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『音楽と文学の対位法』(青柳いづみこ、みすず書房)

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本書はピアニストであり文筆家でもある著者によるエッセイ集で、以下の六つの章からなる。


第1章モーツアルト――カメレオンの音楽
第2章シューマンとホフマンの「クライスレリアーナ」
第3章ショパンとハイネ
第4章ワーグナーと倒錯のエロス
第5章ラヴェルとレーモン・ルーセル
第6章ランボーの手、ドビュッシーの手
この著者の『ピアニストは指先で考える』は、専門的すぎて理解の届かない部分も多かったが、それでも非常に興味深く、楽しい読書体験ができた。それで、図書館でこの本を見つけた時、「♫あの-すばらしい感動を-もう一度♫」と思って手に取った。ところが本書はさらに専門性が高く、音楽と文学に関する膨大な情報に圧倒されるばかりで、とても歯が立たなかった。ヴァイオリニストのクライスラーなら知っているが、ホフマンのクライスラー楽長は読んだこともないし、シュールレアリストたちが高く評価したというレーモン・ルーセルも知らない、というレベルでは理解できるはずもない。そういうわけで「読了」したとは言えない状態だが、おもしろいと思える箇所は数え切れないほどたくさんあった。多すぎて書き切れないので、ほんの少しだけ抜き書きしておく。

*ショパンはまわりの文人たちにこよなく愛された。シューマンもリストもメンデルスゾーンも、同世代の作曲家たちはことごとくショパンの作品や演奏を賛美した。しかし、ショパンは極端に気むずかしく、彼らについての評価は留保するか故意の言い落としで巧みにカモフラージュした。
*貴族性と大衆性の奇妙なまざりあい、民衆という者へのアンビヴァレントな感情がハイネとショパンを近づけたのではないかと思うことがある。
*『ワーグナーとはなにか』の著者ブライアン・マギーによれば、ワーグナーの作品は、とりわけ「感情的に孤立ないし抑圧された人」の想像力を強く刺激する。ニーチェ、コルク張りの部屋で一人で暮らしたプルースト、西欧世界に背を向けてアフリカで生きたシュヴァイツァー、性欲が乏しく、概念を通してしか人と関わることのできなかったバーナード・ショー。このリストに、実姉と近親相関関係にあったといわれるビアズリー、冷感症崇拝のボードレール、同性愛的傾向を隠したトーマス・マン、ロリコンのバーン・ジョーンズやマザコンのファンタン=ラトゥール、マゾヒストのスウィンバーン、他ならぬルードヴィヒ二世などを加えると、ある種の傾向が見えてくるだろうか。
*ドビュッシーの書簡にはたった1通を除いてはランボーのラの字も出てこない。ヴェルレーヌの詩には多くの歌曲を作曲したものの、(中略)ランボーの詩に音楽をつけたこともない。このないないづくしが、かえって意識している証拠ではないかと、うがった見方もしてみたくなる。
*「音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、決して耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽であり続けなければなりません」というモーツァルトの言葉は、「音楽は謙虚に人を楽しませることに努めるべきです」と書いたドビュッシーの言葉と恐ろしいほど似ていて、思わず身体がふるえるほどである。(そして、ドビュッシーの不協和音にあふれる即興演奏に憤慨した同級生に対してドビュッシーは次のように答える。)「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」つまり、当時の耳が不協和音と感じたものが、ドビュッシーにとっては「喜び」だったということになる。
*(ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を絶賛したドビュッシーは、「春の祭典」にはきわめて獰猛だという感想を述べ)のちにアンセルメに本音をもらしている。「ストラヴィンスキーは音楽的ではない方法で音楽を作ろうとしているように思われる。それは、ドイツ人たちが今やおがくずでビフテキを作ることができると表明したのと同じようなものだ」――ロックスパイザー『ドビュッシーの生涯と思想』より。
(2015.8.31読了)
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by nishinayuu | 2015-12-21 10:04 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2015-12-21 21:00 x
言葉で解釈するよりも音楽はただ聞いて楽しんでいたいですね。モーツアルトもショパンもピアノの入門編の練習曲でも素晴らしいし、ひきやすいものがあります。音楽を楽しむ一般大衆のことを念頭に置いているのでしょう。ともに楽しもうという姿勢が好きですね。
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