『書店主フィクリーのものがたり』(ガブリエル・ゼヴィン、訳=小尾芙佐、早川書房)
2017年 07月 15日
『The Storied Life of a J.Fikry』(GabrielleZevin)
表紙裏の紹介文はこんな具合になっている。
その書店は島で唯一の、小さな書店――偏屈な店主のフィクリーは、来る日も来る日も、一人で本を売っていた。ある日、所蔵していたエドガー・アラン・ポーの稀覯本が盗まれ、またある日、書店の中には女の赤ん坊がぽつんと置かれていた。フィクリーはこの子を育てる決心をする。すると、手助けしようと島の人たちがやってくるようになる。あまり本を読まなかった人たちも本を買い、語り合う。女の子は本好きになり、すくすくと成長し……。(一部省略や言い換えがあります。)
なるほど、温かい人たちのおかげで偏屈な男の心が解け、拾われた子どもといい親子になっていく、というとことん甘い話らしい、と思って読み始めると、いい意味で裏切られる。ただの甘ったるい小説ではないのだ。妻ニックの故郷に二人で開いた書店を一人でやってくはめになった孤独なフィクリー、書店に置き去りにされた独りぼっちの2歳の女の子マヤ、書店相手の営業を担当する独身女性アメリア、夫の浮気に悩むニックの姉で教師のイズメイ、その夫で書けなくなった作家のダニエル、本とは無縁だったのに足繁く書店通いを始めた警察署長などなど、島の住人たちそれぞれのドラマが盛り込まれた、苦さも辛さもある味わい深いヒューマンドラマなのである。
そしてなによりも、書物に関する知識と情報にあふれた蘊蓄小説でもある。あちこちに本のタイトルや作家の名がちりばめられているばかりでなく、各章の冒頭に、フィクリーが興味を持ち、マヤに読ませたいと考えている短編小説のタイトルとコメントが掲げられている。たとえば『ロアリング・キャンプのラック』(ブレット・ハート、1868)について、フィクリーは次のようなコメントをつけている。
「ラックと名づけたインディアンの赤ん坊を養子にする鉱山の飯場の極めてセンチメンタルな話。大学のセミナーで読んだときは全く感動しなかったが、2年前に再読したときはひどく泣いたので、あの本に涙がしみこんでいるのにきみは気づくはずだ。(中略)小説というものは、人生のしかるべきときに出会わなければならない。覚えておくのだよ、マヤ。ぼくたちが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね。逆もまたしかり。このことは本においても、人生においても真実なのだ。」
さらにこの小説には、盗まれたポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』はどうなったのか、2歳のマヤを書店に置き去りにして自殺した母親はそもそもなぜ島にやって来たのか、というミステリー的な要素もあって、最初から最後まで飽きさせない上出来の読み物である。
ポーの稀覯本『タマレーン(Tamerlane)』について、ちょっと調べてみました。1827年に刊行された詩集で、TamerlaneというのはTiūmr-ilang(ティムール)が英語風に転訛したものだそうです。画像はそのTamerlaneの表紙です。(2017.4.11読了)