「少将藤原義孝が死後に和歌を詠んだ話」その2
2006年 12月 08日
☆『今昔物語』巻第二十四第三十九の再話です。韓国語訳はこちら。
今は昔、少将藤原義孝という人がいた。姿形はもちろん、心ばえ、才能も秀でた人だった。道心も深かったが、若くして世を去ったので、親しい人々は嘆き悲しんだが、しかたのないことだった。
ところが、死んでから十日ほどして、賀縁という僧侶の夢に少将が現れ、心地よげに笛を吹いているように見えたが、ただ口笛を吹いているだけだったのだ。賀縁が「母上がとても恋しがっていらっしゃるのに、どうしてそのように心地よげにしておられるのか」と尋ねると、少将は返事をしないで和歌を詠んだ。
時雨にはちぐさの花ぞちりまがふなにふるさとの袖濡すらむ
(そちらで時雨が降るころ、こちらでは様々な花が時雨と見まがうほどに散り乱れている。どうしてわたしの古里であるそちらではわたしの死を悲しんで泣いているのだろうか)
賀縁は驚いて夢から覚め、泣いた。また、翌年の秋、少将は妹の夢に現れて、次のように和歌を詠んだ。
きてなれし衣の袖もかわかぬに別れし秋になりにけるかな
(あなたが着慣れた喪服の袖が乾いていないのに、お別れした秋になりましたね)
妹は驚き目覚めて、涙にくれた。
また、少将がまだ病の床にあったとき、妹で冷泉天皇の女御である人が、少将が亡くなったことをまだ知らずに「経書をふたりで最後まで読経しましょう」と文をやった。少将が亡くなったため、そのまま忘れて亡骸を葬ったところ、その夜、母の夢に少将が現れて言った。
しかばかり契りしものをわたり川かへるほどには忘るべしやは
(あれほど約束したのに、わたしが三途の川から戻ってくる間にお忘れになるとは――だからわたしはそちらに戻ることができなかった)
母は驚き目覚めて、ひどく泣いた。
和歌を詠む人は死んだあとに詠んだ歌もこのように優れている、と語り伝えられている。