カテゴリ:読書ノート( 1058 )

『いつ死んだのか』(シリル・ヘアー、訳=矢田智佳子、論創社)

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『Untimely Death』(Cyril Hare、1958)
著者はこの作品を書いた1958年に57歳で他界したという。すなわち本作品は著者の遺作ということになる。


舞台はイングランド・サマーセット州のエクスムーア。北にブリストル海峡を望む景勝地で、主人公ペディグルーの故郷という設定。このエクスムーアにペティグルーはまだ若い妻エリナーと休暇のためにやってくる。エリナーが言い出したこの旅行に、旅先のなじめないベッドを思い浮かべて渋々やってきた感じの主人公だが、「眠れないまま横たわり、壁に映る月影が動いていくのを眺めながら、ここへ来たのはいい考えだったと納得できる気がしてきた。最近では恥ずかしながら、エリナーの思いつきなくして、ひどく単調な二人の生活から脱却するのは難しいと感じていた」という。気弱になっているもう若くない男、しっかり者らしい若い妻、休暇旅行、壁に映る月影――なかなかいい感じの書き出しである。
ペティグルー夫妻が休暇を過ごすために借りた部屋は、エクスムーアの外れにあるサロークーム農場にあった。かつてのこの家の住人は、陽気で荒っぽく、よく酔っ払っていて、少年のペティグルーを魅了したかと思えば震え上がらせる、ディケンズの小説に出てきそうな夫婦者だった。それに比べると今の住人は妻のいない地味な肉屋と、その娘である地味な女で、前の夫婦に比べるとさえない親子だった。が、常に周囲の人間に鋭い観察眼を向けているペティグルーは、その親子が本当にさえないだけの人間なのか、疑問に感じた。(という具合に早い段階でこの親子が重要な人物であることが暗示される。)
前半はペティグルーが〈暴走馬の茂み〉で死体を発見するが、人を呼びにいって現場に戻ったときは死体が消えていて、3日後にまた同じ場所で死体が発見される、という不可解な出来事を中心に展開する。ペティグルーは少年の頃にやはり〈暴走馬の茂み〉で変死体を発見していた。そのときの恐怖から幻覚を見たのか、あるいはエリナーの言うように〈予知能力〉のせいで実際の事件より3日前に死体を見てしまったのか。
後半はその死体の男(サロークームの住人である地味な女の、別居中の夫ジャック・ゴーマン)がゴーマン家の莫大な財産を継承する権利があったかどうかに関する裁判を中心に展開する。地元の旧家であるゴーマン家の莫大な財産はギルバート・ゴーマンが継いでいたが、彼は9/10(日)に病気で急死している。その時点でジャックが生存していれば財産はジャックのものになるが、ペティグルーが死体を見つけたのはその前日の土曜だったのだ。ペティグルーは旧友で元警部のマレットの依頼で法廷に出向く。

主人公夫妻は二人とも弁護士ということになっているが、夫の方は年のせいかばりばりの感じは皆無。法廷闘争の場面は原告代理人も主人公の旧友ということから、穏やかでユーモラスな雰囲気が漂っていて、緊張感ゼロ。たまにはこんなミステリーもいいかもしれない。(2016.11.20読了)
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by nishinayuu | 2017-01-20 09:53 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『あの犬この犬そんな犬』(アントン・チェーホフ他、訳=務台夏子、東京創元社)

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『Kashtanka and Other Stories』(Anton Chekhov)
「犬好きの犬好きによる犬好きのための物語」と謳った本書には、11人の作家による11匹の犬の物語が収録されている。もちろん、犬好きでなくても充分楽しめる短編集である。

内容と作者を簡単に記しておく。
「仲裁犬マック」――スコティッシュ・テリアのマックが、すれ違い始めた飼い主夫婦の仲をとりもとうとかけまわる。作者:ジョン・ヘルド・ジュニア(1930年代に活躍したイラストレーター・漫画家。フィッツジェラルドの「ジャズ・エイジの物語」などにイラストを描いている。)
「彼女の犬」――彼女の死からちょうど六ヶ月目に、ぼくの前に現れた皮膚病持ちの汚い犬。追っても追ってもついてくるので家に入れたら、どうやら彼女もいっしょに入ってきたらしい。作者:マニュエル・コムロフ(1920~1930年代に活躍したニューヨーク生まれの小説家。)
「盲導犬バディ」――ニュージャージ州にある盲導犬協会「シーイング・アイ」のシェパードとご主人であるモリス氏(もちろん盲人)の息の合った暮らしぶり。作者:ディクスン・ハートウェル(1940年のエッセイ『Dogs Against Darkness』からの抜粋。)
「義侠犬ダボコ」――ギリシャ系のご主人に忠実で、ギリシャ語で吠えるとまでいわれる雑種犬の〈反ギリシャ人同盟〉との戦い。作者:マッキンリー・カンター(1920~1950年代に活躍した作家。本作は1961に発表されたもの。)
「神秘の犬」――『三匹曠野を行く』(The Incredible Journey、1961)からの抜粋。老ブルテリア犬・若きラプラドール犬・シャム猫の三人組とオジブワ族の出会い。作者:シーラ・バーンフォード(カナダの児童文学作家。)
「お嬢犬オフィーリア」――グレートデーン(デンマークの犬)であることからオフィーリアと名付けられた貴族的な犬が「春」に目覚め、庶民(雑種犬)の世界に惹かれていく。作者:コンラッド・ベルコヴィシ(ルーマニア出身のアメリカの小説家。)
「見習い猟犬ディーコン」――ポイント(身体を硬直させて静止して獲物の位置を示すこと)ができるようになっても悪ふざけが止まらない猟犬を、狩猟に夢中で休講の多い大学教授が躾けていく。作者:ハヴィラー・バブコック(ヴァージニア大の英語学部教授。)
「忠犬ウルフ」――「名犬ラッド」の息子で、姿形は犬というよりオオカミに似ているコリー犬のウルフが愛する少年と森に出かけたとき、少年が氷の張った沼に落ち込む。作者:アルバート・ペイソン・ターヒューン(「名犬ラッド」を書いたアメリカの小説家。)
「花形犬スポット」――大きな犬だと思い込んでサーカスのライオンに噛みついて有名になったスポットを檻に入れて、飼い主の少年フレクルズはサーカスを始める。入場料はなんと「待ち針(!)10本」。作者:ドン・マーキス。イリノイ生まれの小説家・ジャーナリスト。)
「望郷の犬ニック」――軍に徴用され、戦争用に訓練されたニック。戦争が終わってやっと懐かしい故郷の家に帰れたのに、仲良しだった少年にもその母親にも歓迎されなかった。ほろ苦い後味の名作。作者:コーリー・フォード(ライフ誌やニューヨーカー誌で活躍した作家。)
「迷い犬カシタンカ」――指物師のご主人とはぐれてしまった若い赤犬のカシタンカは、優しい男に拾われてネコや雌ブタといっしょにサーカスに出演する。作者:アントン・チェーホフ(1887年の末に発表された作品。)
(2016.11.16読了)
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by nishinayuu | 2017-01-16 09:25 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

私の10冊(2016年)

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☆この1年に読んだ本の中から特に気に入った本を選んで、「私の10冊」としてまとめてみました。また、「私の10冊」の選から漏れた本を「お勧めの10冊」として挙げてみました。
☆画像は「The Book of Tea」です。


私の10冊
灰と土(アティーク・ラヒーミー、訳=関口涼子、インスクリプト)
名もなき人たちのテーブル(マイケル・オンダーチェ、訳=田栗美奈子、作品社)
タイガーズ・ワイフ(テア・オブレヒト、訳=藤井光、新潮クレストブックス)
제주 유배길에서 추사를 만나다 (양진건, 푸른역사)
Amsterdam (Ian Mcewan, Anchor Books)
The Book of Tea (Okakura Kakuzo, Tuttle Company)
風土記の世界(三浦佑之、岩波新書)
わたしは灯台守(エリック・ファーユ、訳=松田浩則、水声社)
蠏の横歩き(ギュンター・グラス、訳=池内紀、集英社)
冬の夜ひとりの旅人が(イタロ・カルヴィーノ、訳=脇功、白水Uブックス)

お勧めの10冊
通勤路(マリー=ルイーズ・オーモン、訳=岩崎力、早川書房)
風の吹く日は(モニカ・ディケンズ、訳=村井洋子、未知谷)
卵のように軽やかに(サティ、訳編=秋山州晴・岩佐鉄男、筑摩書房)
The Lake of Dreams (Kim Edwards, Viking Penguin)
あなたの本当の人生は(大島真寿美、文藝春秋)
優雅なハリネズミ(ミュリエル・バルベリ、訳=河村真紀子、早川書房)
ペナンブラ氏の24時間書店(ロビン・スローン、訳=島村浩子、東京創元社)
カールの降誕祭(フェルディナント・フォン・シーラッハ、訳=酒寄進一、東京創元社)
べつの言葉で(ジュンパ・ラヒリ、訳=中島浩郎、新潮クレストブックス)
地平線(パトリック・モディアノ、訳=小谷奈津子、水声社)
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by nishinayuu | 2017-01-12 14:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『蠏の横歩き』(ギュンター・グラス、訳=池内紀、集英社)


c0077412_1021377.jpg『Im Krebsgang』(Günter Grass, 2002)
副題に「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」とある。グストロフ号はナチスドイツの誇った豪華船。1937年5月に労働者のための休暇用客船として進水し、戦時には軍隊の輸送船、病院船、避難民の輸送船として使われた。そして1945年1月30日、東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せてゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニア)港を出た後、ソ連海軍の潜水艦に砲撃されて沈没した。それは奇しくもヒトラーの権力掌握から12年目の当日のことだった。
犠牲者の数は正確には割り出せない。元乗組員(会計係助手、当時18才)のハインツ・シェーンが戦後調査したところによると乗客10582人のうち避難民が8956人で、そのうちの4000人以上が乳幼児や少年少女だったという。すなわちこれは、美しい悲劇として伝説になっているタイタニック号の沈没よりずっと多くの犠牲者を出した海難事故だったのだ。

本書の語り手は、この凄まじい海難事故のまっただ中でこの世に生を受けた人物となっている。語り手の母親がグストロフに乗り込んだのはすでに出産が間近に迫っていたときだった。そして砲撃されて沈み始めた船の中で出産した彼女は、いつも身につけていた毛皮の襟巻きに赤子をくるんで救命ボートに飛び乗ったのだった。
語り手はまず三人の人物のことから話し始める。
一人目はグストロフ号という船名のもとになった男。1895年シュヴェリーン生まれ、名前はヴィルヘルム・グストロフ。『魔の山』の主人公と同じくダヴォスで療養生活を送ったが、そのままスイスに留まり、やがてナチ党に入ってスイス在住のドイツ人、オーストリア人を組織して、スイスのナチ党指導者になる。反ナチの男の銃弾に倒れたため「殉教者」として称えられる。
もう一人はアレクサンドル・マリネスコ。1913年『戦艦ポチョムキン』で知られるオデッサの生まれ。商船の船員を経て潜水艦の艦長となり、グストロフ号を沈没させた功によりバルチック赤軍艦隊のヒーローになる。
さらにもう一人。やはりダヴォスで療養生活を送ったことのあるダヴィド・フランクフルター。1909年セルビアの生まれで、父はユダヤ教のラビ。学校では毎日のようにユダヤ憎悪にさらされた。病身のせいで勉学がはかどらず、母の死もあって将来を悲観し、スイスのナチ党指導者・グストロフに銃弾を撃ち込んだ。直ちに自首して長い刑期を務めた。

以上の三人はグストロフ号事件にまつわるいわば歴史上の人物であるが、彼らの物語に重なり合ったり離れたりしながら、語り手の身内の者たちの物語が綴られていく。まずは語り手の母で、物語のヒロイン格のトゥラ・ポクリーフケ。強烈な個性の持ち主で「いつも極端に走る女だった」トゥラ・ポクリーフケは、グストロフ号事件の体験や波瀾万丈の人生から身につけた独自の思考法や行動方式などを孫に(すなわち語り手の息子に)吹き込み続けている。そして物語の後半では、10歳か11歳のときからトゥラに「こね回されて」育った孫のコニーがクローズアップされていく。混沌とした過去の象徴のような母と、不可解な未来の象徴のような息子の間で、穏健な良識人の語り手はどこに向かおうとしているのだろうか。

話の途中でときどき、語り手に助言を与える「ご老体」というのが顔を出すが、これはギュンター・グラスその人らしい。最後にそのギュンター・グラスの言葉を記しておく。
「この事件を書いておくのは、自分たちの世代の使命だった。」(2016.11.12読了)
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by nishinayuu | 2017-01-08 10:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『べつの言葉で』(ジュンパ・ラヒリ、訳=仲嶋浩郎、新潮クレストブックス)

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『In Altre Parole』(Jhumpa Lahiri、2015)
アメリカの作家として『停電の夜に』『その名にちなんで』などで知られる著者が、初めてイタリア語で書いた作品集。21編のエッセイと2編の短編小説で構成されている。


冒頭のエッセイ『横断』で著者は、自身のイタリア語との関係を湖での泳ぎの練習にたとえて語っている。すなわち、20年の間、湖の岸辺に沿って泳ぐような感じでイタリア語を学んできた著者は、イタリア語をよく知り、どっぷり浸かるために、湖の岸を離れて向こう岸へ渡らなければならないと考え、湖の向こう岸よりずっと遠く、大西洋を越えてイタリアへ渡った。イタリアで暮らすために。
『横断』に続く各編には著者がイタリア語に習熟していく過程が綴られている。著者が手こずっているイタリア語がアルファベットとカタカナのルビで表記されている部分も随所にあって、決して読みやすいとはいえないが、たまに類推できる単語もあるので楽しく読める。たとえば、「英語に同義語のない美しい単語」の一つとしてformicolare(うようよ群がる)が挙げられているが、エスペラントで蟻のことをformikoというので、「蟻のように群れる」ということだろう。
カルカッタ(現コルカタ)で生まれ、幼くして両親と共にアメリカに渡った著者は、家ではベンガル語、外では英語という複雑な言語環境の中で生きてきた。イタリア語を習得することは著者にとって、ベンガル語と英語の対立という関係を崩し、三角形の関係にすることだった。これについて著者は次のように言う。
「図を描くとしたら、英語の辺はペン、他の二辺は鉛筆で描くだろう。英語は底辺、いちばん安定して動かない辺だ。ベンガル語とイタリア語はどちらももっと弱く、あいまいだ。(中略)ベンガル語は私の過去、イタリア語は将来の新しい細道で会って欲しい。最初の言語は私の原点、最後のはゴールだ。」
ローマで1年暮らしたあと、1ヶ月だけアメリカに帰った著者は、英語との乖離も感じるようになる。それを通じて読んだり書いたりすることを学んだ言語が、自分を慰めてくれないことに心がかき乱され、動揺するのだ。「自分が決定的な言語もなく、原点もなく、明確な輪郭もない作家だとこれほどまでに感じたことはない」、あるいは「ある特定の場所に属していない者は実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たない私は、世界を、そして机の上をさまよっている。(中略)私は亡命という定義からも遠ざけられている」ということばが心に残る。
英語圏の作家として揺るぎない地位を獲得しているように見える著者が、自分の立つ足場を不安定なものと感じているとは。祖国を離れた人、祖国を失った人は大勢いるが、これほどの作家がその心情を率直に吐露していることに衝撃的を受けると同時に、大いに好感も覚える。不安定さを克服するために新しい言語の世界に飛び込むという発想と言語習得にかける情熱は、やはりただ者ではないというしかない。(2016.11.8読了)
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by nishinayuu | 2017-01-04 10:37 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『カールの降誕祭』(フェルディナント・フォン・シーラッハ、訳=酒寄進一、東京創元社)

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『Carl Tohrbergs Weihnachten』(Ferdinand von Schirach, 2012)



本書には下記の三つの短編が収録されている。
『パン屋の主人』――語り手は肥満体の男で、「昔はまともなパン屋だった」が、事件を起こして店も妻も失った。彼は今、音楽大学に通う日本女性に恋をしている。彼女のために一日がかりで「黒い森のサクランボケーキ」を作り、翌朝アパートの3階に住む彼女のところに届けに行く。ここで事件が起こる。その日の午後、彼はキオスクの主人とコーヒーを飲みながら、ケーキ好きな人が多いという日本に行ってケーキ屋を開く、という夢を語る。ついでに「日本の女は太った男が好きらしいんだ。相撲取りがポップスター並みの人気だっていうから」とも言う。このときはもう音大生の日本女性のことはすっかり忘れていた。
『ザイボルト』――自分で決めた規則に従って日々を過ごしてきた謹厳実直な裁判官のザイボルトが定年退職する。2週間後にヴェネツィアに旅立つが、「ヴェネツィアは美しくない。典型的なだけだ」とわかったザイボルトは予定を変更して帰国する。定年退官してから3ヶ月後、ザイボルトは再び裁判所に顔を出し、昔の席に座ってファイルを読んだりして過ごした。皆に敬遠されているのに気がついた頃、ちょっとした事件を起こしたのをきっかけに、ザイボルトは裁判所に来なくなる。やがて「また旅に出た」という葉書が妹の元に届いたきり、音信不通になる。
『カールの降誕祭』――主人公のカール・トーアベルクはザルツブルクの名門の家に生まれた。父は小さな宝石店を営んでいたが、客にも帳簿にも興味がなかった。ザルツブルク音楽祭の実行委員の一人だったので、家にはお客が絶えなかった。家を仕切っていたリューヒェン=ヘルムシュタット公女である母は、貴族制度が廃止されたことも、家にはもう金がないことも認めようとせず、誰にも彼にも高圧的な女性だった。カールは14才から本格的に絵を描き始め、3年後には「彼の絵は具体的な形を失い、色彩が混ざり合い、透明になり、光と色彩を持つ水だけで成り立っているように見えた」。そんなカールの絵を、母は「所詮はクズ」と切り捨てた。カールは絵を捨てて合理的な数学の世界にのめり込む。後年、クリスマスに母のところを訪れたとき、カールは数学でも合理的に説明できないカオスを見てしまう。カールは脳内が真っ白になり、静寂に包まれた冬景色の中を歩く自分を見る。雪の中からホルバインの「大使たち」を掘り出す。「この絵を正面からでなく、極端に斜め横から見ると、カンヴァスに別の絵が現れる。髑髏だ。(中略)このときカールは自分が何をしなければならないかわかった」のだった。

三作とも、読んでいるうちにシーラッハの不条理犯罪の世界にとりつかれる。そしてタダジュンの絵が、これらの作品の恐ろしさと暗さとある種の美しさをいっそう引き立てている。なお、巻末の訳者あとがきには、懇切丁寧な作品解説と共に、訳者と作者の「秘密の話」も盛り込まれていて、大いに楽しめる。(2016.11.3読了)
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by nishinayuu | 2016-12-31 11:00 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『그들만의 사랑법』(박완서,열림원)

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『彼らなりの愛の形』(朴婉緒)
韓国語講座のテキスト『노란집』(黄色い家)の中の1編。


この話の主人公は、田畑をやりながらその日その日を懸命に生きてきた老夫婦。今は子どもたちも巣立って二人だけになった二人は、いっしょに農作業をして、疲れたらマッコルリで一休みする。肴なしで飲むのは身体に悪い、と老いた夫のためにあれこれ肴を用意している老妻。その老妻もいける口なので、ふたりは差しつ差されつマッコルリを飲む。老いた妻は、一人ぼっちで酒を飲ませるわけにはいかないから先には死ねない、と思いながら。老いた夫は、しなびた老妻の穏やかな顔を見ながら死ねたらどんなに幸せだろう、と老妻の健康を気遣いながら。

朴婉緒は翻訳本をいくつか読んでいるが、韓国語で読むのは初めて。一つの文がやけに長いのと、見慣れない単語や表現が多くて読むのにかなり苦労した。こういう文に比べると、いつも読んでいる兪弘濬の『文化遺産踏査記』は格段に読みやすいということがわかった。せっかく勉強したので、今後役に立ちそうな表現を箇条書きにしておく。
명절에나 코빼기를 볼까 말까이다 (祝日などにちょっと顔を見せる程度だ)
권커니 잣거니 마시다 (差しつ差されつ酒を飲む)
주사를 부릴 만큼 취하다 (悪酔いする)
한잠 자고 나면 거뜬히 일할 신명을 돌이키다 (しばらく眠ったらまた働く気になる)
(2016.10.31読了)
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by nishinayuu | 2016-12-27 15:16 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『さいごの恋』(クリスチャン・ガイイ、訳=野崎歓、集英社)

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『Dernier Amour』(Christian Gailly,2004)
『ある夜、クラブで』の作家による、これまた音楽家の物語。ただし今度はクラシック音楽、それも前衛音楽の作曲家の話である。


主人公はフランスの作曲家ポール・セドラ(もちろん架空の人物です。念のため)。1987年の夏、チューリッヒの夏のフェスティヴァルに集う大観衆を前に若い男女で構成されるアレクサンデル・カルテットの演奏が始まる。最初の曲・ハイドンの弦楽四重奏曲第6番が終わると会場は熱狂的な拍手に包まれる。ところが2番目に演奏されたポールの弦楽四重奏曲第3番はこの日の若い聴衆を憤慨させ、演奏は中止に追い込まれてしまう。あまりにのろすぎ、長すぎ、暗く沈んでうらぶれていたからだった。聴衆の罵倒の声を聞きながら、客席の8列目にいたポールは会場を抜け出す。
ところで、チューリッヒの若い聴衆から拒絶されたポールの弦楽四重奏曲は、このときのポールの状況にぴったりの曲だった。病に冒されて余命幾ばくも無いことを悟ったポールは、妻の了解を得たうえで、たった一人で人生に幕を下ろそうとしていたのだ。このポールの最後を看取ることになったのが、なんと「あの夜、海辺のジャズクラブで」運命的に出会ったシモンとその相手のデビーだった。というわけで読者はこの作品で、シモンとデビーの夫婦として年輪を重ねた姿に再会することになる。

本作にはハイドンとベートーヴェンの弦楽四重奏曲が登場する。そのうち「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番、作品番号131」は、1826年に作曲された、作曲家最晩年の傑作のことらしいとわかった。しかしハイドンの「弦楽四重奏曲第6番、作品番号20」というのがよくわからない。ハイドンの弦楽四重奏曲は曲の番号や作品番号が入り乱れているうえ、別人の曲も紛れこんでいるということで、特定するのが難しい。「イ長調で、四つの楽章から構成され、最後の楽章はフーガ」とあるのと、各楽章の速度記号から類推して、たぶん次の曲だろうと思う。
弦楽四重奏曲第36番(or第24番)イ長調、作品20-6(1772年作曲)
CDも持っていないし、webで探しても曲を提供しているサイトが見つからないので、どんな曲なのかわからないのが残念。(2016.10.30読了)
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by nishinayuu | 2016-12-19 10:08 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ある夜、クラブで』(クリスチャン・ガイイ、訳=野崎歓、集英社)

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『Un Soir au Club』(Christian Gailly,2001)



物語は次のように始まる。
ピアノはシモン・ナルディスにとって、画家アングルのヴァイオリンのような道楽ではなかった。アングルのヴァイオリンよりはるかに大事なものだった。彼にとってピアノは、アングルにとっての絵画だったのだ。その彼がピアノを弾くのをやめてしまった。アングルだって絵を描くのをやめたかもしれない。もしアングルがそうしたならば、残念なことだっただろう。シモン・ナルディスの場合、それは実際残念なことだった。

なんと滑らかで軽妙な書き出しだろう。物語がどう展開していくのか、大いに期待がかき立てられる。主人公のシモンはかつてジャズピアニストだったが、事情があってピアノから離れ、世間から忘れられ、姿を消し、抹消された。そのあとは業務用の暖房システムを機能させ、コントロールする、という仕事で暮らしてきた。その彼が三連休の前日、海岸沿いの工業地帯に出かけることになった。工場の技師の手には負えない故障を解決するためだった。
修理に手間取り、シモンは予定していた帰りの列車には乗れなくなる。帰りが遅れることを妻のシュザンヌに知らせなくてはならない。連休にはシュザンヌと出かける約束があったからだ。彼女の勤務先に電話し、彼女が席を外していたので伝言を残す。やっと修理を終えたところで、工場の技師がお礼にといってシモンをナイトクラブに誘う。列車の時間を気にかけながらも、シモンは技師の気持ちを汲んで誘いを受けいれる。
海に近いその土地は工業地帯であると同時にヴァカンス向きの場所でもあった。ナイトクラブでは若いアメリカ人のグループがジャズを演奏していた。その演奏に刺激され、シモンは二度と触れるつもりはなかったピアノの鍵盤に手を伸ばし、やがて夢中で演奏してしまう。そこへ一人の女性が現れ、彼のピアノに合わせて歌い出す。こうしてシモンは夜の列車にも乗り損ない、翌日の列車にも乗り損なうことになる。

語り手はシモンの親友の画家。彼は、不安にかき立てられて夫を迎えに行こうとするシュザンヌに「もしそうやって待っているのがどうしてもいやだというなら、迎えに行けよ。様子を見に行ってくればいい、少なくともあいつの顔は見られるだろうから」と言ったことを後悔することになる。(2016.10.23読了)
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by nishinayuu | 2016-12-15 09:57 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『ホフマン物語』(E.T.A.ホフマン、訳=松居友、立風書房)


c0077412_10295099.jpg『Tales of Hoffmann』(Hoffmann, 1815)
原書はロンドンのGeorge G. Harrap & Co.Ltdから「Books Beautiful」の一冊として1932年に発行されたもの。マリオ・ラボチェッタ(Mario Laboccetta)による幻想的なイラストレーションが展開する美本だという。

本書もイラストレーションがメインで物語は添え物といった感じの「絵本」である。前半は「まえがきにかえて」と題され、1ページもしくは見開きの2ページをイラストレーションが占め、それらの隙間に物語が添えられている。ここに展開する物語には『世襲権』(1817)、『砂男』(コッペリアの原作、1817)、『荒びれた家』(1817)、『運命の糸』などのタイトルが付けられているが、ホフマン作品をそのまま翻訳したものではなく、全体で一つの、ホフマンの文学と生涯を紹介する物語になっている。
後半は『ジルベスターの夜の出来事』というまとまった一つの物で、主人公は鏡に映る自分の姿を悪魔に売ってしまうエラスムスという男。これは作者が友人であるシャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(自分の影を悪魔に売った男の話)に刺激を受けて書いたものだという。

『ホフマン物語』は子供の頃に映画(1952年制作)を見たことがある。オッフェンバック作曲のオペラをほぼ忠実に映画化した作品だそうで、美しい音楽と妖しい雰囲気の映像の断片が記憶に残っている。『赤い靴』と同じくモイラ・シェアラーが出演しているが、その辺のことは全く覚えていないので、いつか機会があったらまた見てみたい。(2016.10.21読了)
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by nishinayuu | 2016-12-11 10:30 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)