『제주 유배길에서 추사를 만나다』(양진건, 푸른역사)


c0077412_9124235.jpg『済州に配流された秋史に会う』(梁鎮健、滄歴、2011)
著者は済州西帰浦出身の学者。『かの島に配流された人々』(1999)、『済州配流文学資料集1』(2008)などの著書がある。
本書は政治家として出発し、偉大な学者・文化人として生きた金正喜(号は秋史)の配流生活を詳細に解明した秋史伝である。懇切丁寧な解説文にたくさんの図版が添えられ、巻末には充実した注と索引もあって、秋史についてはもちろん配流や済州島についての参考書として、手元に置いておきたい一冊となっている(nishinaは友人に借りて読んだので、残念ながら手許にはない)。テーマ別に内容を要約しておく。
[配流に至るまで]正祖10年(1786)に慶州金氏の有力な家に生まれ、順調に出世街道を歩んでいたが、憲宗6年(1840)55歳の時に安東金氏との政争に敗れ、拷問と棒叩き刑を受けた後、満身創痍の状態で絶海の孤島・済州に流された。
[済州の人々]秋史は当地の有力者が用意した住まいに「圍籬安置」(垣根の外へ出ることは禁止)となり、それまでの暮らしとは一変した不自由、不便、孤独感にさいなまれた。しかし済州島の志ある人々は大学者の「キヤンダリ」(配流人をさす侮蔑語)に教えを請おうと秋史のもとへ押しかけた。秋史は次第に済州で得た弟子たちを教え導くことに喜びを見いだしていく。本書では済州島の門下生たちにそれぞれの業績や秋史との関係を語らせていて、たとえば蕙白という弟子は秋史のおかげで印章作りや筆作りの才能を花開かせている。
[秋史の配流生活を支えた人々]①友人――都で重職にあった権敦仁、学者の申緯、草衣禅師など ②門下生――趙煕龍、許練、訳官(通訳)の李尚迪、姜瑋など ③済州牧使――李源祚、張寅植など。草衣禅師は秋史が「お茶を早く送ってこないと棒うち刑にするぞ」という文を送り付けるほど深い友誼で結ばれた仲だったし、李尚迪は秋史の要求に応えて中国の書籍をはじめ大量の書籍を購入して秋史の元に届けた献身的な弟子だった。秋史がこの李尚迪の誠意に感動して二本の松の絵に跋文を添えて与えたのが有名な『歳寒図』である。また李源祚は秋史と「今古文論争」を展開した学問の友でもある。④そしてもちろん秋史の妻――衣服や食べ物にかなりうるさい秋史の要望に応えて懸命に仕えている様子が、妻に送った秋史のハングルの手紙(この文字の美しいこと!)からわかる。
[秋史の関心事]①書――『漢隷字源』に収録されている碑文の文字309個を写し続け、硯10個をすり減らし、筆1000本をつぶして「秋史体」を完成させた。兪弘濬はこれを「9年の配流生活が秋史にもたらした贈り物」と言っている。②篆刻――秋史風篆刻を完成させた。③漢詩 ④植物――済州島の花を愛して水仙、山茱萸、鶏頭、南瓜、立葵、映山紅(ツツジ)の漢詩を作ったり絵を描いたりしている。特に陸地(本土のこと)では珍しかった水仙が済州島では至る所に見られるのを喜ぶと同時に、それを土地の人たちが牛馬の餌にしたり鎌で刈ったりしているのを嘆いている。⑤茶 ⑥病――済州島では高温多湿な風土と加齢のせいで、目の痛み、足の痛み、消化不良、咳、血痰、息切れ、皮膚掻痒症、おこり(マラリア)など様々な病に悩まされている。いずれも死に至るような疾病ではなかったが、秋史は若いときに次々に近親者をなくしているせいか、健康管理は徹底していた。
[釈放]配流されてから9年後の1848年、秋史は釈放されて都へ戻る。63歳だった。閉ざされた世界の中で文学活動を通して配流の苦難と孤独を乗り越えた秋史は、それだけでなく済州の人々と長い年月をともにしたことによって、事大主義のエリートという嫌疑を振り捨てることもできたのだった。都に戻ってからの秋史の書体からはぎらぎらした脂っ気が抜けた、といわれる。

☆とにかく内容の濃い、読みでのある書物でした。(2016.6.30読了)
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by nishinayuu | 2016-09-10 09:13 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2016-09-11 09:58 x
済州島に流された人は多いけれど、どんな暮らしをしていたのかわからなかったけれど、その一端がわかって面白いですね。島の中にも流刑された人からの文化的な影響が残っているんでしょうね。光海君も18年ぐらい島で暮らしていますよね。その暮らしぶりとか感慨とかわかると面白いですね。
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