大村彦次郎の文士のいる風景 小山清 その2

小山清 その1 の原文です。

「朴歯の下駄」の作者小山清が急性心不全のために亡くなったのは昭和40年の3月、53歳であった。小山はそれより7年前、脳血栓で失語症になった。言いたいことは頭の中にあるのだが、それを表現しようとすると、肝心なことばが出てこなかった。妻がミシンを踏んで働いたが、心労の果て、幼い2人の子どもを残し、自殺した。「ぼくは死に遅れた」と、夫は会う人ごとに嘆いた。
小山は明治44年、東京・浅草の生まれ。二十代の頃、下谷龍泉寺界隈で見過ぎのための新聞配達をした。この間、2歳年上の太宰治に師事し、三鷹の彼の家によく出入りした。
小山が文壇に認められ始めたのは太宰の死後、発表した「小さな町」、「落ち穂拾い」などからであった。それらの作品は清純な感受性でとらえられた私小説で、庶民のつましい善意と愛情が点描されていた。
小山には東京下町生まれの律儀な性分と、一つことに夢中になると、それにあくまでこだわる気質があった。太宰の桜桃忌は最初、小山が中心になって運ばれたが、途中から小山は坂口安吾に傾倒し、「太宰よりも安吾のほうがずっとすごいよ」と言い出して、桜桃忌にも顔を出さなくなった。
ある年の桜桃忌の前日、小山は太宰夫人を訪ねてきて、「どうも近頃、太宰さんよりも安吾さんのほうがえらいように思われてきたので、桜桃忌に行くのもなんだか悪いような気がしてなりません」とわざわざ言い訳をして、出席を断った。
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by nishinayuu | 2007-11-15 10:27 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
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