『マリーにつての本当の話』(作:ジャン=フィリップ・トゥーサン、訳:野崎歓、講談社)

c0077412_100124.jpg『La Vérité sur Marie』(Jean-Philippe Toussaint, 2009)
「あの灼熱の夜の陰鬱な時間のことをあとから考えてみてわかったのだけれど、マリーとぼくは同時にセックスしていたのだった。ただし別々の相手とだが」というとぼけた語りで物語は始まる。語り手は恋人同士として数年の間一緒に暮らしたマリーと4ヶ月前に別れたのだが、夜中の2時過ぎにマリーから電話がかかってきた。ベッドをともにしていた男が急に倒れた、すぐに家に来てくれ、と哀願調でぼくに助けを求めるマリーの声を聞いて、ぼくは困惑、気詰まり、後ろめたさにいきなり襲われた。なぜなら、マリーの声を聞いたときぼくの傍らには同じマリーという女性が寝そべっていたからだ。ともかくぼくはマリーの許に駆けつける。そして、男がストレッチャーで運び出されるところに出くわす。「誰かの存在から放たれる非物質的な波動を感じ取った」ぼくが目を上げると、窓際にマリーの姿があった。

中国を舞台にしたマリーとぼくの物語である『逃げる』と同様に、この作品でも人物や出来事が入り乱れ、めまぐるしいスピードで話が展開していく。この作品のなかで疾走するのは馬たちで、全体の半分以上が競馬馬のザーヒルの成田空港での逃走劇に当てられ、終盤近くでもエルバ島の牧場で火に追われた馬たちが駆け回る。人間たちは対照的に動きも言葉も控えめである。ただし語り手は実に饒舌で、自分が居合わせなかった場面についても、マリーの心の動きについても、実に詳しく語ってくれる。これについて語り手は次のように言っている。
ジャン=クリストフ・ド・Gの死んだ夜の事情について、自分がごく不完全にしか知らないこと、あの夜に起きた事柄に関し自分の知識に欠落が多多含まれていることは、ぼくにとっていささかもハンディキャップとならなかった。それどころか、そのおかげでぼくはより想像力を発揮すべく努め、心にうちで出来事を作り直したのである。(中略)それはちょうどぼく抜きで繰り広げられる上演に立ち会っているようなもので、とはいえぼくがそこにいないわけではなく、ぼくの感覚のみが参加しているのである。(中略)登場するそれぞれの姿はぼくらの主観性のプリズムを通して作り直され、僕らの感性や知性、そしてぼくらの幻想から広がり出したものなのである。

なるほどそういうことですか。この夢の中のような混沌とした世界に違和感なくなじめたのは、微熱のある状態で読んだせいだろうか。あるいは自然でしかも格調の高い訳文のおかげだろうか。この翻訳者はトゥーサンの一連の作品の他に、『ある秘密』(フィリップ・クランベール、新潮クレストブックス)も翻訳している。(2015.1.4読了)
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by nishinayuu | 2015-03-31 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2015-04-01 21:56 x
フランス的な大人の男女関係ですね。元の恋人の窮地を助けにいくなんて。
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