「ほっ」と。キャンペーン

『クリロフ事件』(イレーヌ・ネミロフスキー、訳=芝盛行、未知谷)

c0077412_100864.jpg『L’affaire Courilof』(Irène Némirovsky, 1932)
著者はロシア帝国キエフに生まれ、革命時にパリに亡命し、1929年に『ダヴィッド・ゴルデル』で文壇にデビューした。ナチスドイツによるユダヤ人迫害の中でも次々に長編小説を発表したが、1942年にアウシュヴィッツ収容所で死去した(以上、本書の作者紹介より)。

「二人の男」というタイトルで構想されたという本作は、テロリストのレオンMと、そのターゲットであるクリロフ、という二人の男の物語である。冒頭にレオン・Mと昔の彼を知る男がニースで遭遇する場面があり、この場面の後にレオン・Mが1932年にニースの家で死去したこと、遺品の中に数十ページのタイプ打ち原稿が見つかったこと、原稿の最初のページに「クリロフ事件」と書かれていたことが記されている。すなわちこれに続く1~27の断章は、レオン・Mが自伝として綴った「二人の男の物語」という形になっている。
レオン・Mは1881年、シベリアの寒村で政治犯の両親のもとに生まれ、父の死後に母に連れられてスイスに移住、10歳で母も亡くした後はスイスの「革命委員会」によって育てられた。「革命委員会」所有のサナトリウムで母から受け継いだ結核の療養をし、「党」のリーダーのひとりだったシュワン博士のもとで外国語と医学を学んだ。そして病が癒えるやいなや、「革命委員会」から下される任務をこなすようになった。すなわち被追放者の息子レオン・Mは、革命的な言説、教え、模範で特別に養育された、生まれついての党員だった。そんなレオン・Mが1903年、教育大臣の殺害のためにロシアのサンクトペテルブルクに送り込まれたのである。
1903年、ロシア帝国の教育大臣は残忍に冷血に権力を振るうことで知られるヴァレリアン・アレクサンドロヴィッチ・クリロフだった。皇帝アレクサンドル三世とネルロード皇子の庇護を受けるクリロフは、この国の支配階級にふさわしく革命を憎悪し、大衆を侮蔑していた。大柄で話も動作も遅かったクリロフを、学生たちは「シャチ」と呼んでいた。頭が切れ、残忍で貪欲だったからだ。そんなクリロフの家にレオン・Mはジュネーブ生まれの医師ルグランとして入り込んで暗殺の機会を探った。困惑と混乱を潜めた青い目で凝視するクリロフ、病んだ肝臓の激痛に果敢に耐えるクリロフ、居酒屋の歌い手だった妻を皇帝夫妻の嫌悪と侮蔑にもめげずに愛し続けるクリロフ、敬虔で生真面目で臆病で、用心深いクリロフに日々接しているうちに、レオン・Mはクリロフを理解し、シンパシーさえ感じるようになる。子どもの頃から抽象的な世界「ガラスの檻」で生きてきたレオン・Mは「初めて人間というものを見た」のだった。夏になり、クリロフが権力の座を追われるという事態になる。それにもかかわらず10月に彼を暗殺するという計画には何の変更もないとわかったとき、レオン・Mは指令を伝えに来た男に計画を止めるように必死で訴える。まるで兄の命を賭けて戦っているように感じながら。

本作の背景となっているロシア革命の時代はすでに遠い過去になってしまったが、人間の内面、人間の本質を浮き彫りにした本作の内容そのものは少しも古さを感じさせない。(2016.6.19読了)
[PR]
by nishinayuu | 2016-08-29 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://nishina.exblog.jp/tb/25936910
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< 『茶の本』(岡倉覚三、訳=村岡... 映画鑑賞ノート23 (2016... >>