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『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』(パウロ・コエーリョ著、山川紘矢・山川亜希子訳、角川文庫)


c0077412_143474.jpg『Na margem do rio Piedra eu sentei e chorei』(Paulo Coelho,1994)
物語はヒロインであるピラールの「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」ということばで始まる。ピラールは「涙が川の水と共に海に流れ込み、このピエドラ川も、ピエドラ修道院も、ピレネーの教会も、あたりをおおう霧のことも、そして二人が共に歩いた道も忘れてしまうことができますように」と願いながら泣いた。涙が涸れるまで泣いたあと、彼女は書き始める。彼女を川のほとりまで連れてきた女の人が「感じていることを全部、書きだしてそれを川に捨てるのです。ピエドラ川の水はあまりにも冷たいので、川に落ちたものはすべて石に変わってしまうと言われています。あなたの苦しみを水に投げ入れなさい」と言っていたからだ。
こうしてピラールは1993年12月4日(土曜日)から12月10日(金曜日)までの一週間の出来事を綴っていく。子ども時代を一緒に過ごした彼との12年ぶりの再会、ビルバオで講演をするので一緒に行こうという彼の誘い、彼が自分とは全く違う世界の人になってしまったという思い、それでも彼が自分と一緒にいたがっているという確信、そして彼の「僕は君を愛している」という告白。二人はしだいに深く愛し合うようになり、それぞれが自分のことより相手の意思を優先しようと考えるに至る。その結果、彼らはオー・ヘンリーの賢者の贈り物の二の舞、いやもっと取り返しのつかない間違いを犯してしまう。それでピラールはピエドラ川のほとりで泣くことになったのだ。ここで終わりになると後悔と悲嘆の物語になってしまうのだが、作者が用意した終わり方は全く別のものだった。
これは愛の癒しを求める一人の女性がたどった道を描いた物語であるが、ここには一つのメッセージが込められている。それは、神には男性性と女性性が共にあるのであって、神の女性性、女性的なエネルギーが人類変革のための最大の原動力になるだろう、というものだ。ところで、主人公たちを取り巻いているのはキリスト教社会であり、ここでいう神もキリスト教の神であるが、随所により普遍的な宗教概念が披瀝されていて興味深い。たとえば彼はピラールに言う。「仏教徒もヒンズー教徒も回教徒もユダヤ教徒も、みんな正しい。(中略)僕はカトリックの中で育ったのでカトリックの教会を選んだ。もし、ユダヤ人に生まれていれば、僕はユダヤ教を選んだだろう。神はみな同じなのだ」。また、彼が修道院に来るのを待っていたはずの司祭がピラールに言うことばも印象的だ。「私は彼に伝統的な宗教生活を送ってほしくありません。私は彼が神父に任命されるのを見たくありません。別のやり方で神に仕えることもできます。あなたのそばで。」
メッセージ性が強く、教訓的・寓話的な物語だが、そうした臭みはさほど気にならない。個性がくっきりした主人公たちと彼らの愛の葛藤にリアリティーがあるからだろう。(2013.7.30読了)

☆因みに、ピエドラ川は日本語にすると「石川」ですね。だから落ちたものがすべて石に変わってしまうということでしょう。もちろん固有名詞は訳さないのがふつうですから、ここではピエドラ川でないといけません。「石川のほとりで私は泣いた」ではスペイン色が抜けて、日本を舞台にしたじめっとしたドラマのようになってしまいますし。
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by nishinayuu | 2013-10-03 14:33 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2013-10-05 23:17 x
今のスペイン人の宗教観の一端をしるようですね。魔女狩りの本家での現在の宗教はどうなっているのでしょうか。興味深いです。
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