『八月の日曜日』(パトリック・モディアノ、訳=堀江敏幸、水声社)
2017年 05月 16日
『Dimanches d’août』(Patrick Modiano, 1986)
物語はこんなふうに始まる。
「とうとう彼がこちらに目をやった。ニースのガンベッタ大通りに足を踏み入れた辺りだった。彼は革のジャケットやコートを売る露天の前の、お立ち台に立っていた。私はその売り口上に耳を傾けている人だかりの、最前列に滑り込んでいた。私を見ると、口調はあの露天商特有のなめらかさを失って、ずっと淡泊な話しぶりになった。(中略)現在の境遇が、本来の自分からするといかにも釣り合わないことを、私にわからせようとするみたいに。」 すっと物語世界に引き込まれる書き出しではないか。「私」は男の目に留まるようにわざと最前列に立ったのだ。
男はヴィルクールといい、7年ぶりの出会いだった。7年前「私」とシルヴィアは、ヴィルクールを避けるために行きずりの男女との出会いを利用した。とらえどころのないふわふわした感じの男女はニール夫妻となのり、外交官ナンバーの車に乗り、大きな屋敷に住んでいた。私たちはこのニール夫妻を「自分たちが張りめぐらした蜘蛛の巣にとらえた」つもりだったが……。
「私」とシルヴィアがなぜニースにやってきたのか、なぜ二人がヴィルクールを避けたのか、彼らは互いにどんな関係にあるのか、ニールがなぜ「私」とシルヴィアに近づいてきたのか、そもそもニールは何者なのか、などなどが時間軸をずらして明かされていく。すなわちこの作品は、徐々に謎が明かされていくミステリーとして読めるのだが、「私」は最後まで謎を突き止めることができないままで終わる。すべてを零からやりなおせると信じてシルヴィアと落ち合い、八月の日曜日に至福の時を過ごしたニースの街を、今「私」は亡霊となってひとり彷徨っているのだ。
この物語は私がよく見る悪夢に似ている。大切な人(あるいは人たち)を見失って、懸命に探し回る夢、いくら探しても見つけられずに、独り取り残された焦燥感と侘しさにさいなまれる夢に。
なお、訳者あとがきによると、この作品で重要な役割を果たしている巨大で不吉なダイアモンド「南十字星」はジュール・ヴェルヌの小説『南十字星』への目配せになっており、また作中に描かれたマルヌ河の不吉な空気はレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』に描かれた第一次大戦中のマルヌ河岸ときわどく接しているという。(2017.3.2読了)