公園のピクニック・テーブルのところで待っている。苦手だった科目の教師たち、最低野郎たち、今まで恋愛したすべての人たち、去って行った人たちもそこにいて、その人に拍手している。その人は郵便物が来ているのを期待して、すぐ戻るから、といってピクニックを抜け出す。手紙は来ていない。留守電にもメッセージはない。もうピクニックには戻れそうもない。みんなから愛されるたった一度のチャンスをふいにしたことを悲しんでベッドに横たわる。胸にのしかかる悲哀の重みが、どこか心地よい。目が閉じていき、その人は眠りにつく。
「2003年のメイク・ラブ」――15歳のとき、夜中に部屋に入ってきた黒い影とわたしは愛し合った。大学生になってリアルな彼氏が欲しくなり、黒い影に別れを告げた。影は「いつか人間の姿になって戻ってくる。そのときの名前はスティーヴだからね」と言って泣く泣く離れていった。特別支援学校の補助教員になった私の前に背の高い少年が現れたとき、彼の中の黒いものが一瞬私を包み込んで、久しぶりだねベイビー、とささやきかけた。少年の名はスティーヴだった。
「共同パティオ」――デザイナーで「新男子」ヴィンセントが発作を起こして意識を失ったとき、わたしは彼に「あなたは悪くない」とささやいた。それは、私がずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言って欲しかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった。
「妹」――年寄りの独身男の自分に、ヴィクトルが「妹のブランカを紹介してやる」という。それから数週間の間、何度もブランカに会う機会があったが、いつもすれ違いでついぞ姿を見ることはできなかった。
その他の作品はタイトルだけ、やはり印象に残った順に記しておく。
「子供にお話を聞かせる方法」「十の本当のこと」「あざ」「何も必要としない何か」「モン・プレジール」「水泳チーム」「マジェスティ」「ロマンスだった」「わたしはドアにキスをする」「動き」「階段の男」「ラム・キエンの男の子」。

角田光代の言うように「見事なくらい挑発的な短編小説が並んでいる」し、名人級の翻訳家の訳なので読み出すと途中で止まらなくなる。ただし、消化しきれない作品(最後にあげた数編)もあって、どっと疲れた。(2016.9.15読了)
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by nishinayuu | 2016-11-09 09:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『あなたを選んでくれるもの』(ミランダ・ジュライ、訳=岸本佐知子、新潮クレストブックス)


c0077412_93257.jpg『It Chooses You』(Miranda July, 2011)
本書は映画制作に行き詰まっていた著者がカメラマンやアシスタントとともにロサンジェルスのあちこちに住む人々を訪ね歩いてまとめたインタビュー集であると同時に、彼らとの出会いを通して新しい展開をみせることになった映画が完成するまでを描いたドキュメンタリーである。収録されている迫力のある写真は、インタビューに同行したカメラマンで本文にも実名で登場しているブリジット・サイアー(Brigitte Sire)によって撮影されたもの。
インタビューをはじめたきっかけは、脚本を書きあぐねてネットの世界へ逃避するのが日常になっていた語り手(著者)が、ネットの呪縛から逃れるために手に取った「ペニーセイバー」という雑誌だった。毎週火曜日に届く「ペニーセイバー」は自分の持ちものを売りたい人々と買いたい人々のための広告雑誌で、「どの広告もうんと短い新聞記事のようだった」。たとえば
LA在住の某さん、ジャケットを売りに出す。革製。黒のLサイズ。10ドル。
この売り手がどんなふうに日々を過ごしているのか、なにを夢見、なにを恐れているのかを知りたいと思った著者は、売り手に電話をかけた。この手の広告では、売りに出ている商品について訊ねる以外の目的では電話をしないのが暗黙のルールだが、ここは自由の国だというもう一つのルールがあったし、語り手はどうしてもその自由を味わいたいと思った。これを逃したら、今日一日自由を感じるチャンスは二度とないかも知れないのだ。
黒革ジャケットの売り手を手始めに、語り手は「ペニーセイバー」の広告主たちへのインタビューにのめり込んでいく。「マイケル/Lサイズの黒革ジャケット/10ドル/ハリウッド在住」「プリミラ/インドの衣裳/各5ドル/アーケーディア在住」「ポーリーンとレイモンド/大きなスーツケース/20ドル/グレンデール在住」「アンドルー/ウシガエルのオタマジャクシ/1匹2ドル50セント/パラマウント在住」「ベバリー/レパード・キャット(ベンガルヤマネコ)の仔/値段 応相談/ヴィスタ在住」「パム/写真アルバム/1冊10ドル/レイクウッド在住」「ロン/67色のカラーペン・セット/65ドル/ウッドランド・ヒルズ」「マチルダとドミンゴ/〈ケア・ベア〉人形/2取る~4ドル/ベル在住」「ダイナ/コンエア社のドライヤー/5ドル/サン・バレー在住」「ジョー/クリスマスカードの表紙部分のみ50枚/1ドル/ロサンジェルス在住」
多くは貧しいか寂しい人たちだった。そしてほとんどがパソコンとは無縁の人たちだった。それぞれ個性的な人たちで、マイケルは性転換を目指して努力中の男性、ダイナは年齢不詳なだけでなく、込み入っていて奥深くて摩訶不思議な女性で、ロンは「誰もがこういう人物のアパートに入るはめにだけは陥るまいと心がけて一生を送るようなタイプの」コワイ人だった。そしてクリスマスカードのジョーの存在感も強烈だったが、それはロンとは全然違う強烈さだった。彼はまるで強迫観念にとりつかれた天使のように、がむしゃらに善をなそうとしていた。このジョーとの出会いが語り手の映画作りに大きな変化をもたらすことになる。
こうして完成した映画『ザ・フューチャー』は2011年7月にアメリカで公開され、2013年には日本でも公開されたという。(2016.8.28読了)
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by nishinayuu | 2016-11-05 09:32 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ペナンブラ氏の24時間書店』(ロビン・スローン、訳=島村浩子、東京創元社)

c0077412_9341215.jpg『Mr. Penumbra’s 24-Hour Bookstore』(Robin Sloan, 2012)
語り手のクレイが話し始める。「これから話すのはぼくがめったに紙に触らなかった日々の話だ。(中略)」21世紀初頭にアメリカを襲い、ハンバーガーチェーンを倒産させ、スシ帝国にシャッターをおろさせた外食産業大不況の影響で、ぼくは失業中だった。」

語り手はノートPCで求人広告に目を通しはじめるが、目にとまった雑誌記事を「あとで読む」リストに追加したり、読みたい本をダウンロードして読み始めたりしてしまう。これではらちがあかないと気づいた語り手はスマートフォンを引き出しにしまって外に出る。サンフランシスコは散歩にいい場所だった。そうして見つけたのが「ペナンブラ氏の24時間書店」だった。窓に貼られた求人ビラには「店員募集/夜勤/特殊な応募条件あり/諸手当厚遇」とあった。
ペナンブラ氏はとても年取った男性で、ライトグレーのボタンダウンに青いカーディガンを着ていた。背が高く、やせていて、瞳はカーディガンと同じ青い色だった。この店主から好きな本を聞かれて『ドラゴンソング年代記』と答えたのが気に入られたようで、語り手はアルバイト店員として採用になる。「特殊な条件」の一つは「梯子にのぼれること」だった。書棚はとても高く、上方は空気も薄くてコウモリが見える気がするほどだった。(ここまでで、本好き、古書店好きは作品世界にぐっと引き込まれる。)
さて、アルバイトを始めてすぐに語り手はこの店がふつうの古書店ではないことに気づく。道路に面したスペースは普通の古書店だが、その奥に「奥地」と呼ばれる特殊な古書の棚があった。そこを訪れるのは数人の限られた人たち――コデックス・ヴィータイ(codex vitae)という暗号書を解読するための秘密組織「アンブロークン・スパイン」の会員たちだった。ペナンブラ氏の目を盗んでこれらのことを突き止めた語り手は、友人・知人の力を借りて暗号を解読しようと思い立つ。こうして、500年の間続けられてきたアナログ的手法を厳守しつつ暗号解読を目指す秘密組織を相手に、最新のハイテクに精通した若者達の挑戦が始まる。(このあたりから、ミステリー+ハイテクの世界がめまぐるしい展開を見せるので、ますますこの作品の世界にのめり込むことになる。)

本作品には最新のテクノロジー情報をはじめ現実社会の様々な情報があふれているが、現実にはない事物・事象もそれとなく仕込まれている。たとえば『スターウォーズ』や『ハリーポッター』と並んで『ドラゴン年代記』という作品関連の言及がたびたびあるが、どうやら作者の仕掛けたいたずららしい。もう一つ、「もしかしたら知らないのは私だけ?」と気になってネットで調べてしまったのが「ゲリッツズーン書体」。テクノロジーに関しては、元コンピューター・オタクだったのに最新の情報には全くついていけていないペナンブラ氏に、大いに親近感を覚える。(2016.8.22読了)
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by nishinayuu | 2016-11-01 09:35 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)