『能に生きる女たち』(大石登世子、檜書店)


本書は能をよりよく味わうための解説書といった趣の本で、女性の生き方に焦点を合わせた27の作品を取り上げ、様々な身分や境遇に生きる女性の悲しみや怒り、喜びについて論じている。

冒頭に、著名な能研究者である増田正造氏による〈『能に生きる女たち』讃〉という文が載っているので、その一部を記しておく。

吉田兼好が『徒然草』に解いたのは、対象にのめり込むことのない距離の置き方である。客観的な視野を持つ位置である。/この著者の能を見渡す視野の広さはまさにそれである。能に淫していないのだ。その目は冷徹でしかもあたたかい。(中略)私はこれから能を見る前にこの本を読み、心を能に潜めたいと思う。

c0077412_07451938.png

取り上げられているのは次の27

桜川/藤戸/杜若/葵上/半蔀/清経/姥捨/野宮/鉄輪/葛城/求塚/三山/大原御幸/芦刈/檜垣/蝉丸/松風/黒塚/定家//海人/隅田川/千手/籠太鼓/花筺/通小町/卒都婆小町

特に印象に残った部分を書きとめておく(語句は原文通りではありません)。

*〈女物狂、狂女、狂乱、狂ふ〉といった言葉が使われるが、当時は、狂う=芸を演じること、〈面白う狂ふ〉とは美しく珍しい芸を見せることで、その演技が観客の興味の中心だった(桜川)

*世阿弥は、よき能の条件として典拠がしっかりしていることをあげている。典拠となるのは『伊勢物語』『源氏物語』『平家物語』などの先行する文芸、『古今和歌集』などの歌集、各地に伝わる説話、寺社縁起など。作品の背景となる話を観客が共通認識しているという前提で、能の物語は進行する。これは季語の本意を共有するものが集まって俳句をたのしむのと似ているように思う。(杜若)

*六条御息所の怨霊事件について、瀬戸内寂聴は六条御息所の度を過ごすほど思い詰める性格が招いた悲劇と評しているが、馬場あき子は生きながら鬼となって晴らさずにはおかない妄執の裏にある、六条御息所の深い羞恥の心と孤独を指摘している。(葵上)

*歌舞伎や文楽浄瑠璃の愁嘆場では、大仰に声や表情に出して演じるところを、能では演技が内へ内へと凝縮されてゆき、見た目には型として象徴的に示されるのが、対照的と言える。一篇の詩劇のような流麗な詞章と曲で紡がれる物語は、ギリシャ悲劇を思わせるほどだ。(蝉丸)

*古くから「熊野、松風に米の飯」といわれる人気曲。場面の変化に富んだ見所の多い曲で、江戸後期の「能演目番付」では、堂々の大関となっている。当時は、横綱はなく大関が最高位だから、人気の程がうかがえる。(松風)

*能では鬼となった女は般若の面をつけるのが定番。般若とは梵語で「真理を見ることのできる智恵」を意味するが、女の怒りと悲しみを凝縮させた般若の面は、能面の中で最も優れた造形の一つであるといわれる。(黒塚)

2017.4.12読了)


[PR]
by nishinayuu | 2017-07-19 07:46 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://nishina.exblog.jp/tb/26824214
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< 『この素晴らしき世界』(ペトル... 『書店主フィクリーのものがたり... >>