『白の闇』(ジョゼ・サラマーゴ、訳:雨沢泰、NHK出版)


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『Ensaio sobre a Cegueira』(José Saramago、1995)ある日、ある街の交差点で一台の車が立ち往生した。運転していた男が、突然「目が見えなくなった」のだ。この「最初に失明した男」に続いて次々と失明者が発生する。まずは「最初に失明した男」を家まで送り届けた「よきサマリア人」――実は相手の弱みにつけ込んで車泥棒に変じた男、「最初に失明した男」を診察した目医者、目医者の待合室に居合わせた斜視の少年、黒い眼帯の老人、黒いサングラスの若い娘が失明し、さらに彼らと接触した人々が次から次へと失明する。ミルク色の白い闇が目の前に広がるこの現象は瞬く間に広がり、行政当局はとりあえず患者たち、および患者と接触したため感染したと思われる人々を隔離することにした。急なことなのでとりあえず、かつては精神病院だった所に。ここまでが第一段階。
第二段階は隔離施設を舞台に、にわか失明者たちを襲ったおぞましい日々が描かれる。食糧と日用品を支給する当局側の混乱ぶりが失明者たちの生活を圧迫し、失明者の間に強者と弱者を生み出して、施設内は暴力的な無法地帯となっていく。しかしこの状況はある日、食糧と日常品の供給が絶たれ、見張りも姿を消したことで自然消滅する。隔離施設の外の世界も、急速に広がった「白の闇」に覆い尽くされてしまったのだった。
そして第三段階。隔離施設を後にしたあるグループのサヴァイヴァルの物語である。グループの構成員は目医者とその妻、最初に失明した男とその妻、斜視の少年、黒いサングラスの娘、黒い眼帯の老人の7人。実はこの中の一人がなぜか「白の闇」にとりつかれることなくずっと目が見えていて、隔離施設内でも施設から出た後も人々の目となってきたのだった。このグループの人々は絶望的状況の中でも理性を失わなかった特異な存在だが、それは彼らの中の一人が「見える人」であったこと、しかもこの「見える人」が非常に理性的で献身的な人物だったからである。
パンデミックの恐怖の世界を描きながら、その中に一筋の光となる人物を配したのは作者の優しさだろうか、あるいは祈りだろうか。この小説を着想したときサラマーゴは「目が見えることを前提として考えられ、作られた文明社会で、もし全員が失明したらどうなるだろうか? けれども、我々は実際にはみんな盲目ではないか!」と考えたという。すなわち『白の闇』は、「見えること」と「見えないこと」、さらには「見るということ」の意味を読者に問いかける作品である。

この作品は2008年に日本・ブラジル・カナダの合作で映画化されている。ストーリーは原作にかなり忠実だというが、映像化すると「見える人」の見た世界だけが強調され、「見えない人」の感覚は伝わらないのではないだろうか。また、最初に失明した男を伊勢谷友介、その妻を木村佳乃が演じているが、この小説世界に複数の人種を持ち込む必要があるだろうか。映像化も多人種の登場も、この作品の焦点をぼやけさせ、ただのパニック映画にしているのではないかと、見ていないまま、見る気もないまま、危ぶんでいる。2015.1.9読了)
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by nishinayuu | 2015-04-08 14:48 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2015-04-11 13:45 x
見えない世界で生きる絶望はいかばかりか。しかも健常者の助けがないとしたら。こういう最悪のシーンをつくりだす作家の想像力は本当に強靭な精神力に裏打ちされていると思わざるを得ない。
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