カテゴリ:読書ノート( 1081 )

『奥の細道紀行』(大石登世子、ふらんす堂)


c0077412_09450864.jpg本書は『遊行』(こちら⇒)と同じ著者による「紀行文」であるが、驚くほど詳細かつ膨大な旅の記録が収められている。俳句はもちろん、短歌や物語、説話・伝承文学、芸能、宗教、歴史、地理、動植物などなど、著者の心と眼の及ぶ範囲は広く、ついていくだけでも一苦労である。(著者と親しいという人物から借りた書物なので、とにかく最後まで読み通すことができてほっとしましたが、一度きりの読書では消化しきれない内容なので、参考書として手元に置いておきたいと思ったのでした。)

特に興味深かったところを下に列挙しておく。

*下野では、自国側の境の明神を玉津島神社、陸奥側の神社を住吉神社と呼ぶ。反対に、奥州では自国側の境の明神を玉津島神社、下野側を住吉神社と呼んでいる。(中略)玉津島明神は女神で内(国を守る)、住吉明神は男神で外(外敵を防ぐ)という信仰に基づいて祀られている。

*医王寺は風格のある立派な寺で、境内の片隅に、「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」の句碑がある。(中略)実は、芭蕉たちはこのお宝を見ていないらしいのだ。曾良の日記には「判官殿笈・弁慶書きシ経ナド有由」とある。曾良の記述は正確で、見たものは見た、と書くから「有由(あるということだ)」とは、つまり見なかったということ。寺の門には入らず、西の方にある堂へ行った、と記している。

*白河の関もそうだが、著名な歌枕の地となると、芭蕉の筆はどういうわけか格調高い美文調になるのだ。それでいてどちらも芭蕉本人の句はなく、松島も、/「松島や鶴に身を借れほととぎす」/と、曾良の句がおかれる。/失礼な言い方だが、芭蕉は著名な歌枕の地で俳諧を詠む難しさを感じ始めていたのではなかったろうか。/歌枕は結局和歌のためのものであり、伝統に則って詠むかぎり、十七文字は三十一文字にかなわない。叙景にしても叙事にしても事情は同じである。完璧な景を前にすると、季語を取り合わせたありきたりの絵はがき的な句しかできないのは、現代の私たちも経験することである。

*「取り分て心も凍みて冴えぞ渡る衣川見に来たる今日しも」(西行)/『山家集』には「十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降嵐激しく、殊の外に荒れたりけり、(中略)衣川の城しまはしたる事柄、様変はりて物を見る心地しけり、汀凍りて取り分寂びければ」と長い詞書きがあり、衣川の凄絶な風景が読者の前にも広がる。(中略)この歌は初度の奥州への旅で平泉に来た際に詠んだとされる。ただ、二度目の奥州行き、文治二年のときのものとする解釈もあるようで、そうなると義経が平泉に落ちのびてくるのは翌文治三年だから、西行とニアミスしたことになり、物語的にはこの歌が俄然面白く解釈できるのだが、どうだろうか。

2017.4.7読了)


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by nishinayuu | 2017-06-29 09:45 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『女たちのなかで』(ジョン・マクガハン、訳=東川正彦、国書刊行会)


Amongst Women』(JohnMcGahern

c0077412_10114752.jpg舞台はアイルランドの田園地方。登場するのはグレートメドーと呼ばれる家に住む家族で、アイルランド独立戦争の闘士だったモランが専制君主のように君臨している。そしてマギー、モナ、シーラの三人娘と末っ子のマイケル、そして後妻のローズが、気性が激しく気分屋でもあるモランを上手に立てて暮らしている。たとえば、働き者で体力のあるモランは家族にも同様の働きを求め、ローズも娘たちもモランの期待に応えようと懸命に努力する。また一家は毎晩、床に新聞紙を敷いて跪き、敬虔なカトリック信者であるモランの主導で「ロザリオの祈り」を唱えることになっている。これがまた、そうとう時間が掛かる儀式なのだ。

しかし、そんな家族にもやがて変化が訪れる。長男のルークはとうの昔に父親との縁を切ってロンドンに行ってしまったが、娘たちにも家を出るべきときが近づいてきたのだ。まず、マギーが看護婦になるためにロンドンに出て行く。モランはいろいろ理屈を述べて止めようとしたが、最後にはロンドン行きを認める。ローズのおかげで家事から解放されたマギーには新しい仕事、新しい生活が必要だったからだ。そして次はモナとシーラが家を離れることになる。娘たちはみなモランに似て頭がよく、成績がとてもよかったので、教師からは大学進学を勧められていた。それでシーラは医者になりたいという希望を口にしたこともあったが、モランの逆鱗に触れたこともあって、二度とその話はせずに、結局二人とも公務員としてダブリンで働くことになる。家を離れても娘たちは頻繁に里帰りをしては農作業を手伝い、ローズといっしょに家事を楽しんだりする。家を離れる娘たちにモランが言ったように、娘たちにとってグレートメドーはいつでも帰ってこられる「家」なのだった。

女ばかりの家族の中で末っ子としてかわいがられていたマイケルも、家族の誰も意識しないうちに大人に近づいていて、やがて兄のルークのあとを追うように家を離れることになる。そのころにはモランにも次第に衰えが見え始め、娘たちの訪れを心待ちにし、ルークとの関係修復を期待するようになる。

これは、「女たちの中で」わがままいっぱいに、女たちの献身を当然のものとして生きてきたアイルランド男の生涯の物語であると同時に、そんな男に振り回されながらも心の奥では彼を大切に思い、深く愛していた女たちの物語でもある。感情のコントロールができず、愛情を素直に表に出すことも苦手な男と、波風が立たないように心を砕きながらたいていのことは広い心で受け入れる女たちの物語でもある。アイルランドを舞台にした作品は独立戦争の影を感じることなく読むのは難しいが、この作品はそれがあくまでも背景に置かれていて表に出てこないため、普遍的な家族の物語として読むことができる。(2017.3.31読了)


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by nishinayuu | 2017-06-25 10:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ぼくが逝った日』(ミシェル・ロスタン、訳=田久保麻里、白水社)


Le Fils』(Michel Rostain,2011

c0077412_09422449.png本書はそのユニークなタイトルに惹かれて手に取ってみた。そして読み始めたとたんに、「昼日中から毎日必ず泣けてきて、それが五分でやんだり、十分ずつ三回くりかえしたり、一時間ぶっ通しだったりする親父」にでくわした。これだけでこの作品は父親を残して「逝って」しまった息子が語る物語だとわかる。原題は『息子』であるが、本書のタイトルの方がずっといい。

語り手は20031025日(土)に急死する。21歳だった。そのとき親父と母さんが受けた衝撃、その時から始まった疑いや後悔、怒りや悲しみが綯い交ぜになった混乱の日々を、語り手は事細かに語っていく。息子が自ら死を選んだのではないか、という疑いにさいなまれたこと。息子の最期が近づいていることに思い至らず余計なことに気を取られていたこと。死んだと思ったらたちまち葬儀の準備が機械的に始まり、遺体の処理、葬儀の予算、葬儀場の選定、葬儀の段取りや演出、柩の材質、死者の衣裳、遺体の搬送、火葬か土葬かの決定、などなど速やかに決断すべきことが山のようにあったこと。二人の考えが異なってもどちらかが譲って、とにかく二人は混乱を切り抜けていったこと。そうして迎えた葬儀の席で、息子と共に過ごした月曜から土曜までの日々を人々に語りながら親父が、「リオン、おまえが先週私たちにしてくれたことは、すべて贈りものだ」と叫んだこと。この間、親父はほぼずっと泣き続けている。

そして「ぼく」はその後の両親の姿も語る。「両親は夢のことを訪れと呼ぶ。ぼくの訪れを待ちわびる二人にとって、ぼくは出来事であり、よろこびなのだ。二人ともまるで分別がない。あれこれ者に触れることで探しているのは、結局は死んだぼくなのだ。(中略)家の中は、どこもかしこもぼくの写真だらけ。そんなことをしたって、涙を止める役には立たないのに。三段論法――親父はぼくを思うたびに泣く。ぼくを思うときしか幸福を感じない。故に泣くたびに、親父は幸福になる。」

物語の親父はオペラの演出家で母さんはオペラ歌手になっている。作者のミシェル・ロスタン(1942年生まれ)はオペラ演出家で、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラを演出し、作中に親父が2001年に吉田進に作曲を依頼したという言及のある能オペラ『隅田川』も手がけている。すなわちこの作品の親父には作者の姿が色濃く投影されているものと思われる。おそらく作者も最愛の息子か娘を亡くしているのだろう。作中の親父は舞台の成功を祝ってくれた友人に「幸福な気持ちには二度となれなれません」と返事したことを悔やむことになる。その友人が1年後に娘を亡くしてしまうからだ。このエピソードも単なるフィクションではなさそうだ。

それはともかく、訪ねてきたぼくの女友達からぼくが生前、アイスランドに散灰して欲しいと言っていた、と聞いた両親は、エィヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajokull)という山にぼくの灰を撒く。ライオン(リオン)の形をしているように見える火口湖を「リオンの湖」と名付けて友人知人に語る頃には、苦しみの涙が幸せの涙へと変わっているのだった。

この作品は死者の持つ自由な視点を用いることによって、人はどのようにして愛する人の死を乗り越えるかを描ききっていると同時に、死者である語り手その人を輝かしい光の中に蘇らせることに成功している。(2017.3.27読了)


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by nishinayuu | 2017-06-17 09:43 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『遊行』(大石登世子、ふらんす堂、2010)


c0077412_07504660.jpg著者は1942年生まれで、NHK出版の「趣味の園芸」などにも関わった元編集者。俳句会「麻」の同人。本書は俳句歴10年を記念してまとめたものだという。

「バショウより、ふつうに、ブッソンが好き」というレベルのnishinaなので、感想を述べるのは控えて心に響いた句を並べておくことにする。

手品師の大きな鞄春の闇

鵙の贄どこかで子どもが攫はるる

櫻冷え僧は遊行に出でしまま

三椏の花この道は行き止まり

どうしても子がみつからぬ春の暮

振り向けば短日の坂消えてをり

春愁の帯のごとくに夜の汽車

そこまでと言うて花野へ行きしまま

こうして並べてみると、どこか不安で妖しい雰囲気のある句ばかりのような……。

ついでに、漢字の読みがわからなかった句と、読み方に一瞬迷った句がいくつかあったので、その読みをカタカナで示しておく。

やいななくさまに馬頭琴   ツチフル(音読みはバイ)

襞深く金粉零し牡丹老ゆ   コボし(別に難読漢字ではないのに……)

天平の礎石にあたたかし   アシウラ

体内にはつなつの水韻きけり   ヒビき

血族といふ名の鎖紅蜀葵   コウショッキ(もみじあおい)

2017.3.26読了)


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by nishinayuu | 2017-06-13 07:51 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『ロスト・ケア』(葉真中 顕、光文社)


読書会「かんあおい」20175月の課題図書。

著者は1976年生まれ。2012年に「第16回日本ミステリー文学大賞新人賞」を受賞してデビュー。受賞第一作の『絶叫』も各種のミステリー関係のイベントにランキング入りしている。

c0077412_09531294.png本作は構成と人物設定が巧みで、謎解きのおもしろさが充分楽しめるミステリー作品となっているそれと同時に本作は、現代日本の様々な問題点、特に家族による介護の悲惨な実情とその行き着く先の戦慄的状況を予告し、世の覚醒を促す社会派作品でもある。。(ミステリーなのでここでは詳細は伏せておく。) (2017.3.25読了)


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by nishinayuu | 2017-06-09 09:53 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『彫刻家の娘』(トーベ・ヤンソン、訳=冨原真弓、講談社)


Bildhuggarens dotter』(Tove Jansson

c0077412_13331328.jpg本作は『ムーミン』でおなじみの作者が綴った自伝的子ども時代の物語。作者の父親ヴィクトル・ヤンソンはヘルシンキの公園でもその作品が見られるという著名な彫刻家で、母親も本書に「造幣局に切手の絵を描きに行く」というくだりがあるようによく知られた挿絵画家だったようだ。そしてこの芸術家一家は1年のうち4ヶ月を小さな島で過ごすのが習慣だった。本書では作者のこうした特異かつ恵まれた家庭環境での体験と冒険が、幼い子どもである「わたし」によって語られている。

「わたし」は想像と創造が得意な子どもで、ひとりぼっちでいることも、怖い思いをすることも大好きだ。独りぼっちで放って置かれれば、自分で考えたお話の中に入り込んで、どんどん怖い状況を作り出しては楽しむ。たとえば、

「夕暮れになると、大きな灰色の生きものが波止場をはい上がってくる。その生きものはのっぺらぼうで、夕闇の中をはいずりまわりながら、するどくとがった手で島を次から次へとおおっていく。」

「なにがいちばんこわいといって、スケートリンクほどこわいものはない。(…)リンクの後ろには例のはいずりまわる生きものが潜み、リンクはぐるりと黒い水に取り囲まれている。水が氷のさけめで息づきゆったりと動き、ときどきため息をついてもり上がり、氷の上にあふれだす。(…)氷のさけめは少しずつ広がり、息づかいがあらくなり、そのうちぽっかり大口をあける。氷の孤島のようなリンクを残して、ついには波止場じゅうが黒い水になるだろう。そして、私たちはいつまでも、いつまでも、すべりつづけるのだ。アーメン。」

ときには家の外で本物の怖い状況が起こることもあるが、そんなときはなおいっそうぞくぞくした気分を楽しむ。「わたし」の怖いもの好きはどうやらパパの影響だ。パパは夜に火事があると必ず家族を起こして赤い空を目当てに現場に駆けつけるが、つく前に消しとめられてしまうと、がっかりしたパパを慰めなければならない。また、嵐が吹き荒れて海一面に真っ白な波が立ち、井戸のところまで海水がおしよせたとき、それまで憂鬱そうだったパパはたちまち元気になってパジャマのまま外に飛び出し、海に流されかけている桟橋を引き戻そうとずぶ濡れになって奮闘するので、わたしも嬉しくて叫び声を上げながら水しぶきを上げて歩き回るのだった。

こんな突拍子もない父親と好対照をなすのが母親である。母親は夫や娘の奇抜な言動にも少しも動じることなく、時にはいっしょに楽しみながらも、上手に家族をまとめている。

「ママとわたしは火のそばに大きないすをよせ、アトリエの灯を消す。ママがお話を始める。――むかしむかし、たいそうかわいい女の子がいました。その子のママは女の子をとってもかわいがっていました。――どのお話の始まりもこうでなければならない。そのあとは適当でいい。」

ムーミンの世界の原点がここにある。(2017.3.19読了)


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by nishinayuu | 2017-06-05 13:34 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)

『オリエント急行戦線異状なし』(マグナス・ミルズ、訳=風間賢二、DHC)


All Quiet on the Orient Express』(MagnusMills, 2003

c0077412_10491454.png著者は1954年イギリスに生まれ、イギリスやオーストラリアで様々な臨時雇いを転々とした後、ロンドンでバスの運転手となる。1998年に『フェンス』で文壇デビューし、デビュー後もバスの運転手を続け、後に郵便配達人に転職。現在は執筆に専念しているという(表紙裏にある紹介文より)。本書は上記のような異色の経歴を持つ著者による2作目の長編である。

舞台は避暑地として知られるある村。文中にミルフォードという名が出てくるのでダービシャー州だろうか。あるいは湖の美しい村ということなので湖水地方だろうか。ただし場所の特定はどうでもよく、重要なのは外部の人間にとっては不可解な法則が働いている村だということである。そんな法則に気づかなかったひとりの青年が、村の人々にじわじわと絡め取られていく様子が綴られていく。

ある夏、この村にひとりの青年がやって来る。2週間ほど滞在して、そのあとはトルコを経てさらに東の方へと旅をする予定だった。観光客が去ったあとの村にひとりで残っていた青年は、テントを張っていた土地の所有者トミー・パーカーから声をかけられる。それまでは自分に気づいている様子はなかったのに、と青年はちょっとびっくりするが、どうやら相手はずっと青年を観察していたようなのだ。パーカーだけではなかった。青年がベークドビーンズなどを買う食糧雑貨店の主ホッジも、バーのバーテンたちも、バーに集まる男たちもみんな、なぜか青年の動向に興味津々のようなのだ。

やがてパーカー氏は青年にゲートのペンキ塗りをしないか、と持ちかけてくる。青年は暇つぶしになるからと軽い気持ちで引き受ける。賃金のかわりにキャンプ地の使用量をなしにしてもらうという条件で。それがきっかけで青年はパーカー氏から次々に「雑用」を頼まれ、次々にそれをこなしていく。「宿題」を手伝って、という口実で近づいてきたパーカー氏の16歳の娘は、そのうち宿題を丸投げして寄こすようになる。宿題の作文が賞を取ったりするので、青年も悪い気はしない。バーでもダーツのチームに勧誘されたりして、季節が冬に移る頃には青年はすっかり村人に受け入れられた気分になっていた。

しかし、何となく不可解なことも多かった。パーカー氏は際限なく雑用を回してくるのに賃金の話はしない。パーカー氏がストックしているペンキはほとんどが緑色。バーの常連のブライアンはいつも紙製の王冠をかぶっている、などなどだ。それに、村人たちはなぜか青年を「次の牛乳配達人」と呼んだりする。ディーキンというれっきとした牛乳配達人がいるのに、である。しかしこの人のいい青年もついにある日、村の「悪意」にはっと目が覚めるのである。

これは不条理小説であるけれども、残酷さや不気味さとは無縁で、むしろ主人公の青年のふがいなさと村人たちのたくましさに失笑してしまう、構成も人物描写も見事な作品である。なお、タイトルは見てすぐわかるようにAll Quiet on the Western Front Murder onthe Orient expressの合成である。ということはMurder on the WesternFrontというタイトルもあり得たということになる。(意味深ですね。ところで意味深ってもう古語?)(2017.3.14読了)


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by nishinayuu | 2017-05-28 10:49 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『회색 문헌』(강영숙, 문학과지성사)


c0077412_09354818.jpg『灰色文献』(カン・ヨンスク、文学と知性社、2016

「灰色文献」とは、書物が完成したあとには破棄されることになる資料類のこと。著者は1967年生まれ。1998年に『八月の食事』で文壇デビューしたあと、短編、長編を次々に発表し、各種の文学賞を受賞している中堅作家である。

短編小説集である本書には8つの作品が収録されている。各作品のタイトルと概要は以下の通り。

*帰郷(2013)――寛げる相手だった男が急に姿を消す。男の行方を探しあぐねた主人公は、やがて探すのをやめて自分の生まれ故郷を目指す。

*ポロック(2013)――語り手のJがインタビュー記事を書くために環境運動家のK理事の許を訪れる。老いのために絶え間なく睡魔に襲われるK理事を相手にJは、ともかく「灰色文献」を作成することにする。ポロックはアメリカのアクション・ペインターJackson Pollock

*不治(2014)――銀行員のジヌク。ある日銀行に現れた女スヨンに目を引かれて銀行を辞めてしまう。買い物依存症のスヨンとジヌクの破滅的生活。手相見の女はスヨンの手相を見て「悪くはない。何も無い手相を見たこともある」という。何も無い手相の持ち主はジヌクだった。

*盲地(2015)――語り手は会社員。会社の部品倉庫がある工業団地にバスで出向くが、つきまとってくる老女や老人の世話をするはめになる。とうとううんざりした彼は……。

*海鳴(2011)――大地震のあと不眠症に陥っていた日本人のリリ。「眠りに来た」韓国で、大女のユジンや人形劇団の人たちと出会って不眠症から解放される。

*黒い水たまり(2015)――25年勤めた会社を辞めたジョンヨン。たまたまやって来た家事代行会社のウルサン・おばさん、モルモン教の宣教師、運転代行をしているおじいさんといっしょに飲む。正体なく酔ったおばさんを家に送って行ったのが間違いで、気がついたら地下鉄の車両に閉じ込められていた。トイレを我慢しながら朝を迎え、その辺で用を足してから歩き始めたとたん、転んで田圃の泥水にうつぶせに倒れた。このままでは死ぬ、と思いながらもなぜか笑いがとまらないのだった。

*鋏と糊(2012)――「あらゆるおかしなことが同時に起こる」中で、重病の母親のめんどうをひとりで見ている語り手は、借金で身動きできない状態に陥っている。そこへ貸金業者から、いい方法がある、というおいしい誘いの電話がある。

*クフル(2013)――語り手は二人の子どもを持つ母親。恵まれた立場の人間「甲」だけがいいところを持っていき、「乙」である自分がないがしろにされている職場に対しても、子どもの担任教師に対しても、そもそもこの世の中を作った神に対しても怒りをぶつけずにはいられない。クフルはその怒りの合間に発する笑い声なのだ。しかし語り手は最後にふと気づく。壊れていくめちゃくちゃな世界を作ったのは自分なのだ、壊れているのは自分の内部なのだ、と。

知人・友人は離れていき、奇妙な人たちばかり近づいてきて、混沌とした状況がエスカレートしていく。それらの状況は悲惨というよりシュールであり、登場人物たちは、そんな状況に陥った自分を笑いながら、ひょいと立ち上がる。突き抜けた軽さと生命力を感じさせる短編集である。(2017.3.11読了)


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by nishinayuu | 2017-05-24 09:36 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『椅子取りゲーム』(孔枝泳、訳=加納健次・金松伊、新幹社、2012)


의자놀이』(공지영

本書の前書きで著者は「初めて文学ではない本を書いた」と言っている。すなわち本書は、は韓国で影響力のある作家の一人である著者によるルポルタージュであり、残酷な「椅子取りゲーム」の犠牲者たちと痛みを共にした著者の「史実エッセー」である。

c0077412_09231507.jpgきっかけは2011年にツイッターで知ったある出来事だった。226日の朝、サンヨン自動車無給休職者の父親(44歳)が死んでいるのを17歳の息子と16歳の娘が見つけた。二人の母親は前の年の冬に飛び降り自殺していたため、二人は1年のうち相次いで両親を亡くして孤児になってしまったのだった。サンヨン自動車の整理解雇が始まって以来、母親は12番目、父親は13番目の死だった。そしてその後も自殺者は続き、サンヨン自動車から追い出された2646人のうち22人の労働者と家族が犠牲になったのだった。労働者の解雇は他の企業でもよくあることだが、サンヨン自動車の場合、被解雇者の自殺率の高さは尋常ではない。

13番目の死をきっかけにサンヨン自動車事件について調べ初めた著者は、あらためてことの異様さとおぞましさに気づかされる。国際的な基準に合う車を生産し、韓国の経済発展に貢献してきたサンヨン自動車という大企業にいったい何が起こったのか、サンヨン自動車の工場のある平澤で安定した生活を享受していた労働者たちがなぜストライキをしなければならなかったのか、そのストライキの参加者たちを国家権力がどのように無残に蹴散らしたか、会社側がどのように労働者たちを分断していったか、会社から追われた労働者たちがどのように孤立していったか、そして孤立していった労働者たちがどれほど精神的に追い詰められていったか。

21世紀の出来事とは思えない忌まわしいこの事件は、韓国内でもあまり報道されなかったのではないだろうか。だからこそ著者も詳しいことは知らないまま過ごしてきたのだろう。それに、小説家の自分が取り組むべき問題だろうかというためらいが最初はあった、と著者は正直に述べている。しかし、今や韓国を代表する作家の一人である著者だからこそ、この問題を取り上げて世に問うた意義は大きい。残酷な「椅子取りゲーム」の犠牲になった人々、実体のない幽霊のような者たちと戦い続けている人々に、慈しみのメッセージと共に連帯の意志を送る、と言う著者に大きな拍手を送りたい。(2017.3.4読了)


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by nishinayuu | 2017-05-20 09:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)

『八月の日曜日』(パトリック・モディアノ、訳=堀江敏幸、水声社)


Dimanches  daoût』(Patrick Modiano, 1986

物語はこんなふうに始まる。

c0077412_09215011.png「とうとう彼がこちらに目をやった。ニースのガンベッタ大通りに足を踏み入れた辺りだった。彼は革のジャケットやコートを売る露天の前の、お立ち台に立っていた。私はその売り口上に耳を傾けている人だかりの、最前列に滑り込んでいた。私を見ると、口調はあの露天商特有のなめらかさを失って、ずっと淡泊な話しぶりになった。(中略)現在の境遇が、本来の自分からするといかにも釣り合わないことを、私にわからせようとするみたいに。」 すっと物語世界に引き込まれる書き出しではないか。「私」は男の目に留まるようにわざと最前列に立ったのだ。

男はヴィルクールといい、7年ぶりの出会いだった。7年前「私」とシルヴィアは、ヴィルクールを避けるために行きずりの男女との出会いを利用した。とらえどころのないふわふわした感じの男女はニール夫妻となのり、外交官ナンバーの車に乗り、大きな屋敷に住んでいた。私たちはこのニール夫妻を「自分たちが張りめぐらした蜘蛛の巣にとらえた」つもりだったが……。

「私」とシルヴィアがなぜニースにやってきたのか、なぜ二人がヴィルクールを避けたのか、彼らは互いにどんな関係にあるのか、ニールがなぜ「私」とシルヴィアに近づいてきたのか、そもそもニールは何者なのか、などなどが時間軸をずらして明かされていく。すなわちこの作品は、徐々に謎が明かされていくミステリーとして読めるのだが、「私」は最後まで謎を突き止めることができないままで終わる。すべてを零からやりなおせると信じてシルヴィアと落ち合い、八月の日曜日に至福の時を過ごしたニースの街を、今「私」は亡霊となってひとり彷徨っているのだ。

この物語は私がよく見る悪夢に似ている。大切な人(あるいは人たち)を見失って、懸命に探し回る夢、いくら探しても見つけられずに、独り取り残された焦燥感と侘しさにさいなまれる夢に。

なお、訳者あとがきによると、この作品で重要な役割を果たしている巨大で不吉なダイアモンド「南十字星」はジュール・ヴェルヌの小説『南十字星』への目配せになっており、また作中に描かれたマルヌ河の不吉な空気はレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』に描かれた第一次大戦中のマルヌ河岸ときわどく接しているという。(2017.3.2読了)


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by nishinayuu | 2017-05-16 09:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)