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『死んでいる』(ジム・クレイス、訳=渡辺佐智江、白水社)


c0077412_10225769.jpg『Being Dead』(Jim Crace、1999)
第1章は次の文で始まる。
「その火曜日の午後、動物学者たちは車で街を出た。バリトン湾に続く歌う砂丘を訪れて、過ぎ去った歳月を偲び、そして死者の魂を振り払うために。それが最後となった。二人は、ついに生きて帰ることはなかった。亡骸すら、あやうく帰らないところだった。」
そして最後の章である26章は次の言葉で締めくくられている。
「そしてやはり、今日も昨日も、砂丘はせり上がり、積もり、麓から崩れる。(中略)バリトン湾の岸辺とその彼方のすべての海岸で、潮は満ち干を繰り返し、魚や鳥の、甲殻類やネズミの、軟体動物、哺乳類、二枚貝、カニの死骸と砕けて薄くなった残骸は、何度も何度も波に持ち上げられ、洗われ、形をなくす。そしてジョゼフとセリーヌは、体験の及ばないところで、愛に満ちた無意識の最後を満喫する。これが、永遠に続く終わり、死んでいる日々。」

これらの章に挟まれた各章で、ジョゼフとセリーヌの死体が腐敗していく過程が微に入り細にわたって語られていき、それに並行して彼らの娘であるシルが連絡の取れない両親を探す過程も語られる。その一方で、30年前に二人が出会った日から火曜日までの出来事が、時間を逆に遡りながら語られていき、彼らの死の瞬間までの一日がやはり時間を逆に遡りながら語られていく。こうした四種類の語りが断続的に表れることによって、忌まわしい事件、汚らしい場面、深刻な状況、などが深刻化する前にさらりと躱される。そしてしだいに、ジョゼフとセリーヌという学者夫婦の意外な人間らしさ、娘が両親に抱く複雑な情愛などが、忌まわしさ、汚らしさ、深刻さを圧倒してくる。常識的に見れば愚かで滑稽で腐臭にまみれた出来事を扱っていながら、どこかさわやかともいえる読後感が残る作品である。(2015.12.17読了)
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by nishinayuu | 2016-03-14 10:24 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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