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『八月の六日間』(北村薫、角川書店、2014)

c0077412_21164585.jpg本書は2014年5月に初版が発行された短編集である。五つの章からなり、各章は2011年から2014年にかけて『小説 野生時代』と『小説 sari-sari』に掲載されている。
第1章「九月の五日間」ではまず、30代も終わりに近づいた女性編集者が山女子になったきっかけが語られる。3年前、仕事のストレスと私生活のどんよりした不調が重なっていた語り手を、活力いっぱいの部下「藤原ちゃん」が山行きに誘ってくれたのだった。行き先は大菩薩に近い滝子山。語り手は、山から手を差し伸べられてしっかりその手を握ったそのときの感動を、次のように述べている。
細い涸れ沢の上を紅葉のアーチが先まで続いていた。木漏れ日が優しく落ち、葉のひとつひとつが頭上できらめいていた。(中略)空から降ってくるのは、素朴なのに荘厳さを感じさせる光。色がそのまま音楽だった。(中略)この世のものとは思えない眺め。わたしが足を向けずにいた間も、ここには、この自然があり、わたしが帰った後もある。それがとても有り難いことに思えた。

かくして語り手は忙しい仕事の合間に山歩きをするようになり、少しずつ腕(脚?)をあげていく。そして3年後には標高3800mの槍ヶ岳に挑戦するまでになっている。これが第1章の「九月の五日間」である。その2年後、40代に突入してから裏磐梯の雪山(第2章「二月の三日間」)。編集長に昇格した年、山と出会った5年後には蝶が岳、常念岳、燕岳を縦走(第3章「十月の五日間」)。次のゴールデンウィークには「8時ちょうどのあずさ」で春の雪山を体験(第4章「五月の三日間」)。続いてパラオ出張などをこなした後、裏側から北アルプスに入り、薬師平、雲ノ平、高天原温泉、双六岳、鏡平へと尾根歩き(第5章「八月の六日間」)。
語り手は編集者という設定なので、山行きには必ず本を携行する。たとえば戸板康二の『あの人この人 昭和人物師』、内田百閒の文庫本、『向田邦子 映画の手帳』、南方熊楠の『十二支考』、川端康成の『掌の小説』、吉田健一の『私の食物誌』、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』、西村美佐子の歌集『風の風船』、中島敦の『南洋通信』という具合。新旧取り混ぜて、といいたいところだが、ちょっと旧が勝っている感じの選択だ。本の選択より興味深いのは山に携行する食べ物の選択。たとえば「二月の三日間」ではおにぎりとメロンパン、板チョコ、フィナンシェ、月餅、レーズンサンドに甘いものの詰め合わせ袋(中身はアーモンドチョコ、ミニビスケットサンド、干しマンゴー、オランジェット)と甘いもののオンパレード。一応しょっぱいものの袋(品川巻とじゃがりこチーズ味)も用意されるが、断然甘いものに偏っている。語り手が山で出会ったバルトークが好きな「麝香鹿さん」などは山小屋を出る時に1本の羊羹を手にして、それをかじりながら歩くということになっている!
編集者として関わる作家たち、同じ業界にいながら6年も出逢わなかったもと同居人、山で行き合った人々など登場人物と彼らにまつわるエピソードも多彩で、「一人山歩きの話」と「自立したアラフォー女子の話」がうまく絡み合った楽しい読み物である。(2015.8.8読了)
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by nishinayuu | 2015-12-05 20:23 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2015-12-06 12:43 x
山歩きができるのは日ごろの鍛錬のたまもの。素晴らしい!
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