『ぼくのハシントおじさん』(アンドラス・ラスロ、訳=井上勇、晶文社)


c0077412_1025672.jpg『Mi Tio Jacinto』(Andras Laszlo, 1956)
「ぼく」というのは7歳の男の子で、名前はペポーテ。「ハシントおじさん」は「ぼく」の本当のおじさんではないが、空き地のバラックでいっしょに寝起きしている。「ぼく」は朝目が覚めると牛乳缶をもって雨の中を駆けだす。パン屋と牛乳屋に行って、おじさんと自分の朝ご飯を調達するためだ。けれども「ぼく」はお金を持っていないので、パンも牛乳も手に入れることはできない。パン屋の親父さんは「ぼく」を見るとすっと店の奥に姿を隠し、応対に出たおかみさんは「おじさん」のぐうたらぶりを罵る。牛乳屋は「ぼく」がその場で飲むならただでいい、というが、「ぼく」はことわる。おじさんといっしょに朝ご飯を食べたいからだ。
「ぼく」は、闘牛ごっこをしている年上の少年たちのために牛の役をやって少しばかりお金を稼ぐ。そのお金で手に入れた牛乳をもって急いでバラックに戻ってみると、出がけに遊びで作った堰のせいでバラックは水浸しになっていた。そんな中でもまだいびきをかいて眠りこんでいたおじさんを起こすと、リュウマチの足が水につかったおじさんは悲鳴を上げる。そして「ぼく」に長々と説教を垂れ、「お前ったら、どてっぱらをけとばされて、ほうりだされたって、文句はいえんところだ」とまでいう。「ぼく」は説教を聞きながら、おじさんが足をぬらさずに脱出できるようにあれこれ支度をする。そうして危険地帯から逃げ出した時、目の前の木の幹に、手紙が一通止めてあるのが見つかった。
それは闘牛の興行主からの手紙で、その日の夜のお祭りに、ハシントが1500ペセタの謝礼でマタドールとして出演するという約束を確認するためのものだった。そうなのだ。ハシントは今でこそ落ちぶれて飲んだくれになり、みなしごの「ぼく」のめんどうをみながら、あるいは「ぼく」にめんどうを見られながら、肩を寄せ合って暮らしているが、かつては闘牛士として鳴らした男だったのだ。

ペーソスとユーモアがあいまったこの詩情あふれる作品は、発表とともにヨーロッパ中で話題になり、『広場の天使』というタイトルで映画化されて世界の各地で感動の渦を巻き起こしたという。(2015.10.21読了)
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by nishinayuu | 2016-02-15 10:03 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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