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『灰色の魂』(フィリップ・クローデル著、高橋啓訳、みすず書房)


c0077412_14153795.jpg『Les Âmes Grises』(Philippe Claudel,2003)
本書はふんわりと温かい『リンさんの小さな子』と同じ作者の作品で、訳者も同じである。ところが雰囲気は全く異なり、ある殺人事件をめぐって物語が展開する本書には全体に陰鬱で重苦しい雰囲気が漂っている。そしてその雰囲気は格調の高い文章と巧みな物語構成によっていっそう印象的に迫ってくる。
ある人物が語り始める。
どこから語ればいいのか、よくわからない。これはけっこうむずかしい。すべては過ぎ去った時代のこと、言葉はもう戻ってはこない、あの顔たちも、笑みも、傷も。それでも語らねばなるまい。ここ二十年来、私の心を苛んできたことを語るのだ。悔恨と大いなる疑惑の数々。ナイフで腹を切り開くように謎を切り開かなければならない、そして、そこに諸手を差し入れるのだ、たとえそれで何も、何ひとつ変わらないとしても。
このあともしばらく「私」は自分が何者であるかを明らかにしないまま、1917年にフランスの片田舎で起こった「事件」のことを語っていく。12月のある朝、「昼顔」と呼ばれる10歳の少女が死体となって発見される。人びとの見守る中で検死をしたデシャレ医師が「絞殺だ!」と宣言すると、判事のミエルクは、ようやく本物の殺人事件にありついた、という露骨な喜びの色を浮かべた。それから、くるりと振り返ると言った。「時にあの門は、いったい何かね?」それは検察官デスティナの屋敷、通称「お城」の門だった。
デスティナは30年以上にわたってV市で検察官を務め、その職務を決して故障しないゼンマイ時計のように遂行した男である。事件当時は60を越えていて1年後には引退を控えていた。V市の監獄では囚人たちに「血の森」と呼ばれ、いっとき屋敷内に逗留した若い女教師からは秘かに「哀しみ」と呼ばれていた。事件の前夜、デスティナが少女と川辺にいたことを私の幼なじみのジョセフィーヌが目撃していた。しかし捜査は彼のところには及ぶことはなく、脱走兵の若者二人が逮捕されて終わってしまう。「私」はそれ以来ずっと、事件の真相とデスティナの魂について考え続けてきたのだった。
この物語は大勢の死者の物語である。まずは戦場で散っていく兵士たち。屋敷に嫁いできて間もなく死んだデスティナの妻クレリス。女教師リジア・ヴェラレーヌ。10歳の少女「昼顔」。出産の苦しみの中で逝ってしまった「私」の妻クレマンス。そして歳月が流れてデスティナ、彼の使用人だったバルブとその夫、逮捕された二人の脱走兵、ミエルク、町の良心的な医者リュシーも、だれも彼もが死んだあと、「私」はさらにもう一つの死を語って物語を終える。
「灰色の魂」については終わりの方で「私」が次のように語っている。
私を持ちこたえさせたのはいつも同じ自分の声でなされる対話であり、犯罪の不透明さだったのだろうが、その不透明さは人生の不透明さと比べて、咎められるべきものではない。(中略)まことに我々の魂は、白でも黒でもなく、灰色なのだ、ジョゼフィーヌがかつて私に言ったようにみごとに灰色なのだから。(2013.7.3読了)
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by nishinayuu | 2013-09-06 14:17 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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